92. マグレー (まぐれー)
ネバスは無言で手を伸ばし、
部屋に備え付けられた鉄格子の扉を開けた。
「入れ」
命令すら、短く淡々としていた。
エルフの姉妹は、
抵抗する気力も残っていないのか、
恐る恐る中へ足を運び――
すぐに鉄格子がガチャンと音を立てて閉まる。
カチリ。
固くかかった錠が、
自由を断ち切られた現実を、
よりはっきりと刻みつけた。
ネバスは静かに背を向け、
地上の部屋へ戻っていった。
室内には再び、
橙色の魔力石が放つ淡い光だけが広がっている。
形を見分けるには十分な明るさだが、
空間の底には、なお重たい闇が沈んでいた。
「……リエナ」
姉エルフ――シルバレンは、
涙を止められないまま、
床にうずくまる小さな妹を見つめた。
小さな身体。
ぱさついた髪。
まだ震えている肩。
そっと近づき、彼女の身体を確かめたシルバレンは、
唇をきつく噛んだ。
「……どうして、こんな傷が……」
「これ……私のせいだ」
「本当にごめん……リエナ……」
その言葉に――
リエナは静かに首を振り、手を伸ばした。
そして、
自分より何倍も傷ついた姉を、ぎゅっと抱きしめる。
「……お姉ちゃん。私は大丈夫」
リエナの声は細かった。
それでもそこには、
どうしても希望を手放さない意志がこもっていた。
「私たち……」
「必ず、帰れる」
その言葉にシルバレンは、
堪えていた息を吐き出すように嗚咽し――
やがて。
空っぽの空間の中で、
二人の小さな泣き声だけが、
壁を伝うかすかな反響になって流れていった。
◇
「カイルさま、今回も色々とお力添えをいただき、ありがとうございました」
屋敷の応接室。
家と取引を続けている市場商人会の代表が、直々に訪れて挨拶をした。
「私が何を。全部、代表のおかげですよ」
「領内の経済がよく回り、日々繁栄しているのも」
「商人会がしっかり支えてくれているからこそではありませんか」
「ははは、何をおっしゃいますか。過分なお言葉を」
二人は笑いながら杯を鳴らした。
和やかな空気がしばらく続いたが――
商人会の代表は、やがて視線を落として言葉を継いだ。
「ところで……」
カイルは杯を置き、
続きが来るのを静かに待った。
「市場に出回っている、あの赤い宝石の件ですが」
「……ふむ」
「世間では“使用者の能力を増幅させる”……」
「そんな噂が広まっております」
「それほど価値がある品が」
「市中にあまりに多く出回っているというのは、正直……」
「少々、疑わしくはありませんか」
カイルは静かに茶を一口含んだ。
「偽物が出回っていることは」
「私も、ある程度把握しています」
「ただ」
「真贋を見分けるには……」
「はっきり差を確かめられるほどの力を持った者が必要でしょう」
彼は慎重に杯を置き、言葉を続けた。
「周辺の冒険者たちの間では、効き目があったという話も広がっていますが……」
「噂が多すぎて」
「それが本当に体験談なのか」
「それとも商売のための口伝えなのか」
「私でさえ、確信が持てない状況です」
代表は一度頷き、杯を手に取った。
「カイルさまは、真品を入手して直接試したことはおありですか?」
代表は慎重に茶を一口飲みながら尋ねた。
カイルは片方の口角をわずかに上げ、杯を置いた。
「ふむ……さあ」
「赤い魔力石を手に入れて」
「人を使って、時折実験はしています」
ゆっくり首を振る。
「しかし、本当に効果があるのか……」
「それとも気分の問題なのか」
「正直、私にも分かりませんね」
語尾には寂しげな笑いが混じっていたが、
その表情は、どうにも腹の内が読めない微笑だった。
「承知しました」
代表は身支度を整えながら立ち上がる。
「本日はここまでにして失礼いたします」
「新しい情報が入り次第、真っ先にお届けに参ります」
礼を尽くして頭を下げ、
代表は静かに屋敷を後にした。
しばらくして。
カイルは応接室の窓辺に立ち、
窓の向こう、遠ざかる馬車を眺めた。
腕を組んだまま、
その目にいつの間にか、軽蔑の色が走る。
「……馬鹿な商人会め」
「俺の掌の上で右に跳ね左に跳ねしておきながら」
「自分たちが何をしているのかも分からず、よく働くものだ」
嘲るように口角を上げた。
そのとき、静かに扉を開けてネバスが近づいた。
「いかがなさいますか、坊っちゃん」
カイルは頭だけを少し向けて答える。
「外出だ」
「少し……頭を冷やしてくる」
「承知しました、坊っちゃん」
ネバスは頭を下げ、
カイルはゆっくり踵を返して屋敷の扉を出ていった。
◇
「ドンドンドン!」
荒々しいノックとともに、
扉の外から切迫した声が弾けた。
「ライネルさん! 起きて!!」
だが部屋の中、
ライネルは布団を頭まで被ったまま、ぴくりともしない。
「……つ、疲れた……もうちょっと寝る……」
寝返りを打ちながら、
掠れた声でぼやく。
しかし扉の外のノックは、
どんどん鬱陶しいほど大きくなっていく。
「うるさいから早く起きて、ライネル!!」
その瞬間。
布団の中で、ぺちん! と音がした。
「うわっ!!」
ライネルが悲鳴を上げて跳ね起きた。
頬には、叩かれた跡がくっきり残っている。
「ライネルさん? どうしたんですか?!」
外にいた相手が驚き、
心配そうな声で尋ねた。
ライネルは慌てて布団を整えながら答える。
「い、いえ! 何でもないです!」
「すぐ出ます!」
「本当に大丈夫ですか?」
「はい! すぐ行きます!」
足音が遠ざかってようやく、
ライネルは怒った顔で横を向いた。
頬をさすり、眉を寄せる。
「痛いだろ、カミ!!」
「だから、起こされたらすぐ起きろって」
カミは小さな前脚を腰に当て、堂々と胸を張った。
ライネルは適当に身なりを整え、
ようやく扉を開けて外へ出る。
カミは自然に胸元へ潜り込み、
気配を殺した。
「よぉ、ライネル。起きたか」
船長が手を振って声をかけた。
「今日もエリセルと頼むぞ」
「はい、船長……それじゃ行ってきます」
挨拶しようとした、その時。
船長が何かに気づいて目を細めた。
「だが、お前……頬が……」
ライネルは慌てたように笑って手を振る。
「はは……何でもありません」
遠くでエリセルが手を振って叫んだ。
「こっちですよ!」
ライネルも片手を上げる。
「今日もせっせと歩き回るから」
「ちゃんと付いてきてくださいね!」
「……今日も?」
「もちろん。早く!」
エリセルは振り返りもせず、
大股で先へ進む。
ライネルは戸惑った表情で追い、
小走りで速度を合わせた。
「ふぅ……今日も楽じゃなさそうだ……」
胸元から、カミの小さなクスクス笑いが、
くすぐったく耳を撫でた。
二人はほどなく、賑やかな市場通りへ辿り着いた。
朝の陽が建物の隙間から差し込み、
通りにはすでに人が溢れている。
「朝からみんな忙しいんですね……」
ライネルが感心したように呟く。
牛を引いて荷を運ぶ者、
肩に重い荷物を担いで駆ける人夫、
声を張り上げて客を呼ぶ商人たち。
街はすでに、一日の熱気で満ちていた。
その時、エリセルが不意に立ち止まって言った。
「さ、ここからはゆっくり行きましょうか」
「……え?」
ライネルがぎょっとしてエリセルを見る。
「さっきは急ぐって言ってませんでした?」
首を傾げる彼に、
エリセルは腕を組んでぶっきらぼうに言った。
「ああ、あれは……人が多いから忙しいふりしただけです」
「私たち以外は、みんな港で忙しく動いてるでしょ」
「でも、船員の誰かに見られたらどうするんです?」
「その時はまた忙しいふりをすればいいんです」
エリセルは平然と肩をすくめる。
「……ライネルさんって」
「融通が利かないって、よく言われません?」
「な、何言ってるんですか! そんなこと一度も――」
言い切る前に、
エリセルが突然、指で一方向を示した。
「ほら!」
市場の奥、ひと区画に人だかりができていた。
あちこちで値切りの声とどよめき、慌ただしい足音が交錯し、
そこだけ小さな騒ぎになっている。
「行きましょう」
エリセルが言い、
ライネルは引っ張られるように付いていった。
人の隙間を縫って進み、
ようやく中心へ辿り着くと――
なぜ人が集まっているのか、すぐに分かった。
そこは、
市場の中でもひときわ目立つ宝石店が並ぶ一帯。
いわゆる“宝石通り”だった。
その通りで、とりわけ人が密集している店が一つ。
看板には大きく書かれていた。
『マグレイ』
最近、流行のように広まっている赤い魔力石の、別名だ。
“マグレイ”は、
少し離れたプレシアン伯爵領で新たに採れ始めた鉱物で、
その希少性と効果によって、瞬く間に名が知れ渡った。
武器や防具に刻めば、
着用者の魔力と身体能力を増幅させる――そんな噂が広まり、
冒険者はもちろん、
一般人でさえ装飾品として好んで身につけているのが現状だ。
指輪、腕輪、首飾り……
様々な形に加工されたマグレイは、
今や市場で最も“ホットな”品になった、というわけだった。
だが、どこでも
売れ筋の商品には影が付く。
真品の人気に付け込んで、
正体の知れない偽物の宝石が、
市場を通じて密かに流通し始めたのだ。
「赤い魔力石が、ここまで人気だとは……」
ライネルが呟き、エリセルを見る。
「ですよね」
エリセルは目を細め、周囲を探る。
「でも……全部が本物じゃないはずです」
彼女の視線は、
ガラスケースに並ぶ赤い宝石よりも、
それを売る商人たちの表情を、じっと見ていた。
「うーん……違う」
エリセルは、
赤い魔力石で飾られた指輪や腕輪、首飾りを一通り眺め、
小さく首を振った。
華やかで高価そうな品が揃っているのに、
彼女の目にはまるで満足がないらしい。
「エリセルさん?」
「……エリセルさん?」
「エリセルさん!」
返事がないので、ライネルは少し大きな声で呼んだ。
「うわっ、びっくりした! なんでそんな大声なんですか!」
エリセルは驚いた顔で振り向き、
少し苛立ち混じりの小声で囁いた。
「今、鑑定中なんだから静かにしてください」
「集中が途切れるでしょう」
声は抑えられていたが、言い方はきっぱりしていた。
ライネルは気まずそうに口を閉じる。
「……でも、せっかく一緒に来たのに」
「屏風みたいに立たせるのは、ちょっと……」
不満げに言うと、
エリセルは無表情で人差し指を唇に当てた。
「シッ」
視線を再び陳列台へ戻す。
しばらくして、
エリセルの目つきが、わずかに変わった。
そして、陳列の端に置かれた品をひとつ手に取る。
「これ、買います!」
言い終えるより早く、
店の中へ入ってさっさと会計を済ませた。
ライネルはその背中を見ながら、
長くため息を吐く。
「……それなら一人で来ればいいのに……」
「なんで俺まで連れてきたんだ……」
ほどなくして、
エリセルがにこにこした顔で店から出てきた。
「さ! 行きましょう! 移動、移動!」
ライネルはその浮かれた表情を見て、
結局何も言えないまま、後ろを付いていった。




