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8. 影の提案(かげ の ていあん)

ライネルは、

柔らかく――それでいて氷みたいに冷たい感触で目を覚ました。


牢のざらついた石床じゃない。


触れたところは滑らかで、

肌を撫でる感覚が妙に繊細だった。


布か。高級な革か。

はっきり切り分けられない素材。


冷たいのに、息苦しさはない。

磨かれた冷気――そんな感じだった。


誰かが徹底して管理した空間。

その印象が、先に刺さる。


息を吸うと、

淡い香りが鼻先をかすめた。


蝋の匂いじゃない。

異国の薬草の煙、

革を焦がしたみたいな微かな焼け跡。


闇まで計算に入れたような、

抑えた権威が染みついていた。


視界の中央を、黒いマントの裾が横切った。

赤い糸で刺繍された紋様が、暗がりで鈍く光る。


妙に生きているみたいな紋様。

部屋に張りついた緊張と、噛み合っている。


やがて、

低く響く声が、ゆっくり降りてきた。


「ようやく目が覚めたか」


ライネルは反射で顔を上げた。

輪郭がはっきりしていく視界の中で、部屋の全容が見えてくる。


広い部屋。

壁沿いに暗い布が規則正しく垂れ、

一定の間隔で灯りが燃えていた。


ただし、部屋全体を明るくはしない。


半分は淡い金色。

半分は黒い影に沈む明かり。


その中心に、背の高い椅子が一つ。

そして――そこに、男が座っていた。


黒いマント。金属の装飾。

胸と肩を覆う細工は精密で、重い。


男は長い指を組み、

頬杖をついたままライネルを見下ろしている。


隙のない黒髪のオールバック。

それから、顔を横切る一本の傷痕。


右の眉から頬の下まで。

眼を縦に裂くような、まっすぐで深い痕。


視線は冷たく、澄んでいた。

そこには、温度が一欠片もない。


――レジド・ハルバン。


影の組織、その最深部を束ねる実質の長。

地下世界の情報を掌握し、

闇の取引を調律する調整役。


必要なら、自ら狩りに出ることもある人物。


ライネルはその視線を全身で受け止めながら、

自分が「縛られている」ことに遅れて気づいた。


手首と足首に、硬い縄。

身体は冷たい床に固定されている。


···逃げられない。


レジドは何も言わず、ただ見ていた。


静かで落ち着いた視線。

けれど鈍い目じゃない。


何を殺し、何を生かすか。

すでに決めた者の威圧。


ライネルは小さく息を呑む。

背筋を伝う、ひやりとした感覚。


ここは拘束の部屋じゃない。

「選別」と「宣告」が行われる――影の法廷だ。


「ボス~、久しぶりにいい子が入ってきましたよ~」


能天気で、浮ついたみたいな声が響いた。


部屋の暗がりの向こう、

黒い柱の脇にもたれていた男が姿を現す。


よれたマント。垂れた髪。

ぶら下がる金属のピアス。


その手の甲には、

まだライネルの血が乾ききらないまま染みていた。


――シェルタン。


ライネルとアイラに直接手を出した組織の幹部。

手が早く、残酷だと悪名高い。


「二人で看守を一人殺しました。あっという間に」


シェルタンは笑いながら続ける。


「けっこう頑丈なやつだったんですけどね。

“トン”って一回で首が回りました~」


笑い方は軽い。

その中に、昂った毒と、狩猟犬の本能が混じっていた。


レジドは返さない。

目を細めたまま、相変わらずライネルだけを見ている。


「アイラだったか。あの子も面白い。

魔法陣の筋が、すごく···鋭かった」


シェルタンはマントの裾を整え、誇るみたいに笑った。


「もう少し力が付けば、部屋一つくらいひっくり返しそうでしたよ?

二人とも殺すには惜しいでしょう? はは」


その瞬間、

レジドが、ほんのゆっくり顔を向けた。


シェルタンはその視線を受けた途端、笑みを消し、

黙って一歩後ろへ下がった。


言葉より強い命令。

動きより冷たい圧。


ここは、冗談すら許されない場所。


「その歳で看守を殺し、幹部に反抗までしたか」


レジドの声に驚きも感心もない。

ただの評価だった。


品を品評するみたいに、値を量る口ぶり。


視線が静かにアイラへ移る。

まだ意識が戻りきらず、呼吸だけをしている少女。


微かに上下する肩。

この見知らぬ場所で、目覚めかける気配。


「アイラ、だったな」


レジドは淡々と言った。


「お前たち二人は、面白い力を持っている」


視線が再びライネルへ戻る。


青い目の子。

その瞳に宿るもの。


「そしてお前、ライネル」


「興味深い能力を持っているそうだな」


レジドの視線が、ゆっくりライネルをなぞる。


「お前の力は、我々のやり方とはまるで違う」


「魔法の結びつきもない。しかも詠唱もない。

まるで···勝手に噴き出す原初の反応、というべきか」


彼は指を一本ずつ折りながら、静かに呟いた。


ゆっくり、

レジドが笑った。


「定義されていない力は、いつだって一番危険だ。

そして――それだけ使い道がある」


ライネルは黙って俯いた。


その言葉は、

何かを「覚えている」みたいに、深く胸に刺さる。


男は席を立つ。


黒いマントが床をすうっと擦り、

小さな摩擦音を立てた。


「俺はお前たちを、ただ殺すために呼んだわけじゃない」


声は低いのに、重さがある。


「提案のために呼んだ」


レジドはゆっくり歩いた。

蝋の影がマントに沿って揺れ、

顔は光と闇の間で半分隠れる。


「内容は簡単だ」


彼は立ち止まった。

ライネルとアイラ――二人の正面に立つ位置。


「ここで死ぬか。

それとも影の下で、新しい命を得るか。

···決めろ」


ライネルの心臓が、トンと落ちた。


ただの脅しじゃない。


声の中に「確信」がある。


同じ言葉を聞かされ、

同じ選択を強いられた子どもが山ほどいた――

そんな言い方だった。


「まあ、生き残り続ければ、

お前たちもいずれ自由を得られるかもしれない」


レジドの足先が灯りに触れた時、

影が二人の顔へ落ちた。


ライネルは唾を飲み込む。

手が勝手に拳を握った。


ここが牢じゃないことを、

もう疑いようがない。


レジドの口元がゆっくり上がる。

けれど笑みは目に届かない。


「だから選べ」


低く、最後通告みたいな声。


「死か、再誕か」


彼が二本の指で「パチン」と鳴らした。


少しして、

鉄の扉が開き、仮面の男が二人入ってきた。


無言で子どもたちを見る。

無表情。言葉のない動き。

それだけで、この場所の冷たさが伝わる。


レジドが顔を向けた。


「連れていけ。各自、独房だ」


その時、

ライネルが口を開いた。


「···待って」


その一言に、レジドの眉がほんの僅か動く。


「···言いたいことがあるのか?」


「···冒険者になりたい」


レジドの口元がゆっくり吊り上がった。


「はは···冒険者?」


小さく笑って、言い返す。


「ここから出る方法が···

外でくだらない使い走りでもすることだと思ったのか?」


声に、嘲る冷気が混じる。


ライネルは黙って頷いた。


短い沈黙。

レジドはじっと見た。


目を細め、頬杖をついていた指先に力が入る。


何かを秤にかけるように、

ほんの少し考え込む。


「···いいだろう。だが条件がある」


彼は指を一度弾いた。


すると隣室から別の男が現れた。

抱えているのは、黒い箱。


蓋が開くと、

中には二つ置かれていた。


* 赤い印の押された契約書が二通

* 魔力を抑え、神経系まで封じられる「魔力拘束具」


レジドが補足する。


「お前たちは今から『偽装冒険者』になる」


「外では好きに動いていい。

ひとまず自由をやる。表向きはな」


彼は書類の上を指先で、トン、トンと叩いた。


「その代わり···定期的に『こちらの情報』を集めて渡せ。

それが条件だ」


一瞬、静寂。


そして最後の一言。


「望むだけ役に立ったなら、

その時は本物の自由を考えてやる」


「···ただし一つ、覚えておけ」


レジドの声が低くなる。


彼は箱から魔力拘束具を取り出した。


「逃げる気を起こしたら···」


輪を指の間で転がしながら言う。


「その瞬間からお前の魔力は、

眠ったまま腐っていく」


ライネルの呼吸が微かに揺れた。


「これは単なる封印じゃない。

魔力の流れを『固定』して、

お前自身にすら力を感じさせなくする」


レジドの目は冷え切っている。


「そして組織の手で、静かに消される」


感情がない。

だからこそ怖い。


「これからお前たち三人は『チーム』だ」


レジドは箱の蓋を閉じながら付け足した。


「···三人?」


ライネルが聞き返した瞬間、

影の中から足音がした。


コツ、コツ。


靴の踵が床を叩く音。

その音が静かに近づく。


影から、

ゆっくり女が歩み出た。


濃い藍の髪を高い位置で結んだポニーテール。

赤いマントの下を髪が流れる。


首元まで上がる黒いジャケット。

戦術用の手袋。

腰には短い剣。


歩みに気配がない。

動きは慣れていて、滑らかだった。


見た目は二十歳にも満たない。

まだ幼さの残る顔。


だが――

その目だけが違う。


年齢に似合わない警戒心。

鍛えられた冷静さ。


猟犬みたいに、

鋭く、落ち着いた眼差し。


レジドが彼女を示す。


「こちらはイヴェラ。

お前たちの支援役であり、監視役だ」


ライネルは反射で一歩退いた。


冷たい気流が、

肌を撫でた気がした。


アイラはいつの間にか目を開けていたが、

黙って座ったままだ。


視線だけは真っ直ぐにイヴェラへ向けている。

何かを見抜こうとする目。


イヴェラは二人をスキャンするように見た。

瞳はほとんど動かない。

視線は冷たく、計算されている。


その瞬間、ライネルは感じた。


こいつらは、今まで会ってきた人間と違う。


飾りも、虚勢もない。


戦いと生存が身体に染みついた者たち。


言葉より先に動き、

呼吸ひとつさえ鋭い存在。


戦うために作られた人間。


その時、レジドが静かに口を開いた。


「この世界は···食い合いだ」


彼はゆっくり部屋を見回す。


垂れた暗幕。

揺れる灯り。

沈黙の舞台。


すべてが計算された、

演劇の舞台みたいに見えた。


「それを幼い頃から叩き込まれた子は違う。

どう戦い、

どう生き残るか。

身体が先に覚えている」


レジドの視線が、

ライネルとアイラへ向く。


好奇心も、同情もない。


ただ一つ。

『使えるか』を測る目。


「そういう子は···

武器になる」


彼は笑った。

口元だけの、感情のない笑み。


その言葉に、

ライネルは奥歯を噛み締めた。


胸の深いところから、

冷たいものがせり上がる。


自分が今どこにいるのか。

自分が何として使われるのか。


それを、初めてはっきり感じた瞬間。


小さいが確かな不安が、

心臓の下で蠢いた。


その時、イヴェラが静かに背を向けた。


「移動」


声は鋭くも、優しくもない。

ただ正確で、簡潔。


ライネルは最後にレジドを見た。


男は何も言わず、

子どもたちへ手を一度だけ振った。


まるで――

新しい玩具を送り出すみたいに。

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