64 周辺界 (しゅうへんかい)
小さな拘束の魔法陣がトカゲの背に赤く刻まれたまま、
カミはアイラの掌の上でまだもぞもぞと動き、ぶつぶつ文句を言っていた。
やがて短く息を吐き、ぼそりと呟く。
「分かったから……終わったら、この魔法を解くって約束しろ。いいな?」
アイラはぱっと笑って頷いた。
「もちろんだよ、カミ。
私たちだって好きでやってるわけじゃないし。
ちゃんと協力してくれたら、すぐ解いてあげる」
小さな竜の目が一瞬揺れ、
諦めたように首を垂れた。
「……ちくしょう、なんだよこれ……」
アイラはそんなカミをそっと持ち上げ、
自分の肩にふわりと乗せる。
「元気出して、カミ。これからよろしくね!」
肩の上でバランスを取ったカミが、小さな声で言った。
「……ところで、人間ども」
「ん?」
「この湿地に、どうやって来た?
ここでいったい……何をする気なんだ」
アイラは肩をすくめて言い返す。
「それ、こっちが聞きたいんだけど?
あなたこそ、ここって何の場所で、なんで一人でいたの?」
カミは少し迷い、低い声で答えた。
「……父上を待っていた」
「父上?」
ライネルとモネロが同時に反応した。
「そうだ。
父上はこの湿地の真の支配者。
偉大なる竜族の血を引く者で、この地の守護者だった」
誇りを滲ませる口調。
だがその奥に、どこか不安が混じっていた。
「けれど……数日前、“少し行ってくる”と言って出てから、
まだ戻らない。
それに、あの日から……この沼がだんだんおかしくなっていった」
モネロが静かに訊く。
「何の用で出ていったんだ?」
カミはその瞬間、口をきゅっと結び、
視線を少し逸らした。
「……向こう側で……いや、いい。やめた。
お前らが知ってどうする」
「ちぇ〜」
アイラが唇を尖らせ、いたずらっぽく笑う。
「そう出るなら……もっと優しくしてあげようかな〜?」
小悪魔みたいな笑みに、カミはびくっとして小さな体をすくませた。
「そ、そんな必要はない!
ただ……言わないだけだ!!」
カミが言い返している間に、
アイラの足がふと止まる。
「……ん?」
ライネルとモネロも同時に緊張した。
「シッ。静かに」
ライネルが手を上げて制した。
そして――
目の前。背の高い草むらの隙間から、
重たい影がぼんやりと姿を現す。
うつむいたまま、よろよろ歩く何か。
踏み潰されたような皮膚、醜くねじれた腕。
一歩ごとに泥が落ち、腐臭がじわりと漂う。
その瞳の奥では、
奇妙に瞬く緑の光。
「……あれは……」
モネロが歯を食いしばって言った。
「アンデッドだ」
◇
霧の中。
泥の上に、ゆっくり響く――とつ、とつ、
奇妙な足音。
音の主は――
腐って崩れた肉片。
隙間から覗く骨と、黒く腐敗した筋肉。
何かを探すように、空っぽの眼窩で虚空を撫でる、
動く骨の怪物。
スケルトン。
「……ここ、どこだよ……」
モネロが小さく呟き、周囲を探った。
異質な沼の景色に、額に汗が滲む。
アイラは不安そうに、
肩の上のカミを見下ろした。
「カミ! なんでここに、あんなアンデッドがいるの?」
だがカミはすぐには答えず、
スケルトンを見据えてから短く言った。
「たぶん……あいつらだ」
「え?」
アイラが目を丸くして訊き返す。
「“あいつら”の根を断つために、
父上が沼の外へ出たんだ。
それが……最後に聞いた話だ」
ライネルが周囲を見回しながら言う。
「それにしては……ここ、君以外の“トカゲ”が見当たらないけど?」
その言葉にカミがむっとして叫んだ。
「トカゲじゃない!
マッド・ドラゴン(Mud Dragon)だ! ちゃんと呼べ!!」
モネロが口の端を上げて茶化す。
「マッドだろうが何だろうが……
見た目、ただの可愛いトカゲと大して変わらねえしな」
「そ、そんな言葉で我が威厳は削れん……!」
カミは悔しそうに背をぶるぶる震わせ、翼をばたつかせたが、
拘束の反応にびくっと固まった。
少しして、カミは目を細めて言う。
「それと、今ここは俺たちの種族の区画だ。
奥へ行けば、同胞にも会えるだろう」
口調は落ち着いていたが、どこか苦い。
「でも……数は多くない。
ほとんどが深い沼の中で暮らしてる……外には出にくいはずだ」
そして三人を疑う目で見て、付け足す。
「なあ……まさかお前ら、
俺たちの領土を狙ってるんじゃないだろうな?」
「何言ってんの、カミ」
アイラは呆れたように笑った。
そのとき、スケルトンの動きを見ていたライネルが短く言う。
「試験だ」
カミがばっと顔を向ける。
「……は?」
「試験」
ライネルはスケルトンに視線を固定したまま続けた。
「俺たちは王都冒険者学校の入学試験を受けに来た。
で、この沼が……試験場ってことだ」
カミは信じられない顔で首を振る。
「意味が分からない……。
ここは人間が勝手に入れない“周辺界”だ。
そんな場所で……試験をするって?」
「……周辺界?」
アイラはゆっくり顔を向け、
肩の上の小さなドラゴン――カミを見る。
「ここ、本当にその“周辺界”なの?」
カミは少し間を置き、重たく頷いた。
「そうだ。正確に言うなら……
人間界でも魔界でもない、その狭間にある異質な空間」
「……忘れられた生命と、忘れられた記憶が幾重にも積もる場所だ」
カミの声には、はっきりと緊張が混じっていた。
「そんな場所で人間が……試験?
あり得ないだろ」
呆れたような目。
その間にもスケルトンは、
虚空を探る腕を伸ばしたまま、のろのろと近づいてくる。
「お前らみたいなガキを試すために、ここへ送るとか……筋が通らない」
カミが低く呟いた。
目には疑いが濃い。
「もしかして……悪意ある奴が、わざとお前らをここへ放り込んだんじゃないのか?」
その言葉にモネロが即座に返す。
「何言ってんだ。周辺界だか何だか知らねえけど……」
腰に手を当て、首を振った。
「ここへ来る前に試験官から聞いたんだよ。
“三日間、生き残れ”ってな。
自分の意思かどうかは知らねえ。
気づいたら……ここだった」
カミは首を振り続けた。
表情がどんどん複雑になる。
「待て、それはおかしい」
声が落ち、口調が一段硬くなる。
「純粋な人間が周辺界へ人を送る?
世界は本来分かれている。移動なんて簡単じゃない」
少し間を置き、静かに付け足す。
「ここは魔界と人間界の裂け目の上に成り立ってる。
片方の界から、勝手に近づける場所じゃない」
カミの言葉は重かった。
禁忌を口にしているみたいな響き。
「もし人間がこんなふうに入り込めたなら……
内側から何かが“許した”ってことだ」
「人間界に潜む魔族が関与していたら……可能かもしれない」
その言葉に、三人とも一瞬黙った。
霧と泥の匂いだけが静かに漂う。
モネロが低く言う。
「何にせよ……試験だろうが試練だろうが、
今やることは一つだ」
顎でスケルトンを示す。
「こんな危ねえ場所で生き残る。
それだけだ」
アイラがライネルを見て訊いた。
「ライネル、どうする?
倒しちゃう?」
ライネルは静かに頷いた。
「……俺がやる。少し下がってて」
言い終えると、前へ踏み出す。
柔らかく――けれど確実に。
さぁぁぁ……
膝まで伸びた草をかき分け、
ライネルの体が暗がりへ溶け込んだ。
その瞬間、
彼の両目に青い光がゆっくり宿り始める。
ずる……ずる……
腐った泥を引きずりながら近づく骨。
空の眼窩で淡い緑が瞬き、
ねじれた腕が、すでに前方を捉えていた。
「鬱陶しいな」
モネロが顎を撫で、一歩前へ出る。
「アンデッドは打撃に弱い」
軽く手を握り、言った。
「俺が行く」
ライネルはモネロをちらりと見て、頷く。
「なら……動きを縛る」
ぱちり。
ライネルの瞳に青い念動の光が揺れる。
掌を前へ出すと、空気に魔力が凝縮された。
「今だ」
その合図と同時に――
ひゅん!
見えない圧が、透明な筋のように伸び、
スケルトンの身体を締め上げた。
かちん。
奇妙な音とともに、スケルトンがその場で固まる。
ねじれた腕が止まり、踏み出した脚が引っかかった。
「よし」
モネロはそのまま駆けた。
とん、とん、たっ!
泥を強く蹴り、跳ねるように距離を詰める。
一気に近づくと、低く体を捻り――
「はあっ!!」
どんっ!!
初撃は右脚のローキック。
膝関節がぐき、とねじれ、骨の塊が横へ崩れかける。
次の瞬間。
どん! どん! ぱんっ!!
左右の連打が胸郭、顎、脇腹へ続けて突き刺さった。
強打が骨格を揺らし、
ひび割れた背骨に沿って亀裂が走る。
「終わらせる」
最後にモネロは高く跳んだ。
空中で半回転し――
どんっ!!!
スケルトンの頭へ膝を叩き込む。
ばきっ――かきん!
頭部が砕け、
泥の上に骨が散り散りに弾け飛んだ。
気配が消える。
後ろで見ていたアイラが、からかうように言う。
「二人、けっこういいコンビじゃん〜」
カミは肩の上で身を縮め、ぼそりと呟いた。
「人間のくせに……意外とやるな……」
だがスケルトンを一体粉砕した瞬間、
湿地の霧が、ふっと揺れた。
どんっ。
砕けた骨が泥に刺さる音が響いた、その瞬間――
さく、さく、さく……
どこからか続けて聞こえる、
乾いた骨が擦れ合う音。
ライネルが目を細める。
「……気配が……増えてる」
視線が霧の向こうへ移った。
モネロが手をぱんぱんと払って言う。
「なんだよ、もう一匹か?」
だが一匹ではなかった。
とつ、とつ……かつ、かつ、さく……
四方から、霧を割って現れる骨の群れ。
腐肉がかろうじて残るもの。
完全に骨だけのもの。
背に怪しい鱗片が貼りついたものまで。
数は数十、いや、それ以上。
「……ちょっと、これ多くない?」
アイラが見上げて呟く。
モネロは焦るどころか、目を輝かせた。
「いい。来い。全部まとめて砕いてやる」
しかしその言葉に、カミが肩の上で跳ね起きて叫んだ。
「やめろ! ダメだ、絶対ダメ!!」
モネロが眉を寄せる。
「何がだよ。あいつら全部壊せばいいだろ?」
「脳筋! そんなことしたら沼全体が反応する!」
ライネルが口を引き結び、訊く。
「……どういう意味だ?」
「この湿地は“古代の結界”の上に作られた空間なんだ。
一定以上の戦闘が起きると、
この中に眠ってるものが目覚めるかもしれない……」
モネロは惜しそうに腕を組んだ。
「はぁ……せっかく体が温まったのに――」
カミが荒く怒鳴った。
「今はお前の準備運動なんかどうでもいい!!
とにかく移動しろ!!」
アイラがライネルを見る。
「まずは……下がろう。方向は?」
ライネルは少し黙ってから言った。
「向こうだ。霧が一番薄くなってる」
モネロは不満を隠さず拳を握り、
それでも頷いた。
そして背後から――
数十の骨の足音が、
泥を踏みながら追ってくる。




