48. ピアラ(ぴあら)
正午をだいぶ過ぎた頃。
あたたかな日差しが窓の隙間から差し込み、
木の床に静かに落ちた。
部屋は静かだった。
だが食卓の向こう、
小さな机の前で資料をまとめているパイルグの指先は忙しく動いていた。
さらっ――
ページを繰る音。
それに続く、控えめな起き上がる気配。
「んん……」
寝具を払って、最初に目を覚ましたのはライネルだった。
ぼさぼさの髪をかき上げ、周囲を見回す。
「……もう日が高いですね」
机に座っていたパイルグが、顔だけ向けて言った。
「起きたか、ライネル」
「はい……思ったより疲れてたみたいです」
目をこすりながら窓の外をちらりと見た彼は、
他の仲間が見当たらないと、すぐに訊いた。
「他の二人は?」
パイルグは短く頷く。
「まだ寝てるだろ」
「そっか……手伝うって決めた以上、起こしてきます」
ライネルが立ち上がろうとすると、
パイルグが静かに手を上げて止めた。
「いや、いい。
それより……明け方に会った男。あの話をもう少し聞かせろ」
その言葉でライネルの足が止まる。
小さく頷き、静かにパイルグの方へ歩み寄った。
「……村の外れの木の前に、一人で立ってました。
気配が薄くて、肩を震わせていて」
パイルグはまだページをめくりながら、短く問う。
「何を言ってた?」
ライネルは一度言葉を止め、記憶をたどる。
「……モディアって名前を、ずっと呼んでました。
『もう少し待てば……俺たちはまた会える』
そんな言葉を繰り返してました」
パイルグの指が止まった。
ゆっくり顔を上げ、ライネルを見る。
「確かか。
その名……聞き間違いじゃないな?」
ライネルははっきり頷いた。
「精霊石で聞きました。アイラが術を使って。
声はぶれてなくて……盲目的というか」
パイルグの表情が固まった。
深く息を吸い、低く言う。
「……モディア」
短い、重い沈黙。
そしてパイルグは視線を机へ落とし、ぽつりと呟く。
「その男……ただの被害者ってわけでもないかもしれん」
ライネルの表情が引き締まる。
「……どういう意味です?」
パイルグは少し間を置き、低く続けた。
「モディアって名は、この村でよく出る名前じゃない。
それにあの男……数か月前から独り言が増えてた。
だが皆、ただ悲しみに沈んでるだけだと思ってた」
ライネルが静かに訊く。
「……じゃあ、もしかして。
ピアラの“偽の記憶”が……彼に影響を?」
その言葉に、パイルグはゆっくり頷いた。
「あり得る。
いや、もしかしたら――」
パイルグは一冊の本を脇へ押し、重く言った。
「あの男が……
ピアラの本体を“守ってる”のかもしれん」
ライネルの目が細くなる。
静かに、だがはっきりと言った。
「それなら……今夜は、
あの木の周辺をもっと丁寧に調べるべきですね」
「疲れるだろうが頼む。
腹は? 何か出そうか?」
パイルグが慎重に訊くと、
ライネルの脳裏に昨夜の草料理がよぎった。
乾かした葉の漬け物、茹でた野草、薬草の和え物……
「いえ……村を少し回って、軽く済ませてきます」
柔らかく首を振り、笑い混じりに答える。
「そうか。じゃあ……それでいい」
ライネルは上着を羽織り、静かに扉を開けた。
冷たい風が頬をかすめ、
彼は口元をわずかに上げて心の中で呟いた。
「……二人とも、ごめん。
起きたら……おいしく食べてくれ」
言葉の端に、ほんの小さな申し訳なさが滲んだ。
村の道へ出ると、
あちこちで人とすれ違う。
一日の半分が過ぎ、活気が出てもおかしくない時間。
それなのに、人々の顔には疲れが落ちていた。
目の下に濃い影。
歩みは鈍く、
ぼんやり虚空を見つめる者もいる。
それでも――
誰かと話す時だけは、
彼らの顔に明るい笑みが浮かんだ。
「だってね、昨日の夢で……赤い花畑に……」
「ほんとに?
私も、早く会いたい……」
あたたかな声。
期待で満ちた目。
彼らにとって、赤い花は悲しみの象徴ではない。
いや――
赤い花はむしろ、
幸福な夢へ入るための鍵だった。
ピアラ。
危険な花は、
この村では“幸せ”として包まれていた。
現実は疲れていて、重くて、乾いている。
それでも人は夢の中で笑う。
失った人にまた会い、
叶わなかった願いを抱き、
忘れたい現実を少しだけ置いて生きていた。
ライネルはその様子を静かに見つめ、
細く息を吐いた。
夢の幸せは……本当に幸せなのか。
胸の中で繰り返す問い。
だが、誰も簡単に答えは出せなかった。
日が傾きかけた頃、
村を一周して戻ってきたライネルは、
パイルグの家の扉をそっと開けた。
中ではもう食事が始まっている雰囲気。
だが空気が――
どこかおかしかった。
食卓の向こう。
深刻な顔で食べているアイラとモネロ。
一方で、
パイルグだけが満面の笑みで草をしゃくしゃく噛んでいる。
「おー、ライネル。戻ったか。
飯まだだろ? 座って食え」
明るく迎えられたが、
ライネルは戸惑って手を振った。
「いえ、僕は……
外で軽く食べてきました」
その瞬間――
無言の視線が突き刺さる。
フォークを動かす手すら止めて、
アイラとモネロが同時に顔を向けた。
――裏切り者。
その視線を全身で浴びたライネルは、
気まずそうに笑い、言い訳するように付け足した。
「はは……ちょっと……
村を見て回って、観察もしてて」
ライネルは座ったものの、
食卓の緑には目を向けずに言った。
「新しい花は見つかりませんでした。
でも、その代わり村の人たちを少し注意して見てました」
パイルグが頷いて訊く。
「やっぱり……
村人の協力は難しそうか?」
ライネルはしばらく考え、静かに答えた。
「はい。
みんな……幻の中に深く沈んでます」
声は低いが、はっきりしていた。
食卓にまた沈黙が落ちる。
パイルグは一度息を整え、静かに言った。
「そうか。明け方にまた動く。
今日は早めに寝とけ」
その言葉でアイラはゆっくり立ち上がり、
モネロも腕を伸ばして頷いた。
「俺が今日まとめた資料は……
出発前に説明する」
パイルグはそう言って、机の方をちらりと見た。
ライネルは立ち上がりながら、ぽつりと呟く。
「……今夜は、長くなりそうですね」
◇
明け方の冷たい空気の中、
パイルグは巻物を広げて言った。
「よし。俺がまとめたのはこれだ」
二枚の村の地図。
赤いインクで丸を付けた二つの区画が目に入る。
「見つかってない最後の一輪。
場所はこの二つの区画にある可能性が高い」
ライネルが地図を覗き込み、呟く。
「どちらも村の外れですね」
「そう。だが範囲はだいぶ絞れた」
パイルグは頷き、続けた。
「それに、昨日の男がまた出てくるかもしれん。
だから……今日は四人で動いたほうがいい」
モネロが眉をひそめた。
「でも、それだと見つかる確率も上がりませんか?」
「大丈夫だ」
パイルグがきっぱり言う。
「村人は今ごろ、ピアラが見せる夢の中だ。
簡単には起きない」
その言葉に、アイラが首を傾げて訊いた。
「……でも。
私たち、夢を見てませんでしたよね?」
パイルグはくすっと笑い、肩をすくめる。
「それはな。
昨日の夕飯に入れた草が答えだ」
「まさか……」
アイラが目を丸くすると、
パイルグは得意げに頷いた。
「そうだ。
お前らの飯に、ピアラの幻覚を抑える薬草を混ぜた。
言っただろ?
俺は薬草師だ――そのくらいは勉強してる」
そこでアイラが、さらに慌てた顔で叫ぶ。
「でも、ライネルは昨日の夕飯食べてないじゃないですか!」
パイルグは平然と笑った。
「心配するな。
その薬草は一度飲めば三日は効く」
それを聞いていたモネロが、ぶつぶつ言うように挟む。
「じゃあ……
俺たち、昨日あんな草ばっか食わなくてもよかったってことですか?」
「うん、そうだ」
パイルグは何でもないように言った。
「でもお前ら、何も言わないからな。
口に合うのかと思って、また同じにした。
うまかっただろ? な?」
アイラは真顔で、囁くように呟いた。
「……草しかない料理は……無理」
モネロも小さく呟く。
「肉……肉が食いたい……」
「言わないと分からないだろ?」
パイルグはのんきに笑い、
口元を軽く拭って立ち上がった。
背中に突き刺さる、
“腹立つ”と言いたげな二つの視線。
だがパイルグは気づかないまま、
いつも通り装備を整えた。
すっ――
四人は静かに、
今日の最初の調査地点へ向けて歩き出した。
◇
月明かりがかすかに差す共同墓地。
傾いた墓標と霜を含んだ風が、
背筋を妙に冷やした。
モネロが肩をすくめて言う。
「はぁ……ここ、昼でも来たくねえのに……
ほんとに必要なんですか、こんなとこまで……」
パイルグは軽く笑った。
「でも四人ならまだマシだろ。
頼れる仲間もいるしな」
「……頼れる仲間って……逆に不安ですね」
モネロがぼそりと呟いたが、
他の三人はもう周囲を見回していた。
「よし、各自担当の区画から確認しろ。
徹底的にな」
パイルグの短い指示で、
四人は墓地のあちこちへ散った。
墓標の脇、窪んだ土、
雪に埋もれた古い墓の周りまで。
薄く積もった雪を慎重にかき分け、
静かな探索が続く。
凍った土に膝をつき、
墓標の裏へ魔道具の光を当て、
一つずつ確かめていく。
息を吐くたび白い息が伸び、
額の汗が冷たい風で冷えた。
その時――
「おい! ここ、変な跡がある!」
モネロの叫びに、三人がすぐ駆け寄った。
だがそこにあったのは、
落ち葉の下に押しつぶされた枯れた茎だけ。
ライネルは首を振った。
「……花じゃない。
ここは空振りだ」
パイルグが周囲をもう一度見回し、
きっぱり言った。
「よし。ここにはない。
次へ移動する」
四人は頷き、
ゆっくり墓地を出始めた。
「……まあ、四人だと確かに早いな」
パイルグが満足そうに頷く。
その言葉に、ライネルが呆れたように小さく息を吐き、
落ち着いた声で言った。
「早いに決まってます」
パイルグが首を傾げる。
「ん? なんでだ?」
ライネルは軽く顎で後ろを示した。
「後ろ見てください。
怖がってるバカ二人が……早く出たくて必死だったんですよ」
パイルグが振り向くと――
疲れ切った顔で互いを慰め合っている、
アイラとモネロがそこにいた。
「ほんと……死ぬかと思った……」
「二度と……こんなとこ来ないでいよう、うん……?」
二人は肩を叩き合い、
生還の実感を分け合っている最中だった。
パイルグは気まずそうに笑い、
後頭部に手をやった。
「……まあ、結果的に早く終わったのは事実だ」
ライネルは首を振る。
「名目上はC級冒険者なんですよ。
アンデッドでも出たらどうするつもりだったんですか」
「そういうこと言うなよ。
……ほんとに出てきたらどうするんだよ……」
モネロは目をぱちぱちさせて、口を閉ざした。
そして――
一行は息を整え、
次の場所へ向かう準備を整えた。




