63. 沼の竜 (ぬまのりゅう)
その瞬間。
広場の床に淡い光が滲み、
幾重もの魔法陣があちこちに刻まれ始めた。
ウィィン……
足元から伝わる奇妙な振動に、
冒険者志望たちは驚いて視線を落とす。
「な、なんだこれ?!」
「魔法陣……? まさか罠?!」
「もう帰る! 出る前に契約書とか書いてないだろ!!」
悲鳴を上げる者。
狼狽して背を向け、逃げようとする者。
押し合いへし合いの混乱。
広場はあっという間に修羅場みたいになった。
そのとき。
とん。
壇上で、赤いマントの女が静かに一歩前へ出た。
「…………」
一瞬の沈黙。
そしてヘレニアは両手を頭上へ、ゆっくり持ち上げる。
「アンカー・テレポート(Anchor Teleport)」
彼女の口から術式が放たれた瞬間――
すべての魔法陣が同時に光を放ち、立ち上った。
「うわっ――?!」
「ま……待って!!」
光が身体を包む。
何かに吸い込まれるみたいに、一人、また一人。
すっ――
すっ――
すっ……
冒険者たちが次々と消えていく。
痕跡も、叫びも残さずに。
ほどなくして。
がらんとした広場。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、
音一つない静けさが広がっていた。
壇上に残っていたのは二人だけ。
ヘレニアと、その傍らを守る男。
男は静かに彼女を見つめ、慎重に口を開いた。
「……何をお考えで?」
ヘレニアは答えない。
遠い空をわずかに見上げ、
赤く結んだ髪が風に揺れた。
「……何でもないわ」
そして、ほとんど聞こえない声で、
独り言みたいに零す。
「……少なくとも、まだ」
◇
「え……なにこれ……何も見えないじゃん!」
最初に聞こえたのはアイラの声だった。
むせるように湿った空気の中で響く叫び。
確か……広場にいたはずなのに。
目の前は、暗い霧で埋め尽くされている。
「どうなってんの……? 何が起きたの……?」
モネロも手探りするように周囲を見回し、
動揺を隠せない。
ざぁぁぁ……
陰気な気配が、濃い湿気と一緒に肌へ貼りつく。
息を吸うたび、喉の奥にねっとりした感覚が残った。
「……ねえ、ライネル! そこで何してるの!」
霧を裂くように聞こえるアイラの声。
気配を頼りに、彼女は一歩ずつ慎重に進む。
そして。
すぅぅぅ……
ふいに霧が、ゆっくりと引き始めた。
現れた景色は、想像を軽く超えていた。
果てしなく広がる灰色の湿地。
根こそぎ持ち上げられたみたいに倒れた枯れ木。
ところどころ泡を吐く泥の水たまり。
奇妙な鳴き声を上げながら空を横切る怪鳥。
「……こ、これ……なに……」
アイラとモネロは同時に言葉を失った。
「俺たち……どこかに飛ばされたみたいだ」
ライネルが周囲を見渡しながら言う。
「え? まさか……これがテスト?」
アイラが信じられない顔で訊いた。
「たぶん」
ライネルは短く答え、
湿地のどこかをじっと見据えた。
表情は普段よりずっと硬い。
目つきに、見慣れない緊張が宿っていた。
そのときだった。
さく……さく……
「……今の、聞こえたよな?」
モネロが拳を握りしめて言った。
湿地のどこかで、何かが擦れる音。
葉のない乾いた枝の間を、気配が通り過ぎる。
「……気をつけろ」
ライネルが低く言った。
次の瞬間。
「ここへ……どこだと思って足を踏み入れた!!」
ぶわん、と。
湿地の風に乗って響く、太く荒い怒号。
どこから聞こえたのかは分からない。
けれど、はっきりしていた。
今、誰かがこっちを“見ている”。
背筋に冷えが這う。
湿地の隅々に何かが潜んでいるみたいで、視線の届く先が全部気持ち悪い。
「……す、すみません! 私たち、来たくて来たわけじゃなくて……」
アイラが半泣きの声で言った。
だが震えで言葉が呑まれ、圧は少しも弱まらない。
その瞬間、ライネルが手を伸ばし、アイラの肩をつかむ。
そして短く手振りで警告した。
「シッ。黙って。位置が割れる」
「あ、あっ……!」
驚いたアイラは慌てて両手で口を塞いだ。
しばし、沈黙。
そしてまた。
「……さっさと消えろ!!」
雷みたいに叩きつけられる怒り。
声には露骨な殺気と、拒絶の意思が刺さっていた。
その瞬間。
とん、と。
モネロが思ったより早く前へ出た。
「モネロ!」
ライネルが小さく呼ぶ。
だがモネロは振り返らず、もう一歩踏み込む。
肩はびくりともしない。
「誰だか知らねえけど……人に向かってそんな怒鳴り方、ムカつくんだよ」
モネロの声は低く、硬かった。
「俺たちはケンカしに来たんじゃねえ。
ただ、何が起きてるのか知りたいだけだ」
言葉は、一切揺れずに刺さった。
すると霧の向こうから、
少し低くなったようで、それでも棘のある声が返る。
「ここは……俺たちの領域だ」
「これ以上一歩でも踏み込めば――
貴様らを“侵入者”とみなし、命を刈り取る」
ライネルは片膝を折り、視線を固定した。
「……これがテストだとしても」
低く呟く。
「殺されない保証なんてない」
アイラも小さく呟き、身を低くした。
モネロは短く息を吐く。
「……いい。じゃあ、確かめてやる」
ばさっ――
「さっさと消えろ!!」
また響く威嚇。
語尾が、ぞっとするほど尖っていた。
そして、その直後。
モネロが何かを察したように体をひねり、
突然、霧の中へ駆け出した。
「モネロ!」
ライネルが焦って呼ぶが、
モネロは聞こえないふりで、そのまま藪へ飛び込んだ。
ひゅっ。
二人も後を追い、足を速める。
「さっさとここから消え……ぐっ?! ……うぐっ!!」
さっきまで威勢よく響いていた声が、
唐突にぷつりと切れた。
「今の……止まったよね?」
アイラが目を丸くして言う。
そして。
藪をかき分けた先。
そこにあった光景は、
まったく予想していなかったものだった。
「…………」
モネロは無言で両手を前へ伸ばしていた。
その指先に、
小さな翼を持つ緑色の生き物が、身動きできないままぶら下がっている。
緑の鱗。
小さな角。
尾を振ってじたばたするそれは――
小さなトカゲみたいな……竜。
「え……こ、これ……それ?」
アイラが目を見開いて訊いた。
「……ああ」
モネロが断言した。
「こいつだ。さっきの声……全部こいつ」
「……は?」
ライネルが乾いた笑いを漏らし、膝を折る。
そしてトカゲをまじまじと見つめた。
その直後――
モネロの手の中で捕まったトカゲが、怒鳴り散らした。
「離せ!
我が名を知っているのか?! この大ドラゴン、“カミアモネ”に!!」
声は確かに……
さっきまで威嚇していた、あの声そのものだった。
「ぷっ……!」
アイラはついに口を押さえ、爆発しそうな笑いを必死に堪えた。
「だ、大ドラゴン……?」
ライネルが半信半疑の顔でトカゲを見る。
トカゲはじたばたしながら続けた。
「この姿では信じられんだろうが、
我は古き竜族の末裔! 本来はこの地の守護者……だった!
だが今は、少し……体調が悪くて……
小さくなっているだけだ!」
「体調悪くて小さくなったって……」
アイラはもう耐え切れず、笑い声を漏らした。
モネロは表情を変えず、
小さな竜を目の前まで持ち上げる。
「お前、さっき“殺す”って言ったよな?」
「く、くふん! それは……貴様らが無断で侵入したからだ!
我はこの地を守る守護者としてだな……!」
「じゃあ、その守護者ごっこは終わりにして。
これから何をすればいいのか、教えてくれる?」
ライネルが落ち着いて訊いた。
小さな緑の翼をばたつかせる自称ドラゴンは、
相変わらず尊大な声で暴れる。
「貴様ら、偉大なるカミアモネを――!!」
そのとき、ライネルが静かにアイラを呼んだ。
「それと、アイラ」
「ん?」
アイラが笑いを止め、顔を上げる。
「拘束の魔法、かけられるか?」
「うん、もちろん。
小さくて弱い個体だし、問題ないよ」
アイラは人差し指をゆっくりトカゲへ向けた。
指先に淡い魔力が凝縮され、
小さく精密な魔法陣が空中に描かれる。
しゅぅん……
魔法陣が形を成し、トカゲの身体を包む。
「ま、待て……な、なんだそれ――!」
ぱんっ!
魔法陣が素早く収縮し、
トカゲの背に拘束の刻印が焼きついた。
赤いルーン文字が甲羅のような背を伝い、鮮やかに光る。
「拘束、成功」
「な……なにをする!!」
トカゲが悲鳴みたいに叫んだ。
ライネルが、ふっと笑う。
「こいつ、この場所のことを何か知ってそうでさ。
ちょっと……助けが必要になりそうなんだ」
「うああああっ!! 卑しい人間どもめ!!!
貴様らはいずれ後悔するぞ!!
我は……この湿地の支配者にして――
偉大なる“カミアモネ・タルガウス・メトニカ”様だ!!!」
「……今、なんて言った?」
モネロが眉を寄せた。
「カ……カミア……なに?」
アイラは口を塞いだまま、また笑いを堪える。
トカゲは意地でもはっきり叫ぶ。
「カ・ミ・ア・モ・ネ! タ・ル・ガ・ウ・ス! メ・ト・ニ・カ!!
もう一度言ってやる!!
この湿地の名なき神、太古のドラゴン!
真なるこの地の主だ!! さっさと魔法を解け!!」
小さな翼が空をかき回すが、
拘束された身体は一歩も動けない。
「……動けもしねえのに、どこが“太古の神”だよ……」
モネロが短くため息をついた。
アイラは指先を払って言う。
「でもさ、ほんと可愛い〜。
放っておいたら、玩具にできるかも?」
「我は……玩具ではない!!!
この我は……貴様らを……!!」
荒々しく叫ぶが、
その姿はむしろ意地の悪いペットみたいだった。
アイラはライネルの隣へ寄って、一緒にしゃがみ込む。
そしてトカゲと目を合わせた。
「カミ〜、よろしくね!
私たち、ここで迷子になっちゃったんだよ……」
語尾に泣きそうな響き。
本当に今にも泣き出しそうな顔。
「それが我に何の関係がある!!」
カミがじたばた抵抗する。
だがアイラは、
眉を落として、ゆっくり顔を上げた。
目つきが変わる。
「……やめて」
短い一言。
その瞬間。
トカゲの背の刻印が赤く反応し、
光が全身へ広がった。
ざぁぁぁ――!
拘束の魔法が再起動し、
小さなカミの身体が完全に縛り上げられる。
「うぐぅぅ……!!」
手足をばたつかせ、
ついにぴたりと固まったカミ。
アイラは甘い笑みを浮かべて言った。
「いい子だね、カミ〜。
ちょっと助けてくれたら、解いてあげる。
私たちには本当に大事な用があるの」
カミは小さく震え、
やがて力なく頭を垂れた。
「……ちぇっ、仕方ない……。
ほんとにちょっとだけだぞ……。
約束、守れよ!」
「わ〜! ありがと、カミ!」
アイラはくるりと回って、上機嫌に立ち上がった。
ライネルが短く言う。
「じゃあ、とりあえず……この湿地を調べよう」
三人は周囲を見回し、
一歩ずつ慎重に動き始めた。
モネロは掴んでいたカミを、そっとアイラへ渡す。
「アイラが連れてろ」
「うん、任せて!」
アイラは掌にカミを乗せて言った。
カミは半目で、気だるそうに呟く。
(ほんと……卑しい人間ども……いつか……必ず……)
「ちゃんと協力してくれるよね、カミ?」
アイラはトカゲに向かって、にこっと笑った。




