76. 我らの冒険 (われらのぼうけん)
「混血のくせに。
よくも···周辺界から生きて戻れたな」
耳障りな口調。
露骨に見下す視線。
アイラは、その聞き覚えのある声の主を確かめた。
『クラミシュの槍』。
純血エルフの魔法使い、フェイオ。
「···は?」
「いきなり現れて絡まないでよ。こっちはただでさえ機嫌悪いんだから」
アイラは一歩踏み出し、
睨み返した。
「それに···混血?
あんたはどれだけ“綺麗”なのよ」
フェイオは表情を固める。
唇が硬く結ばれたまま、ゆっくり口を開いた。
「臆病者みたいに種族を裏切って、
人間の村へ逃げ込んだエルフの娘。
お前には···これ以上似合う言葉があるか?」
アイラは首元の精霊石を、無意識に握った。
荒く息を吸い込み、歯を食いしばる。
「···エルフの真の力も扱えず、
人間の小賢しい手口で覚えた低級魔法を振り回すつもりか」
「お前と俺が、半分は同じ血を共有していることが···
心底、反吐が出る」
その瞬間――
ぷつり。
何かが切れた。
「ねえ。言い終わった?」
囁くように言いながら、
アイラの指先に魔力が凝縮していく。
バキッ――!
背後で、強い風が渦のようにうねった。
フェイオも目つきが変わり、
指先にエルフ固有の精霊系魔法を立ち上げる。
空気中の魔力が震えた。
一触即発。
その時。
「そこまでだ」
フェイオの手首を掴む、見覚えのある手。
アイラははっとして視線を向ける。
にやにや。
聞き慣れた抑揚の嘲笑。
廊下の奥から、ゆっくり歩いてきたのはユイスだった。
「お嬢さん、失礼。
うちの問題児がまたやらかしそうでねぇ···
面目ないことでございます」
口ぶりは嘲りそのもの。
笑みは不快なほど軽い。
ユイスは近づくと、
フェイオの耳元へ、低く囁いた。
「彼女は僕の獲物だって言ったでしょう、フェイオ様?」
その言葉に、フェイオの眉間が歪む。
「···同じチームでなければ、
真っ先に始末していた」
言い終えると、
彼はアイラの横を無言で通り過ぎ、廊下の向こうへ消えた。
「また会いましょうね。
ぜーったい、ぜーったい、ぜーったい。約束ですよ?」
ユイスは振り返り、
ふざけた手つきで“約束”の仕草を作った。
そして、
にこにこ笑いながらフェイオの後を追い、悠々と去っていく。
アイラの瞳が揺れた。
怒りと屈辱。
悲しみと混乱。
どれも掴めないまま、目の縁に涙が滲む。
ここは、本来なら――
彼女が夢見た『冒険の始まり』だったはずだ。
新しい挑戦への高揚。
強くなりたいという希望。
そして未来への、小さく確かな信頼。
けれど今日だけは、
その信頼が、ひどく崩れ落ちた。
「···もう、帰ろうかな」
独り言みたいに、かすれた声。
その瞬間、
アイラの脳裏に、古い記憶が浮かんだ。
◇
幼い頃。
村中が彼女の存在を無視し、
両親と共に村を出なければならなかった、あの日。
「いつか···また会おう。
エルペンシアで」
アイラは自分の出自を思い出した。
血管には、半分エルフ、半分人間の血が流れている。
生まれは人間の村。けれど心のどこかに、ずっと『エルフの都』への見知らぬ郷愁があった。
言葉でしか聞いたことのない都市――エルペンシア。
エルフの複数の拠点の一つで、
その中でも人間文明に最も近く、
友好的な関係を保っていた街だった。
だが···
ある日を境に、街は炎に包まれ、瞬く間に灰となった。
生き残った者の多くは、エルカディアンと呼ばれる大都市へ避難し、
一部は人間界へ流れ込み、定住を試みた。
その過程で、多くのハーフエルフが生まれた。
しかし大半は成人するにつれ、人間社会に溶け込むより先に、
アイデンティティの壁にぶつかって去っていく。
だから、人間の村で成人したハーフエルフを見つけるのは稀だった。
それでも――
アイラの家族は違った。
彼らは唯一、人間の村に根を下ろし、定住した家庭だった。
その家は、放浪するエルフたちの休息所となり、
代わりにエルフの魔法と知識を分け与えられた。
そのおかげでアイラは幼い頃から、
精霊石を受け継ぎ、基礎魔法を学ぶことができた。
アイラは朧げな記憶の中で、
一つの名を掴み取ろうとした。
幼い頃、顔すらはっきり思い出せない師。
家に少しだけ滞在して去った、ハーフエルフ。
彼はアイラに初めて魔法を教え、
精霊石を握らせてくれた人物だった。
アイラは目を閉じ、そっと呟く。
「···ドリムリフ、だったかな」
アイラは力のない足取りで歩き出した。
とぼとぼ。
風に押されるみたいに、考えのない動きだった。
辿り着いたのは、
荘厳にそびえる一つの建物。
「···ここは」
建物前の案内板を見上げる。
王立図書館。
アイラは一度、瞬きをした。
誰かに背を押されたみたいに、
足が自然と扉の内へ吸い込まれていく。
その時、
首元の精霊石が淡く光った。
蛍みたいな若草色が、くっきりした軌跡を描き、
図書館の奥へと彼女を導く。
たたた。
長い廊下。
果ての見えない書架の間。
やがて光が留まった場所に辿り着くと、
アイラは書棚の上段、背伸びすれば届く高さに差し込まれた一冊を見つけた。
「···エルペンシア」
指先が触れた瞬間、
本がかさりと滑り落ちる。
ページを開いた途端、
時間が消えた。
数分だったのか、数時間だったのかも分からない。
アイラは文字一つ一つに没入した。
紙面の言葉が彼女を内側へ呑み込むみたいに、
呼吸さえ忘れて読み進める。
そして――
あるページ。
アイラの手が止まった。
めくろうとした指先が固まる。
「エルペンシア。
今は失われた···不運なエルフの里、ですね」
知らない声に、アイラはびくっとして顔を上げた。
「えっ···!」
書架の間に立っていたのは、
ヘレニアの副官であり直弟子のペトロだった。
黒髪に細身の体つき。
落ち着いた眼差しの奥に、分からない鋭さが滲んでいる。
「···ハーフエルフの方ですね」
彼は柔らかく話しかけ、
目尻を下げて、冗談めかして付け加えた。
「もしかして···僕より年上ですか?」
「な、何言ってるんですか! 私まだ十六です!」
恥ずかしそうに噛みつくアイラ。
男はすぐに両手を合わせ、頭を下げた。
「失礼しました。
私が会ってきたエルフの血筋は、大抵年長者ばかりで···はは」
場を軽くする冗談だったが、
アイラは顔を伏せ、ぱたんと本を閉じてしまった。
表情が暗い。
「···何かありましたか?」
真剣に問う男。
「いえ、ただ···なんでもないです」
アイラは首を横に振った。
男はしばらく彼女を見てから、
微笑んで提案した。
「ここは騒げません。
少し外へ出て、続きを話しませんか?」
「···え? それって···」
先に外へ出るペトロ。
アイラは何かに引かれるように、その後を追った。
図書館の扉が開き、
ペトロが先に足を踏み出した瞬間――
「ちょっと待ってください!」
後ろから、慌てた声が響く。
二人は同時に振り返った。
呼び止めたのは、図書館の司書だった。
「本を借りるなら、貸出証の手続きが必要です!」
「え···」
アイラは一気に顔が赤くなった。
あまりに自然に本を抱えたまま出てしまい、
自分でも焦る。
「···わ、私、そういうの持ってなくて」
「なら貸し出せません。図書館の財産ですから」
アイラは本を抱えたまま、もじもじした。
その時。
「私が借りる形にします」
ペトロが出て、アイラの腕から本を受け取った。
簡単な書類を記入すると、すぐに本を返す。
「あ···ありがとうございます」
「どういたしまして。
読み終えたら、期限内に返してください」
アイラは黙って頷いた。
しばらくして、図書館前のベンチ。
二人は並んで腰を下ろした。
ペトロが薄く笑い、首を傾げる。
「それで···深刻な悩みを聞かせてもらえますか」
アイラはびくっとして彼を見る。
「···そんなに分かりやすいですか」
「ええ。もちろん」
ペトロは安心させるみたいに、明るく笑った。
「···その、私が冒険者になったのって、
正しかったのかなって」
小さく呟くアイラ。
ペトロはすぐに答えず、黙って彼女の顔を見ていた。
「実は、今回の入学試験で···死にかけたんです」
アイラは指先をぎゅっと結び、続ける。
「運よく助けられましたけど···
冒険者って、もっと不思議な場所を探検して、色んな人に会って···
そういう旅だと思ってました」
声が震え、
瞳が揺れる。
「でも、ここに来た途端···
私が思ってたの、間違いだったのかなって」
ペトロの目が少し細くなった。
「···周辺界に送られたチームの一員、ですね」
アイラは頷く。
「はい。
私を含めて二人は戻れましたけど···もう一人はまだ···
どこにいるか分からなくて」
深く息を吐き、付け足す。
「生きてるって言われても···
慰めの言葉にしか聞こえないんです。
それに···もう一人の仲間が、あまり気にしてないのも腹が立って」
ペトロは彼女の言葉を噛みしめるように聞き、ゆっくり頷いた。
そこにあったのは、さっきの冗談めいた軽さではなく、真剣さだった。
「私は···冒険者とは、人に夢を蒔く者だと思っています」
彼はアイラを見て、静かに続ける。
「冒険の中で様々な人に出会い、
固まって、砕けて、また進む。
危険の中では意志を知り、平穏の中では友情を分け合う」
アイラは一度視線を落とし、
またペトロを見た。
「アイラ様が経験されたのは、一つの試練に過ぎません。
一つの試練のために、九つの幸福と胸の高鳴りを手放すのは···
あまりにも惜しい」
声は低く穏やかで、
妙に胸の奥へ届いた。
「ここまで来られた時点で、十分にやり遂げています。
だから···私は、アイラ様の冒険がここで終わらないことを願います」
アイラの表情が、少しだけ和らいだ。
だがすぐに唇を噛み、また呟く。
「でも···失踪した仲間が···明日までに戻らなかったら、
私たちのチームは自動的に失格ですよね」
ペトロは少し沈黙し、薄く笑った。
「···信じてください」
「え?」
「そんなことは···起きません」
アイラは目を見開いた。
「···どうしてそんな···?」
「ただの···勘です」
ペトロは空を見上げ、何とも言えない表情をした。
呆れたみたいに、アイラは目を丸くする。
しばらくして、ペトロは静かに立ち上がった。
「きっと、その仲間は戻ります。
仮に戻れなかったとしても、アイラ様の冒険はそれで終わりません。
道は···一つじゃない」
彼は短く礼をし、ゆっくり去っていった。
アイラは胸の中に重い石を抱えたままだった。
けれど、その石の上に積もった埃を、いくつか払えた気がした。
(そう···信じよう。ライネルは、きっと戻ってくる)
決意を固め、宿舎へ向かう途中。
遠くから騒がしい声が聞こえた。
「···誰か喧嘩してるの?」
首を傾げて近づくと、
少し離れた場所で、屈強な男が学校関係者数名と揉めていた。
「いや、生きてるなら捜索隊を出して連れてくるべきでしょう!
学校側のミスでこうなったのに、放置じゃないですか!」
その声に、アイラは小さく笑った。
「···モネロ。結局、ライネルのこと心配してたんだ」
足が自然と、その騒ぎの方へ向かう。
「おい、早く捜索隊を···ああああっ!!」
モネロの悲鳴。
「モネロ、言ったでしょ。
余計な騒ぎを起こすなって。
うるさくしないで、戻るよ」
アイラはモネロの耳をしっかり掴み、引っ張った。
「痛っ! アイラ、耳やめろ!
俺はライネルが···」
「分かってる···全部分かってる。だから戻る。
それで待とう。きっと···戻るから」
ようやく耳を離すアイラ。
「何だよ。さっきは俺の方が心配してないって怒ったくせに···」
「何言ってんの、このバカ。ほら、早く来て!」
宿舎へ向かう二人。
今度は、アイラの顔にようやく笑みが戻った。
その笑みに引っ張られるみたいに、モネロもぎこちなく笑った。
アイラは胸の内で、そっと誓う。
(私たちの冒険は···ここで終わらない。
これからも、ずっと続いていく)




