65. 黒い胎動 (くろいたいどう)
「あっ、足がずぶずぶ沈んで、全然スピード出ないんだけど!」
アイラは泥をかき分けながらぶつぶつ言った。
「いったい、どこまで行けばいいの?!」
「カミが、あそこまで行けばいいってさ!」
モネロが前方を指さす。
「敵がここまで追ってくるって分かってたなら、
先に“攻撃するな”って言っとけよ!」
肩の上でカミが、しれっと言った。
「それがな……
お前らの実力がどれくらいか、見てたんだよ。
ちょっとだけ、目を離したっていうか……」
「で、あいつらの数、どれくらいなんだ?」
モネロがちらりと後ろを見て尋ねた。
カミは少し言葉を濁す。
「知らん。……正直、ここまで来たのは俺も初めてだ……」
「はぁ!?」
アイラの目が大きく開いた。
「それ、なんで今言うの?
このまま拘束、かけ直そうか?」
アイラは指先に魔力を集めながら言う。
カミが小さくぼやいた。
「それでも……逃げられそうな場所は教えたじゃん……」
ライネルは息を整え、前方へ視線を向けた。
「とりあえず、あっちで状況を見よう」
だが、その瞬間だった。
これ以上、前へ進めない。
「……なんだよ、これ……」
モネロが両手を握り込み、目の前へ――どんっ、どんっ、と拳を叩きつけた。
なのに。
振り抜いた拳は、
見えない壁に引っかかったように途中で止まった。
ごん。
硬い何かに当たった音だけが、乾いた空気に返る。
「どうしたの、モネロ?」
後ろから来たライネルとアイラが、慌てて止まる。
モネロは汗を拭い、周囲を見回した。
「ま……待て。
これ、なんかおかしいぞ……」
掌を開き、壁を探る。
冷たくも熱くもない。
だが確かに“塞いで”いる。
「……何かが、俺たちの前を塞いでる」
「え……?」
アイラが驚いた目で聞き返す。
「カミ! これ、どういうことなの?!」
カミは視線を逸らすみたいに、別の方を見た。
「……まずいな、これ」
ライネルは迫ってくるスケルトンの群れの気配を感じ、素早く頭を回した。
「とにかく……少しでも高い場所を探して動こう」
ライネルが横を指す。
「骨どもに囲まれたら……安全は保証できない」
「賛成! 賛成!!」
アイラが手を高く上げた。
「あんな気持ち悪い骨の塊と、近くにいたくない!」
肩の上のカミが呆れたように言う。
「人間ども。ここは湿地だぞ。
高い場所なんてあると思うのか?」
「でも……湿地でも、
少しぐらい高い地形はあるかもしれないだろ」
ライネルが慎重に言う。
カミは疲れたようにため息をついた。
「呆れた……
こんな所で沼に沈まないだけでも御の字だ」
そのとき、アイラがぱん、と手を叩いた。
「じゃあ、この辺で一番低い場所ってどこ?」
カミが目を細めて聞き返す。
「なんだ? そこに落ちて死ぬ気か?」
「ほんと、言い方がいちいちムカつくんだけど?
叱られたい?」
アイラが拳を握ってカミを睨む。
「違うよ。高い場所に行けないなら――」
アイラが口元を上げた。
「下に落とせばいいじゃん。あいつらを」
ライネルも短く頷く。
「……悪くない」
だがカミは両翼をばたつかせ、叫んだ。
「はぁ……お前ら、俺の話をどう聞いてたんだよ!
マッド・ドラゴンの領地の近くなら多少分かるが、
ここは俺も詳しくないって言っただろ!」
カミは大きく息を吐いて、もう一度言い切った。
それでも。
三人の視線は自然とカミに集まった。
「マッド・ドラゴンなんだろ?」
モネロが目を細める。
「なら、ちょっと時間あるうちに、この区画をさっと調べりゃいいじゃん」
「それは――」
カミは言いかけて口を閉じた。
この状況で、他に手がない。
カミ自身も分かっていた。
「……分かった。
まだ少しは時間があるっぽいし、探してくる。
お前らはここで動くな」
そう言うとカミは、
泥の上で体を低くし――
ずぶっ。
沼に吸い込まれるみたいに沈んで消えた。
「カミ、お願い!」
アイラが本気で叫ぶ。
モネロが嫌な顔でぼそりと言った。
「まさか……一人で逃げたとかじゃねえよな?」
「まさか〜」
アイラは肩をすくめる。
「拘束もかけてあるし……」
言い終わる前に、ライネルが静かに言った。
「……あ、そうだ。距離が離れると解けるんだ」
アイラが固まった。
「……え?」
ライネルがアイラを見る。
「どういうこと?
拘束魔法、完全に習得してなかったの?」
「違……それは、できてるんだけど……」
アイラの声がだんだん小さくなる。
「距離が離れると自動で解けるの……忘れてた」
唇を尖らせ、今にも泣きそうな顔。
「状況が急だったから、つい……送り出しちゃったし……
最近、ステイラー様の屋敷で覚えたばっかで……
実戦も、今回が初めてだったし……」
ライネルは一瞬、笑いそうになって、すぐ堪えた。
そして短く言う。
「うん。落ち込むな、アイラ。
こうやって一回ずつ使って、慣れていくんだ」
「次はもっと完璧に使える。元気出せ」
アイラは頷いたが、表情はなかなか戻らない。
その様子を見たモネロは、何か言いかけた顔で黙り込んだ。
「モネロ、どうした?」
ライネルが聞く。
「カミを行かせたことで怒ってるのか?」
モネロは首を横に振る。
「いや……そうじゃなくて……」
霧の向こうをじっと見て、低く言った。
「俺たち、ここで待ってていいのか?」
ライネルとアイラが同時に彼を見る。
「カミが裏切らなきゃいい。
でも、もし……本当に裏切って逃げたら?」
軽く投げた言葉じゃない。
「俺たち、ここで動かないのって……
死ぬのを待ってるのと同じじゃねえか?」
すぐには答えが出なかった。
スケルトンの群れの気配が、確実に近づいている。
ライネルは霧の向こうから滲む不吉な流れを感じて言った。
「……じゃあ、一回ぶつかってみるか?」
アイラとモネロが同時にライネルを見る。
ライネルは一度、息を吸った。
「いけるか?」
モネロが高揚した顔で答える。
「やろうぜ。
三人で力を合わせりゃ、何とかなるだろ」
言い方は軽い。
でも中には、確かな信頼が入っていた。
「ライネル」
アイラが静かに言う。
「私たち……ステイラー子爵の訓練場で、それなりに鍛えたじゃん。
今みたいに迷ってたら、後で何か言われるかも」
少しの沈黙。
ライネルが頷いた。
「……そうだな。やるか」
「よし! じゃあ出発だ!」
モネロが肩を回して体をほぐす。
泥が跳ねても気にしない。
アイラは首から下げた精霊石に指先を当てた。
「私は精霊の力で地形を探ってみる。
役に立つ場所、きっとあるはず」
三人は無言で視線を交わした。
そして不吉な気配が広がる方へ、
少しずつ、慎重に踏み出す。
◇
その頃。
正体の知れない迷宮の中。
「……俺たちを試す場所、ってことか?」
“漆黒の歌”のリーダー、リビエンが興味深そうに周囲を見回しながら言った。
「チーム単位で転移できたのは助かったな」
青いリボンの盗賊、ピナは落ち着いた顔で迷宮の壁に指先を滑らせた。
「壁面に残留魔力がある。
ただの転送じゃない」
同時に、赤いリボンのピアは懐からスクロールを取り出し、床へ広げた。
手際がいい。
まるで、こういう状況が初めてじゃないみたいに。
二人は地形と変数への備えを、
言葉少なに、淡々と詰めていく。
リビエンが満足げに笑った。
「準備はよろしいですか、可愛いお嬢さん方〜?」
彼は動かないまま、
迷宮のどこかを無言で見つめていた。
「……まあ、この程度なら
拠点にするには十分だろ」
リビエンが指を軽く鳴らした。
ぱちん。
その瞬間、迷宮を包んでいた闇が一気に押し退けられ、
眩い光が四方を埋め尽くした。
「うっ……」
光を浴びて崩れ落ちる一人。
目を押さえて床に座り込んだその男へ、
リビエンがすっと歩み寄る。
笑みを浮かべたまま、
彼は静かに膝を折った。
「おや、客人がいらっしゃいましたか?」
首を傾げ、穏やかな顔で声をかける。
「どなたです?」
だが、その存在は答えなかった。
ここから逃げようとするように体を起こし、
そっと姿勢を変えて動こうとした、その瞬間。
全身を絡め取る影。
いつの間にか、完全に包み込まれていた。
動けなくなった男は、
振り返って力を振り絞ろうとしたが――
無駄だった。
リビエンが静かに笑う。
「無駄ですよ〜。もう遅い。かわいそうに」
ゆっくり近づき、
動けない相手を指先でつんつんと突いた。
「私たちに協力してください。
でないと……殺しちゃいますよ?」
挑発に、縛られた男はにやりと笑った。
そして同時に――
どんっ!!!
凄まじい爆発。
黒煙が弾け、衝撃で迷宮の壁面が大きく傷ついていく。
リビエンはのんびりと衣装の裾を払った。
「紳士的ではありませんね」
平然としている。
「その程度で私がやられるはずがないでしょう?」
リビエンが背後へ言った。
「お嬢さん方、敵の位置は?」
赤いリボンのピアが無言で紙を一枚、リビエンへ差し出した。
「ありがとう〜。
では、少し行ってきますね」
リビエンは紙に掌を当て、魔力を吹き込む。
その瞬間。
彼の体が光に包まれ、
瞬きする間に消えた。
◇
転移を終えたリビエンは、
誰かの背後に静かに現れた。
「はじめまして。
ここにいらしたんですね?」
「……いや、お前がどうしてここに……」
相手は動揺を隠せない。
リビエンの声は相変わらず柔らかい。
「面白いことを企んでいるようでしたので?」
相手が余裕ぶって笑う。
「ははは。放っておいた方がいいぞ?」
「俺は今回の試験の試験官だ。
俺を殺したところで……得はない」
リビエンは頷いた。
「ええ……その通りです。
ですが、私があなたを殺したことを誰も知らなければ、問題にはなりませんよね?」
その言葉に相手の目が揺れた。
リビエンが一歩、距離を詰める。
「それに……あなたが魔族である以上、放置できません〜」
「……何だと? それをどうやって……」
相手は一歩退いた。
だがリビエンは笑みを消し、ゆっくりと間合いを狭める。
「最初に会った時点で、正体なんて大抵は滲むものです」
その表情に殺気を感じ、
相手は本能的に身をすくめた。
「貴様みたいな人間が、よくも……」
低く呟き、手に小さな刃を具現化する。
その瞬間、
額から角がせり上がった。
仮面を外した“本当の姿”。
「こう見えても、俺は王国のB級冒険者資格を持っている」
口元に浮かんだ笑みは、血より冷たい。
「C級ごときが、俺に勝てると思ったか?」
「お前は……知るべきでないものを知った」
気勢を上げ、リビエンへ突進する。
「つまり……
ここでお前の命は終わりだ!」
「分かるか? 矮小な人間!
今からお前の喉を裂いてやる!!」
瞬間――
刃がリビエンの腹を正確に貫いた。
感触は確かだった。
肉を裂き、何かを貫通する感覚。
だがリビエンの表情は、何一つ変わらない。
次の瞬間、血を吐いたのは――魔族の方だった。
「な……なんだ?!」
よろめき、後ろへ下がる魔族。
リビエンがゆっくり顔を上げる。
「残念ですね。
私は、そんなに甘くないんですよ」
「何を……した……?!」
血を流してあがく相手へ、
リビエンは感情のない声で言った。
「どうせすぐ死ぬあなたに、
わざわざ説明する理由はありませんが?」
リビエンの腹には、
空間を貫くような円形の光が留まっていた。
そしてその光は――
魔族の背にも、同じように浮かんでいた。
そこでようやく、魔族は状況を理解する。
「……この野郎……空間を使う能力が……」
リビエンが薄く笑った。
「正解。あなたが刺した先は……あなたの背中です」
「あなたも魔族だとバレると困るでしょう?
私も能力を大勢に知られると困るんですよ」
リビエンは人差し指を軽く立てた。
「だから……口封じです」
言葉を切って、ほんの少し首を傾げる。
「さあ」
「あなたは、これから……消えます」
そして柔らかく付け足した。
「準備はよろしいですか?」




