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43. 果たせぬ約束(はたせぬやくそく)

数日後、

少年は決意したように、もう一度山へ登った。


だがフェルカディアの姿はなかった。


そこに残っていたのは、

折れた枝が一本と、

半分かじられたリンゴの皮だけ。


その瞬間、テレパシーが響いた。


「お前を信じたい。

だが私はドラゴンで、

お前は人間だ」


「この境界は、越えられない」


少年は何も言わず、視線を落とした。


「……じゃあ、今までの時間は……全部、嘘だったの?」


「……違う。あれは本心だった。

だが本心だけで、すべてを守れるわけじゃない」


少年は一歩近づき、言った。


「フェル、うちの村で一緒に暮らそう」

「父さんに話せば、村の人たちを説得できる」

「みんなも、君がどんな存在か知れば、きっと受け入れてくれる」


フェルカディアは静かに少年を見つめた。


長い沈黙のあと、

ゆっくり頷く。


「その言葉が……本心なら」


「明日、日が沈む頃。ここでまた会おう。

一日だけ、もう一日だけ待つ」


少年は目を輝かせ、思いきり笑った。


「うん! 絶対、いい知らせ持ってくる!」


風を切って駆け下りる。

世界がまるごと祝福みたいに、きらきらして見えた。


だがフェルカディアは知っていた。

少年の願いは、結局届かない幻だということを。

そして、この地を去る時が近いことを。


その夜、

少年は父にすべてを打ち明けた。


ドラゴンとの出会い、

交わした言葉、

積み重ねてきた時間。

そして、村へ招きたいという本心まで。


父は黙って聞いていた。

少年は両手を強く握り、息を殺して返事を待つ。


しばらくして、

父は静かに口を開いた。


「そうだな。そうするべきだ」


父は頷き、語尾に力を込めた。


「明日の朝、村の集会所へ行って話そう。

皆で歓迎してやらなきゃ。大事なことだ」


表向きは、いつもと変わらない声だった。

けれど少年は気づけなかった。


その笑みが妙に整いすぎていて、

言葉の終わりが、必要以上に滑らかだったことに。


机の下で、父の指は不安そうに震えていた。

父の目は息子の顔を見ているのに、

心だけはどこか別の場所へ向いていた。


そして翌朝。


村は突然の興奮に浮き立っていた。


「ドラゴンが出たって?! 本当か?」

「あの子が言ってた! 山の奥に赤い鱗のドラゴンがいるって!」

「じゃあ……そいつを捕まえられたら……!」


大人たちの間で、ひそひそと囁きが交わされる。


「ドラゴンの心臓からは『魔力宝珠』が取れるってな」

「鱗は最上級の防具素材、

牙は聖剣に埋め込めるらしい」

「村全体が、何年も飢えずに済むぞ」


「これはチャンスだ」

「子どもの話だと、まだ若い個体だ。相手もしやすい」

「計画さえ立てりゃ、必ず仕留められる」


少年は広場でそれを聞き、

顔から血の気が引いた。


(……違う。そんなはずない)


だが目の前の現実が、

彼の信じてきたものを少しずつ崩していく。


少年は家へ駆け戻った。

息が喉に引っかかる。


扉を開けると、

父が裏庭で何かを整えていた。

縄、鉄の杭、畳んだ布。

少し湿った革紐。


少年は一歩、止まった。


「父さん……それ、何?」


父は何でもない顔で言う。


「村で少し用事ができてな」

「心配するな。全部うまくいく」


少年の喉が、焼けるみたいに乾いた。


「父さん、まさか……」


父は答えず、

少年の肩を軽く叩いた。


「お前も村のことを考えろ」

「俺たちは冬を越えなきゃならない」


その言葉が、

刃のように刺さった。


少年は拳を強く握った。

爪が掌に食い込む。


(……このままだと、今日の夕暮れ……)


少年はそのまま外へ飛び出した。

雪道でも泥でも関係ない。


(止めなきゃ)

(フェルを……止めなきゃ)


日が沈む頃、

少年は重い足取りで山を登った。


そこには、

罠があった。

魔法陣があった。

狩人たちがいた。


光を弾く武器、

息を殺して隠された毒と矢尻。


少年は息を吸い込んだ。

ようやく口を開く。


「……なに……これ、なにやってんだ?!」


狩人の一人が振り向いた。


「どうした、ソレイ」


別の大人が冷たく言った。


「ドラゴンの捕獲は、村にとっての機会だ。ソレイ」

「そうだ。これはただの狩りじゃない」

「ドラゴンを捕まえれば、村はまた栄えられる」


少年は叫んだ。


「あのドラゴンは友だちなんだ!」

「俺が話したドラゴンは、物じゃない!」


狩人の一人が、少年を乱暴に突き飛ばした。

少年は雪の上に倒れる。


「ソレイ、村のためだ」

「俺たちの村を守らなきゃならない」


少年は膝をついたまま、

唇を噛んで言った。


「……俺たち……本当に一緒に暮らせたのに……」

「家族になれたのに……」


その瞬間、

空から赤い影がゆっくり降りてきた。


フェルカディア。


少年は跳ね起きて駆け寄り、叫ぶ。


「フェル! 来るな! あいつら、お前を殺す気だ!」


だがその瞬間、

誰かが少年の口を塞いだ。


声は潰れ、

目が大きく見開かれる。


フェルカディアは降りる途中で止まった。


少年と目が合った。


言えなかった警告。

喉が裂けそうな叫び。

最後まで諦めない目。


フェルカディアは、その中に何かを読み取った。


そして、

冷たい声が頭の中に響いた。


「……やはり、裏切りか」


ドォォォン!!


咆哮。

山が揺れた。


炎みたいな魔力が四方へ広がり、

罠も魔法陣も同時に弾け飛んだ。


「動くな! 結界を維持しろ!」


狩人たちが叫ぶが、

彼らの攻撃は届かない。


フェルカディアはただ一度、翼を広げただけだった。


その一動作で、

宙に浮かんでいた装置がすべて粉々に砕けた。


埋め込まれた魔法陣は、

ドラゴンの魔力の前で紙切れみたいに裂けた。


「そんな……!」


狩人たちは踏ん張れず、倒れ込み悲鳴を上げ、

激しい風と熱に呑まれて、

次々と意識を失っていく。


だが、

その渦中でも少年には、

破片ひとつ触れなかった。


少年は隙を突かれて解放された。


視界を掠めるように、

ドラゴンが空へ跳ね上がる。


少年は口を開いた。

だが声が出ない。


フェルカディアはもう何も言わなかった。


ただ最後に一度だけ、

少年を振り返った。


そして彼は、

山の向こう、

二度と届かない空の彼方へ

消えた。


少年はその場に、長いあいだ座り込んでいた。


雪の上に落ちる自分の息が、

白く滲んだ。


指先が震える。


そしてずっと遅れて、

唇の間から声が漏れた。


「……ごめん」



それから何年も経った。


少年は大人になり、

時は彼に家庭と、

静かな日々を与えた。


雪の降るある日、

小さな子どもが彼のそばに座った。


「おじいちゃん、この絵見た?」

「村に寄った商人のおじさんがくれたんだ。赤いドラゴンなんだって!」


少年だった老人は、

子どもが差し出した絵を静かに受け取った。


絵の中には、

大きな翼を広げた赤いドラゴンが

空を飛ぶ姿で描かれていた。


その瞬間、

老人の手が震えた。


唇が渇き、

息が止まりそうになる。


「このドラゴン、本当にいたのかな?」

子どもが澄んだ目で尋ねた。


だが老人は、

何も言えず、

ただ長いあいだ絵を見つめることしかできなかった。


その日から、

彼の日常は少しずつ変わり始めた。


庭の片隅、

日差しが一瞬だけ留まっていく静かな場所に、

小さな作業台を作った。


そこで彼は、

古い彫刻刀を取り出した。


硬い石片に、

刃先をゆっくり、丁寧に走らせる。


それはただの作業じゃなかった。

一つ一つが、記憶を撫で直す行為だった。

胸の奥から取り出せなかった言葉を、

静かに磨き落としていく行為だった。


記憶を追って削った笛は、

いつも荒く、不格好だった。


ピィッ。

ピィィ···


まともな音は出ない。


それでも、彼はやめなかった。


時には黙って壁画の前に座り、

絵を少しずつ完成させていった。


絵の中で、

少年は手を伸ばしている。

空を飛ぶ赤いドラゴンへ。


老人は独り言みたいに呟いた。


「これは……俺が、お前に送る最後の挨拶だ」


家族は最初、理由を聞かなかった。


だが時が経つにつれ、

子どもも孫も、

その彫刻や壁画に少しずつ愛着を注いでいった。


「このドラゴンの名前はなに?」


老人は穏やかに笑った。


「フェルカディアだ」


そして低く付け加える。


「ずっと昔……俺が本当に大事にしてた友だちだった」


ある夜、

老人は古びた紙を一枚取り出した。


長い迷いの末、

筆を取り、最後の文字を残した。


『フェルカディアへ』


最近も、ときどき夢にお前が出てくる。

あの頃に戻って、

雪原の上で俺たちが話してた姿のまま。


あのときは何も分かってなかったけど、

お前のそばにいられる時間が、俺は本当に好きだった。


村の人たちに言わなきゃよかった。

そうしてたら···

俺たちはもっと長く、もっとたくさん、一緒にいられたかもしれない。


俺は今でもあの日を覚えてる。

お前の目、

俺が吹いためちゃくちゃな笛の音、

それから、お前の静かな返事。


いつも、お前と一緒に冒険に出る想像をしてた。

世界を歩いて、

空の上をお前と一緒に飛んで···


その夢は、今も俺の中に生きてる。


お前は俺にとって、ただのドラゴンじゃない。

一番大切な『友だち』だった。


いつか、また会えるなら、

そのときはきっと、

俺が用意しておいた話から聞かせるよ。


お前の友だち、ソレイ



初雪の降るある冬。


雪に覆われた山裾の小さな村に、

見知らぬ旅人がひとり現れた。


赤い髪、

澄んだ瞳。


彼は人の輪に紛れ、

何も言わず広場に座り、

子どもたちが吹く不格好な草笛の音を聞いていた。


「ピィッ··· ピィィ···」


ひどい音。


だがその音が、どこかで

遠い昔の記憶をそっと叩いた。


彼は静かに目を閉じた。


目を閉じると、浮かぶ。


風を切って走る少年。

めちゃくちゃな笛の音。

そして、言葉のない最後の視線。


「……ソレイ」


目を開けると、

ひとりの子どもが彼に声をかけた。


「おじさん、笛うまい?」


「……少しな」


「じゃあ一緒に吹こうよ!」

「これ、ドラゴンと友だちになった少年が吹いてたんだって!」


その言葉に、彼は一瞬止まった。


「ドラゴン?」


「うん! うちの村の伝説!」

「昔、ドラゴンと友だちになった少年がいたんだって!」


子どもは嬉しそうに続ける。


「そのドラゴン、本当に優しかったんだって」

「でも村の人たちが……あとで……」


言い淀んだ子どもは、手でどこかを指した。


「あっちの丘に行くと石像もあるし、手紙もあるよ!」

「一緒に行く?」


彼は少し黙り、

やがて頷いた。


村の裏手の小さな丘。


木々の間に立つドラゴンの石像。

そしてその傍らに置かれた石碑。


子どもが先に行きながら言う。


「これ! ここに手紙が刻まれてるの!」

「すっごく昔に、ドラゴンに残したんだって!」


旅人はゆっくり近づき、

石碑に刻まれた文字を読んだ。


『フェルカディアへ』


彼の瞳が揺れた。

呼吸が深くなる。

胸の奥から感情が込み上げた。


そして、

涙が落ちた。


一滴。

また一滴。


その涙は地面に落ち、

澄んだ小さな赤い宝石へと固まった。


その瞬間、

空のどこかで、

聞こえないはずのこだまが

彼の心をかすめた。


彼はしばらく、顔を上げられなかった。


子どもも、

隣の大人たちも、

何を言えばいいのか分からなかった。


雪だけが静かに積もっていく。


その日以来、

赤い髪の旅人は村から消えた。


村の者は誰ひとり、彼を思い出せなかった。


ただ、ひとりの子どもだけが、

なぜか彼と過ごした時間を

夢みたいに思い出すことがあった。


そして毎年、初雪の降る夜になると、

広場ではひとつの話が変わらず語られていた。


少年とドラゴンの物語。

真心が届かなかった別れ。

それでも消えなかった名前。


「じゃあ……ドラゴン、本当に戻ってきたの?」


子どもたちが尋ねる。


大人たちは笑って言う。


「そうだよ」

「ほんの一瞬だったけど、あいつは本当に戻ってきたんだ」


「それで、気持ちを届けていった」

「ほら、涙が残ってるだろ」

「それが証拠だ」


空と地は結局、もう一度繋がることはなかった。

それでも心だけは、長い時間を越えて互いを覚えていた。


村の集会所。ガラスケースの中には、

小さな赤い宝石を集めて作った飾りが、静かに置かれていた。


それは『ドラゴンの涙』と呼ばれ、

村の伝説を伝える唯一の証として大切にされていた。


飾りの下には、小さな札がある。


『忘れぬために··· ソレイ』


子どもたちは黙ってその宝石を見つめ、

やがて集会所を出て広場へ向かった。


そしてそこで、

また笛を吹き始める。


ピィッ。

ピィィ···


その夜、

ひとりの小さな子が、

木の棒を自分で削って作った笛を握り、

広場の真ん中に立っていた。


「これ、ぼくが作った笛だよ」


その子は照れたように笑って言った。


「本物のドラゴンが来たら、

この音、きっと聞こえるよ」


その不格好な演奏が、

白い雪の降る音に混じって広がっていく。


そしてその瞬間、

広場を通りかかった誰かが、

そっと足を止めた。


その人はしばらく見つめ、

黙って子どもの隣に腰を下ろした。


「そうだな」

「たぶん、届く」


初雪の夜。

物語はいつだって、そうやってまた始まる。


もしかしたら、

赤い鱗の友だちが

もう一度降りてくるかもしれない、と。


そしていつか、

その赤い影が空のどこかから、ふっと降りてくるなら、

誰かはきっと思い出す。


その名前を。

その眼差しを。

そして、最後まで伝えたかった想いを。


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