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4. 新しい夢(あたらしい ゆめ)

「どうしたの、ライネル?」


院長の声は静かで、柔らかい。

けれどライネルは、しばらく黙ったまま立ち尽くしていた。


口を開こうとしても、

喉が詰まる。


ようやく唇が震え、

慎重に言葉がこぼれた。


「話したいことが、あります···」


「どんな話?」


「僕に笑ってくれた子なんです。

僕が···僕が···あの子を···」


結べなかった言葉。

口の中で止まり、消えてしまった名前。


ライネルは俯いた。

指先が、かすかに震える。


院長はゆっくり立ち上がり、

そっと彼に近づいた。


「もしかして···傷ついた動物だったの?」


「······」


「そういうこと、あるのよ。

子猫とか、小さな鳥を抱えて来た子もいたわ。

助けようとしたのに···うまくできなくて、結局見送ってしまって。

泣いてた子も、いたんだよ」


そう言いながら、

彼女は小さく背中を撫でた。


ライネルは瞬きをした。

院長が勘違いしているのは分かった。けれど、訂正はしなかった。


言葉で説明できることじゃなかったし···

こうして抱きしめてくれる人が、

彼にとっては初めてだったから。


「胸が、すごく···痛いです」


「うん。

それはね、『悲しみ』っていうんだよ」


院長は、悲しいのに温かい笑みを浮かべた。


「大切なものを失ったとき、

心の奥から湧いてくる気持ち。

あなたも、それを感じたんだね」


『悲しみ』


その言葉が、心の中にゆっくり染みていった。

そうだ。これは、初めてじゃない。


いつの間にか、感じていた感情。

胸の深いところに押し込められていた何か。


ようやく

それが何なのか、分かった。


ライネルは、ゆっくり頷いた。


これは傷だった。

そして同時に、

生きている心の証だった。



その日から、

ライネルはよく空を見上げるようになった。


流れる雲を眺めながら、ふと思う。


もしこの感情が、

『心』が育っていくことなら···


自分はこの先、

どこまで感じるようになるんだろう。


時間は静かに過ぎた。


保育院は穏やかで、

子どもたちは笑ったり騒いだりして一日を過ごした。


ライネルも、その中に少しずつ混ざろうとした。

まだぎこちなかったが、

ひとりでいた頃よりは、ずっと良かった。


そんなある日。

保育院に、見慣れない客が訪れた。


無骨なマント。

擦り切れたブーツ。

背中には古い剣を背負っている。


子どもたちは浮き立った声で、彼を囲んだ。


「ほんとに冒険者なの?」

「ドラゴンと戦ったことある?」

「お宝も見た? ねえ!」


男は豪快に笑い、

荷物を下ろしてどさりと座った。


「はは。

竜は見たことねえけど、羽の生えた魚なら見たぞ」


子どもたちの目が輝いた。


冒険者はゆっくり話し始める。

砂嵐の中を走る砂漠船。

空に浮かぶ島。

紫の花びらが降る森。

そこで出会った仲間たち。

一緒に食べたご飯。

夜空の下の歌。


「海の果てでな、黄金のリンゴを見たことがある。

ひと口かじれば···

願いがひとつだけ叶うんだとよ」


子どもたちは息も忘れて聞き入った。

瞳がきらきらして、

部屋の中はすぐに温かな想像で満たされた。


ライネルは隅で、静かにそれを見ていた。

最初は、自分とは無関係な話だと思っていた。


けれど――

ひとつの場面が、頭の奥を掠めた。


小さな手。

小さな声。

そして、話すときのあの表情。


本当の自由って、

どこへでも行けて、

誰とでも友だちになれること。


ルアールの言葉だった。


冒険者の生き方は、

その言葉と似ていた。


誰の命令もなく。

何も強いられず。

自分で選んで、進んでいく生き方。


それは···自由だった。


胸の奥が、どくんと鳴った。


もしかしたら自分も、

それを探していたのかもしれない。


ライネルは立ち上がった。

気づけば、口が動いていた。


「僕も···

僕も、冒険者になりたいです!」


瞬間、部屋が静まり返った。

子どもたちの視線が一斉に集まる。


いつも静かな子。

いつもひとりでいる子が、

初めて口にした、自分の夢。


シスターは驚いた顔で彼を見つめ、

やがて柔らかく笑った。


「素敵な話ね。

いつかライネル、あなたの話を聞ける日を待ってるわ」


ライネルは小さく息を吸い、

そして···頷いた。


初めて。

本当に初めて、

何かを自分で選んだ瞬間だった。



その日から、

ライネルは少し変わった。


以前は遠くから眺めていただけの遊び場に、

今は子どもたちの輪へ入っていた。


ぎこちない足取りで、ゆっくり。

けれどいつの間にか、

自然に笑っていた。


「ライネル、こっち来て!」

「う、うん···待って!」


最初は恥ずかしそうだった声が、

少しずつ大きくなる。


表情も柔らかくなり、

口数も増えた。


シスターたちは静かにその変化を見守り、

目配せして囁いた。


「やっと···子どもらしくなってきましたね」

「ほんと。あの子が笑うなんて···」


夜になると、ひとりで本を開いた。

冒険者の話。

古い地図をなぞり、

指先で道を辿って想像する。


「こっちに大きな雪山があって···

ここは、竜が住む洞窟···」


その姿はまるで、

本当に夢を見る子どもみたいだった。


それで少しずつ、

名前の意味も分かっていく気がした。


細い光。

そして、自由へ伸びる根。


彼は今、

自分が根を下ろせる場所を、

静かに探し始めていた。


時々、ルアールの顔が浮かぶことはあった。


けれどもう、

泣かなかった。


胸はまだ疼いたが、

その痛みも

抱えたまま生きるやり方を覚えていった。


そして何より、

今は笑えるようになった。



数日が過ぎ、

笑うことが少しずつ当たり前になり始めた頃。


初夏の暖かな日。

保育院で、短い外出があった。


近くの森の縁。

木陰に敷物を広げ、

子どもたちは持ってきたおやつを分け合った。


「ライネル、これ食べて! 甘いよ!」

「うん···ありがとう」


澄んだ空。

虫の声。

子どもたちの笑い声が、穏やかに広がる。


その日、シスターのひとりが妙に慌ただしかった。

怪我をした子リスを見つけた子が、泣きそうな声で言った。


「シスター! この子···血が出てる!」


シスターは急いで救急道具を取りに戻った。


ほんの少し。

たった数分。


「みんな、どこ?」


戻ってきたシスターは、

周囲を見回して声を上げた。


でも、返事がない。


彼女の顔が固まった。

子どもが三人もいなくなっていると気づいた瞬間、

周囲の温かさが、すっと消えた気がした。


木陰が深くなり、

森の奥が、異様なほど静かだった。


ライネルは黙って地面を見た。

草の間、踏み固められた土の上に、

小さな足跡が乱れている。


その跡は、

森の奥へ続いていた。


保育院が絶対に越えてはいけない区域。

子どももシスターも、

厳しく禁じていた境界線。


ライネルは、一歩前に出た。


「シスター」


彼は静かに言った。


「ここ···足跡です。子どもたちの」


シスターが駆け寄る。

視線の先では、淡い足跡が森の境界の向こうへ消えていた。


その瞬間、

シスターの顔が強張った。


ライネルはそれ以上言わず、

ただ静かに歩き出した。


何か、

嫌な気配が

背中を伝って這い上がってくる。


森の中は、思ったより深かった。

葉の隙間を風が抜け、

どこかで鋭い鳴き声がする。


シスターは声を張り上げた。


「エオラ! リオ! ベン!」


返ってくるのは、

こだまだけ。


次に聞こえたのは、

かすかな泣き声だった。


震える息。

小さなすすり泣き。


草むらをかき分けて駆け込むと、

三人の子どもが身を縮めて震えていた。


「大丈夫! シスターが来――」


その瞬間。


枝が折れる音。

そして、奇妙な咆哮。


短く、ぶつぶつと途切れる足音が、

四方から同時に近づいてきた。


魔物だった。


黒い毛。

赤い目。

牙をむいた狼型の獣。


村の者たちはそれを、

『ダスクウルフ』と呼んでいた。


時折保育院の近くに現れ、

子どもを狙って徘徊する危険な存在。


強い個体ではない。

だが速く、鋭い。

そして何より――

子どもにとって致命的だ。


子どもたちは怯え、泣き出した。


ライネルは反射的に、

子どもたちの前へ一歩出た。


シスターが叫ぶ。


「ライネル、だめ! 下がって!」


けれど、魔物の方が早かった。


唸り声を上げて飛びかかってくる。


その瞬間、

ライネルは何も言わなかった。


瞳が、わずかに揺れる。


押し込められていた感情が、

隙間から漏れ出すみたいに。


空っぽだった森が、

急に息を止めた。


次の瞬間――

地面が生き物のように、わずかに蠢いた。

周囲が歪む。


見えない圧力が、広がった。


先頭の魔物の動きが、一瞬止まる。

そしてそのまま――弾かれた。


バンッ。


鈍い音とともに、

魔物が一本の木へ叩きつけられる。


残りの魔物たちは震えながら後ずさった。


ライネルの目から、青い光が滲み出ていた。


でも、理性を失ってはいない。

そこには確かな意志があり、

感情も生きていた。


ただ――

その眼差しは深く、冷たかった。


言葉にできない何か。

人間の言葉では、到底収まりきらない感情と力。


より正確に言えば、

抑え切れない『魔力の本性』。


「ライネル···?」


シスターが息を呑んだ。

子どもたちを腕で包み、

慎重に後ろへ下がる。


そして一歩、前へ出た。


ライネルはまるで、

別の存在みたいだった。


瞳の奥に、奇妙な模様が浮かび、

その周囲をなぞるように

目に見えない細い線のような魔力が揺らめく。


子どもたちは泣いていて、

周囲には魔物の死体が倒れていた。


事態はほどなく収まった。


子どもたちは無事に戻り、

シスターたちと院長は

硬い表情で状況を整理した。


その日の午後。

保育院は、いつもより異様に静かだった。


ライネルは

水を取りに廊下を歩いていた。


その時――


閉じた扉の向こうから、

自分の名前が聞こえた。


彼は足を止めた。

扉の前へ近づき、

そっと耳を澄ませる。


「申し訳ありません···

私が少し目を離したせいで···」


「そこが問題なんです。

『管理』にミスがあったということは、

そのまま『損失』につながる」


バン。


机を叩く音がした。


ライネルは静かに、

扉の横の壁へ背を預けた。


扉の向こうの言葉。

間違いなく自分の話だった。


でもそれは、

心配でも、関心でもなかった。


『管理』

『損失』


その言葉が、

妙に不快に刺さった。


ライネルは黙って背を離し、

廊下を歩き出した。


言葉はなかった。

けれどその言葉は、

胸のどこかに

深く···突き刺さったままだった。



数日後、日が落ちかけた頃。

保育院の裏手にある廃倉庫。


院長は、見慣れた顔を迎えていた。

背後では陽が傾き、

影が長く伸びていく。


「数日前、森で事故があったの。

子どもが三人、魔物に襲われた」


ブローカーが顔を上げた。

口を閉じたまま、静かに待つ。


「私が直接見たわけじゃない。

引率していたシスターが報告したのよ」


院長は目を合わせず、言葉を続けた。


「その時、ライネルが反応したらしい。

手も上げてない。呪文もない。

何も言わなかったのに、

魔物が一体、木に叩きつけられたって」


「属性反応は?」

ブローカーが低く訊いた。


院長は首を横に振る。


「なかったそうよ。

炎もない、水もない、風もない。

魔法陣もなし。

目に見える魔力の流れも、

元素系の反応も、まったく感知できなかったって」


彼女は短く息を吸った。


「でも周囲が···歪んだそうよ。

空間が内側から押し潰されたみたいに、ねじれたって」


トン。トン。


指先で机を叩き、院長は続けた。


「属性も、方向もないのに···

現場にいたシスターは

『確かに何かがあった』って感じたらしい」


ブローカーの目つきが、わずかに変わる。


「···存在はあるのに、感知できない···」


「だからその日から、

簡単なテストをしたの」


院長は言いながら、

書類の封筒をひとつ、バンと出した。


「魔導具で元素反応を測る、

基本の感応テスト」


封筒を軽く叩く。


「結果は···元素属性、判別不能」


「火でも、

水でも、

風でもなかった」


「それでも、魔力の計測反応だけは

確かに出た」


ブローカーは静かに息を呑む。


「···単純な無属性。

あるいは、希少系統の可能性もあるな」


院長は小さく笑う。


「念動力かもしれないわ。

意志だけで、形のない力を放つタイプ」


ブローカーは顎をひと撫でした。


「······他の子は?」


院長は首を振る。


「他は普通よ。

よく言うことも聞くし、性格も大人しい」


「問題があるのは?」


「一人くらい。

気質が厄介ではあるけど···

処理はできる」


「使えそうな才能は?」


「期待しないで。

その中で『使える子』は、

今のところライネル一人だけ」


院長は静かに封筒を押し出した。


「だから先に話したの。

これは···あなたたちの方でも、欲しがる“品”のはずよ」


ブローカーはしばらく黙った。

ただ封筒を見下ろし、

指で角をゆっくり叩く。


口元が

少しずつ吊り上がった。


「···久しぶりに、まともなのが入ったってことか···」


彼は慎重に、けれど慣れた手つきで

封筒を持ち上げた。


まるで――

値を付ける準備が整った商人みたいに。


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