51. 名前 ( なまえ )
深い夜。
まるで夜明けまで戦いなどなかったみたいに、
村は静まり返っていた。息づかいさえ沈んでいる。
風が戦場の痕を洗い流し、
冷たい闇の中に虫の声だけが細く滲んだ。
ライネルは家の外の空き地に座り、
空を見上げていた。
月明かりは淡く、
星は知らん顔で遠くに散っている。
その時、
静かに近づく足音。
パイルグだった。
彼は何も言わず、ライネルの隣に腰を下ろした。
「パイルグさん……」
ライネルが顔を向ける。
声はいつもより低く、慎重だった。
「悩みでもあるのか?」
「えっと……老木のモンスターと戦ってる最中に、
意識が一瞬、落ちたんです」
「……意識が?」
「はい。でも、その時……
心の奥で、誰かの声が聞こえたんです」
パイルグの眉が、わずかに動いた。
「誰のだ?」
「よく分かりません。
でも……夢で何度か見たことがあるんです」
ライネルはゆっくりと言葉を継いだ。
「黒い城がありました。
辺り一面が燃えていて……
人々が炎の中を彷徨うみたいに走っていた」
「その混乱の中で、
誰かが必死に名前を呼んでたんです」
「名前……何て?」
「···オルタ」
「……オルタ?」
パイルグの視線が一瞬止まった。
ライネルは頷き、続ける。
「名前を呼ばれた瞬間、
白いローブの女の人が現れて……
その直後……
周囲に赤い光が広がったんです」
話し終えたライネルの顔は、
まるで本当に見てきたみたいだった。
「それが今回の戦いと……
関係してると思うんだな?」
パイルグはしばらく口を閉じていた。
何か言いたいことがあるみたいに――
やがて、慎重に口を開く。
「……世の中には、筋が通らないことが多い」
「人はそれを“あり得ない”って片付けて、
大抵は無視する」
「でもな。
それが誰かの……意図された“計画”かもしれない、って考えることもある」
ライネルは戸惑って顔を向けた。
「……すみません。
ちょっと、よく分からなくて」
パイルグが短く笑う。
「とりあえず、歩きながら話そう」
そうして二人は無言で立ち上がり、
静かな村道をゆっくり歩き始めた。
月明かりの下、
二つの影が並んで長く伸びる。
沈黙を破ったのはパイルグだった。
「お前の言ってた、繰り返す夢と……内側で聞こえた声」
「それがただの偶然とは思えない」
ライネルはゆっくり顔を向ける。
「パイルグさんは……
“オルタ”って名前、聞いたことありますか?」
少し間を置いて、パイルグが小さく息を吐いた。
「オルタか……ああ、聞いたことはある」
「……本当ですか?」
「三百年前、勇者たちとの戦争で敗れた“魔王”として知られてる」
ライネルの目が見開かれた。
「魔王……ですか?」
本の中でしか見たことのない存在が、
自分の夢と繋がっている。
そう思った瞬間、唇が固まる。
だがパイルグは、ゆっくり首を振った。
「……でも、実際は魔王じゃない」
「民間でそう言われていただけだ」
「本当の正体は……
魔王軍の“心腹”だった」
ライネルは黙って唇を結んだ。
そうして二人の足取りは、自然と聖所へ向かう。
夜明けは戦闘でまともに見られなかった場所。
今は月明かりと風に、静かに濡れていた。
パイルグは懐から小さな魔道具を取り出し、
岩の隙間に軽く差し込む。
カチッ。
魔道具が反応すると、
周囲に淡い橙の光が広がった。
そして光の下、
影がそっと剥がれるように、ひとつの像が姿を現す。
剣を握り、
今にも前へ飛び出しそうな構え。
強い眼差しと、引き締まった体つき。
ライネルは静かに息を呑んだ。
「……この人は?」
パイルグが短く答える。
「ハークフレイオン。
三百年前、“魔王”を討った勇者一行のリーダーだ」
ライネルは黙ったまま像を見つめた。
そこから何かを探すみたいに、
しばらく視線を外さない。
剣を握る手。
動き出しそうな眼。
像の前に立つライネルは、
自分でも気づかないうちに手を握り締めていた。
「……こいつも、夢で見たのか?」
パイルグの問いに、
ライネルは静かに首を振った。
「いいえ。全然。
でも……妙に、懐かしい感じがします」
懐かしい。
なのに同時に、訳の分からない不安が胸のどこかを掠める。
ライネルは呆然と見てから、首を振った。
「……あり得ない」
パイルグは像から目を離さず、続けた。
「お前に声をかけてきた“オルタ”って存在も、
昔、勇者たちに倒されたと言われてる」
その名を再び聞いた瞬間、
ライネルは無意識に息を吸った。
『オルタ……』
口の中で転がすたび、
胸の奥がじくりと引かれる感覚。
ライネルはパイルグを見た。
「ここは……勇者のリーダーの故郷なんですか?」
パイルグは聖所の手すりに軽く腰を預ける。
表情は静かで、口調も淡々としていた。
「いや。故郷は大陸西側のどこかだと聞いた。
詳しいことは伝わってない」
「ただ確かなのは、
三百年前、この村が戦争のど真ん中だったってことだ」
「戦争が終わって、
この村ができた」
「それを記念して、
ハークフレイオンの像が建てられたんだ」
ライネルは像を見上げたまま、
少し眉を寄せて言う。
「……でも、管理が……あまり良くないですね」
「ん? ああ――そうだな」
パイルグは頷いた。
「村の連中は、あんまり興味がない。
俺みたいな変わり者が少し気にするくらいだ」
「世界の英雄だろうと……
時間が経てば、結局は忘れられる」
ライネルが静かに言う。
「……残念ですね」
するとパイルグは、少し違う角度で返した。
「必ずしも悪いことじゃない」
ライネルが首を傾げる。
「……どういう意味です?」
パイルグは微笑んだ。
「英雄が忘れられるってのは、悪いことだけじゃない」
「ずっと記憶に残り続けたら、
後から同じ道を歩く奴らは、その影から抜け出せない」
「でも時間が経って名が薄れれば、
比べるより先に“自分の道”を探せる」
「新しい英雄ってのは、そうやって生まれる……俺はそう思う」
「……英雄、か」
ライネルは少し考え込んだ。
「こんなに平和な世界で、
英雄って言葉は……どこか似合わない気もします」
パイルグは小さく笑って首を振る。
「表だけ見りゃ、そうだ」
「でも……表だけだ」
「三百年前は悪を追い払うために戦って、世界は救われた」
「なのに間もなく、
その中でまた“悪”を作り出す連中が出てきた」
「種族間の平和は辛うじて保ってるが……
人間の中身は、自分で自分を食い潰してる」
言葉の重さが、静かに落ちた。
「……少し重い話だったか?」
ライネルは首を振る。
「いいえ。
興味深いです」
パイルグは頷いて、話を戻した。
「それで――
さっき言ってた、内側で聞こえた声」
「……オルタ、ですか?」
「ああ。オルタだ」
「三百年も経った今、
そんな存在がお前に声をかけてくるなんて……」
「正直、信じがたい」
「だが……ここまで来ると話が変わってくる」
パイルグはライネルを正面から見た。
「お前さ」
「……あの“青い魔力”。
その力について、どこまで分かってる?」
ライネルは黙って手を開いた。
月明かりが掌に薄く落ちる。
「……力、ですか」
しばらく迷ってから、口を開いた。
「正確にいつからかは分かりません」
「でも……
ある宗教団体に、俺が“実験用”として使われてた記憶があるんです」
「たぶん……
その実験の中で宿った力じゃないかって、そう思ってました」
パイルグの目がわずかに鋭くなる。
「その組織……名前は?」
「……黒太陽の祭壇」
パイルグが目を細めた。
「黒太陽……? 初めて聞く名だ」
ライネルは頷く。
「アルゼンさんが直接動いて存在を突き止めたって話は聞きました。
でも……ほどなくして原因不明の事件で壊滅した、と」
「……妙だな」
パイルグは顎に手をやり、低く言った。
「そこまでの実験をやるなら、
相当な資金と伝手が要るはずだ」
「記録にもほとんど残ってないなら……
わざと痕跡を消したのかもしれない」
パイルグはしばらく黙った。
それから静かに言う。
「……今から言うこと、軽く聞くなよ」
慎重に、だがはっきりと。
「お前が使うその魔力。
俺は“人間の範疇”を外れてると思う」
「……人間の範疇、ですか?」
驚いたように問うライネルに、
パイルグは言葉を選んだ。
「完全に魔族と同じじゃない。
だが……感触が、どこか似てる」
「古い書には、
“オルタ”って奴は“青い魔力の鎖”と呼ばれていた、とある」
「お前の魔力も……
そいつに近い性質を持ってる可能性は高い」
ライネルは何も言えなかった。
唇を強く結び、像の向こうの闇を見つめる。
やがて、ぽつりと尋ねた。
「……じゃあ、
王都へ行ったら、この力はできるだけ隠した方がいいですか?」
パイルグは少し驚いた顔でライネルを見て、
すぐに笑った。
「はは、いや。
そこまでじゃない」
肩をすくめる。
「青い魔力を使うからって、即座に魔族だと決めつけることはできない」
「今の魔法体系そのものが、
属性も多いし、魔法陣の色だって様々だからな」
「……それでも、ある程度は警戒した方がよさそうですね」
パイルグはゆっくり頷いた。
「ああ。
王都は“異質な力”には敏感だ」
「まして魔族に関係してるかもしれないなら……
なおさら好意的には見ないだろう」
ライネルは視線を落とした。
不安が顔に薄く滲む。
自分が何者かも分からないまま、
何かを隠して生きなきゃいけないかもしれない。
それが、少し怖かった。
「……さ、夜も更けた」
パイルグが埃を払って立ち上がる。
「そろそろ寝ろ」
ライネルもゆっくり立ち上がった。
数歩後ろからパイルグの背を見て、
空を見上げながら独り言みたいに呟く。
「……王都じゃ、
できるだけ目立たない方がいいのかな」
その言葉に、パイルグが軽く返した。
「心配するな。
目くらまし用の魔道具だってある」
「余計なことは考えるな」
ライネルは表向き笑ってみせたが、
表情の端に不安が残っていた。
『目立たないように』
その言葉が、胸の中で何度も繰り返される。
静かに土を踏み、歩くうちに、
パイルグが少しだけ振り返った。
「……一人で背負い込むな」
その言葉に、ライネルは目を見開いて、
やがて小さく頷いた。
「はい」
そうして二人は、
言葉少なに歩いた。
ライネルは足元に気をつけながら、
パイルグの後ろをついていく。
月に濡れた土の道は落ち着いていて、
冷たい風が草葉を撫で、小さな音を残す。
頭の中はまだ複雑だった。
正体不明の組織、失われた記憶、内側で目覚めた存在。
そして自分に宿る力。
『俺は、いったい誰なんだ』
その問いは、
夜空の星みたいに遠く、静かに光っていた。
だが今はしまっておこう。
考えるのは明日でも遅くない。
パイルグの背の向こうに、
村の淡い灯りがまた見え始めた。




