40. 赤い竜の伝説(あかいりゅうのでんせつ)
「おじいちゃん! 昔話して!」
雪に覆われた窓の外を背に、
孫たちが両腕を大きく広げて叫んだ。
老人は静かに笑い、
暖炉の脇に置いてあった古い本を一冊取り出した。
指先がページをめくると、
部屋は温かな静けさに沈む。
「むかしむかし、
初雪が降った日に――空から小さな星が落ちたんだ···」
雪片みたいに軽い言葉が、
暖炉のそばをそっと流れていった。
その星は冷たい雪の中に留まり、
そこを通りかかった一人の少年がそれを見つけた。
星の正体は···ドラゴンだった。
赤い鱗と、あたたかな眼差しを持つ存在。
互いに警戒しながらも、
少年は毎日山に登った。
パンの欠片、
少しのミルク、
そして小さな話を抱えて。
ドラゴンは何も言わなかったけれど、
話を聞いて、りんごを受け取って食べ、
ときどき尻尾をちょんと揺らして笑ったんだ。
「君は僕と···友だちになれる?」
少年がそう聞くと、
ドラゴンはほんの少し、頷いた。
二人の時間は雪みたいに積もり、
二人の友情は風みたいに静かだった。
けれど人々はドラゴンを恐れたんだ。
傷つけようとする者もいれば、
あまりに大切にしすぎる者もいた。
赤い鱗は丈夫な布になる。
吐息は病を治す薬になる。
そう信じたんだ。
少年はドラゴンを守ろうとしたけれど···
その声は届かなかった。
結局、ドラゴンは遠くへ、
空の向こうへ飛び去ってしまった。
その日から、
少年は毎年初雪の日になると
空を見上げた。
「もしかして···また来てくれるかな?」
そしてとても長い時間が過ぎた後、
空からもう一度、赤い光が降りた――そんな話が伝わった。
それは本当にあった話だったのか。
それとも、誰かが胸の奥にしまっていた小さな願いだったのか···
「えー、またその話?」
本を閉じる前に、
一人が頬を膨らませて叫んだ。
「いったい何回目だよ!
じいちゃん、これ小さい頃から聞いてるじゃん!」
「そうそう!
赤いドラゴン! 涙! 宝石!
もう覚えちゃったって!」
他の子どもたちも口々にぶつぶつ言い出した。
一人は腕を組んで首をぶんぶん振り、
もう一人は膝をぱんと叩いた。
文句を言いながらも、
子どもたちの目はまだ本に吸い寄せられていた。
老人は肩を揺らして笑った。
「ほっほ、もう大きくなったと思ったら···
まだこの話に耳をぴんと立てるのか」
そのとき、末っ子の孫が
少し迷ってから、小さな声で言った。
「···でも、ぼくは本当にあった気がする」
「ん?」
老人が顔を向けた。
「そのドラゴン。
本当に···どこかで生きてるかもしれない」
子どもたちのふざけた笑いが、
さっきまでが嘘みたいに止まった。
部屋はまた静かになり、
老人は暖炉の火を見ながら、そっと呟いた。
「···そうだといいな」
◇
雪は次第に勢いを増していた。
足首まで積もった雪の上に、ライネルたちの足跡が慎重に続く。
「はぁ、もっと早く出てりゃ平気だったのにな」
モネロが顎を上げて空を見た。
「よりによって、雪が強くなる直前に着くか?」
「少し遅く出たのは事実だ」
ライネルが短く返す。
「それでも急いだんだけどな。
でも···本当にギリギリだった気がする」
前を歩くアイラは荒く息を吐いていた。
頬は赤く、額には汗が粒になって浮いている。
「大丈夫。もう少しで村に出るって言ってたよね」
アイラは無理に笑って見せた。
「アイラ」
ライネルが足を止めた。
「顔を見ろ。息も変だし、足もふらついてた」
「本当に大丈夫。
これくらいなら歩けるよ」
「今無理したら、余計悪化する。休める場所を探す」
アイラは口をきゅっと結んだ。
モネロが横から顔を向ける。
「アイラ、お前ほんとに風邪か?
熱っぽいぞ···それとも高山病か?」
「···違う。ちょっと寒くて、少しふらつくだけ」
そのとき、遠くに
煙を上げる一本の煙突が見えた。
「あれ···村か?」
モネロが目を細めた。
「多分そうだ。人がいる」
「行こう」
ライネルが先に歩き出した。
倉の横で薪をまとめていた老人が
顔を上げ、雪道の向こうを見た。
「やれやれ、この雪の中で···誰だ、歩いてるのは」
杖をつき、ゆっくり近づいてくる。
見知らぬ顔に、眉が少し寄った。
「旅人か。
この時期は滅多に人は通らんのに···」
ライネルが軽く頭を下げる。
「山脈を越えている途中でした。
予想より雪が早くて」
モネロが後ろから付け足した。
「出発が少し遅れて、ちょうど引っかかりました。
本当にギリギリでしたよ」
老人の視線がアイラに移る。
鼻先は真っ赤で、唇は乾いている。
「···その子、大丈夫か?」
「熱が少し」
ライネルが短く答えた。
「ふむ」
老人はしばらく一行を見つめ、
低く静かな声で言った。
「この村はな···
元々よそ者をあまり入れん。
特にこんなふうに雪が深く積もる時期は、なおさらだ」
一度、視線を落とす。
口元に、迷いがかすかに滲んだ。
「雪の中から来る連中は···
良い事より、悪い事を運んでくることが多いからな」
しばらく、風の音だけが耳を撫でた。
やがて老人は頷く。
「···だが、その子の顔を見たら放ってはおけん」
杖を地面に、こつとついて言った。
「家は遠くない。少し体を温めていけ。
温かい湯もあるし、粥も少し残っておる」
モネロがほっと息を吐いた。
「本当に···ありがとうございます。
この子のことが心配で」
「入ろう」
ライネルがアイラを支えながら言った。
老人は一歩先に立ち、
雪道を開くように歩き出した。
◇
部屋の空気が、温かく静まった。
暖炉のそばではモネロが厚手の靴下を履き、
足を伸ばしていた。
アイラは毛布をかぶり、静かに呼吸を整えている。
「おかゆ···もっと要る?」
小さな声がした。
末っ子の孫が器を持って近づき、
アイラの横にそっと座った。
「ありがとう···大丈夫。だいぶ良くなった」
温かい粥の上には、丸く切った人参が浮かび、
その隙間には小さな手の気持ちが染みていた。
アイラはゆっくり匙を持ち上げ、
慎重に笑った。
「ほんとに偉いな」
ライネルが小さく笑って言う。
「こういうの、どこで覚えた?」
「おじいちゃん!」
末っ子が目を輝かせた。
「風邪には温かいご飯が一番なんだって!」
「この子はキリエムです」
静かに隣に座っていた子が、遠慮がちに言った。
「それで···僕は兄の、ミヌエムです」
「そうか」
ライネルが静かに頷く。
「ありがとう。アイラがずいぶん楽になった」
キリエムは顔を赤くして、
小さく笑い、うつむいた。
ライネルは窓辺に立った。
ガラスの向こうでは雪が絶え間なく舞っている。
「ずいぶん静かですね」
その言葉に老人がゆっくり頷く。
「冬になるとな···
人より先に話しかけてくるのは雪だ」
「雪が話しかける、ですか」
ライネルが眉を少し上げて返す。
「静かってのは、何もないって意味じゃない。
むしろ話が多すぎて押し込まれて、
言葉がないように見えるだけだ」
老人は外を見ながら穏やかに笑った。
「この村にはな···
そういう話が、たくさん積もっている」
ライネルは黙って
手首の腕輪を見た。
赤い宝石が、かすかに光を含んでいる。
夕方になると、子どもたちは白い布をまとい、
居間の真ん中を舞台にした。
「俺は空を飛ぶドラゴンだぁぁ!」
「俺は勇敢な人間騎士ソレイ!」
「ドラゴンの涙は俺が守る!」
末っ子が紙で折った尻尾を振って吠えたが、
尻尾はぺろんと外れて床に転がった。
「おい、尻尾落ちたぞ!」
「違う! 今は変身中なんだ!」
わいわいした声に、
アイラも小さく笑った。
モネロが腕を組んで言う。
「この感じなら···泊まって正解だったな」
ライネルは小さく頷いた。
視線がふと机へ向く。
古い絵本が一冊。
表紙には赤いドラゴンが空を飛ぶ姿が
金箔で描かれていた。
「その本か···」
老人がそれを丁寧に持ち上げて言った。
「昔、この村にドラゴンが降りたという伝承をまとめた話だ」
子どもたちが、ぱっと本の前へ集まる。
「またその話?」
「おじいちゃん、いつもやってるやつじゃん!」
「そうだ。いつもの話だ」
老人は笑いながらページをめくった。
ライネルはその光景を静かに見て、
窓の外の雪へ目をやった。
吹雪はまだ止む気配がない。
「この時期の雪は、だいぶ荒いですね」
ライネルが言うと、老人が頷いた。
「初冬の最初の寒波は特に厳しい。
だからこの村は、ちょうどこの頃は人の足がほとんど途絶える」
一息置いて、老人は続けた。
「だが、たまに――よそ者が来ることもある」
「たまに?」
「伝承のせいだ」
老人は静かに微笑んだ。
「空から降りたドラゴンが、
人の姿で村を訪れるという話だ」
さらに声を落として言った。
「特に初雪の日、そのドラゴンに会えば
大きな富を得られるという噂が広まってからは、
それを追って来る者も時々いた」
ライネルは眉を少し上げた。
「本当に···そう信じているんですか」
「信じるか信じないかは、そう重要じゃない」
老人の視線が、窓の外のどこかに留まる。
「ただ、その話を待つ心が···
この村にはずっとあった」
そのとき部屋の中から子どもたちがわっと出てきた。
「おじいちゃん、おじいちゃん!」
長男のミヌエムが指をさしてライネルを指した。
「もしかして···このおじさん、ドラゴン!?」
「えー、まさか。ほんとに? ほんとのドラゴン?」
次男のキリエムも、好奇心いっぱいの目で
ライネルを見た。
老人は笑って言う。
「違うよ。ドラゴンはもっと格好いい存在だ」
「ああ···残念」
子どもたちはがっかりしたように肩を落とした。
それを見て、ライネルは苦笑した。
するとキリエムが、恐る恐る聞く。
「でも···この腕輪は何ですか?」
「ドラゴンの涙? 絵本のやつと似てる!」
老人がくすっと笑って首を振った。
「うむ、色は似ておるが···
伝承の涙とは少し違うな」
子どもたちは少し残念そうにうつむいたが、
老人は優しく頭を撫でた。
「そうだ。
そうやって想像して待つのが、
この村の子どもたちの役目なんだ」
少し静かになった隙に、
キリエムがふいに聞いた。
「じゃあ···おじさんたちは何する人?」
モネロがふっと笑う。
「俺らは冒険者だ」
「冒険者? ほんと!?」
子どもたちが同時に反応した。
「うちのおじいちゃんも昔、冒険者だったって!」
「そうなんですか」
ライネルが驚いたように老人を見た。
老人は小さく咳払いして笑った。
「昔の話だ。
今はこうして孫と一緒に過ごす方が、
それが一番いい」
口元は笑っていたが、
目にはどこか遠い光がよぎった。
そして、とても低く言う。
「···それでも、時々あの頃が恋しくなることもある」
少しの静けさ。
やがて老人が顎を撫でて言った。
「ところでな。人数が増えたせいで薪が少し足りない。
悪いが時間があるなら、森の奥で少しだけ取ってきてくれんか?」
ライネルは迷いなく頷いた。
「もちろんです。行ってきます」
老人もありがたそうに笑う。
「遠くまで行かなくていい。
村から森の入口までは、雪もある程度どけてある。
道だけ外さなければ大丈夫だ」
「はい、心配いりません」
モネロが立ち上がり、肩を一度回した。
「ちょうど体を動かしたかったし、いいね」
そのとき、机の端に置かれた絵本が
静かに開いていた。
赤いドラゴンが空を飛ぶ場面が、
影の中で金色にかすかに輝いている。
まるで古い伝承が、
今この瞬間、もう一度顔を上げるみたいに。




