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74. 契約 (けいやく

「···感情に振り回されすぎるな。

今は···冷静に判断すべき時だ」


ヘレニアは机上の書類を整え直しながら言った。


アイラはなおも顔を上げられず、

小さく、力なく呟く。


「それが···その···」


ヘレニアはその様子を見つめ、

しばらく黙って待った。


「···正直に話していい」


「今回のこと、

幸いまだ私しか知らない」


静かに、彼女は右手を差し出す。


「約束する。

今からお前が話すことは、全部――私とお前だけの秘密にする」


「···その···」


震えが混じる声。

アイラはようやく視線を上げた。


「···ライネルは···

私たちのチームの、頼れる仲間です」


「···あなたが何を考えてるのか分からないけど、

ライネルは···

ただの優秀な冒険者です」


そして

長く迷った末に、アイラは

一番怖い問いを口にした。


「もしかして···ライネルは···

死んだんですか」


その言葉と同時に、

赤く充血したアイラの瞳が、すぐ涙で滲んだ。


ヘレニアは胸元からハンカチを取り出し、

アイラに差し出す。


しばらく沈黙していたヘレニアが、

小さく息を吐いた。


「まだ混乱しているだろうに···私が急ぎすぎたな」


彼女は机越しに、

黙って俯くアイラを見つめる。


アイラは

自分が口にした問いの答えを待っていた。


だが

ヘレニアは感じていた。

この少女は、今すべてを受け止める準備ができていない。


「···分かった。

今はこれ以上、訊かないでおこう」


少し和らいだ声で、

ヘレニアが続ける。


「少なくともあの少年は···

死んではいない」


「···本当ですか?」


アイラの声に、

かすかな希望が混じる。


「そうだ。ただ···」


「どこかへ、

消えてしまっただけだ」


「···それって···どういう意味ですか?」


アイラは顔を上げ、

ヘレニアを見つめた。


その瞳には、

はっきりした説明を求める切実さが宿っている。


「言葉通りだ」


ヘレニアは静かに言葉を継いだ。


「お前と病室で倒れていた少年、

彼を連れて戻る途中だった」


「だがライネルは、

訳の分からない力に引かれるように、

目の前で蒸発するみたいに――どこかへ消えた」


「···じゃ、じゃあ···

死んだわけじゃないんですよね?!」


震える、押し殺した声。


ヘレニアは頷いて言った。


「···そうだ。

断言はできないが、ひとまず生きているはずだ」


その言葉に、

アイラは大きく息を吐き、

小さく頷いた。


「···よかった···」


しばらく無言だったヘレニアが、

静かに椅子から立ち上がる。


「ひとまず戻って、休め」


「···はい」


「それと、今日ここで交わした話と、

この部屋で見たものは···」


ヘレニアはアイラを見て言った。


「誰にも口にするな」


「後で何か分かったら、個別に呼ぶ。

それまでは回復に専念しろ」


アイラは力なく頷いた。


「ありがとうございます···」


静かに立ち上がり、

小さく礼をして扉へ向かうアイラ。


気配が薄く残り、

部屋に残ったのは――ただ一人。


ヘレニア。


彼女は何も言わず、

空になった部屋の深い椅子に座った。


とん。


机の上に置かれた一枚の書類。

そこには「ライネル」の名が記されている。


彼女は静かに手を伸ばし、

その紙をもう一度開いた。


「···こいつの情報が要る」


短い独り言とともに、

ヘレニアは立ち上がる。


赤い髪が動きに合わせて流れた。


彼女は慣れた足取りで、

書斎の片隅――禁区のように感じる書棚へ向かう。


そして

重々しく製本された一冊を引き抜いた。


『深淵の書』


表紙を飾るのは、

黒白の混沌紋。


この本は十数年前、

王国で禁書に近い扱いを受けていた資料だった。


魔族に関する深層研究書。

彼らの生理、魔力の流れ、

そして人間との融合可能性まで――危険な記述が並ぶ。


本を開いたヘレニアの瞳が、

一気に鋭くなる。


「···魔力の波形、

本能の反応、

精神の共鳴···典型的な非人間反応」


指で頁を繰っていた彼女は、

静かに本を閉じた。


そして

ごく低い声で呟く。


「···どうやら」


赤い瞳が深くなる。


「アルゼン様にお会いする必要があるな」



「起きろ、人間!」


小さな何かが、ライネルの上でうごめいた。


「···うん···ふぁぁ···」


ライネルは伸びをしながら、

久しぶりにぐっすり眠ったような顔で目を開けた。


「ここはまた···どこだ?」


見回す瞳には、

見慣れない場所への警戒が浮かんでいた。


「···また夢か」


近頃、自分の意識がふらつくのを

ライネル自身も感じていた。

現実と幻が混ざるような混乱。


「···確か···あの男と向き合ってたのに···」


最後に覚えている光景を辿りながら、

ライネルは慎重に手を動かした。

身体の状態を確かめるように。


「···特に異常はなさそうで···」


その瞬間――


ぐいっ。


「ぎゃああっ!!」


突然の悲鳴。


ライネルは飛び上がり、

声のした方へ振り向いた。


「カミ···?」


「そうだ、やっと目が覚めたか、馬鹿」


小さなドラゴン、カミが

ぷりぷりした顔でライネルの太腿をつんつん突いた。


「···それより、ここはどこだ。

みんなは? 無事なのか?!」


骨竜との戦いが脳裏をよぎり、

ライネルは慌てて起き上がろうとする。


だが

カミが強い声で止めた。


「落ち着け!

あいつらは···ひとまず無事だ」


「···本当か?」


「前に話した、学校の連中だ。

多分、あいつらが連れてった」


「···学校···?」


ライネルは呆けた顔で

カミを見た。


「···どういうことだ。

じゃあ俺は、

なんでこんな見知らぬ場所にいる?」


カミは首を振る。


「お前、死にかけたって分かってるか?」


「···え?」


ライネルは呆然とカミを見つめた。


「はぁ···やっぱり何も覚えてねえのか」


カミはため息をつき、

ライネルをちらりと見て顎で示す。


「意識が戻ったなら···ついて来い」


小さな身体で、ととっと。

カミは霧が薄くなる方へ、ずんずん歩いた。


ライネルも慎重に後を追う。


数歩も行かないうちに、

周囲の霧がふっと晴れる。


その瞬間、目の前に広がった光景。


「···これは···」


泥で形作られたような、

奇妙な構造物があちこちに点在していた。


建物というより、巣に近い形。

人間とはまるで違う文化と感性が染みついた空間。


ライネルは、別世界に落とされたみたいに

呆然と周囲を見回した。


その時、カミの声。


「ここは···マッドドラゴンの領域だ」


「···マッドドラゴン?」


「そうだ。

お前の話をしたら、族長様が一度会いたいってさ」


カミは当然のように前へ進む。


「こっちだ。お忙しい方なんだ。

遅れたら怒られるぞ!」


短い脚でちょこちょこ、

なのに妙に速いカミ。


ライネルはまだ呆けたまま、その後を追った。


大木の根の下。

巨大な影が姿を現す。


漂っていた霧が静かに割れ、

その実体が露わになる。


「こ···これは···」


ライネルの声が震えた。


本能的に、数歩後ろへ下がる。


すると隣のカミが、かっとなって叫ぶ。


「“これは”だと?!

無礼な人間め!

あのお方は、我らの族長様だ!」


そして

その巨大な存在が、わずかに首を動かした。


全身を覆うのは、

厚く重い緑の鱗。

その隙間から、

淡い黄金のオーラが滲むように流れている。


重く鈍い息が鼻孔から吐き出されるたび、

周囲の空気が震えた。


それは本物の“ドラゴン”だった。

しかも、ただのドラゴンではない。


圧倒的な巨体と存在感。


その前ではライネルが、

小さな塵にしか見えない。


その時、

低く響く声が空間を震わせた。


「魔を宿す人間よ···」


凄まじい余韻を伴って、言葉が続く。


「お前についての話は、

すでにある程度聞いている」


声には、

時を貫く重みと、先祖の記憶が滲んでいた。


「我らは、お前の“力”を必要としている」


ライネルの目が大きくなる。


「今、我らは

新たな変化の渦中にいる」


ドラゴンの言葉が続いた。


「数百年にわたり、

人間界、周辺界、魔界が保ってきた

世界の均衡が崩れつつある」


「特に魔界は、

急速に勢力を拡げ、

周辺界の大半を侵食した」


「そして周辺界が崩れれば···」


「次は人間界の番だ」


ライネルは言葉を失った。

唇を固く結び、俯く。


「···でも、俺は···」


自分の役割が

どう繋がるのか、背負えるのか――それすら分からない。


「···俺に···どうしろと···」


震える声。


ドラゴンは、すべて分かっていると言うように

静かに頷いた。


「お前がまだ恐れていることも、

何も知らぬことも分かっている」


「だが、お前の中に眠る“あの力”は···」


「すでに目覚め始めている」


巨大な声が響く。


「お前が持つ青い魔力。

その魔力が、この世界の均衡を守る“鍵”となるだろう」


「···俺の魔力が?」


ライネルは戸惑い、問い返した。

自分の力にどんな意味があるのか、まるで分からない。


ドラゴンは頷き、続ける。


「お前は人間の肉体でありながら、

確かに魔族の魔力を放っている」


「だが

それは完全な“魔族の魔力”ではない」


「どこか···

微妙に歪んだ気配だ」


その言葉に、

ドラゴンの傍にいた小さなカミが前へ出た。


「族長様、俺が説明します!」


ドラゴンが頷く。


カミはライネルを振り向いて言った。


「ライネル、よく聞け。

お前のその魔力さ」


「俺たちマッドドラゴンの“潜在力”を引き出す力がある」


ライネルの目が見開かれる。


「···俺が? どうやって」


カミは腕を組み、真剣に頷いた。


「普段のお前の魔力は···正直、微妙だ。

栄養がないっていうかさ」


「でも

あの時、お前が変わったの覚えてるだろ?」


「あの姿で噴き出した魔力は、

俺たちドラゴンに確実に“力”を入れた」


「それが、俺たちマッドドラゴンに効いたんだよ!」


ライネルは驚いたようにカミを見下ろす。


「···待て、変わったって何の話だ。

そんなの、俺はやってない···」


その言葉に、

カミは目を瞬かせ、困惑する。


「···はぁ?!

お前···自分の意思で変わったわけじゃなかったのか?」


「じゃあ一体···あの姿は何だったんだ?」


ライネルは重い顔で俯いた。

そして、やがてはっきり言う。


「···悪いけど、俺は仲間のところへ戻らないといけない」


カミとドラゴンの言葉には重みがあった。

だがライネルはまだ受け止めきれない。


「ここが危ないってのは···分かった。

でも“変身”とか、ドラゴンの潜在力とか···

俺には何も分からない」


ライネルは首を振り、

ゆっくりと背を向けた。


そして森の向こうへ、一歩踏み出す。


「···俺は、俺のいるべき場所へ戻る」


その瞬間――


「待て!!」


カミの切迫した叫び。


ライネルは足を止めたが、

振り返らずに言った。


「カミ、帰るのを手伝わなくてもいい。

恨み言なんて···言わない。

助けてくれて、ありがとう」


そう言って、再び歩き出そうとした時――


「契約だ! 契約!!」


カミが叫んだ。

今度の声は明らかに、何か必死な感情を孕んでいた。


ライネルは立ち止まり、

ゆっくりと振り返る。


「···契約って?」


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