7. 蒼い瞳が灯る夜(あおい ひとみ が ともる よる)
ライネルは静かに手を上げた。
小さな指先から、見えない力が滲み出す。
同時に、
彼の瞳が蒼く光った。
穏やかな光だった。
深く冷たい蒼が、
月明かりみたいに瞳の奥へ広がっていく。
机の上の鍵束が、すうっと――
微かな流れに押されるみたいに、ゆっくりと空を裂き始めた。
鍵は鳴らない。
どこにも触れず、音ひとつ立てない。
正確に。
まるで見えない手が包み込んでいるみたいに。
宙を進む鍵束は、
時おりほんの少しだけ揺れた。
けれどその揺れさえ、
徹底して計算された軌道だった。
アイラは息を呑み、
口を閉じることも忘れて鍵束を見つめた。
『···なに、いま···?』
光る瞳。
動く鍵。
糸もない操作。
どこで聞いたのかは思い出せない。
本だったのか、故郷の魔法教師の話だったのか。
大事なのは、目の前の光景だ。
手振りもない。音もない。
それなのに何かが――
明確な意志を持って動いている。
彼女は息を殺し、心の中で呟いた。
『···あれは、念動力(Telekinesis)···?』
ゆっくり顔を上げ、ライネルを見る。
蒼い光はまだ、彼の瞳に残っていた。
それから小さく、呟くように言った。
「うわ···私、こんなの初めて見た」
ライネルは答えない。
ただ、ごく僅かに呼吸が揺れただけ。
アイラはそれ以上訊かなかった。
静かに鍵を拾い、抑制具を外す。
カチリ。
金属の輪が外れて、細い音がした。
鉄格子も、かすかな震えとともに開いた。
彼女は慎重に一歩踏み出す。
膝が少し震えた。
けれど金属の床を踏んだその瞬間、はっきり分かった。
これは――監禁から抜け出す、最初の一歩。
アイラはライネルと目を合わせた。
彼の眼差しは相変わらず落ち着いているのに、どこか硬い。
言葉はいらなかった。
視線だけで十分だった。
そして、その時。
どこかで、
微かな寝息が動いた。
牢の向かい。
椅子に凭れて眠っていた監視長が、身体をもぞりと揺らす。
「···うぅ···」
酒に濁った瞳がぼんやりと開き、
その視線が牢の方を掠めた。
ライネルの目が鋭く光る。
その視線は、すぐ蒼に染まった。
身体が先に動いた。
考えるのはその後だった。
床に落ちていた古い毛布の切れ端。
彼はそれを念動力で持ち上げた。
バサッ!
毛布は正確に、
監視長の口と鼻を覆った。
「ぐっ···!!」
監視長の目が見開かれる。
身体が反り、もがく。
両手が空を掻き、
足が床を――タッ、タッと必死に打った。
息をしたい本能。
だが押しつけられた布は、
小さな呻き声さえ塞いだ。
ライネルは片手を差し出す。
瞳の蒼が濃くなる。
布は意志に反応するみたいに、
さらに強く監視長の顔を包み込んだ。
ぎゅっ。
指先に伝わる。
震える動き。折れていく抵抗。
彼は止めなかった。
いつからか、
思考も感情も途切れていた。
ただ――『音』が消えるまで。
監視長の瞳が揺れ、
やがてゆっくり、生気が抜けていく。
ライネルの手が下りた。
布が床へ落ち、
その上に倒れた監視長は、もう動かなかった。
しばらくして、ようやく息を吸う。
息が切れたわけでもないのに、
それまで呼吸すら忘れていたことに気づいた。
殺すつもりはなかった。
ただ音を塞ぎ、
少しだけ、ほんの少しだけ静かにすればよかった。
それなのに。
布が顔を覆ったその刹那、
心臓が跳ね、
目は蒼く燃え、
指先に奇妙な力が湧いた。
念動力を使うたび、
身体の奥のどこかが妙に熱を帯びる。
最初は、物を静かに動かす程度だと思っていた。
考えれば動き、
望む分だけ力を絞れると信じていた。
でも違った。
この力は、
思っていたよりずっと深く、
鋭い。
もっと強く押し込みたくなる。
潰す感触が、知らないほど刺激的だった。
抵抗があるほど、もっと強く押さえつけるべきだと思ってしまう。
ただ制圧したかっただけだ。
けれどあの瞬間の自分は、
確かに『殺す側』へ寄っていた。
それが、何より怖かった。
死も、血も、
自分が押し潰した人間の最後の痙攣さえ、
大したことがないみたいに感じた数秒が――
いま、胸の奥を重く押し潰している。
ライネルは唇を強く噛んだ。
それから、ゆっくり目を閉じる。
蒼く燃えていた瞳は、
揺れのない闇へ沈んでいった。
死は静かで、
その静けさは長く残った。
その沈黙を裂いたのは、
小さな呼吸と、二人の足音だった。
◇
二人は黙って向きを変え、廊下へ駆け出した。
ドン! ドン!
裸足で冷たい石床を踏むたび、
乾いた足音が廊下に反響した。
息も整えられないまま、
ただ前へ。
無我夢中に走る。
先を行くのはアイラ。
その後ろをライネルが追う。
深夜。
明かり一つない牢の廊下は、
獣の喉みたいに真っ暗だった。
視界は曖昧で、
湿気が肌にまとわりつく。
どこへ向かっているのかも分からない。
後ろから誰が追ってくるのかも分からない。
でも――止まれなかった。
捕まれば終わりだと分かっている。
この闇へ戻された瞬間、
どんな希望も、自由も、
二度と戻らない。
ここだけは駄目だ。
ここだけは絶対に。
その切実さが、
二人の脚を無理やり前へ押し出していた。
どれほど走っただろう。
廊下の突き当たり。
錆びた鉄扉が姿を現す。
扉の隙間から、
微かな夜気が滲み込んだ。
冷たく湿った牢の匂いとは違う、
外の匂い。
二人は同時に立ち止まった。
肩が上下し、
息が荒い。
鉄扉は外へ通じる最後の関門。
その向こうに、自由がある。
ライネルが取っ手へ手を置いた。
指先が震えた。
――その時だった。
「かわいいちびっ子たち。どこ行くの?」
背後から、
息が止まるみたいな声が落ちてきた。
声はあまりに静かだった。
吐息みたいに低く、囁きみたいに柔らかい。
なのに。
その中に混じる殺気が、やけに鮮明だった。
二人は同時に振り返った。
廊下の反対側。
階段の上、闇の中に誰かが立っていた。
よれたフードを深く被り、
肩に合わないだぶだぶの外套を羽織っている。
裾はあちこち擦り切れているのに、
その姿からは妙なほど気配がない。
顔は見えない。
影に隠れていて、
時おりフードの端から
笑うみたいな口元だけがちらりと覗く。
でも分かった。
こいつは最初から、
全部を見ていた。
そして男が口を開く。
「そこまで来るってことは···
自由が相当欲しかったんだろ?」
「でも残念だな~ ほとんど成功だったのに」
口調はふざけている。
なのに、結末を最初から知っていたみたいな確信がある。
まるで、答案を先に見た試験官。
男はゆっくり手を上げた。
「いいよ、やってみな~
最後まで耐えられるならな」
空気が変わった。
ライネルの瞳が蒼く灯る。
淡い光が瞳孔から広がり、
同時に――
廊下の床に散ったタイル片が、
ゆっくり宙へ浮かび上がった。
破片は空を切って回転し、
一斉に闇の男へ飛んでいく。
同じ瞬間、
アイラが手を伸ばした。
「ウィンド・エッジ(Wind Edge)」
短い詠唱が走り、
風の刃が魔法陣から跳ねる。
張り詰めた気流が道を作るように伸び、
ライネルの破片と一緒に敵へ突き進んだ。
ドォン!
短い爆発。
粉塵と石片が舞い、視界が塞がる。
息を殺した二人は、
その向こうを見つめた。
そして――また声が落ちた。
「いいね。すごくいい」
埃の向こう。
傷ひとつ負っていないみたいな声音。
粉塵が落ち切る前に、
影の中で何かが動いた。
シュウッ――
埃が裂ける。
何かが飛び込んできた。
いや。
誰かが『瞬間移動みたいに』距離を詰めた。
「くっ···!」
ライネルが目を見開き、蒼が走る。
反射で手を伸ばす。
砕けたタイル片が、
男の顔へ飛ぶ。
だが。
ガシッ。
男の手が、
破片を空中で片手のまま掴み取った。
「お前、面白い芸があるな?」
男が笑う。
そしてその手を、
そのまま――ライネルの腹へ突き刺すみたいに振るった。
ドンッ!
腹の奥まで刺さる痛みが、
内臓を押し潰す。
息が止まった。
いや、吸う隙すらない。
衝撃が肺を掴んだ。
ライネルの視界が大きく揺れ、
膝が折れる。
吐き気がこみ上げ、
目の前がぐらりと傾く。
身体が泳ぎ、
バランスを失って後ろへ倒れた。
「ライネル!」
アイラが叫ぶ。
彼女の手が跳ねる。
ヒュッ――!
気流が渦を巻き、
風の刃が旋風みたいに男へ覆いかぶさった。
だが男は、
ただゆっくり身をひねっただけ。
ザザッ。
風の刃は壁を削り、
男にはかすりもしない。
「ふーん···この程度じゃ、蝋燭の火も消せないな~」
男の指先がアイラへ向いた。
瞬間、
空間が歪む。
ゴンッ!
床を踏む前に、
アイラの身体がそのまま弾き飛ばされた。
ライネルはよろめきながら立ち上がる。
瞳はまだ蒼い。
けれど身体が追いつかない。
「まだ···!」
念動力を起こそうとした、その瞬間――
男が距離を詰めた。
手を上げる時間すらない。
そして静かに、
彼の額へ指が触れた。
「はいはい、遊びはここまで~」
トン。
それだけだった。
軽く触れただけ。
力も、魔力も感じない。
それなのに、
世界が傾いた。
視界が縦に引っ張られ、
床が急に頭上へ跳ね上がる錯覚。
全身が内側に折り畳まれるみたいに、
崩れ落ちた。
頭が真っ白になる。
心臓が『鼓動する』感覚が、
一瞬消えた。
重いわけじゃないのに、
もう動けない。
指先から力が抜け、
瞳に宿っていた蒼も
ゆっくり消えるように冷えていった。
『あと少し耐えられたら···』
最後の思考が薄く掠め、
やがて感覚が静かに落ちた。
どれほど時間が経っただろう。
アイラは床に倒れたまま、
目を閉じていた。
淡い呼吸だけが、
彼女がまだ生きていることを示している。
男は二人を見下ろし、
短い沈黙のあと、
試験結果を確かめる教師みたいに呟いた。
「···合格」
それから、
影の中へ消えた。
静寂が落ちる。
廊下は、
死さえ息を潜めたみたいに静かだった。
残ったのは、
埃の匂いと血の匂い。
そして倒れた子どもたちの上を流れる、
冷たい夜風だけ。
ライネルは目を閉じ、
微動だにせず横たわっていた。
一瞬宿った蒼も、
もう完全に消えている。
アイラもまた、
壁に凭れるように倒れ、
細い呼吸だけが残っていた。
どこかで、
静かな足音が近づいた。
節度ある歩み。
習慣のように闇を踏む音。
鉄扉が開き、
誰かが入ってくる。
その瞬間以降――
誰も見ていない。
あの夜、
子どもたちがどこへ消えたのか。
記録にも、記憶にも残ったのは、
空っぽになった牢房ひとつだけだった。




