82. 個人的な依頼 (こじんてきないらい)
「······カミ。あそこで何してんだ?」
ライネルは緊張がほどけたせいか、全身の力がすとんと抜けた。
カミは呼ばれているのかいないのか、少女の手の上で相変わらず集中している。
「よし、よし。
いればいいんだよな、別に······」
ライネルはため息をついて背を向けた。
「とりあえず······
明日、この村で何かやることがあるって言ってたし。
少し寝ておかないと」
もう一度だけカミの方を振り返って、投げやりに言う。
「カミ! 俺、寝るからな!」
ライネルは静かに扉を閉め、用意された部屋へ戻ってベッドに身を沈めた。
(······俺だけ、こんなに深刻なのか)
(一刻を争うし······大事なものが懸かってるのに)
(カミのやつ、分かってんのか分かってないのか······)
小さく息を吐いて、ライネルは目を閉じた。
入学試験が始まった日から今までの出来事を、ゆっくり辿っていく。
広場。
突然の空間転移。
不快なほど冷たく、ずしりと沈む空間。
沼を彷徨うアンデッド。
その上に守るようにうずくまっていた骨竜。
そして彼らを包む、幻の中の無数の存在。
その中心で、
自分の前に姿を現したクレセリアとオルタ。
間違いなく、あの二人は何か繋がっている。
ライネルは視線を手首へ落とした。
赤く淡く光る腕輪。
最初は「偶然」手に入ったと思っていた。
でも······
いつからだ。
全部、最初から決まっていたことなんじゃないか。
いつから仕組まれていた?
いつから俺の選択は「選択」じゃなくなった?
誰かの掌に載せられて、
決められた通りに動く人形みたいに。
嫌な異物感が、じわじわと深く染み込んでくる。
「······俺の運命は、どこへ流れていくんだ」
呟いて、ふと二人の顔が浮かんだ。
アイラ。
モネロ。
(······元気でいるよな)
(······また会いたい。
本当に······早く)
夜が深まるほど、ライネルの悩みも深くなる。
思考の沼は濃くなり、
その先は何も見えない暗いトンネルみたいだった。
そして結局、
その暗がりに身を預けるように、ライネルは静かに眠りへ沈んだ。
◇
「う······疲れた······もうちょっとだけ······」
ライネルは布団を顎まで引き上げ、丸くなった。
心の底から、もっと寝たかった。
このまま何もせず、丸一日眠っていたい。
だが、その願いは小さな手ひとつにあっさり砕かれる。
「くはははは!」
少女がけらけら笑い、布団を掴んで楽しそうに揺さぶった。
「······や、やめろ······分かった······起きる······」
ライネルは仕方なく体を起こした。
そのまま引きずられるように部屋の外へ連れ出される。
食卓には簡単な朝食が並んでいた。
質素だが温かな匂いが漂っている。
ライネルはおじさんに軽く会釈し、黙々と食事を始めた。
(······そういえば)
(カミはどこ行った)
静かな朝。
小言がないだけで平和だ。
······だが、その平和は一瞬だった。
「おやおや、食欲はあるみたいだな?」
聞き慣れた、耳に張り付くような皮肉。
ライネルが顔を上げる。
少女の肩の上に、カミが堂々と座っていた。
「······静かだと思ったら」
ライネルはため息混じりに首を振った。
そのとき、玄関からノックの音がした。
昨日会った老人が、ゆっくりと扉を開けて入ってくる。
おじさんと短く言葉を交わすと、老人はライネルに手招きした。
「······ついて来い」
言葉は少ないが、明らかに「大事な場」へ導く仕草だった。
ライネルは食事を終え、息を吐いてからゆっくり立ち上がる。
(ついに······何かが始まるのか)
そう思いながら老人の後を追い、家を出た。
カミはすっとライネルの胸元に潜り込んだ。
トカゲみたいな小さな体が、かすかに震えている気がした。
「今······どこへ向かうんです?」
ライネルが慎重に聞くと、老人は答えず、静かに一度だけ頷いた。
「······何だよ。昨日はあんなに喋ってたくせに」
ぼそぼそと文句を言いながら歩いていると、
不気味な雰囲気の建物の前で足が止まった。
古びた柱。
擦り減った彫像。
淡い香の匂いが漂う、小さな祠。
その中から、腰の曲がった年老いた女が静かに姿を現した。
女は何も言わずライネルの手首を掴み、祠の奥へと導く。
中央には、小さな水晶球がひとつ置かれていた。
女は球を指し、手を置け、と促すように示す。
「······こうですか?」
ライネルがそっと掌を乗せると、
水晶球の中にゆっくり青い光が灯った。
心臓から広がる魔力が、球を伝って震えるようだった。
その瞬間、二人の老人がぎょっとして互いを見た。
視線が素早く交差し、
やがて無言の納得を含んだ頷きを交わす。
ライネルはそれを見つめ、心の中で呟いた。
(······魔力を測ったのか)
そして、彼を連れてきた老人がようやく口を開く。
「お前は、
依頼を受けるに足る力を持っている」
「報酬は、
ル・テルビアン王国へ向かう船だ」
その言葉に、ライネルは迷わず頷いた。
「······分かりました」
老人は続ける。
「三日後、この村では祭が開かれる」
「海の神へ感謝の供物を捧げ、
無事な一年を祈る大事な儀式だ」
一度息を置き、老人の表情が曇った。
「だが最近、
村の前の海に怪物が出るようになった」
「船を揺らし、
漁師を脅し、
航路そのものを危うくしている」
「村の若者が何度か討伐を試みたが······
状況はまるで進んでいない」
老人の言葉は相変わらず硬く、ぎこちない。
まるで慣れない外国語を必死に話す旅人みたいだ。
けれど、そのおかげでライネルは意図を掴みやすく、
内心では悪くないと思った。
「分かりました。
まず何をすれば?」
すると部屋の隅に黙って立っていた老婆が、
小さな棚から何かを取り出した。
薄くて丸い、掌ほどの円盤型の魔導具。
老婆はそれを慎重にライネルへ差し出す。
老人が説明を添える。
「これは······
怪物の魔力を一部抽出して封じた、探知の魔導具だ」
「その魔力の主が近くに現れれば、
この円盤が光る」
そして最後に、釘を刺すように言った。
「祭の前までに、
村の周辺の海岸を探ってくれ」
「······どこかに、奴が潜んでいる」
ライネルは円盤をゆっくり持ち上げた。
指先に伝わる冷たさ。
そして、内部に薄く染みた異質な魔力。
「······はぁ、ほんと妙な話だな」
故郷へ帰るには、
この村の問題を解決するしかない。
(引き受けたはいいけど······面倒くさいかもしれないな)
そうして辿り着いた村外れの浜辺。
海は静かだった。
うねる波が柔らかく寄せ、砂を少し濡らして引いていく。
陽光が水面にきらめき、
カモメの声すらない静けさが広がっていた。
「······はぁ」
ライネルはゆっくり息を吐く。
「平和だな······」
胸元で、さらり。
慣れた音とともに、小さく丸い頭がぽんと出た。
「何をそんな焦ってんだよ?」
カミが顔を出して言う。
「お前くらいの力なら、
こんな田舎の海に出る怪物なんて相手にならねぇだろ?」
カミは前足をちょいちょい出して、砂の上をよたよた歩き始めた。
尻尾を振り、波を避ける仕草はトカゲというより、好奇心の強い子犬みたいだった。
ライネルは黙って水平線を見つめた。
海の向こうにいるかもしれない仲間。
懐かしい王国の匂い。
そして、自分の中に巣食う異質な存在。
「······それでも、分からないだろ」
低く呟く。
「それに今、
俺には選択肢がない」
言い終えると同時に、波がまた寄せてきて足先を濡らした。
時間は流れ、
結局、何も起きないまま一日が静かに暮れていった。
成果もないまま宿へ戻ったライネル。
窓の外はすっかり闇に沈み、
夜がじわじわ深くなっていく。
そして、とん、とん。
最初は控えめに窓を叩いていた雨が、
ほどなくして、ざあ、と街を覆う激しい雨音へ変わった。
ライネルは窓の向こうをちらりと見て呟く。
「カミ、雨がすげぇな?」
······返事がない。
「······ん? またどこ行った?」
嫌な予感に、ライネルは静かに扉を開けて居間へ向かった。
居間の灯りは薄暗く、
そこには見慣れた光景があった。
布団を頭から被った幼い少女が、窓辺で頬杖をつき、雨を眺めている。
ライネルは背後で首を傾げ、そっと部屋に戻ろうとした——そのとき。
「ラ······ライネル······助けて······!」
小さく必死な声。
聞き覚えのある声色。
ライネルは振り返る。
少女の膝の上。
そこに、身動きできないカミがいた。
布団に半分挟まれ、つるりとした鱗の体を縮めている。
「このガキ······離してくれねぇ······ずっと触ってくる······うぅ······」
ライネルはその光景にため息をついた。
そして、どこか楽しそうに手をひらひら振る。
「ご苦労さん、カミ」
そう言って、そのまま部屋の扉を「かちり」と閉めた。
カミの悲鳴は、もう聞こえなかった。
残ったのは雨音だけ。
そのまま部屋で息をつこうとした——まさにその瞬間。
とん。
とんとん。
鞄に入れておいた魔導具が、淡い青い光をちかちかと点滅させ始めた。
ライネルは驚いて起き上がり、魔導具を掴んで居間へ向かう。
魔導具は次第に点滅を増し、
やがて心臓を叩くみたいに強く光り始めた。
「まさか······今?」
そのときだった。
どん! どんどん!
誰かが玄関を激しく叩く。
扉が開くと、全身びしょ濡れで雨風を切り裂いてきた老人が立っていた。
息も整えないまま、老人は一言だけ吐く。
「今······反応が出た」
ライネルは短く頷いた。
すぐに出ようとしたその瞬間、背中で手首を掴まれる。
少女の父だった。
男は無言で、古びた雨具を差し出す。
ライネルは一瞬固まり、そして頭を下げた。
外へ出る直前、ライネルはふと振り返った。
「カミ······一緒に来るか?」
だがすぐ、首を振る。
「······別に危ないことじゃないだろ。
子どもと遊んでろ」
独り言みたいに呟き、扉を静かに閉めた。
老人と共に村外れへ向かう。
近づくほど、荒れる波の音と唸る風が耳を叩いた。
手にした魔導具は、もう点滅ではない。
鼓動みたいに、光を吐き出している。
そして海の向こう。
濃い水霧の奥から、何かの影がじわじわ浮かび上がってきた。
明らかに異質だった。
それは波に逆らい、こちらへ近づいている。
「あれは······何だ」
ライネルは目を細め、霧の中の輪郭を睨みつける。
距離は縮まるのに、そいつは微動だにしない。
死んでる······のか?
その瞬間。
どん!!
雷鳴と同時に、うねりが跳ね上がり、水柱が二人を飲み込もうとした。
「危ない!」
ライネルの瞳に青が走る。
瞬間的に放たれた力が、巨大な水塊を押し返した。
水飛沫が散り、波の名残が周囲へ弾ける。
ライネルは急いで振り返り、老人の無事を確かめた。
「大丈夫ですか!」
老人はかろうじて頷いたが、顔は青ざめていた。
「もう少し······近づけ」
ライネルは魔導具の光を頼りに、
波が叩きつける浜の、ぎりぎりの地点まで進んだ。
——ウィィン······ウィィン······
手の中の魔導具は、今まで見たことのないほど強く反応している。
そのとき。
どん!
また雷が落ち、続く爆音で視界が揺れた。
「くっ······!」
耳が潰れそうな衝撃。
反射的に顔を向けた、その瞬間。
——シュッ!
飛来した触手が、紙一重でライネルの頭をかすめた。
「くそ······!」
老人は腰を抜かし、怯えた顔で理解できない言葉を吐き散らす。
そしてよろめきながら後退し、逃げるように村の方へ消えていった。
「······はぁ」
ライネルは息を整える暇もなく、二本目の触手を念動で弾いた。
ぱん!
ばちっ!
ばきっ!!
「雨のせいで、視界が······」
触手の攻撃はどんどん速く、鋭くなる。
水面の下、どこか。
もっと巨大な“何か”が近づいてくる気配がした。




