39. 不吉な夢(ふきつなゆめ)
かすかな低い声が、
遠くのほうから聞こえた。
ライネルは、夢のどこかを歩いていた。
周囲は霧みたいに白く濁り、
足先は地面に触れている感覚すらない。
どれほど歩いたのか。
前方で白い煙が盛り上がり、
長い塔の形を作っていくのが見えた。
ライネルは慎重に手を伸ばした。
触れそうなその煙を、
掴もうとした瞬間···
「俺の力は、満足しているか?」
聞き慣れない低音。
ライネルは素早く周囲を見回したが、
何も見えない。
「···誰だ。正体は」
「俺は過去のお前」
「オルタと呼ばれていた存在だ」
「何を言ってる···
俺は、ただの普通の人間だ」
ライネルは歯を食いしばって否定した。
だが声は、
揺らぎ一つなく続く。
「お前の魔力。
お前の魔法」
「その力の源は、
お前が思い出せない···
この俺、オルタのものだ」
同時に、霧の向こうで
誰かの輪郭が浮かび上がった。
白いローブの女。
ライネルは直感で分かった。
前に夢で見た、あの『聖女』だ。
そして、その女の手首には···
自分がはめているものと
まったく同じ赤い宝石の腕輪があった。
その瞬間。
腕輪から赤い波動が、
四方へ広がり始めた。
「その女は、
最後まで俺を邪魔する」
「忘れるな、ライネル」
「お前の体が耐えられない力を使うほど、
俺はそれだけ目覚める」
「結局お前は···
俺を完全に呼ぶことになる」
ライネルは歯を食いしばった。
「お前は···ただの幻だ」
すると声は、
また静かに囁いた。
「俺の力を引き出すほど···
俺はお前を侵していく」
「すぐにまた会う。
その時は、もっと深く俺の力を味わえるだろう」
その瞬間。
霧の中で、
白いローブの女が
かすかに手を伸ばす場面がよぎった。
指先には温かな光が宿り、
何かを···誰かを包んでいた。
ライネルは息を荒くして目を開けた。
全身が汗でびっしょりだった。
頭はふらつき、胸が乱暴に跳ねている。
昼間のゴブリン長との戦いが、
ふっと脳裏をかすめた。
自分でも気づかないうちに、
攻撃的で、好戦的な感情が噴き上がっていた瞬間。
「···俺···なんで、ああなったんだ···」
ライネルは首を回し、
手首の腕輪を見た。
そしてその上に、そっと手を置く。
赤い宝石。
今この瞬間も、
微かな波を送っているみたいなその宝石が、
彼を引っ張っていた。
(···俺だったのか?)
(それとも、あいつだったのか···)
何が本当の『俺』なのか、
もう区別できない混乱の夜だった。
ライネルは、またゆっくり目を閉じた。
どれほど時間が流れただろう。
窓の外には明け方の気配が滲んでいた。
短く息を整え、
ライネルは再び深い眠りへ沈んだ。
◇
「ライネル~! いつまで寝てるの!
もうとっくに日が上がってるのに、ほんと寝坊大魔王だよ?」
聞き慣れた声。
アイラだった。
ライネルは目を開け、ゆっくり上体を起こした。
頭の中はまだぼんやりしていて、
夢で聞いた声や光景が
薄く残っている。
扉のところに、腕を組んで寄りかかるアイラがいた。
「ほんと疲れてたんだね。
一回起こしても、全然動かなかったんだから」
ライネルは黙って額を押さえた。
夢の余韻が、指先に残っているみたいだった。
「···変な夢を見た」
彼が静かに言った。
アイラは首を傾げて、
ぽすっと彼のベッド脇に座り込む。
「怖い夢でも見たの?」
ライネルは小さく首を振った。
「···ただ、
嫌な予感みたいなものだ」
アイラは笑って言った。
「夢は夢だよ。
あんた、元々考えすぎるんだから」
けれど語尾に、
少し引っかかる気配が混じっていた。
口元は笑っているのに、
瞳だけが妙に揺れている。
ライネルは何も言わず、
もう一度手首の赤い腕輪を見た。
その時、開いた扉の向こうから別の声が飛んだ。
「準備終わったなら早く出ろ。
この村での依頼は終わりだ。次の村へ移動するぞ」
モネロだ。
ライネルは意味が飲み込めないように顔を上げた。
「···ゴブリンを全部片付けたわけじゃないのに?」
モネロは苦く笑った。
「それがさ、
伯爵が依頼を取り消したんだってよ」
「······は?」
「自分が直接任せられる
適任の遂行者を見つけた、とか何とか」
「俺らには適当な報酬を払って、
この依頼はここで終わりにしようってさ」
アイラが名残惜しそうに付け足した。
「やっと面白くなってきたのに···
なんかあっさり終わるね。途中で水差される感じ」
ライネルは一歩前に出て言った。
「でも、まだ残って···」
モネロが両手を上げて止める。
「ライネル、頼むから分かってくれ。
依頼人がいないのに、
俺らに何の資格があるってんだ」
ライネルは口を固く結んだ。
モネロの言い分は、間違っていない。
◇
荷をまとめたライネルたちは、
宿を出てギルド前へ向かった。
そこには、見覚えのある顔が待っていた。
「え?」
銀月の盾。
クルスターが先にライネルを見つけ、
明るく手を上げて挨拶した。
「ライネル。
あの日ネニャを助けてくれて···本当にありがとうございました」
ライネルも静かに手を握り返した。
「無事でよかった」
短く、淡々とした言葉。
だがクルスターは、
その手をすぐ離さず、少し声を落として聞いた。
「中で何があったかは聞きませんが···」
一度目を伏せ、
ライネルを見て静かに言う。
「ネニャが少し···変わった気がします。はは」
ライネルは短く息を吸った。
「···そうですか?」
「ええ。僕らには何も言わないんですが···
時々、ぼんやり何か考えているみたいで」
クルスターは視線をずらし、
背後のネニャをちらりと見た。
ネニャは静かに立っていた。
指先を強く握り、顔を半分伏せたまま。
ライネルと目が合うと、
唇がかすかに動いたが···
すぐに何も言わず視線を逸らした。
モネロが二人の間へ、ぽんと割って入る。
「さあさあ、移動の時間です」
クルスターは名残惜しそうに笑った。
握った手をゆっくり解きながら言う。
「短い時間でしたが、惜しいですね。
次はちゃんと、依頼を一緒にこなしたい」
その隣でアイラが手をぶんと振った。
「じゃあまた会えるんだよね~約束だよ!」
銀月の盾の面々も、
明るい顔で別れの挨拶を返した。
けれど、その短い別れ際。
ネニャだけは何か言いかけて、飲み込み、
黙って頭を下げた。
ライネルは最後まで何も問わなかった。
ただ、彼女の小さな動きだけを
胸の奥に刻んだ。
◇
事件からおよそ一週間後。
深夜、伯爵領の城の奥。
冷たい石床に、
柔らかな足音が響く。
すっ、すっ。
赤い髪が月光をかすめ、
両手には赤い宝石が二つ、静かに光っていた。
セリアン。
その表情からは今も、
感情らしいものが読み取れない。
その背後に、
人の形をしていながら
明らかに人ではない影が、影のように従っていた。
アルガス。
足元を包むように、
赤い波動が静かに広がる。
セリアンが手にしていた宝石の一つを、
アルガスがゆっくり受け取った。
「ふむ···この流れ、この質感···
確かに、これまでのものとは違うな」
彼は掌の上で、
赤い宝石をゆっくり持ち上げた。
その瞬間、宝石の中心から
細い線みたいに魔力が跳ね、
空間を引っ掻くような閃光が走った。
ジジジッ!
魔力が一瞬不安定に揺れ、
歪んだ空間の向こうに
ねじれた影がかすめた。
「精製度がまだ足りない。
だが反応は···悪くない」
彼はその歪みに目を留め、
小さく興味を滲ませた。
「宝石自体が俺の波長を増幅しながら、
一時的な亀裂を作るとはな」
ほどなく扉が静かに開き、
伯爵が慌てて入ってきた。
中の人物を確認した瞬間、
彼はその場で膝をついた。
「アルガス様···!」
「このように近くで再びお目にかかれるとは···光栄です···!」
額が床に触れそうなほど、
全身から熱狂が滲み出ていた。
呼吸すらまともにできないまま、
伯爵は急いで言葉を継ぐ。
「追加の人員と装備は、すぐに用意いたします」
「ご無礼のないよう、最大限注意いたします」
アルガスはちらりと見て、
すぐ視線を外した。
伯爵は恐る恐る顔を上げ、報告を続ける。
「お探しだった赤い宝石の鉱脈が確認されました。
廃坑の地下、深部です」
「現在、当該区域は立入禁止に指定済み」
「外部の目は完全に遮断しております」
その時、短い声が落ちた。
「セリアン」
少女は無表情のまま頷いた。
◇
夜明け前。
銀月の盾は、
再び廃坑へ向かっていた。
「もっと早く言ってよ、ネニャ!」
レンジャーのナミアが、悔しそうにこぼす。
「そんな物が出る場所なら、絶対価値あるでしょ。
依頼はなくても、いくつか持ち帰ろうよ」
後ろで神官ミダースが言葉を添える。
「その力は、僕らの実力向上にも役立つはずだ。
研究用としても希少価値は十分ある」
クルスターが最後にまとめた。
「それにゴブリンは、ライネルが全部片付けたんだろ?
そこまで危険じゃないはずだ」
止めようとしたネニャは、
小さくなっていく声で呟く。
「···だからって、また行っていいって意味じゃないのに···」
だがもう、
彼らの足は止まらなかった。
坑道の入口付近。
そこに着いた時、
先に入っていく者がいた。
赤い髪の少女。
彼女は言葉もなく、廃坑の中へ
一人でずんずん歩いていく。
その姿を銀月の盾は、
遠目に目撃した。
「···あの子、誰だ?」
全員が同じ疑問を抱いたまま、
互いの顔を見合わせる。
そして、誰からともなく
少女の後を追った。
◇
銀月の盾は、
遅いが慎重な足取りで進んだ。
「まだ静かだね···」
ナミアが周囲を見回して言う。
「ネニャが教えた場所が近い」
クルスターが前を示した。
しばらく歩くと、
かすかな光が漏れる空間が現れた。
そこ。
前回、ネニャが倒れていた広場。
「ここ」
ネニャが立ち止まり、指差した。
その時だった。
中で誰かが、ゆっくり振り返った。
「さっき、私たちより先に入ってた···子ども?」
ナミアが目を細めた。
光の中に、
赤い髪の少女が立っていた。
血の気のない顔。
青白い肌。
無表情な視線が、一行をゆっくりなぞる。
「ねえ···ちびちゃん、一人で来たの?」
ナミアが慎重に声をかけた。
「どこか怪我してない?」
少女は唇を動かさないまま、
静かに一歩踏み出した。
その瞬間、
ネニャは息を止めた。
少女が握る赤い宝石。
そこから広がる波動は、
魔法使いのネニャだけが正確に感じ取れた。
気味が悪い。違和感だらけの魔力。
背筋が冷えた。
「···戻って。今すぐ戻らないと···!」
ネニャが震える手で身を翻そうとしたが、
次の瞬間。
ドン!!
影の中から巨大な何かが、
空を裂いて降りた。
「ぎゃあっ!!」
地面が鳴り、
赤い魔力の流れが爆ぜるように弾けた。
ミダースは反応する間もなく、
胸を貫かれたまま崩れ落ちる。
「ミダース!!」
クルスターが叫んだ。
だが彼も、
飛んできた何かに太腿を裂かれ、
後ろへ吹き飛んだ。
ナミアは素早く弓を取ったが、
それより速く
異様な形が彼女の脇腹を深くえぐった。
血が噴き、悲鳴。
そして一人、また一人と倒れていく仲間。
「やめて!!」
ネニャの絶叫。
その瞬間も、
クルスターは歯を食いしばり、
膝をついたまま言った。
「逃げろ···ネニャ···
早く···!」
ネニャは凍りついたまま、
周囲を見回した。
血。
血が、あちこちに。
頬を伝って、
熱い血滴が落ちる。
服の上へ、足の甲へ、
ぽた、ぽたと赤い雫が落ちた。
息が詰まり、
足が震える。
「···早く!」
最後の叫びが、
耳を刺した。
ふっ。
固まっていた片足が動いた。
そして両足で地を蹴り、
背を向けて走り出す。
息を荒くしながら、
よろける体で
廃坑の暗い通路を駆けた。
血に染まった靴。
乱れた髪。
震える指先。
それでも、何も
彼女の足を止められなかった。
「とにかく外へ···
そして知らせないと···」
泣き混じる息を吐きながら、
ネニャは闇を裂いて
遠ざかっていった。
◇
「逃がしていいのか?」
ゆっくり、落ち着いた声。
赤髪の少女の隣。
影から現れた存在――アルガスだった。
腕を組み、
走り去るネニャの背を眺めている。
セリアンは無表情のまま頷いた。
「噂を広める道具は必要だから」
アルガスは遠ざかる背中を見て、
嘲るように呟く。
「面白い芝居が始まるな」




