41. 始初の宝石(ししょのほうせき)
「うわ、昨夜のうちにずいぶん積もったな」
ライネルが扉を開けて外へ一歩出た。
冷たい空気がそのまま顔を叩き、足元には雪がふくらはぎまで積もっていた。
少しして、モネロもぶつぶつ言いながらついてくる。
「はぁ···寒すぎる。雪の降る土地って、やっぱ慣れねぇ」
ライネルが振り返った。
「モネロ、お前の故郷にも冬はあっただろ」
「あったよ。けど、こんなに積もりはしねぇ。
あっちはスコップ持ち出すこと自体、なかったからな」
そのとき、また扉が開いた。
昨日彼らを案内した老人が顔を出す。
「さぁ、村の集会所へ行こうかの」
三人は雪を踏みしめ、細い路地を抜けていった。
村は静かだった。年寄りが家の前を掃いていて、
子どもたちは雪の上をごろごろ転がっている。
ほどなく着いたのは、村の中心にあるこぢんまりとした家。
屋根の上には分厚く雪が積もり、門前には足跡がひとつだけ残っていた。
老人が戸を叩くと、中から柔らかな声が返ってきた。
「お入りください」
扉を開けて入ると、暖炉の前に座っていた白髪の老人が顔を上げた。
濃い外套に、顎の下まで毛布を巻いた姿が印象的だった。
「村長、昨日は雪が強くてお話しできませんでした。
この若い者たちが、村に滞在している間、少しでも手伝いをしたいと言いましてな」
村長がライネルとモネロを順に見た。
ライネルが先に頭を下げる。
「はじめまして。ライネルと申します」
「俺は、モネロです」
村長はゆっくり頷いて言った。
「雪が多くて、村も少し慌ただしい。
頼みごとをしてもいいかな? 何日か滞在するついでに、軽くでも手を貸してくれると助かる」
「はい。協力します」
「···不吉だな」
モネロが小さく呟いた。
村長は笑って視線を向ける。
「よし。もうすぐ村の者たちが来る。
簡単に役割を割り振るから、待っていてくれ」
しばらくして、戸の外からざわめきが近づいてきた。
「モネロさん!」
村の青年たちが、雪かき用のスコップを抱えて集会所へ入ってきた。
モネロは後ずさりしながら手を振る。
「待って、まだ心の準備が···」
「ちょっとでいいです! 二、三時間くらい!」
「それを“ちょっと”って言うか?! ライネル、お前はやらねぇの?!」
ライネルはちらりと後ろを見て言った。
「村長が、少し個別に用があるって。
悪い、モネロ。お前の分まで頼む」
「ライネル!!」
ライネルは集会所の前に立ち、その様子を見て笑った。
そのとき、片側の壁に掛かった絵が目に入った。
白い雪山の上へ飛び立つ赤いドラゴン。
鱗の一枚一枚が生きて動きそうなほど精密だった。
「その絵が気に入ったようだな」
村長が隣へ歩み寄る。
ライネルは頷いて尋ねた。
「もしかして···このドラゴンは、伝承にあるあの存在なんですか?」
村長は絵を見ながら、ゆっくり口を開いた。
「昨日、あのドラゴンの伝説の話を聞いたかね?」
静かな問いに、ライネルは少し考えて頷いた。
「はい。お年寄りから···ざっと聞きました」
村長はしばらく絵を見つめ、独り言のように呟く。
「時が経てば、伝説は物語になり···
物語は結局、童話みたいに扱われるものだ」
首をわずかに傾けた。
「それでも私は信じている。
私が···純粋に見えるかね?」
はは、と村長は軽く笑ったが、その奥には重みがあった。
古いものを信じる者だけが持つ、揺るがない芯のような。
沈黙が落ちる。
やがて村長がライネルへ視線を移した。
「君の腕輪だが。
『始原の宝石』という伝説を聞いたことはあるか?」
ライネルは反射的に手首へ目を落とした。
「···それは、初耳です」
「ドラゴンの涙に似た宝石ではある。
だが用途はまるで違う」
村長はゆっくり言葉を継ぐ。
「言い伝えではな。
最初の人間の魔法使いが、魔族の地で魔力を学んで戻るとき、
協力の証として受け取った宝があったそうだ」
その言葉に、ライネルの目がわずかに見開かれた。
村長は頷き、続ける。
「そしてその魔法使いは、
後に自分が最も大事にしていた五人の弟子へ、その宝石を一つずつ渡したという。
そうして『始原の宝石』は、各地に散っていった」
ライネルは慎重に尋ねた。
「···その五つの場所は、記録に残っているんですか?」
村長は首を振った。
「今は分からない。
ドラゴンの涙と同じで、この宝石も今では伝説として語られるだけだからな」
村長は静かに笑った。
「人間と魔族が協力したというのも···
今となっては笑い話だ。世の人々は信じられないと言う」
「でも···あり得ない話ほど、
本当の可能性もありますから」
ライネルが静かに呟く。
村長の目に、淡い笑みが浮かんだ。
「そう言ってくれて、ありがたい」
少し間を置いて、付け加える。
「言い伝えでは、
その五つの宝石が再び一つに集まれば、
『真なる深淵』を見られるとも言う」
「···深淵、ですか?」
「世界の始まりであり、
人間と魔族、あらゆる命の源が眠る場所だとも···
あるいは失われた真実と向き合うことになる、ともな」
村長は最後に、ライネルの腕輪へ視線を落とした。
「真偽は誰にも分からない。
信じる者が減るほど、真実は伝説へと変わっていくものだからな」
ライネルは黙って腕輪を見つめた。
村長がまた口を開く。
「ところで君は、魔力の使い手だと言っていたな?」
ライネルは頷いた。
「まだ未熟ですが、基本的な診断や感知くらいならできます」
「それで十分だ」
村長は窓の外を見ながら、ゆっくりと言った。
「村の北の森の入口に、石像が一つある。
赤いドラゴンの形をした彫刻でな···
この冬、その石像がどうにも妙なんだ。目に見える変化はないが、
気配というか、雰囲気が変わったと皆が言う」
「···気配、ですか?」
「そうだ。この村の者は、そういう感覚に敏い。
それに、もうすぐ冬迎えの儀式もある。
念のため、君が一度見に行ってくれないか」
ライネルは頷いて立ち上がった。
「分かりました。行ってきます」
◇
ライネルは村の北、森の方へ向かって歩いていた。
雪道を辿っていると、路地の端から子どもが何人か飛び出してきた。
「ライネル兄ちゃんだ!」
その声と同時に。
ぱふっ! ぱふっ!
雪玉が二つほど飛んできた。
ライネルは慌てて身をかわす。
「なんだよ、どうした?」
子どもたちはけらけら笑いながら叫ぶ。
「雪合戦です! 一緒にやろう!」
雪玉を握り、目を輝かせている。
あっという間に囲まれたライネルは、ため息をついて手のひらを見せた。
「悪い。今はだめだ。行かなきゃいけないところがある」
「えー···つまんない···」
子どもたちが名残惜しそうに雪玉を下ろしかけたとき、
一人の少年が控えめに近づいてきた。
「もしかして···森の方へ行くんですか?」
「うん。ドラゴンの石像を見に行くところだ」
「···じゃあ僕も一緒に行っていいですか?
僕、あそこ詳しいです。よく遊びに行くんで」
「いいよ、キリエム。一緒に行こう」
ライネルは微笑んで頷いた。
そうして二人は雪道を辿り、森へ向かった。
他の子どもたちは雪合戦をやめ、雪だるまを作り始める。
森の奥は静かだった。
枝には雪が厚く積もり、足元の雪はぱりっと冷たい。
しばらくして。
キリエムが木をとんとん叩いて言った。
「ほら、あの木の下です」
指差した先に、赤い石像が半分ほど雪に埋もれていた。
ドラゴン。
小さく精巧で、それでも生き物のように生々しい造形だ。
ライネルは慎重に石像の前へ膝をついた。
「···これは···」
赤い宝石みたいに光る瞳。
鋭い角と口元、尾へ続く鱗の流れ。
「本当に···生きてるみたいな精密さだな」
「でしょ? 僕これ好きなんです。
雪が降ってないときは、猫とかリスも来るんですよ。
たまに小鳥も、この辺に止まってたりして」
キリエムが雪を払って言った。
「僕らの間では『守りのドラゴン』って呼んでます。
本当にこの森を守ってるみたいな気がするんで」
ライネルは言葉を失い、石像を見つめた。
彼が感じ取っている微かな魔力の波は、
まるで穏やかに息をする命のように、静かで重い。
そのとき、遠くから誰かの声がした。
「ここにいたか!」
雪をかき分けて近づく老人が見える。
彼は石像の前まで来ると、静かに頷いた。
「村長から話は聞いたろうが、
ただの石像じゃない。冬が深まる頃、ここで小さな祭儀をする。
無事に冬を越せるよう祈るんだ」
ライネルはまた石像を見た。
「妙ですね···
思ってたよりずっと小さいのに···生きてるみたいです。本当に」
老人は頷き、笑った。
「だから皆、ただ『村のドラゴン』と呼ぶ。
本物かどうかはともかく、そう信じる気持ちが村を守るんだ」
その瞬間、風が過ぎた。
赤い石像の上に、雪片がひとつ、そっと降りる。
そしてほんの一瞬。
息をする生き物みたいに、石像が微かに揺れたように見えた。
ライネルは黙って石像の前に立った。
一度息を整え、慎重に手を伸ばす。
冷たい石に、掌が触れる。
同時に、指先から魔力がゆっくりと流れ出した。
軽く、深く、流してみる。
彼はマナの流れを調える。
自然に、柔らかく、糸のような波を送るように、石像の内側へ魔力を流し込んだ。
「···?」
その瞬間だった。
長い眠りから目覚めようとする何かが、
内側で身じろぎをした。
目を開く直前の気配。
見知らぬのに、はっきりとした感覚。
冷たいのに温かく、
重いのに軽い。
ただ触れたのではない。
何かに、つながった。
ライネルの心臓が小さく震えた。
だが。
とん。
糸が切れるように、その感覚はぷつりと消えた。
ライネルはゆっくり手を引いた。
赤い石像は何も語らず、その場に静かに座している。
彼は腕輪を見下ろした。
赤い宝石は、光も反応もない。
それでも無反応の中に、ライネルは違和感を覚えた。
ほんの一瞬、何かが息を吸い込んだような。
彼は、そう感じた。
ほんの一瞬、
自分と「何か」がつながった。
そしてその瞬間、遠くから誰かがその様子を見ていた。
雪山の裾、木々の隙間。
濃い帽子にマフラーを巻いた男が、丘の下を指差す。
「ここだ」
雪に覆われた森の中。
赤いドラゴンの石像が、静かに姿を見せていた。
その周りには子どもたちと、一人の男。
ライネルが立っている。
盗掘屋のリーダーは、ゆっくり口元を歪めた。
「『フェルカディア』と呼ばれるドラゴンの石像だ」
隣の若い盗掘屋が尋ねる。
「本物のドラゴンじゃないですよね?」
「そうだ。ただの出来のいい石ころだ。
だが村の連中は神聖視してる。
王都に持っていけば、いい値がつくはずだ」
リーダーは懐を探り、古びたブローチを取り出した。
錆びた金属。
薄く残る冒険者ギルドの紋章。
彼は小さく笑う。
「伝説だの協会だの、そんなの。
腹を空かせてる奴には、何の役にも立たねぇ」
短い沈黙。
「···でも」
若い盗掘屋が恐る恐る言った。
「本当に···呪いとか、ないんですかね?」
「呪い?」
リーダーは鼻で笑った。
「馬鹿言うな」
その横で、中年の盗掘屋が低く呟く。
「···俺の故郷にも、似た彫像があった。
たしか『山の女王』って呼ばれてたな。
でもそれを誰かが盗んだ翌年から、洪水が三回も起きたって話で」
「まさか、それが彫像のせいだってのか」
「···いや、ただ、そういうことがあったってだけだ」
リーダーは石像から視線を外さない。
竜の形は、静けさの中で息を潜めているようだった。
目を閉じ、何かを待つみたいな沈黙が漂う。
リーダーは低く言った。
「···今回の仕事は、必ず成功させる」
空には夜がゆっくり降りてきて、
雪はさらに激しくなった。
村人たちは一人、また一人と家へ戻っていく。
そのとき、
赤いドラゴンの瞳に、ほんの小さな亀裂が微かに走った。
···誰も気づかないまま。
夜はそうして、深まっていった。




