42. 赤き竜の友(あかきりゅうのとも)
「……さあ、始めるか」
リーダーが低く呟き、腰のあたりから布切れを一枚取り出した。
見た目は普通の風呂敷に近いが、織りはきめ細かく、模様もやけに精巧だ。
指先に触れる感触からして、安物の布とは違っていた。
それを見た若い盗掘屋が息をのむ。
「それが……魔法の風呂敷ってやつですか?」
「そうだ」
リーダーは布を広げて笑った。
「これさえあれば、どれだけデカくても関係ねぇ。
軽く包んで……手に持って出られる」
そう言って、そのまま石像の上に布を被せた。
赤いドラゴンの目が布の下に隠れた、その瞬間。
シュッ——
短い風が吹いた。
雪が一度だけねじれ、森の空気が微かに揺れた。
そしてすぐに。
大きな石像が、
ゆっくり、音もなく、
縮みはじめた。
三人は本能的に息を殺した。
重々しい岩塊が、水に溶けるみたいに体積を失っていく。
鱗の輪郭も、角の角度も、瞳の金色もそのまま——ただ大きさだけが変わっていく。
目の前でじわじわと小さくなり、
ついには片手で握れるほどになった。
リーダーはそれを慎重に持ち上げる。
軽い。まるで紙箱みたいに。
「……よし」
振り返り、言った。
「いい。出発だ」
リーダーの手にある、小さな風呂敷の塊。
その中に隠された石像は、布越しにでもどこか微かに響いているようだった。
光が漏れているわけでもないのに……見ている目が、妙にくらくらする。
そのときだった。
ずっと昔、
誰かの記憶が静かに目を覚ました。
◇
「ほんと……くだらねぇ」
少年の声には不満が詰まっていた。
五十年前、初雪の降ったあの日。
村はいつもの冬みたいに静かで、
メクエムはその日も石像の前に座っていた。
雪は積もり、風は冷たい。だが少年はわざと手袋もしない。
「毎年同じだ。
冬になるたび、石ころの前で頭を下げて……
あんな伝説がなんだってんだよ」
赤い石で造られたドラゴンの姿。
いつもそこにある、変わらない存在。
少年は雪も払わないまま、しばらく黙って座っていたが、
ぽつりと一言吐き捨てた。
「俺はばあちゃんみたいに石像なんか守って、
村に閉じ込められて生きたくない」
息を吸う音まで尖って聞こえるほどの静けさ。
少年はその静けさが嫌だった。
だから、もっと大きく、もっと早く、言葉を吐き出した。
「冒険者になって、
すげぇ場所にも行って、
うまいもんも腹いっぱい食って、
いい仲間にも出会って……そういうのをやるんだ」
そのときだった。
静かな足取りで、少年の背後から近づく老人。
雪を踏む音が、やけに柔らかい。
ゆっくり手が伸びてきて、
メクエムの頭の上にそっと置かれた。
掌の温もり。
古い記憶みたいに、やさしく、あたたかい。
「メクエム」
少年はびくりとした。
振り向くと、祖母が立っていた。
雪の中でも崩れない表情。
急かさない声。
「くだらなく見えてもね、
私たちが守っているのは、ただの石像じゃないのよ」
少年は瞬きをして見上げた。
「ばあちゃん……どう見ても
普通のドラゴンの形した石像だけど?」
祖母は静かに笑った。
それから手を伸ばし、
石像の上にふわりと積もった雪を、ゆっくり払った。
さく、さく。
指先の下に現れたのは、歳月に削られて色の褪せた輪郭。
ぱっと見は、ただの石の彫り物にすぎない。
けれど、その瞳だけは……妙に「見て」いた。
「これはね……」
祖母の声は、
風より低く、あたたかく続いた。
「一人の少年とドラゴンの友情が残した、証なの」
「……友情? 本物のドラゴンと?」
その問いに、祖母は答えなかった。
代わりに、古い風みたいな微笑みを浮かべた。
◇
物語は、村に初雪が降った冬、
小さく軽い薪のかごから始まった。
「これだけあれば……今夜はあったかく過ごせるかな」
少年はいつものように、山の斜面の下を歩き回っていた。
白い息が散る中、最後の薪を拾い集め、腰をかがめる。
そのとき。
「……グルル……」
葉の間——いや、もう今は雪の塊の間から、
低く荒く、獣みたいな呼吸が聞こえた。
少年はその場で止まった。
怖かった。
なのに不思議と、胸の奥で知らない引力が働いた。
なんだ……?
少年はゆっくり、雪を踏みしめて近づいた。
足元で聞こえるのは、ぱさぱさという音ではなく、
ふわりと雪が沈む音だけ。
そして、そこで。
少年は赤い鱗に覆われた、
小さく傷だらけのドラゴンを見た。
雪の中に半身を埋め、ドラゴンは目を閉じている。
だが全身から淡い魔力が漏れ、
赤い鱗は冷たい空気の中でも微かな熱を宿していた。
「……本物の……ドラゴン……?」
思ったより小さい。
怖い話の中の「空の捕食者」とはまるで違った。
危なそうではあるのに……どこか痛々しかった。
少年の目が大きく開いた。
白い雪原の上で、その小さな赤い命を初めて見た瞬間。
その瞬間、少年の頭の中に、声ではない声が突き刺さった。
「……今すぐ消えろ。
そうしないと、死ぬ」
少年は悲鳴を飲み込み、後ずさった。
恐怖が全身を覆い、そのまま山を駆け下りて逃げた。
だが翌日。
少年は小さな瓶に牛乳を入れ、
パンを一切れきれいに包み、
またそこを訪れた。
今度は慎重に。
期待と不安を半分ずつ抱え、足を運ぶと、
目を閉じて呼吸を整えているドラゴンが、やはりそこにいた。
「……また来たのか」
テレパシー。
ドラゴンは片目だけ開け、少年を見た。
少年は何も言わず、
牛乳とパンをそっと岩の上に置いた。
それからすぐ後ろへ、逃げるように下がり、
少し離れた木の陰から息を殺して見守った。
食べるのかな……いや、人間の食べ物は食べないか……。
ドラゴンはしばらく迷うようにしてから、
まるで指先ひとつで魔法を使うみたいに、
パンと牛乳を宙から吸い上げてしまった。
少年の目が輝いた。
満面の笑みで拳を握りしめる。
「……面倒な人間だ。
私は休みたい。もう来るな」
それでも少年は小さく叫んだ。
「明日も来る!」
翌日。
少年がまた登ってくると、ドラゴンの姿はなかった。
きょろきょろしていると、
頭の中に聞き覚えのある響きがした。
「……私を探しているのか」
少年は驚いて目を見開き、すぐにぱっと笑った。
「うん! 俺はソレイ。君の名前は?」
短い沈黙のあと。
赤い岩の陰から、
ドラゴンがゆっくり顔を上げた。
「……フェルカディア」
空気に溶けたその名は、
二人だけの古い契約みたいに、
少年の胸の奥に残った。
その日は、妙に風が穏やかだった。
少年は小さな巻物を広げ、
自分で描いた地図を見せた。
「これ、俺が描いた『地図』だよ。
海もあるし、火の山もあるし……
それで、ここは空を飛ぶ城!」
フェルカディアは静かに頭を下げた。
少年の指が地図の上を、ゆっくり、慎重になぞっていく。
「いつかここを旅するんだ。
空の上で、君の背中に乗ってさ」
「……私は人間を乗せて飛ばない」
「じゃあ……俺だけ例外にしてよ」
少年はふざけたようにウィンクした。
フェルカディアは長く息を吐いたようで、低く答えた。
「……考えておく」
少年はその返事が嬉しかったのか、目をきらきらさせた。
数日後、また来た少年は、そっとガラス玉を一つ取り出した。
「これ、母さんが特別に俺にくれたんだ。
これさえ持ってれば、なんだってうまくいくって言ってた」
フェルカディアは無関心そうにガラス玉を見下ろした。
その上で、ごく微かな魔力が揺らいでいる。
しばらく、彼はその光を黙って見つめた。
「……母という存在は、人間にとって特別なのか」
「うん。もちろん」
少年は空を見上げた。
雪片が一つ、頬に触れた。
「母さんは……雪がいっぱい降る日に、俺の手をぎゅっと握って、こう言ったんだ」
少年はゆっくり、記憶を辿るように言った。
「『これを大事にしていれば、
いつかきっと、
本当に大切な友だちに出会える』って。
それが……君だと思う」
フェルカディアはしばらく沈黙し、低く囁くように言った。
「……私は、そんな存在ではない」
少年は静かに笑った。
「違うよ。
俺はそう信じてる。
だって、出会えたじゃん」
その瞬間、フェルカディアはほんの少しだけ目を伏せた。
岩陰に隠れていた尾の先が、ゆっくり、ゆっくり動いていた。
少年はそれを見て、小さく呟いた。
「……俺たち、ほんとにいい友だちだ」
フェルカディアが傷を癒して、
いつでも飛び去れるはずだと思っていたのに……
彼はいつも、そこにいた。
少年は毎回、何かを用意してきた。
読んだ本の話、
道で拾ったきれいな石、
自分で削った木の笛。
「これ、俺が作ったんだ」
少年は誇らしげに草笛を吹いた。
ピィ——ッ。ピィィ——ッ。
ひどい音だった。
でもフェルカディアは黙って聞いていた。
尾の先が、微かに揺れたのを少年は見逃さない。
「今、笑っただろ?」
「……笑っていない」
「でも尾っぽ動いたじゃん!」
「……偶然だ」
少年はけらけら笑い、フェルカディアは長く息を吐いた。
ある日、少年は古い木箱を抱えてきた。
「これ、うちの宝箱。
俺が好きなものだけ入れてるんだ」
中には、幼い頃に作った筏の欠片、
母にもらった銀のボタン、
それから、拙い字で書いた手紙が入っていた。
少年は小さな絵も取り出した。
空を飛ぶ赤いドラゴン。
今見ると、フェルカディアによく似ていた。
フェルカディアが低く尋ねた。
「……お前は、ドラゴンが怖くないのか」
「最初は怖かったよ。
でも今は……君を見ると落ち着く。
俺、君が好きだ。フェルカディア」
少年の言葉に、
ドラゴンは静かに視線を落とした。
そのとき、岩陰に隠れていた尾の先が、
ゆっくり、ほんの小さく揺れた。
少年はにっと笑った。
「うん。俺はただ、君が好きなんだ」
その夜、フェルカディアはひとりで星を見上げていた。
ただ、好き。
その言葉が、どうしても頭から離れなかった。
あり得ない言葉だった。
だからこそ、消えなかった。
数日後。
少年は息を切らしながら山を登ってきた。
手には赤く艶めく大きなリンゴが一つ。
「見て! うちの村で一番高いリンゴ!
ばあちゃんに内緒で一個くすねた!」
「……人間は盗みを自慢するのか」
「それくらい特別ってこと」
少年はウィンクした。
フェルカディアはしばらく見つめ、
静かにリンゴを受け取って口に入れた。
「……うまいな」
少年はまた、満面の笑みを浮かべた。
そうやって毎日、
二人だけの時間が積み重なっていった。
物語になって、
記憶になって、
友情になった。
そしていつしか、
互いの名は、
二人の心の奥に深く根を下ろしていった。
その日は、妙に静かな朝だった。
山の下は風ひとつなく、
濃い霧が木々の間をゆっくり包んでいた。
少年は草かごを抱え、
慣れた足取りで山道を登る。
「フェル! 今日はさ、めちゃくちゃ面白いことがあって!」
でも。
聞こえるはずのテレパシーも、
慣れ親しんだ呼吸も、何もない。
「……フェル?」
ドラゴンはそこで目を閉じ、
ぴくりとも動かなかった。
少年が近づこうとした、その瞬間。
頭の中に、低く硬い響きが突き刺さった。
「……帰れ」
少年は足を止めた。
ドラゴンはゆっくり目を開く。
「今日は……一人でいたい」
少年は黙って立ち尽くし、
小さなリンゴを一つ取り出して岩の上に置いた。
「じゃあ、明日は平気だよな?」
返事はなかった。
少年はゆっくり背を向けた。
その背後に、風もないのに
夜が差し込むように降りてきていた。
その夜。
フェルカディアは山の下で、
見知らぬ気配を捉えた。
人間の足音。
人の血と槍、そして息に混じる会話。
「本当にいるって。赤い鱗のドラゴン」
「まだ成長しきってない個体だろ?」
「あの子がよく消える時間帯と、ぴったり重なる」
フェルカディアは静かに目を開いた。
「……これは偶然ではない」
翌日。
少年は、何かが変わった空気を感じ取った。
フェルカディアは口数がなく、
その目にはどこか深い闇が宿っていた。
「どうしたんだよ、フェル……?」
「……お前は私を恐れていないのか」
少年は首を振った。
「怖かったら、もうとっくに逃げてる」
「だが、お前たちの村の者は違う。
あいつらの息は……私を狙っている」
少年は言葉を失った。
何も言えずにいると、フェルカディアはゆっくり顔を背けた。
「境界には、守らねばならぬ理由がある」
その夜。
少年は村の大人たちの話を、偶然聞いてしまう。
数日前からだった。
村の大人たちは、少年が山から戻ったあと、
やけにぼんやり窓の外を見ていると囁いていた。
「最近、ソレイって変じゃない?」
パン屋のおばさんが薪を割っていた大人に尋ねた。
「さぁな……前は弟たちともよく遊んでたのに、
最近はひとりで山にばかり行ってる気はするな」
「夜に独り言を言ってるの、聞いたことあるよ。
誰に話してるのか分からないけど、
まるで……返事を待ってるみたいに」
その言葉を聞いた老人が、首を振った。
「昔な……
空の獣が村の近くに現れたときも、
似たようなことがあった。
誰かが先にその存在へ近づき、
結局、村が被害を受けた」
「もしかして……あの子、何か隠してるんじゃないか?」
皆の視線が、同時にある方向へ向いた。
少年は息を殺した。
そして、何かが——
間違った方向へ進んでいると、直感した。




