67. 聖女クレセリア (せいじょくれせりあ)
黒い存在たちの視線は、
教会の奥へ向いた。
ライネルも振り返って目を凝らすと、
教会の中央に赤く飾られた“何か”が目に入った。
「···あれは···」
光を宿したように、淡くきらめく赤い石。
小さいのに、存在感だけは圧倒的だった。
その瞬間、
黒い存在たちが一斉に顔を上げ、
ライネルを掠めるように通り過ぎて動き出す。
「···まさか···」
ライネルは一歩退き、
自分を通り抜けて教会の奥へ向かう彼らを見つめた。
狙いは明白だった。
自分ではない。赤い宝石だ。
宝石へ向かい、
黒い存在たちは無言のまま近づく。
ぞくり、と全身に鳥肌が立った。
目で“確かに”感じ取れた。
(···あいつら···あの宝石を奪うつもりだ···)
宝石の前に到達した黒い存在の一体が、
ゆっくりと手を伸ばした。
すると――
しゅる···!
教会の内側で、何かが歪む音が広がった。
空気が裂け、光がねじれ、
すべてが止まったような感覚。
そして
その石が、弱く震えた。
ぶるる··· ぱちっ。
誰かの手を拒むように、
赤い光が一瞬だけ広がって、すぐ消える。
「···拒否···?」
ライネルが小さく呟く。
黒い存在は再び手を伸ばした。
だが今度は――
石の周囲を流れていた魔法陣が反応し、
黒い存在の指先を押し返した。
ぱちぃん!!
小さな爆ぜる音とともに闇が弾け、
黒い存在は一歩、後ろへ退く。
ライネルは息を殺し、その光景を見て理解した。
「···この石は···誰にでも反応するわけじゃない」
何かを、
この石は“覚えて”いる。
誰かを。ある条件を。
そして、それを守ろうとしている。
その時だった。
教会の床が、ぶるぶると震え、
赤い石から再び光が滲んだ。
その光は
静かに、ゆっくりと
ライネルの方へ伸びてくる。
「···俺を···認識したのか?」
ライネルの瞳が見開かれる。
黒い存在たちも同時に顔を向けた。
今度ははっきりと、ライネルを見ていた。
伸びてきた光は、
ライネルの手首にはめられた腕輪に触れた。
その瞬間、
腕輪が静かに反応し始める。
最初は、かすかな震え。
やがて確かな鼓動。
そして、強い光。
「···これは···」
ライネルは手首を持ち上げ、見つめた。
腕輪に刻まれていた紋様の隙間から、
赤い文様がゆっくり浮かび上がっていく。
ぱち··· ぱち···
隠されていた魔力が目覚めるみたいに、
腕輪と教会中央の石の間に、
光の線が形づくられた。
その線は宙をなぞるように滑らかに繋がり、
結び、交わり、また流れる。
二つの魔力が互いを認識していた。
教会の内部が、赤い光に染まり始める。
すべてが静まり、
時間さえ遅くなったようだった。
その中で
黒い存在たちが再び動き出す。
そして突然、
自分を囲む世界が砕けるように割れ、
欠片となって地へ落ちた。
一瞬で、
周囲は暗い神殿の内部へ変わっていた。
「くっ···」
急激な変化に意識が揺れ、
ライネルは頭を押さえてよろめく。
光は消え、
かすかな蝋燭の灯りと、奇妙な文様の刻まれた石柱だけが
周囲を淡く照らしていた。
その時、
どこかから柔らかな声が響いた。
「···聞こえますか?」
ライネルは顔を上げ、
声のした方を見た。
そこには光で形作られたシルエット。
白い衣の裾が滲むような輪郭が立っていた。
顔ははっきりしない。
だが、女性だということは感じ取れた。
「···あなたは誰ですか?
俺はなぜここに。……それに、今まで見てきたものは···」
混乱した目で問いかけるライネル。
彼女は静かに頷き、言った。
「混乱されるでしょう」
シルエットはゆっくり、慎重にライネルへ近づく。
足音のしない歩み。
目の前まで来た瞬間、
光の隙間から、彼女の顔がかすかに浮かんだ。
ライネルは息を呑む。
「···あなたは···クレセリア?」
絵でしか見たことのない聖女。
ボブレ村の慈善神殿、その壁画に描かれていた存在。
彼女は静かに微笑み、頷いた。
「よかった。
その腕輪が、ついに···あなたの元へ渡ったんですね」
ライネルは驚いたように手首を見た。
赤い光が、ほんのわずかに反応している。
「これは···どういうことですか?
まさか···すべて、あなたの計画だったんですか?」
「計画だなんて、過分です」
クレセリアは薄く笑みを含んで言った。
「私は三百年前、魔王と戦った後に
もうこの世から消えた存在です」
「それなのに···今、こうして目の前に···」
ライネルは信じられないというように、言葉を途切れさせる。
「一般には“思念”と呼ぶのでしょう。
でも私は、それよりも···私の意志の残滓、と表現したい」
「意志の···残滓···」
ライネルは少しずつ呼吸を整えながら、
状況を頭の中で組み立てていく。
「···つまり、
俺はあなたが残した何らかの力でこの世界へ引き込まれ、
あなたは生きてはないけれど、
その残滓で俺とこうして会話している···
そういうことですか?」
「そうです。
とても上手に理解されていますね」
クレセリアの微笑みは、悲しくて、温かかった。
「私は最後の瞬間、
聖石の光を一筋だけ切り取り、腕輪に封じました。
それを···誰かが見つけてくれることを願って」
「その誰かが、あなたであってほしいと」
ライネルは重く唾を飲み込む。
「···俺がどんな人間かも分からないのに、
そんなものを託すつもりだったんですか?」
「それを決めたのは私ではありません。
腕輪が選んだのです」
短い沈黙。
神殿を満たす聖なる気配の中で、
二人は互いを見つめ合った。
「なぜ、今のあなたの前に私が現れたのか。
それを知りたいのでしょう?」
ライネルは言葉なく、ゆっくり頷いた。
「“始祖の宝石”をご存じですか?」
「···最初の魔法使いが、魔族に魔法を学び、
人間界へ戻る時に持ち帰った宝石だと···」
「その通りです。……ですが、真実は少し違います」
クレセリアは静かに息を吐き、続けた。
「その宝石は、魔界のものではありません。
神が世界を創る際、
“均衡”のために自らの力の一部を込め、
それぞれの世界へ分けたものなのです」
「···神の力···」
「その力が宿る宝石は、
魔法の根であり、各世界の秩序を司る核となりました」
ライネルの瞳が小さく揺れる。
「三百年前。
魔界は、その力の正体を知っていました。
彼らは均衡を崩し、
力で世界を支配しようとした」
「···そして、あなたたちが止めた···」
クレセリアは静かに頷いた。
「ええ。私たちは···
すべての宝石が一つに集まる直前、魔王を止めました」
「そして二度と彼らが力を取り戻せないように、
魔界を除くすべての世界へ宝石を散らし、隠したのです」
「···それなのに、なぜ今···?」
「時間が経ち、
そのうちのいくつかが人間の手に渡りました」
「人間たちはその力を理解できないまま、
魔族と接触し始めた」
ライネルは目を閉じた。
さっき見た平原。燃える教会。黒い存在。
欠片が、一つずつ噛み合っていく。
「宝石は···魔界へ流れ込んでいる」
「そうなることを予想していた私は、死ぬ前に
そのうちの一つへ魔力を残しました」
彼女の視線が、
ライネルの腕輪へ落ちる。
「あなたが今、腕に着けている腕輪。
そこに埋め込まれた石。
それが“始祖の欠片”です」
「···この腕輪が···そんなものだったなんて···」
ライネルは動揺した目で手首を見つめた。
赤く光る宝石が、
まるで内側を叩いてくるみたいだった。
「そして私の意志が宿る残滓でもあります」
「···あなたの思念···いや、残された意志···」
「世界へ警告を伝え、
真の適任者へ、その力が届くように」
クレセリアは静かに手を組み、
ライネルの目を正面から見た。
「あなたは――元々、魔族でした」
その言葉に、
ライネルの表情が固まる。
「魔族でありながら、誰よりも魔族を憎み、
魔族でありながら、人間になりたいと願い、
そして魔族でありながら、共存を選んだ。……あなたの前世」
その言葉が届いた瞬間、
ライネルの記憶のどこかが、ひり、と鳴った。
説明しづらい感情が、
胸の奥からゆっくり押し上がってくる。
「···それが···俺だと···?」
クレセリアは静かに微笑んだ。
「それは、あなたがやがて知ることになります」
「ですが、まだ――
あなたは不安定です」
「···不安定?」
「前世と現世がぶつかる、この時点で
あなたの魂は、まだ境界に立っているのです」
ライネルは目を見開いた。
「私はただ、
あなたの決断を助けられるよう力を残しただけ」
「何を選ぶかは、あなた次第です」
「そして、あなたの“半身”は目覚めようとしています」
「完全な力を手に入れるため、
必ずあなたを探しに来るでしょう」
「その時、
あなたがこの腕輪の意志を受け入れる準備ができているか」
「あなたが本当は誰なのかを、
自分で証明しなければなりません」
「···オルタ···」
ライネルがその名を口にした瞬間、
聖女の瞳が、ほんのわずか揺れた。
「···彼をご存じですか?」
「···かすかに、覚えています」
ライネルは唇を噛み、頷いた。
「···もしかすると、もう会っているのかもしれない」
その時、
神殿の床がゆっくり揺れ始めた。
空間が唸り、
天井が波打ち、光が降り注ぐ。
「時間が来たようですね···」
クレセリアは最後にライネルへ近づき、
静かに彼の額へ手を置いた。
「赤い光が導く場所へ行きなさい」
「そこであなたは、
もう一つの真実と向き合うことになるでしょう」
そして、小さく付け足した。
「忘れないで、ライネル」
「本当の力とは、
何を壊せるかの能力ではなく――
何を守れるかという勇気から生まれるのです」
彼女の指先が、ゆっくり光へ変わっていく。
きぃん。
鏡が砕け散るような鋭い音とともに、
神殿の空間が割れていく。
天井が裂け、床が沈む。
光の隙間へ、ライネルの身体が吸い込まれるように――
すべてが欠片となって散った。
「待ってください、もっと詳しく···!」
ライネルは手を伸ばしたが、
クレセリアの姿は蜃気楼のように揺れ、
目の前でゆっくり消えていく。
彼女がいた場所には、
温もりすら残らなかった。
「···クレセリア···」
空の神殿の中心に、ひとり立つライネル。
彼はしばらく息を整えた。
赤い腕輪は、まだ淡い光を宿していて、
その中に残った残響が耳元にまとわりつく。
――赤い光が導く場所へ。
「···オルタ···」
ライネルはその名を、低く呟いた。
記憶の隙間から飛び出してくる、
暗く、冷たい存在。
確信は持てない。
だが名前を口にするたび、
体の内側で、ぞっとするものが首をもたげた。
その瞬間。
足元から風がうねり、
空間全体が再び揺れ始めた。
「何だ···?」
天井が裂け、
地面が崩れるように沈んでいく。
ライネルは反射的に腕輪を握りしめた。
強烈な閃光が視界を覆う。
ぱちっ。
目の前が暗くなった時、
ライネルは荒く息をしながら、
泥だらけの湿地の上で膝をついて目を開けた。
「···ここは···」
濡れた服。湿った空気。
そして、なお淡く光る腕輪。
周囲は再び、泥と闇の濃い湿地。
砕けた骸骨と、燃え残った魔力の痕跡が散らばっていた。
「···アイラ···モネロ···」
ライネルは顔を上げ、周囲を探した。
その時、
泥濘の向こうから、聞き慣れた声が届いた。
「ライネル!!」
血まみれのまま、
息を切らして駆けてくるアイラの姿が視界に入る。
「無事で···本当に、よかった···」




