50. もう一つの蒼い瞳(もうひとつのあおいひとみ)
「どいつから殺してやろうか···」
触手みたいに変形した老木の枝が、ゆっくりと蠢く。
イグティアンは自信満々の声で近づいてきた。
「パイルグ。お前は最後だ。
出しゃばって他所の村の厄介事に首突っ込んだ、お節介な冒険者どもから···片付けてやるか?」
そう言うや――
錐みたいに伸びた枝が一本、モネロへ向けて矢のように飛んだ。
その瞬間。
どこからか···いや、ライネルの内側から。
低く、はっきりした中低音が響いた。
――「どうやら、俺が手を貸すしかなさそうだな?」
「···誰だ?」
体は麻痺したまま。
ライネルは声の源へ視線を転がそうとしたが、指先ひとつ動かせない。
「この状況から抜け出させてやる。
代わりに···お前の“場所”を、少しだけ俺が使う」
意識が深い底へ沈む。
まぶたがゆっくり落ち、体がだらりと崩れた。
「ラ···イネ···ル···!」
パイルグが必死に呼ぶ。
だが次いで舞った睡眠粉が、四人をまとめて覆った。
「はぁ···目が···重い···」
「···なに···も···」
意識がぷつり、ぷつりと切れる。
体が力なく沈んでいく。
その瞬間――
バァン!!
モネロへ叩き落とされるはずだった触手の枝が、見えない壁にぶつかって止まった。
「···なんだ、これは?」
苛立った声でイグティアンが吐き捨てる。
その視線の先。
青い気配が溢れるライネルの瞳が、冷たく彼を貫いていた。
「可愛いな。取るに足らない力で足掻く姿。
なかなか見物だ」
「死ぬ前の戯言か!」
イグティアンは標的をモネロからライネルへ切り替えた。
一気に押し寄せる数十の根と枝。
その瞬間――
老木の中心部で、パンッ!
強烈な爆ぜ音とともに、幹の一部が内側から砕け散った。
「···この体の持ち主は、まだこの力を扱いきれていないらしい」
「···少し、見せてやろう」
「てめぇ···何者だ!」
イグティアンが叫ぶ。
「ガキのくせに! 大人の話に口出すな!」
地面が揺れ、四方から根が噴き上がり、まとめてライネルを呑み込もうとした。
だが――
その動きは、馬鹿みたいに止まった。
「ようやく、少し動けるな」
――ズン。
瞬間移動みたいに、イグティアンの目の前へ現れるライネル。
彼は無言で掌を老木の幹へ当て、淡々と唱えた。
「『念動――放出』」
ゴォォン!!
内側から叩き割る念動。
幹の破片が、内から外へ刃みたいに跳ね上がった。
イグティアンは飛来する破片に体勢を崩し、叫ぶ。
「くそ···! お前、いったい何だ!」
「···この身は『オルタ(Orta)』。
この子の体を、少しの間借りている」
「ふざけるな!
ガキが勇者病にでも罹ったか、調子に乗るなよ!」
「なら···もう少し見せてやろう」
ライネルが手を上げると、空間が静かに歪んだ。
イグティアンは触手を呼び出し、
空間の裂け目を叩き潰すみたいに滅茶苦茶に振り回す。
シュッ! バキッ!
獣みたいに魔力を叩きつけ、裂け目を割ろうとする。
赤い花びらが暴走した魔力に巻き込まれ、固まりみたいに歪んだ。
「ぐっ···!」
息が上がり、イグティアンは歯を食いしばって顔を上げる。
「なら···!」
その瞬間――
イグティアンは触手を一本、鋭く裂き、ライネルへ投げつけた。
ヒュッ!
空間の向こうから、尖った枝が突き出し、オルタの肩を狙って突き刺さる。
「死ね!!」
だが――
トン。
空間の結界が静かに弾き返した。
触手は破片みたいに散る。
「···がっかりだ」
「黙れ!!
この程度で俺が屈するとでも思ったか!?」
だが――
空間の中心が、さらに強く絞り込まれる。
イグティアンの全身が、
ねじれた糸みたいに、ゆっくり――だが確実に吸い込まれていった。
「やめろ! あと少し、あと少しで···
モディアが···俺のモディアが···!」
イグティアンは目を吊り上げ、
醜く歪んだ顔でライネルを睨みつける。
「お前···いったい何だ!
何なんだよ···その正体は何なんだぁ!!」
その叫びは、絶望と恐怖と、言葉にできない異物感が絡み合っていた。
確かに、あの少年は最初――
ただの村の外の冒険者に見えた。
それなのに。
空間そのものを捻じ曲げる力。
人の領域を、はるかに超えている。
「···そうか、そういうことか···!」
イグティアンの目が裏返るみたいに見開かれる。
「てめぇ···魔族か!?」
ようやく全部が繋がったと言わんばかりに、狂った笑いが漏れた。
「そうだったんだ···
だからあんなに、気味が悪かったのか!」
赤く咲き乱れる花びらの中、
彼の体はどんどん空間の中心へ引きずられていく。
「俺は間違ってない···
お前ら魔族も、いずれ分かる」
歯を食いしばって、最後に叫んだ。
「人間の狂気は···
そんな簡単に消えねぇぞ···!!」
渦巻く空間が、いったん静けさを含んだ。
そして――
小さな点が、急激に膨らんで弾けた。
ドォォォン!!!
噴き出したエネルギーとともに、
黒赤い花びら、木の残骸、粉みたいに砕けた老木の欠片が四方へ飛び散る。
嵐がすべてを薙ぎ払い、
空気には細かな木屑と、赤く染まった花粉が舞った。
残骸の中。
ライネルは、そのまま立っていた。
だが、その瞬間――
手首の腕輪が赤く閃く。
ビリッ···!
腕輪が震え、赤い魔力が体の内側から無理やり溢れようとしてぶつかる。
「···この腕輪、また邪魔をするか」
ライネルの声が低く掠れた。
「こんなもの···投げ···捨て···」
だが握った手は動かない。
冷や汗が肌を伝った。
「くそ···思った以上に···魔力を···使いすぎた···」
言葉が途切れ、
ライネルの膝がすうっと折れる。
ドサッ。
彼は力なく地面に倒れた。
赤く光っていた腕輪は、
ゆっくりと輝きを引っ込めていく。
最初に目を覚ましたのはパイルグだった。
「···うっ」
体を起こして息を吸い込み、すぐ周囲を見回す。
空には暗い気配が消え、
淡い朝日が地面へ落ちていた。
「···どうして···生きてる?」
独り言みたいに呟きながら、怪我がないか体を探る。
ゆっくり視線を巡らせると、
妙なほど静かな景色と、倒れているライネル、アイラ、モネロが目に入った。
「···さっきまで···戦ってたのに」
炎、怪物、幻影。
あの夜明けの記憶が、短い夢みたいに感じられる。
「まさか···ここが···天国?」
パイルグが小さく笑って呟いた、その時――
後ろから間の抜けた声が聞こえた。
「ここが···天国だって?」
ぎょっとして振り返ったパイルグは、
座ったまま頭を掻くモネロと目が合った。
その瞬間、パイルグの口元に小さな笑みが滲む。
「···そうだな。
俺たち全員、死んで天国に来たのかもな」
モネロは目を丸くして跳ね起きた。
「マジっすか!?
やだ、まだ死にたくねぇ!!
俺、やりたいこと山ほど――!」
その大騒ぎにパイルグは小さく息を吐き、首を振る。
「···馬鹿」
そして、ふっと笑う。
「···ふぁぁ」
目をこすりながら起きたのはアイラだった。
「何よ···もう朝?
私たち、生きてる···よね?」
その時――
隣にいたモネロが、わざとらしくニヤつく。
「アイラ嬢、ここは天国です。
俺たちは···死んでここへ来たのですよ」
コツン。
「バカの演技するなら、もうちょい上手くやりなよ。全部バレてる」
アイラがモネロの後頭部を軽く叩いた。
「ちょ、まって!
少しは騙されてくれよ。あいつもこいつも俺のことバカ扱いで···悔しい、悔しい」
モネロが拗ねると、パイルグが声を立てて笑った。
「でも、お前らと冒険したら退屈はしなさそうだ」
みんなが笑った、その瞬間――
パイルグの視線がふと止まる。
「そうだ···ライネル」
アイラとモネロも同時に振り向いた。
少し離れた場所。
残骸と花びらの間に倒れているライネル。
「ライネル! ライネル!!」
モネロが慌てて駆け寄り、肩を掴んで揺さぶる。
「おい、起きろ!
どんだけ無茶したんだよ!?」
追いついたパイルグが膝をつき、状態を確かめる。
「たぶん···あの怪物は、ライネルが片付けたんだろうな」
パイルグが慎重に呟いた。
「戦闘中に魔力を使いすぎたんだ。
ただ···疲れ切ってるだけだ」
頷いて立ち上がる。
「とりあえず、家に戻ろう」
「家に帰ろうぜ〜」
モネロがクッと笑い、ライネルを背負った。
「やっぱり〜ライネル姫を救うのは、モネロ騎士ってわけだな〜?」
アイラがふざけて言いながら、軽く肘でモネロを突く。
「はぁ···
なんでいつも俺がこの役なんだよ···」
文句を言いながらも、モネロの足取りは悪くない。
そのまま三人が歩き出そうとした時――
パイルグが静かに口を開いた。
「なあ、お前ら先に戻ってくれるか?」
モネロが振り返る。
「え? なんで?」
パイルグはいつもの顔だった。
「ちょっと後始末があってな」
「何するんです?」
アイラが目を細める。
「私たちも手伝うよ」
だがパイルグは首を振った。
「いや。薬草師として···採っておきたいものがある。
先に帰って休んでろ」
アイラは少し首を傾げたが、深追いせず頷いた。
「分かった。
あんまり遅くならないでね」
その間にモネロは、もう少し先へ進んでいた。
「ねぇ〜! モネロ!
一緒に行く〜!」
アイラは袖を整え、モネロへ駆けていく。
焼けた残骸の場所へ、
パイルグはゆっくり歩みを戻した。
黒く焦げた木片が散らばる中、
彼は潰れた枝を拾い上げる。
「···イグティアン。
結局、お前は自分の欲に食われたんだ」
パイルグは黙って息を吐いた。
「冥福は祈ってやる···」
腰を折り、
残骸の中から比較的形の残った枝を、もう一本拾い上げた。
「···これは、結構使えそうだな」
その枝には、
かすかだが青い魔力が残っていた。
パイルグの目が、ほんの一瞬だけ真剣になる。
青。
ライネルの力が発動するたびに滲む、冷たい青い気配。
精霊術でも、古典魔法でもない。
どちらにも属さない色。
普通の魔力は薄かったり透明だったり、
属性で色が散ったりするものなのに。
「···ライネル。
あいつ、本当に人間でいいのか?」
残骸の中で微かに震える気配を、
パイルグはしばらく見つめていた。
「···なんで···俺ここに?」
意識を取り戻した誰かが顔を上げる。
その声と同時に、村のあちこちがざわつき始めた。
子どもは泣き、
老人はあちこち痛いと訴えて腰を押さえる。
村へ戻る道は、まさに混乱だった。
いつの間にか外で寝ていた人々。
足首に蔦が絡まったまま、まともに歩けない人々。
それでも――
甘い夢をたっぷり見て眠ったみたいに、
彼らの目は少しずつはっきりしていった。
「それでも···」
モネロが胸を撫で下ろして言う。
「村の人たちが無事でよかった」
「···でも、モネロ」
アイラがそっとモネロを見る。
「モディアって···誰だったんだろ」
その問いに、モネロは眉を少し寄せた。
「モディア?
あの化け物が···愛してた相手じゃねぇの」
「そうだよね···」
アイラは小さく肩をすくめる。
「どれだけ会いたくても、
あそこまでやる?···犠牲まで出して···」
言葉の端に、苦い感情が滲んでいた。
少し沈黙が落ちて――
モネロが何気なく尋ねる。
「···アイラは、会いたい人いる?」
前を向いて歩いていたモネロは、
自分でも無意識に投げた問いに、言い終わりをためらった。
「うん。いるよ」
アイラが頷く。
「お父さんとお母さん。
離れて長いけど···きっと元気」
口元に、静かな笑みが浮かぶ。
「また会うって決めた場所があるの。
たぶん、冒険してたら自然に寄ることになると思う」
「どこだよ、その場所」
モネロが尋ねた、その時――
遠くから荷物を山ほど背負ったパイルグが、息を切らして近づいてきた。
「一緒に行くぞ!」
アイラは笑みを含んで振り返り、パイルグへ手を振った。
「早く〜!
お腹すいた〜!」
その瞬間――
モネロの脳裏に、パイルグの家の食卓を埋め尽くした“あの薬草和え”が蘇った。
···緑の恐怖。
モネロは一瞬だけ体をびくっとさせ、
肩を落とした。
「···なんか、また戦いが始まりそうだわ···」




