75. 懸念 (けねん)
カミは胸の内で思った。
(ライネル···お前は今、その力を自分の意思では扱えない。
だが遠からず、必ず自分で制御し、コントロールできるようになる···)
その事実だけで、
契約を結ぶ価値は十分だと感じた。
短い思考を終えたカミは、口を開く。
「契約を結べば、俺たちドラゴンの力を使って
お前を人間界へ戻してやる。
お前がいた、あの場所へ」
「···本当に?」
「本当だ。
俺たちドラゴンは、嘘なんかつかない」
「···じゃあ、条件は?」
「んー···簡単だ」
カミは、にっと笑った。
「ライネル。
お前と俺が、しばらく一緒に行動する。
それだけだ」
「それ···だけ?」
「今のところはな」
少し考えたライネルは、頷いた。
「···分かった。
じゃあ、契約はどうすればいい?」
「よし。こっち来い」
カミはライネルを、族長の前まで連れていく。
巨大なマッドドラゴンが、ゆっくり目を閉じて頷いた。
その瞬間、
ライネルとカミの足元に、複雑で神秘的な紋様が
地面から浮かび上がり始める。
光の輪が二人の足を絡め取り、
青白い霧と魔力が宙を巡った。
しばらくして、
ライネルの右手の甲、そしてカミの左の背の上あたりに、
赤い小さな紋様が刻まれて――すぐに消える。
しゅっ。
カミがぱっと笑って手を差し出した。
「契約完了!
よろしくな、ライネル!」
「もう···終わり?」
少し面食らった顔のライネル。
「うん! 意外と簡単だろ?」
カミは顔を上げ、
黄金の鱗を纏う族長を見た。
「族長様」
族長は口を開かず、
ゆっくりと黄金色の魔法陣を描き始めた。
強力な転移魔法が、
二人の足元で徐々に明るく輝き始める。
やがて――
一瞬で広がった光が、カミとライネルを完全に呑み込んだ。
そして···
光が消えた場所には、
もう誰もいなかった。
その契約が、これからどんな出来事を呼び込むのか···
◇
「では今回の決定は、
全員異議なし――そう結論づけます」
王国冒険者学校の会議室。
赤い絨毯の床。
中央には長い円卓が置かれ、
それを囲んでいた関係者たちが、次々と立ち上がって席を整え始めた。
今日の議題は、
先日行われた冒険者実技試験中に発生した事故の整理だった。
本来この実技試験は、
生存能力と危機対応を評価するための簡単な訓練に過ぎない。
参加者のほとんどはC級以下の新人冒険者で、
それに合わせて無理のない環境として、三つの試験区画が用意されていた。
だが――
そのうち一つで、事故が起きた。
「二つの区画は軽微な問題だったが、
残り一つで···明確な外部操作の痕跡があった」
座標値が書き換えられていた。
単なる位置の誤差ではない。
本来設定されていた人間界の安全区画が消え、
代わりに、人間界と魔界の境界である『周辺界』へ反転していたのだ。
「それは、単純なミスではありません」
会議中、誰かがそう口にした瞬間、
全員の目つきが冷たく沈んだ。
誰かが意図的に、試験場を操作した。
そして今――
会議室から全員が出て行き、
ヘレニアだけが残っていた。
静かな空間。
彼女は硬い表情で椅子に座ったまま、机を拳で叩いた。
「···これは事故じゃない」
独り言でも、怒りが滲む。
「誰かが···確実に動いている」
目尻が鋭く変わった、その時。
とん。とん。
閉じた扉の向こうから、
誰かが軽くノックする音。
「入れ」
ヘレニアが言い終えると、
慎重に扉が開いた。
入ってきたのはペトロ。
王国のA級冒険者にして、
ヘレニア直属の副官であり弟子。
かつて別大陸で傭兵として漂っていたヘレニアに
『王国冒険者システム』を紹介し、
傍で助言を惜しまず、今の地位に至るまで共に歩んできた――信頼の厚い同僚だった。
「ヘレニア様」
ペトロは整った印象の黒髪、
痩せた体格に、後ろで束ねた短い髪紐が特徴的な人物。
ヘレニアは彼を見て、頷く。
「それで。
個別に話したいことがあるって?」
ペトロは扉を閉め、静かに歩み寄って
ヘレニアの向かいに腰を下ろした。
「今回の試験の件ですが···」
言葉を選び、
真剣な目でヘレニアを見つめる。
「表向きは普段通りに振る舞おうとしておられる。
ですが···正直、相当気にされているでしょう?」
ヘレニアは小さく笑った。
「···隠しても、結局ばれるか」
「私が、誰より長く側で見てきましたから」
その言葉にヘレニアは息を吐き、
机に手を置いた。
「ただの簡単な試験だった。
だが、起きたことは···単なる事故で片づけられない」
「···周辺界に学生を送る座標操作なんて。
常識的にあり得ません」
「そうだ」
ヘレニアの表情が固くなる。
「しかも学生の一人は、
正体不明の力に巻き込まれて失踪した。
残りも、予期せぬ接触で大きな被害を受けている」
「···情報漏洩、内部協力者。
どのルートでも可能性は見ておくべきです」
ペトロが慎重に口を開く。
「王国の高位関係者は、
今回の件の重さを正しく認識していないように見えます」
ヘレニアは黙って続きを促した。
ペトロは一度息を整え、
短く言い切る。
「ですが···周辺界へ人間を意図的に送るほどなら、
背後はほぼ確実に、魔界と繋がる者でしょう」
その言葉に、
ヘレニアは目を細めて返す。
「···王国内に、
魔界と協力している者がいる――そういうことだな」
「はい。
それ以外では説明がつきません」
ペトロの口調は断固としていた。
その瞬間、
ヘレニアの視線が窓の外へ向く。
窓の向こうには、穏やかな王都の通り。
だがその中に混じる、無数の仮面。
「···魔界から意図的に紛れ込んだ者がいるなら、
連中は完璧に人間のやり方を身につけているはずだ」
ヘレニアは続ける。
「表向きは人間に見える。
そして魔界の魔力を露わにしないよう、訓練されている」
ペトロも頷いた。
「だからこそ危険です。
どれだけ魔力を探っても、
表面上は区別がつきません」
「···魔界の仕業なら、
今回の『座標操作』は単なる実験じゃない」
ヘレニアは静かに言い、机上の書類を整える。
「これは間違いなく、始まりに過ぎない」
ペトロは真っ直ぐに言う。
「···ならば、
こちらもより深く調べるべきです」
「学校内部から。
あるいは受験者の中に繋がっている者がいる可能性も、捨てきれません」
「···まず一次線として、
関係者全員の身辺調査から始める」
ヘレニアは立ち上がりながら言った。
腕を組んだまま、静かに問う。
「それで···最終的に言いたいことは?」
ペトロは即答した。
「合格者が決まり次第、
戦闘大会を開くべきです。
直接観察し、異常反応がないかを確認します」
ヘレニアは眉をひそめる。
「···お前、『中に複数いる』と考えているのか」
ペトロは頷く。
「偶然ではありません。
座標操作があれほど綿密なら、
内部に二人以上潜んでいる可能性が高い」
そして付け加える。
「さらに、魔界の魔力を感知できる神官を外部から確保すべきです。
現状、学校内の人員では判別が困難です」
ヘレニアは息を吐いた。
「···考えは分かる。
だが、戦闘大会を強引に進めるのには反対だ」
「今回合格するのは、全員がB級予備の冒険者だ。
国家にとっても貴重な人材。
互いに戦わせるのは、損失が大きすぎる」
ペトロの目が鋭くなる。
「では、魔族が学校内に入り込むのを
黙って見過ごせと?」
その言葉に、ヘレニアも表情を硬くした。
「···そういう意味じゃない」
だがペトロは引かない。
「今は、こちらが先に動くべきです。
それができなければ、
いずれ根こそぎ突破されます」
高ぶった声。
ヘレニアは静かに俯き、
少しして短く答えた。
「色の洗い出しは···合格者が確定する過程で判断する。
無理に煽れば、こちらのリスクが増えるだけだ」
ペトロは何か言いかけ、
唇を噛んで止めた。
「···承知しました」
そして一度息を置き、別の話題に移す。
「それより···
今回の試験から帰還したチームの中で、
一部の人員が欠けていた場合の処理は?」
「試験の基本原則は『チーム単位の生存』だ。
全員が揃わなければ、不合格扱いになる」
「···そうですか」
ペトロは小さく呟き、頷く。
その時、
ヘレニアが顔を上げて彼を見る。
「どうした?
欠員が出たチームの中に、気になるところが?」
ペトロは一瞬ためらい、答えた。
「···はい。
あります」
その返答に、
ヘレニアの目つきがわずかに揺れた。
まるで、誰かが予想通りに動いたような。
あるいは、予想外の変数が現れたような目だった。
◇
「モネロ! モネロ!!」
アイラはベッドで眠っているモネロを、乱暴に揺さぶった。
「···うぅ···なに···まだ寝たい···」
目をこすりながら起きるモネロ。
だがアイラは目に火を灯して睨む。
「何のんきにしてるの!
日がとっくに高いのに!」
「のんきじゃないけど···どうした?」
「ライネルがどこにいるかも分からないのに、心配じゃないの?!」
モネロは布団を抱えたまま、ぼそりと返す。
「心配は···もちろんしてる。
でも、お前も聞いただろ。
ライネル···生きてるって」
その一言で、
アイラの頬がぷくっと膨れた。
「それは私も分かってる!
でも···いつ戻るか分からないじゃない!」
「入学試験に味を占めたの?
来年もまた受ける羽目になるよ!!」
「···え? どういう意味だ?」
きょとんとするモネロ。
「今回の試験って『生存』が目的で、
周辺界に送られた連中は、
期間に関係なく合格――じゃなかったのか?」
その言葉に、
アイラは大きく息を吸い込んで叫んだ。
「このバカ!
人の話、半分しか聞いてないの?!」
「試験終了の時点で、
チーム全員が同じ場所に揃ってなきゃいけないの!」
「ライネルの生存が確認できても、
一人で離れてたら不合格なの!!」
「え···マジか?!」
モネロは真っ青になり、勢いよく跳ね起きた。
だがアイラはもう背を向け、
彼の部屋の扉をばたんと閉めて出て行ってしまう。
独り言みたいに、
アイラは廊下を歩きながら唇を噛んだ。
「生きてるって分かってても···
心配になるのに···」
その目には、
不安と苛立ち、そして自責が絡み合っていた。
昨夜。
ヘレニアとの短い面談の後、
学校側は今回の件への謝罪として、
特殊な魔導具でライネルの生存確認を直接見せた。
冒険者学校は、
入学試験参加者全員の魔力サンプルを事前に採取している。
そのサンプルを基に、
位置の特定はできなくとも、
生存の有無だけは確実に感知できる仕組みを持っていたのだ。
「···無事でいて。ライネル···」
アイラは小さく呟いた。
その時、
廊下の奥から――とん、とん···
妙に軽く、それでいて滑らかな足音が近づいてくる。
視線を向けたアイラの目に入ったのは、
エルフ。
長い髪をきゅっと結び、
冷静で理知的な眼差しを持つ青年が、
ゆっくりとこちらへ歩いて来ていた。




