54. 探訪 ( たんぼう )
ひと通りの手合わせが終わり、
三人は静かに屋敷の中へ足を向けた。
稽古場に残っていた熱と煙は、廊下へ出た途端にふっと途切れる。
分厚い壁と絨毯が音を呑むせいか、足裏に触れる感覚だけがやけに鮮明だった。
迎えたのは老執事だった。
年配の彼は近づき、慎重にステイラー子爵へ尋ねる。
「子爵様、ご無事でございますか。
……先ほど稽古場のほうで、少々騒がしい音が聞こえましたので」
執事は語尾を落とす。
表情は丁寧だが、眼差しは隠しきれない。
“もしも”という仮定が、すでに顔に張り付いていた。
「ウルス殿がご一緒でしたので、私が直接確認はしておりませんが……
どこかお怪我などはございませんか」
ステイラーは短く笑い、手を軽く振った。
心配はいらない、とでも言うように、所作そのものに余裕がある。
「大丈夫だ、執事。
少し確かめたいことがあっただけだ。何でもない」
執事はようやく安堵したように頭を下げ、
すぐにライネルへ向き直った。
「お食事の用意が整っております。
お清めの後、食堂へお越しくださいませ」
「あ……はい。ありがとうございます」
ライネルは短く答えたが、頭の中はまだ揺れていた。
稽古の終盤、自分が下した“命令”が、あまりに滑らかに噛み合った感覚。
それが自分の技量なのか、それとも別の何かが混ざったのか――判断がつかない。
執事は続ける。
「ほかのお連れの方々は、すでにお食事中でございます。
ライネル様もご準備ができ次第、別にお膳をお出しいたします」
ライネルは一瞬ためらい、周囲を見回してから控えめに聞いた。
「……あの、こちらのお二人は召し上がらないんですか?」
その言葉にステイラーがライネルを見る。
短い沈黙。
視線が重なった瞬間、ライネルは無意識に背筋を少し伸ばしていた。
ステイラーの声は淡々としていた。
「我々は少し整理することがありましてね。
気にせず、先に身支度をして食事へ行きなさい」
ウルスも無言で頷くだけだった。
その反応が、かえってはっきりしている。
“別に話がある”――そういう意味だ。
「……分かりました」
ライネルは静かに頭を下げ、食堂のほうへ歩き出した。
背後で扉が閉まる音がしそうなのに、廊下は最後まで静かだった。
◇
ステイラー子爵の書斎。
重い扉が閉まると、部屋はすぐ深い静けさに沈んだ。
香りの濃い木の書棚、整えられた書類の山、壁一面の古書。
そのすべてが“金”と“時間”で積み上げた痕跡に見えた。
ステイラーは椅子に腰を下ろし、
ウルスは黙ったまま彼の前に立つ。
ステイラーが先に口を開いた。
「ウルス殿。
実際に手を合わせてみて、どうでしたか」
ウルスはゆっくり息を吐いた。
手合わせが終わったからといって、緊張がすぐ解ける性分ではない。
一拍遅れて答える。
「……非常に“重かった”です」
「重い?」
「はい。人の力とは思えないほど、
硬く……そして、重い力でした」
ウルスの口調は感想というより判定に近い。
彼は一度目を閉じ、また開いた。
「私は各地を回って多くの使い手に会ってきました。
ですが……あの類の力を使う者は、初めてです」
ステイラーは目を伏せ、静かに頷いた。
書類をめくっていた手が止まり、指先が机の縁をゆっくり押さえる。
「……そうですか。
パイルグの書状、偽りではなかったな」
顎に手を当て、思案するように続ける。
「念動力……
この力は既存の魔法体系から外れている」
「……これを魔法と呼ぶべきかも、曖昧だな」
視線が虚空をかすめる。
王都の記録と報告が、頭の中で素早く整理されているようだった。
(王都でも、念動を扱う者は時折見かけた。
軽い物を浮かせたり、短く身体を浮かせる程度の“芸”だったが)
ステイラーはその記憶を畳むように、薄く唇を結ぶ。
「……だが、今回は違う」
眼差しが一段深くなる。
単なる好奇心ではなく、計算の光だった。
(この程度に扱えるなら……
我が家にとって、相当な“資産”になる)
口にはしない。
だが書斎の静けさが、その考えを代わりに語っていた。
ウルスも頷く。
「ただ……」
慎重に言葉を継いだ。
「力の扱い方には、まだ未熟さがあります」
ステイラーが見上げ、わずかに笑う。
「例えば……
先ほど君が地面の下から起こした攻撃?」
「はい」
ウルスは淡々と続ける。
「戦闘の多くを“視覚”に依存しているように見えました」
ステイラーは何も言わず、指を一度折って戻す。
聞いている合図。続きを促す仕草。
「もちろん一定の魔力感知はしているのでしょうが、
私の感触では、全体の対応が直感と反射に近い」
言葉を選びながら、ゆっくり続ける。
「攻撃も防御も……原始的です。
精密に“学習された”型というより、
力そのものが大きすぎて、それで押し潰しているに近い」
「……まだ、磨かれていない原石です」
ステイラーはしばらく黙った。
だが表情は暗くない。むしろ逆だった。
“未熟”という言葉が、“伸びしろ”に聞こえる顔だった。
ゆっくり頷き、口を開く。
「分かった。ご苦労だった。休むといい」
「はい、子爵様。失礼いたします」
ウルスは静かに踵を返して出ていき、
扉が閉まると、書斎には完全な静寂が残った。
ステイラーはひとり、
黙って机上の書類を見下ろす。
一行で意味が変わる紙切れ。
この屋敷を回す“規則”。
その上に、今日新しく加わった名がひとつ。
(念動力……)
(これは……新しい始まりになるかもしれない)
ステイラーは目を細め、ほんの一瞬だけ笑った。
嬉しさではない。
“確信”に近い表情だった。
◇
「ライネル〜、何して遅かったの? 誰かとケンカしてた?」
アイラが食堂の扉から顔を覗かせ、にかっと笑った。
明るい声。
けれどライネルは、その軽さが少しだけ羨ましかった。
ライネルは一瞬言葉に詰まり、首を振る。
「い、いや。
ちょっと確認があって」
「ふ〜ん。怪我してないならいっか」
アイラは気にした様子もなく手招きした。
「早く来て食べよ。
今日の付け合わせも超豪華なんだから!
私ここ……すごい好き〜」
モネロはもう席について、がつがつ食べていた。
何か言おうとして口を開くが、まるで聞き取れない音しか出ない。
「ライネ……これ、めっちゃ……うま……もぐもぐ……」
ライネルは瞬きしてモネロを見て、ふっと笑った。
「食べ終わってから話して、モネロ。
誰かに取られるとでも思ってるの?」
モネロは口を忙しく動かしながら、手で首を振った。
“そんなわけない”なのか、“話しかけるな”なのか、判別がつかなかった。
ライネルは小さくため息をつき、席につく。
銀の皿から香ばしい匂いが立ち上るのに、箸を取る前に一度だけ呼吸を整えた。
ふと――
さっきの稽古の場面が蘇る。
地面から突き上がった攻撃。
腹を打ち抜かれた、あの瞬間。
念動の膜で衝撃をある程度は逃がした。
だが……あれは“防いだ”というより“受け流した”に近い。
(同時に別の攻撃が来ていたら……
立ち上がれなかったかもしれない)
ライネルは、その言葉を心の中で飲み込んだ。
稽古場での失敗は、ここでは冗談にできない。
静かに計算する。
(1対1ならまだしも……
多勢となれば――)
「ん? 何か言った?」
アイラが首を傾げて聞き返す。
ライネルは首を振った。
「……いや。
とりあえず、食べよう」
その時、アイラが口調を変え、期待でいっぱいの顔を向けた。
「ねえ、ライネル〜。
モネロが言ってたんだけど……王都って夜も人が多いんだって?」
「あとで……一緒に出かけない?」
思いがけない言葉に、ライネルは少し驚いて二人を見る。
王都に着いてからずっと“用心しろ”ばかり繰り返していたのに、
アイラは逆に“行こう”と言う。
「……行って大丈夫かな」
今度はモネロが落ち着いて言った。
口の中のものを飲み込み、ゆっくり続ける。
「王都は他の町と違って……
夜が長いんだよ」
「うまい屋台もあるしさ。
各地から来た連中も多いし……見どころも多いってわけ」
「俺らが王都にどれだけいるか分かんねぇけど、
下見がてら一回くらい回っとくのは悪くないってわけ!」
ライネルは頷いた。
「……なるほど。
それなら、悪くないかも」
モネロが急に咳払いし、背筋を伸ばす。
「えへん!
それに――王都暮らし経験者の、このモネロ様が、
案内してやれるってわけ!」
「うわ〜! さすがモネロ、頼もしい〜!」
アイラが両手で親指を立て、目を輝かせた。
あまりに真剣で、ライネルは笑いそうになった。
ライネルは照れくさそうに笑う。
「はは……
じゃああとで子爵様に話して、一度見て回ろう」
「うん! 決まり〜!」
アイラは明るく手を叩き、
モネロは鼻をこすって小さく呟いた。
「……久しぶりに、ちょっと楽しみだな」
ライネルは食卓の端に視線を滑らせ、執事が近くにいるのを確認してから控えめに声をかけた。
「執事さん」
老執事は丁重に頭を下げる。
「はい、ライネル様」
「外へ出たいんですが……大丈夫でしょうか」
老執事は瞬きをし、言葉を選んだ。
即答で許すには慎重で、止めるには客でもある。
慎重に口を開く。
「もちろんでございますが、
初めての方は王都で道に迷われやすうございます」
「……こほん」
その時――
モネロがわざと大きく咳払いし、胸を張って前へ出る。
「王都生活経験者の、このモネロ様が案内するってわけだ」
老執事はわずかに微笑み、頷いた。
「そうでしたか。
それなら問題ございません」
手を重ねて続ける。
「それでも小さな地図はお持ちください。
それと……あまり遅くならぬよう、お戻りくださいませ」
「よーし! 新しい冒険、開始〜!」
アイラは大きく伸びをし、扉をぱっと開けて飛び出した。
期待に満ちた顔で廊下を早足に進む。
ライネルとモネロも自然とその後を追う。
三人は笑い混じりに言葉を交わしながら、
廊下の角を曲がって姿を消した。
「……あ、少々お待ちください。ライネル様」
老執事が控えめに声をかけたが――
バタン。
扉はもう閉まっていた。
「……もうお出かけでしたか」
独り言のように呟き、扉のほうへ視線を向ける。
「……実はお伝えしたいことがあったのですが……」
老執事は小さく息を吐き、髭をゆっくり撫でた。
口元にはいつもの薄い笑みが浮かんでいるのに、
眼差しはなかなか和らがない。
「大事にならねばよいが……」
老執事は窓辺へ静かに歩み、
屋敷の前の道を遠くまで見渡した。
午後の陽射しは柔らかく落ちていた。
それでも、執事の視線は外へ外へと引き寄せられる。
「今日に限って……
王都の通りが、やけに込み入っている気がしますな」
指先で窓枠にそっと触れ、
ほとんど独り言のように、ひと言だけ落とした。
「……どうか、ご無事で」




