6. 鉄格子の中の同盟(てつごうし の なか の どうめい)
湿っていた。
息を吸うたび、鉄の匂いが口の中に引っかかる。
ライネルは鉄格子の中に座っていた。
天井は低く、壁は石ではなく鉄の棒だった。
壁じゃなく、格子が空間を区切っている。
だからだ。
向かいの檻に座る子の姿が、かすかにでも見えた。
ここは普通の牢じゃない。
魔法反応のある子どもだけを選別して閉じ込める区画。
才能のある『モノ』を集め、管理するための場所。
そしてライネルの首には、
銀色の抑制具が嵌められていた。
うなじにぴたりと沿う抑制具は、
動くたびに小さく震え、
彼の魔力を根から締め上げた。
『···まるで力が入らない』
目を閉じて魔力を引き上げようとしても、
息苦しさだけが肺を押す。
抑制具は単なる制約じゃない。
意志そのものを折る装置。
ライネルは頭を預け、息を吐いた。
鎖は短く、
動きは腰のあたりで止まる。
ここで許されているのは、
息をすることと、考えることだけ。
それ以外の行動は、
すべて『使い道』次第で許可される。
「ねえ、聞こえる?」
闇の中で、静かに目覚めるみたいな声だった。
ライネルは顔を上げた。
首の抑制具が小さく震え、金属音を立てる。
「あなた、話せる?」
声は澄んでいて、揺らぎがない。
声の主は、向かいの鉄格子の向こう――
壁より少し高い位置に座っていた。
淡い照明石の光に浮かぶ耳の先が、
ライネルの視線を捉えた。
耳は尖っている。
でもエルフみたいに鋭く跳ね上がってはいない。
人間と異種族の境界、そのどこか。
中途半端な地点で止まってしまったような形。
乱れた金色の髪の隙間から覗く緑の瞳。
その眼差しは、黙ったまま人を引き込む。
純粋さの奥に刃があり、
異質な気配が滲んでいた。
十五歳くらいに見えるハーフエルフ。
そして――どこにも完全には属せない存在。
疫病が広がった村で、人々は理由より恐怖を選んだ。
不安の矢は、やがて彼女の血へ向けられる。
「この子のせいだ」
「その目、その耳···あいつのせいで村が病んでる」
魔女狩りが吹き荒れた夜、
両親はアイラを先に逃がした。
遠くへ逃げろ。エルペンシアで会おう。
それだけを残して。
アイラはまだ知らない。
自分の帰る場所が、もう消えたことを。
逃亡の途中で奴隷商に捕まったアイラは、
貴族の玩具になるはずだった。
けれど移送中、予想もしないことが起きた。
刃傷から流れていた血を、
少女は自分で癒した。
精霊系の治癒魔法。
指先が、自分を治す術を知っていた。
その才能が、少女の『価値』を塗り替えた。
ただの玩具から、
影に潜む組織の監視対象へ。
売るには惜しく、
放っておくにも惜しい存在。
それでもアイラは、まだ世界を信じている。
外のどこかで両親は生きているはずだ、と。
いつか迎えに来てくれるはずだ、と。
そしてその日まで。
自分の足で、ここから抜け出す方法を必ず見つける――と。
「私はアイラ。
あなたの名前は?」
ライネルは答えなかった。
ただ瞬きをする。
少女はむしろ小さく笑い、言葉を続けた。
「大丈夫。すぐ言わなくても。
みんな静かだし。最初はね」
声は柔らかい。
けれどどこか、決まり文句を唱えるような口調だった。
「ここ···たぶん、魔力を持つ子だけを閉じ込める場所だと思う」
アイラは格子にもたれ、静かに目を閉じた。
「逃げないように、首に抑制具も嵌めて」
その言葉にライネルは、
反射みたいにうなじを掴んだ。
冷たい鉄の感触。
「最初は私も、魔力が塞がれてるって分からなかった。
でも···私が使う精霊たちとの繋がりまで切れてたんだ」
アイラは息を整え、低く言う。
「その時、分かった。
これはただの封印じゃなくて、
『私』っていう存在そのものを断ち切る装置なんだって」
精霊。
その言葉に、ライネルの目が細く揺れた。
以前、保育院に来た冒険者が言っていた。
精霊系の魔法は、誰にでも扱えるものじゃないと。
稀な才能。
運命みたいに選ばれた少数だけが持つ力。
アイラはそれを隠そうともしない。
まるで大したことじゃないみたいに言う。
「···あなたは、なんでここに?」
ライネルが初めて口を開いた。
喉が乾ききって、声が掠れる。
アイラはすぐには答えなかった。
瞳が一瞬だけ、遠くへ行く。
「それは···ちょっと長い話。
あとで、機会があったら話すね」
少女はまた俯き、
ライネルは黙って彼女を見た。
「最初は、ただの監禁室だと思ってた」
アイラは格子の向こうを静かに見つめる。
「でもここは少し違う。
すぐ連れて行かれるわけでもないし、人もほとんど来ない」
言葉の終わりが低い。
「珍しい能力を持った子。
他へすぐ送れない···そんな子が集められてる場所だと思う」
落ち着いていた。
もう受け入れて、生き残る方法を長く考えてきた口調。
「逃げるつもりは···ある?」
アイラは静かに尋ねた。
まるで別の話題でも切り出すみたいに淡々と。
ライネルは答えなかった。
答える必要も、答える言葉も浮かばない。
アイラは軽く肩をすくめる。
「たぶん、みんな出られないって思うよね。
私もそうだったし」
少女の目は折れていない。
むしろ、硬く光っていた。
「ここの看守、夜はいつも机の前で居眠りするの」
ライネルの視線がわずかに動く。
アイラは小さく頷いた。
「机の上に、いつも鍵束を置く癖がある。
それがずっと気になってて···
ここに閉じ込められた初日から、ずっと見てたんだ」
「···鍵を盗むのか?」
「うん。盗めるかもしれない」
アイラは言葉を少し濁し、
かすかに笑った。
「手を伸ばすのは難しいけど···」
その一言に、妙な自信があった。
「代わりに手伝ってくれる友だちがいるの」
「···友だち?」
「このネズミ」
アイラはそっと手のひらを開いた。
その上に、小さなネズミが一匹乗っていた。
小さいけれど丸くて、
ちょこちょこと動く足先がやけに忙しい。
ふっくらした腹が少し揺れて、
丸い耳は小さな音にもぴくりと反応した。
アイラはそのネズミを、
まるで友だちみたいに丁寧に扱う。
ライネルは何も言わなかった。
けれど眉が、わずかに動いた。
本当に抜け出せるのか。
いや、本当にこの子は――
それを本気で言っているのか。
『逃げる』
その言葉が、湿った匂いの中に染み込む瞬間、
少しずつ形を変えた。
虚しい言葉じゃない。
静かな決意へ。
◇
それからライネルは、
少しずつアイラの動きを観察するようになった。
アイラは配膳のたび、
食べ残したパンの欠片を丁寧に残した。
小さな布切れに包み、隅に積み上げる。
「ネズミが一番反応するのは、
温かい匂いが残ってる食べ物なの」
独り言みたいに言う。
誰に聞かせるでもない自然さだった。
次は糸。
「丈夫じゃないけど、
軽くて柔らかいから引っ掛けるには困らない」
糸は乾いた藁と一緒に、
小さな結び目で編まれていった。
頑丈ではない。
でも軽いものを引き上げるには十分だった。
「大事なのはタイミング。
動くことより···待つこと」
ライネルはそれを見ながら、
唇を強く結んだ。
アイラは手のひらのネズミをそっと持ち上げ、
格子の隙間から向こうへ通した。
「この子にも、あなたの匂いを覚えさせて」
ライネルは少し迷った。
ネズミは見知らぬ手の前で鼻をひくつかせ、
慎重に彼の指の上へ前脚を置いた。
小さく丸い肉球。
ふっくらした体が手の上に乗った瞬間、
なぜか胸の奥が、静かにほどけるような気がした。
この子は、
ただ夢を口にしているわけじゃない。
落ち着いて、具体的に、準備している。
ネズミにそっとパン屑を差し出しながら、
アイラは顔を上げて静かに言った。
「私ひとりじゃ難しい。
···あなたも手伝ってくれるよね?」
それは命令でも、懇願でもない。
まるで――
もう一緒にやるって決まっているみたいに、当然の口調。
ライネルは黙ってアイラを見た。
手足はまだ鎖に縛られているのに、
心のどこかが、初めて少し緩む気がした。
いつからか、
彼はこの計画が失敗すると決めつけなくなっていた。
いや。
もしかしたら成功するかもしれない――
そんな考えが、初めて頭に入った。
◇
その夜はやけに静かだった。
看守はいつも通り、
机の前で頭を垂れて眠り込んでいる。
横には無造作に積まれた鍵束。
そして――
アイラの手のひらには、ネズミが静かに乗っていた。
小さな身体が微かに震える。
それでもネズミは逃げない。
手首に結んだ一本の糸。
その先は藁で撚った細い紐に繋がっている。
ライネルは格子に身体を寄せた。
アイラと目が合う。
少女はそっと頷いた。
「今だよ」
アイラは慎重に手を前へ伸ばした。
ネズミは少し迷ってから、
鼻をひくつかせて床を伝い、外へ出た。
角という角を知っているネズミは、
見張り台の下へ滑り込むように入っていく。
小さな足が机の脚を伝って登っていく間、
ライネルは無意識に息を止めていた。
机の上。
パン屑がひとつ。
ネズミはそれに身を屈め、
糸がゆるく揺れる。
大きな鍵の輪が床に触れていて、
ネズミはその間を迷いなく抜けた。
その瞬間、
背中に結んだ糸が輪の内側をかすめ、
軽く巻きつくように引っ掛かった。
――カチッ。
鍵束のひとつが、わずかに動いた。
ネズミはそのまま、
ライネルが檻の内側に隠しておいたパン屑の方へ進む。
床を這う、小さな影。
小さな身体は慣れた様子で格子の下を潜り、
静かにライネルの前へ辿り着いた。
ライネルは息を殺し、
そっと手を伸ばした。
ネズミの背中、
薄く結ばれた一本の糸。
その先に掛かった小さな輪を、
慎重に外した。
これで糸の両端が、
アイラとライネルの手に握られた。
二人は無言で見つめ合う。
短い呼吸。
短い視線。
そして同時に、
糸をぴんと張って引いた。
傾いた糸の上を、
鍵束が
ゆっくり――本当にゆっくり滑ってくる。
鉄の床に、
小さな金属音が混じった。
カチャン。
ひそやかな振動とともに、
鍵が格子の中へ落ちた。
その瞬間、
二人とも息を吐いた。
言葉はない。
けれど眼差しは、同じものを見ていた。
鍵は小さく、冷たい。
ライネルの指先に引っ掛かった金属の輪が、
床に触れて微かな音を立てた。
「できた···成功だよ」
アイラは声を落とした。
だが目つきは明らかに変わっていた。
小さな震え。
一度のミスで全部が崩れる――その感覚が、指先に貼りついている。
看守の寝息は、
まだ近くで続いていた。
アイラが鉄格子越しに囁く。
「今じゃない···
もう少し待って」
少女は、看守が完全に頭を落として、
呼吸が一定になる時間を正確に知っていた。
時間が止まったみたいな静けさの中で、
ライネルは鍵を握ったまま、
格子の向こうの闇を見つめた。
今まで、
自分がここを出られるなんて、一度も思ったことがない。
でも今、
その鍵ひとつと、その一言が、
ひびが入るみたいに、
彼の内側を揺らしていた。
◇
鍵束は、思ったより多かった。
手の中の輪には、
大きさの違う鍵が絡まっている。
ライネルは慎重に、
錠へひとつずつ差し込んだ。
一つ目。合わない。
二つ目。回らない。
三つ目を入れた瞬間――
カチッ。
鉄扉が、ほんのわずか揺れた。
「開いた。とりあえず扉は開くよ」
アイラの声が聞こえた。
彼女も自分の格子の方へ手を伸ばしている。
けれど――
鍵束を見直したライネルが、首へ手をやった。
「この中に···抑制具の鍵もあるかな」
アイラが小さく頷く。
「あると思う。
看守が全部まとめてるの、見たことある。
どれが合うかは分からないけど···」
ライネルは輪から小さな鍵を一つ抜き、
うなじの抑制具の溝へ差し込んだ。
カチッ。
息の詰まっていた場所に、
ほんの薄い隙間が開くみたいな音がした。
ついに、
拘束具が緩む。
絡みついていた金属が、
首元から滑り落ちるように外れた。
その瞬間、
長く押し込められていた魔力が、
薄い膜を破って広がるみたいに、
指先から気流のように滲み出した。




