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5. 夢を折る夜(ゆめを おる よる)

柔らかな陽射しが降り注いでいた。

保育院の庭では、子どもたちがきゃらきゃら笑いながら駆け回っている。

誰が見ても平和で、温かな朝だった。


ここ――セレン・リアン保育院は、

戦争孤児や身元不明の子どもを保護する、という名目で運営されていた。


建物は清潔で、シスターたちは優しい。

時折、貴族の夫人が立ち寄ってパンを配りながらこう言う。


『この子たちが、良い家庭に迎えられますように』


表向きは――そうだった。



扉が閉まり、カーテンが下ろされた部屋。

修道服の女が、机の上に書類を二枚広げた。


「養子予定。

十一歳、男。特記事項なし。

それから十歳、男···魔力反応あり」


「二人とも出すんですか。今回は少し早いですね」


「上からの要請よ。

···魔力を扱える子は商品価値が高い。うまく売れれば何倍にもなる」


「整理対象を一つ、抱き合わせで流すんですか?」


「目立たないように。静かに」


机の上には、子どものプロフィールが何枚も散らばっていた。

推定出生年、身体数値、情緒反応、魔力計測結果···


『保護対象』というより、

徹底した商品管理表に近い。


「今日は食事の時間を少し早めて。

養子の行事があるから」


「はい。日が沈む前に終わらせます」


外では相変わらず、子どもたちの笑い声が響いていた。

けれどその笑いは、出荷直前···

最終点検を終えた商品の反響に過ぎなかった。



その日の夕方、

いつもより少し早く食事の鐘が鳴った。


食堂は美味しそうな匂いで満ち、

シスターたちは笑って言った。


「今日はお祝いがあるの。

二人の子が、良いおうちに行くことになったんだよ」


「誰? また養子?」

「二人も? 今月はちょっと早いじゃん」

「もしかして、ライネル?」


ライネルは事情がわからないまま、静かに首を横に振った。


隣席の十一歳の少年が、にっと笑って手を上げた。


「俺と···こいつ」

彼は顎でライネルを指した。


「ほんと?」

「うわ、すげえ! おめでとう!」

「手紙ちょうだい! めっちゃ気になるんだって!」


食堂は拍手と笑い声で溢れた。


食事も、いつもよりずっと豪華だった。

鶏肉、温かいスープ、それにケーキまで。


シスターたちは一様に親切で、

子どもたちは本気で羨ましがっていた。


ライネルにも分かる。

その祝福には、疑いのない純粋さがあった。


けれど――

何かがおかしい。


食器を置きかけたライネルの視線が、

食堂の端、窓際に立つ一人のシスターに留まった。


彼女は、微妙に目を逸らしていた。


「喜べよ、ライネル」

一緒に養子に行くという少年が笑って言った。

「外に出たら、もしかして貴族みたいに暮らせるかもしれないだろ」


「···怖くないの?」


「なんで? みんなうまく行ってるじゃん。手紙も来るし」


その言葉に、

ライネルは一瞬、固まった。


手紙···?


彼は今まで、

一通も受け取ったことがなかった。


日が沈みかけていた。

まもなく『養子の式』が始まる。


そしてライネルは、

言葉では説明できないが、はっきり感じていた。


何か、

間違ったことが近づいている――と。



日が完全に落ち、

保育院の中庭が闇に沈んだ。


正門前には黒い馬車が一台、止まっていた。

艶のある車体。

精巧な飾りのついた馬具。

そしてその傍らに立つ一人の男。


貴族に見えた。

長い外套、銀のブローチ、傷ひとつない手袋。

無表情な顔に、冷たく光る瞳。


保育院の中。

二人の子どもが着替えさせられていた。


新しくアイロンをかけたシャツとコート。

高級ではないが、

『特別な日』のために用意されたものだと分かる。


ライネルは襟元を指でいじった。


身体にぴったり合うわけでもなく、

色も中途半端だった。


けれどシスターの手つきは

慎重で···静かだった。


機械的な動きと沈黙が、

彼女の指先に染みついている。


「向こうでもいい子にするんだよ!」

「手紙、絶対書いてね! 約束だよ!」


子どもたちが集まり、祝福の言葉を投げる。

腕に抱きつき、手を振って笑った。


その笑みにあるのは、

経験のない純粋さだけだった。


「乗りなさい。お待ちよ」


背後でシスターが静かに言った。


ライネルは無表情のまま、

馬車の段を上った。


その後ろを、十一歳の少年が笑いながら続く。


「俺たち、ほんとにいいとこ行くのかな?」



馬車の中は静かで、整っていた。

濃い革のシート、固定された照明石、

どこか馴染みのない香り。


土道を走る馬車は揺れも少なく、

遠くで蹄の音だけが一定に響く。


特におかしな点はない。


ただ――

窓の外の景色が、思ったより速く流れていった。


「ほんとにいいとこだよな?」

少年がまた訊いた。

「王宮みたいにでっかい家で、使用人もいて···」


「そうなら、いいね」


ライネルは短く答えた。

そのまま口元へ手をやり、

無意識に目を擦った。


馬車の中は温かい。

なのに身体が、だんだんとだるくなった。


疲れているわけでもないのに、

まぶたが重い。


『···魔法か?』


ライネルは思った。


魔力反応は、特に感じない。

ただの眠気かもしれない。


けれど――

何かがおかしい。


隣の少年は、

もう首を折って眠り込んでいた。


ライネルも背を預け、

目を閉じた。


そして、

二度と目を開けられなかった。


意識が、

静かに、闇へ沈んでいった。



···どれほど経っただろう。

闇の中で、咳の音がした。


荒く、

恐怖に濡れたような、

途切れ途切れの音。


ライネルはゆっくり目を開いた。


天井は見えない。

代わりに見えたのは、

錆びた鉄格子。

そして霞んだ霧みたいな匂い。


身体を動かそうとした瞬間。


『カチャ』


手首と足首で、

金属音が鳴った。


首には

冷たく重い感覚。


見慣れない金属の輪だった。


ライネルはゆっくり首を回す。

光が差し込むのは窓ではなく、

高い鉄扉の隙間から漏れる、

かすかな照明石の明かりだった。


「起きたか?」


影の中から、

聞き慣れない声がした。


鉄格子の向こう、

隅に一人の少年が座っている。


年は近そうだ。

だが眼差しは···

年齢よりずっと深く、重かった。


ライネルは

何も言えなかった。


喉が硬く、

舌は乾ききって

口の中で固まっている。


大きく息を吸った瞬間、

胃がむかついた。


鉄の匂い。

カビ。

そして、傷。


ここはもう、

保育院のような安らぎの場所じゃない。


周囲を見回す。

ライネルと同じ境遇の子どもが、

何人もいた。


目を閉じたまま動かない子。

壁に頭を預け、独り言を呟く子。

視線が死んだまま天井だけを見ている子。


ここには

言葉も、名前も、

『生きたい』という感情さえ

消えたようだった。


「···ここ、どこだ?」


ライネルの声は

掠れていた。


少年が答える。

鉄格子越しに、淡々と。


「お前らは分類待ちだ」


「それなりの価値があれば

どこかへ送られる。

なければ···実験室」


「······なに?」


「お前、魔力がありそうだから

まだマシかもな」


少年の口調に

感情はなかった。


何十回、いや、

何百回と見てきたことのように。


彼にとってこの状況は、

『事件』じゃない。

ただの『日常』だった。


ライネルは手首を捻った。

鎖は固く、

首の抑制具からは

微かな振動が続いている。


その振動が、

内臓を押し潰すみたいに

痛みを作った。


息をするたび、

自分が完全に制御されていることを

身体が思い出させてくる。


「···一緒に来た子は···どこだ?」


「さっき隣の区画に引きずられてった。

目が生きてたからな。

何か使えそうだと思われたんだろ」


「···なに?」


「うまく行けば諜報訓練所。

ダメなら···」


少年は

その先を言わなかった。


代わりに、

静かに目を閉じた。


ここには

名前も、目的も、

人生もない。


残っているのは、ひとつだけ。

使い道。


それが、

この場所で『人間』を分ける基準だった。



鉄扉が開いた。

重い金属が引きずられる音。

古い靴の鈍い足音。


「十一番。立て」


一人の子が静かに立ち上がった。

俯いたまま、

言葉もなく連れていかれる。


ここでは

誰も泣かなかった。


泣く余裕も、

泣く感情も、

全部捨てられた場所だった。


ライネルは

その背中を見送った。


手首の鎖が

静かに揺れた。


首の抑制具が、

呼吸に合わせて微かに鳴った。


もう分かる。


『分類』が

何を意味するのか。


選択じゃない。

選別だ。


監視役たちが

子どもたちの前へ進み出る。


水晶棒を

うなじへ当てる。


『ジジッ』


「こっちは諜報訓練所」

「そっちは廃棄対象」


淡々と。

あまりに慣れた手つきで。


「···次。十四番」


鉄扉の前で誰かが言った。

ライネルの番号だった。


彼は

ゆっくり身体を起こした。


鎖が腕に沿って

重く鳴った。


「顔を上げろ」


監視役が近づく。

細い水晶棒を

彼のうなじに当てた。


最初は、

何の反応もない。


沈黙が落ちる。


やがて、

水晶棒が微かに震えた。


『ジジィン···』


振動はある。

だが光らない。


「···自然系、無反応」

「出力数値は高い。属性分類不可」

「抑制具の影響か? いや···密度が一定だな?」


監視役の指先が

一瞬止まった。


まるで、

嵌め違えた部品を覗き込む技術者みたいに。


「記録しろ。等級保留。

別途分類を要請!」


記録板に

ライネルの番号が書かれた。


その上に、

太い赤線が一本、

すっと引かれた。


ライネルは

じっと立っていた。


心臓が跳ねることもなく、

身体が冷えるのも感じない。


遠くから、

囁きみたいに迫ってくる一言。


『売られたのか?』


それだけが、

今の現実を説明していた。



狭くて暗い部屋。

窓はなく、

照明石が一つだけ、ちかちかと瞬いている。


鉄扉は施錠され、

鎖もまた掛け直された。


首の抑制具は

相変わらず金属の擦れる音を立てていた。


『隔離』


聞き慣れない言葉だった。

だが空気だけで、

良い意味じゃないことは分かる。


扉の向こうで

かすかな話し声がした。


「今回のは···ちょっと特殊だ」


「そうだな。属性反応はないのに、数値が妙に高い。

抑制具の基準値も超えた」


「前みたいに爆発しなけりゃ、

商品価値は悪くないだろ」


『爆発?』


ライネルは

一つ一つの言葉に

静かに耳を澄ませた。


「ブローカー側も興味を示してる。

特殊個体なら、

単価は基準の五倍以上」


「王室の方も最近、ガキを探してるって話だ。

実験用でも暗殺用でもな」


「···直接手を出さない方がいい。

政治筋は下手に触ると、逆に噛まれる」


そして――笑い声。


その笑いには

重みも、責任もなかった。


彼らが見ているのは

人間じゃない。


商品。

素材。

部品。


それだけだった。


ライネルは静かに息をした。


逃げられない。

それは分かっている。


だが――

このまま留まることもできない。


『悲しみ』を初めて知った時みたいに、

胸の真ん中のどこかが、

静かに歪み始めた。



時間は静かに流れた。

照明石が瞬く周期だけが、

その流れを知らせる。


ライネルは床に座り込み、

膝を抱えていた。


手首の鎖は冷たく食い込み、

首の抑制具は息を吸うたびに

微かに締めつけた。


身体は無事なのに、

心だけがどこか噛み合っていない。


ここが嫌いなわけじゃない。

けれど、居たくもない。


その感情にはまだ名前がない。

けれど確かに、

何かが狂い始めていた。


その時、

頭の奥で『欠片』が弾けた。


炎。

崩れる建物。

悲鳴。


そして――

黒い翼。


短いのに鮮明な残像。

ライネルは息を止め、

胸を掴んだ。


「······なんだ、これ」


胸の奥が、どくどくと鳴り始めた。

いや、鼓動している。


何かが目を覚ましつつある。

ずっと昔、

深い闇の底に眠っていた何かが。


「また···あの夢か?」


ライネルは小さく呟いた。


これが初めてじゃない。

感情が乱れるたび、

理解できない光景が浮かんできた。


砕けた記憶。

けれど、あまりに生々しい感覚。


それはまるで、

自分じゃない

別の存在の記憶みたいで。


その瞬間。


扉が『ガチャ』と開いた。

二人が入ってくる。


目の死んだ顔。

黒いマント。


「十四番、移動だ。ついて来い」


鎖が外された。

だがそれは自由じゃない。

ただ動かせるだけの『余裕』だった。


ライネルは静かに立ち上がった。

足を踏み出しながら思う。


今度は、

どこへ連れていかれるんだろう。


*アップロード時間変更のお知らせ

これまでの時間から 21時30分 に変更となります。


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