38. 蒼い魔力(あおいまりょく)
長の体から、赤い蒸気が立ち上った。
皮膚は赤く火照り、
瞳には血走った筋が浮かび始める。
「はぁ···はぁ···」
呼吸は長く、粘つくようだった。
体の内側で魔力がねじれるみたいに暴れ回る。
「この力は···
魔族ですら、試みなかった領域だろう」
背中の奥から、糸みたいな炎の流れが広がっていく。
坑道の壁から、焦げた匂いがじわりと滲んだ。
その隙を突いて、
壁の陰からゴブリンが一体、飛び出した。
「きゃっ!」
奇襲。
短剣を握ったゴブリンが、一瞬でネニャの背後をさらう。
ネニャが手を伸ばすより早く、
体が反り、引きずられるように持っていかれた。
「ぐ、ぁ···!」
息が詰まるような悲鳴。
「ネニャ!」
ライネルが叫ぶ。
だがゴブリンは通路脇の闇へ滑り込み、
そのまま壁の隙間へ消えた。
ライネルが低く呟く。
「俺を狙うべきだった。
失敗だ」
長が答える。
「お前は···
私が直々に相手をしてやる」
瞳に冷たい気配が宿った。
「そして、
お前もすぐに、そちらへ連れていってやろう」
長の指先に、赤い魔法陣が形を取り始める。
光が、じりじりと強くなる。
「これが真の炎だ。
消えろ、人間!」
赤い光が指先から噴き上がった。
巨大な火球が輪郭を得ていく。
「フレア・インパクト···フルチャージ!」
ライネルは腕を下ろし、淡々と言った。
「助かる。
ネニャを連れて避けてくれた」
表情は穏やかだった。
だが瞳の奥で、冷えたものが立ち上がる。
長の指先から、赤い魔力が爆ぜるように噴き出す。
「フレア・インパクト!!」
形を得た炎が、
砲弾みたいに一直線に突っ込んできた。
坑道が炎に染まる。
ゴォォォォッ!!
火球が直撃。
爆音が地を割り、岩が震えた。
舞い上がる粉塵が視界を食い潰す。
天井に亀裂が走り、
赤い火の粉が散った。
長は煙の向こうを見て、鼻で笑った。
「くく···
やりすぎたか?」
嘲るような声。
「死体が原形を保っていれば
材料にできたものをな」
勝ち誇った気配で、
薄れていく煙を眺めていた。
だが、その時。
「···?」
煙の中から聞こえたのは、
咳でも悲鳴でもない。
短く、低い呼吸。
どこか嘲るような、静かな笑い。
煙が剥がれていく。
その中心に、ライネルが立っていた。
彼の前には、
蒼い幕が固体みたいに広がっている。
炎をそのまま弾き返した壁。
その上には、火の粉一つ残っていない。
ゴブリンの長の顔が歪んだ。
「ありえん」
「意外だな」
ライネルが低く言う。
「思ったより、
ちょっと痛かった」
肩口に焦げ跡が薄く残っている。
だが表情は崩れない。
「おかげで、お前の強さがどの程度か、はっきりした」
長は信じられない目でライネルを睨みつけた。
「ありえん。
私の炎が通らぬなど···」
視線が、ゆっくりライネルの手首へ落ちる。
「その腕輪。
それが力の源か?」
固く結んだ唇の隙間から、
怒りと混乱が漏れた。
「そうでなければ、こんな結果になるはずが···!」
ライネルは短く笑い、手首を軽く持ち上げる。
「それが気になる?」
カチリ。
赤い腕輪が外れた。
彼はそれを、傍の岩の上に静かに置いた。
「ほら。
今がチャンスだ」
正面を見据える。
「お前が信じてる力で、
直接確かめてみろ」
長が目を細める。
「いいだろう」
そして叫んだ。
「フレア・インパクト···フルチャージ!!」
ゴォォォォッ!!!
巨大な炎が、もう一度。
ライネルへ一直線に走る。
ドォォン!!
爆音とともに床の破片が跳ね、
煙の粉がゆっくり宙へ舞った。
空気が変わった。
説明できない流れが、坑道全体を撫でていく。
ゴブリンの長は、思わず二歩下がった。
「な、何だ···?」
そう呟く間もなく――
天井から、巨大な棍棒が落ちた。
バキィッ!!
反射的に体をひねったが遅い。
棍棒は肩を貫き、
腹まで突き通した。
「ぐぁぁぁっ!!」
血が噴き出す。
ライネルは静かに、自分の手を見下ろした。
「本当の力は、鉱石みたいな道具で詰め込むものじゃない」
周囲を回っていた浮遊片が、
音もなく沈んでいく。
「それはただ、殻を膨らませる真似にすぎない」
長は息を荒くし、
血で滲んだ目でライネルを見た。
「ありえん···」
視界が揺れ、認識が歪む。
「これは···人間の魔力の質じゃない···」
「こいつ···まさか···」
その言葉と同時に、
体内に埋め込んだ赤い宝石が、ぱきぱきと割れ始めた。
カチ。カチ。
金属が砕けるような音。
宝石はほどけるように粉となり、散っていく。
長は最後の息を、長く吐いた。
ライネルは静かに頭を下げた。
そして、
岩の上に置いた腕輪を、もう一度はめる。
カチリ。
赤い腕輪から、穏やかな魔力の流れが広がった。
ライネルは静かに言った。
「この力は、
誰のものでもない」
視線を落とし、呟く。
「魔族でも、人間でも···
そんなの、どうでもいい」
「結局大事なのは、
背負えるかどうか。
それだけだ」
そう言い終える頃。
ライネルの背後で、
静かに目を開ける者がいた。
気を失っていたネニャだ。
彼女はいつの間にか坑道の片隅、
安全な場所へ移されていた。
近くには、彼女を攫ったゴブリンが
壁に叩きつけられたまま倒れている。
血を流し、動かない。
ネニャはゆっくり視線を動かした。
その先。
蒼い光が、残像みたいに揺れていた。
「悪魔···?」
意識が切れる直前、
彼女はそう呟き、
また深い闇へ沈んだ。
ドォォン!!
強烈な爆発音が響いた。
地面が大きく震え、
廃坑の入口の岩が、がらがらと崩れ落ちる。
「今の、何だ?!」
モネロが跳ね起きて叫ぶ。
アイラは精霊石を強く握ったまま、
青ざめた顔で入口を見つめた。
「中で爆ぜた···」
廃坑の内部。
煙と瓦礫が満ちた通路に、
蒼い気配がゆっくり沈んでいく。
ライネルは血に汚れた床から、
そっとネニャの体を抱き上げた。
顔にはまだ生気がある。
黙ってマントを外し、
静かに彼女の肩へかけた。
そして何も言わず、
彼女をゆっくり背負う。
崩れた石の山、
砕けた魔法陣の残骸を踏み、
ライネルは黙々と出口へ向かった。
「衝撃を続けたら、魔法障壁が割れるかもしれない!」
クルスターが汗を流しながら叫ぶ。
「ミダース、準備は?!」
「残ったマナで、ぎりぎり維持してます。
突入は無理でも···せめて亀裂だけは···!」
その時だった。
「待って」
入口に蒼い気配がすっと滲み、
岩壁が割れるように開いた。
隙間から、ゆっくり歩いて出てくる影。
「ライネル!」
クルスターが反射的に叫んだ。
背には気を失ったネニャ。
歩みは揺れず、重い。
アイラがすぐ駆け寄り、
精霊石をネニャへ近づけた。
「心拍は正常。
命にも異常はない」
「筋肉が抜けてる感じだし···
深く気絶してるだけだな」
モネロが安堵の息を吐いた。
「死んでなくてよかった···」
◇
深夜。
ギルドの治療室。
銀月の盾の四人は、緊張した顔で
扉の外に座っていた。
そしてベッドの上で、
ゆっくり目を開けるネニャ。
青白い灯りの下、
天井がぼんやり視界に入る。
「ここ···」
彼女がかすれ声で呟く。
傍で響いた、低い声。
「意識、戻ったか?」
クルスターだった。
彼は静かに、ベッド脇に腰を下ろしている。
ネニャはゆっくり頷いた。
その隣から、ナミアが近づく。
「体は?」
「少し重い。
それ以外は大丈夫」
背後からミダースが来て言った。
「君とライネルが中へ入った直後、
僕らは突然、何かに弾き飛ばされた。魔法的な反発だ」
ナミアが頷く。
「うん。奥で急に魔法障壁が張られたみたいだった。
気づいたら、私たち全員、入口の外だった」
「それで中へ入ろうとしたけど、
防護膜が強すぎて、どうにもならなかった」
ミダースがため息混じりに続ける。
「しばらく叩いてたら···中で大きな爆発音。
その少し後に、ライネルが君を背負って出てきた」
ネニャは天井を見つめたまま、ゆっくり視線を動かす。
「彼は···今···?」
「ライネルたちは宿に戻った」
クルスターが静かに答えた。
「どうして」
短い問い。
けれど声には抑えた震えが混じっていた。
「いや。別に」
ネニャは視線を逸らし、小さく呟く。
ナミアがにやりと笑って、彼女の肩を軽く叩いた。
「なにそれ。
あんたたち、何かあったんじゃないの?」
「ないって」
ネニャは低く返し、
布団の端をきゅっと掴んだ。
最後に見た光景。
蒼い気配の中で、
表情一つ変えずに立っていた影。
(普通の人間の姿じゃなかった。
魔力も···人間が持つ質じゃない)
その瞬間、彼女は確信した。
(あれは人間が出せる力じゃない。
まさか···魔族?)
だが記憶には、もう一つ。
はっきり残っている。
彼が自分を抱えて歩いたとき、
その肩は確かに温かく、
歩みはとても慎重だった。
だから余計に混乱する。
ネニャは枕に顔を埋め、
その感情を静かに押し込めた。
数日後。
窓から差す光が、治療室の床に柔らかく落ちた。
「もう完全に平気?」
ナミアが聞く。
ネニャは頷き、布団を畳んだ。
「うん。体も、気持ちも···いつも通り」
クルスターが廊下の扉にもたれかかっていた。
「無理するなよ。
すぐに普段に戻るのは難しいかもしれない」
「うん」
ネニャは軽く笑い、
廊下の奥へ静かに歩き出した。
宿の区画。いちばん奥。
人通りの少ない、一段下の階。
ネニャは一つの扉の前で足を止めた。
長く、迷った。
ノックなしで入るわけにもいかない。
でも、このまま背を向けるのも落ち着かない。
結局、そっと手を上げて、
軽く叩く。
トン、トン。
扉が開いた。
「ネニャ?」
ライネルだった。
普段着。
髪は半分濡れている。
窓辺には冷めた手ぬぐい。
さっきまで顔でも洗っていたみたいだった。
「怪我してないか、心配で来た」
ライネルはしばらくネニャを見てから、頷く。
「うん。入れ」
ネニャは息を吸い、
慎重に部屋へ入った。
手をぎこちなく重ね、彼を見る。
「この前は、本当にありがとう」
ライネルは答えない。
ただ、彼女が言い終えるのを待っていた。
「一人で···全部背負った。
私、本当に危なかったのに···
あなたがいなかったら、生きて出られなかった」
「無事でよかった」
短い沈黙。
ネニャが、もう一度口を開く。
「でも···蒼い光が見えた」
「······」
「初めて見る力だったし···
正直、ちょっと怖かった」
ライネルは静かに彼女を見て、低く聞く。
「その力が···怖かったか?」
少し迷って、ネニャは首を振った。
「違う。分からないだけ。
力そのものが怖いのか、
私が理解できないから怖いのか···」
小さく笑い、付け足す。
「でも···
あんな強い力を、
誰かのために使えるって···」
間を置いて、彼女は言った。
「冷たそうに見えるのに···
変に、温かかった」
ライネルはしばらく黙ったまま、窓の外を見る。
色褪せた空。
ゆっくり流れる雲。
そして、低く口を開いた。
「その力が、誰かを守るためのものなら。
そこまで悪いものじゃないのかもしれないな」
ネニャは静かに俯いた。
伝えたいものが
喉元まで上がってきたのに、
最後まで言葉にはならない。
目を閉じて、
そっと息を整える。
そして、控えめに微笑んだ。
言わずに、
ただ少しだけ。
彼の傍にいた。




