33. 赤い渇望(あかいかつぼう)
月さえ隠れてしまった空の下、
黒い森は沈黙に沈んでいた。
虫の声ひとつない。
息を殺した木の葉だけが、
風のない空気に押し潰されるように、揺れもしない。
その静けさを裂くように、
短く、規則正しい足音が響く。
踏み潰された落ち葉の上を、
鉄を引っ掻くような羽音がかすかな振動を残した。
人の形をしていながら、
気配がまるでない――異様な存在。
背中の昆虫の羽が、ゆっくりと震える。
「……また違う」
彼は地に落ちた赤い石の欠片を一瞥した。
手のひらには、さっき砕いた宝石の破片がいくつか刺さっているのに、
痛みも、感覚も返ってこない。
血もない。
痛みもない。
感情すらない。
ただの「無」だ。
記憶はない。
誰が自分を造ったのか。
なぜ存在しているのか。
ただ――
白いローブの女の姿だけが、頭の奥深くに焼き付いていた。
彼女の身体から広がっていた、赤い波動。
それは単なる魔力ではない。
それは、
彼の「心臓ではない心臓」を揺さぶった、唯一の感覚だった。
赤い宝石を見ると、彼は本能的に反応した。
何だろうが、誰だろうが。
……どくん、どくん。
彼はまた一歩を踏み出す。
「ここには、もうない」
感情のない声でそう告げると、
彼はゆっくりと進む向きを変えた。
◇
それから彼は、
「赤いもの」を求めて彷徨い続けた。
暗い断崖を越える途中、
視界の端を赤い光がかすめた。
山裾の岩の隙間から、
数十匹のコウモリが一斉に飛び立つ。
その瞬間、
腕から飛び出した骨の棘が、
空を貫くように薙ぎ払われた。
ぶつ、ぶつ、ぶつ。
コウモリの胴が空中で裂け、
赤い肉片が苔むした地面に散る。
赤い宝石みたいに見えたあの目は、
ただ血膜に光が反射していただけだった。
「……肌に赤みが差しただけだ」
アーガスは苛立った目で、
死骸を踏みつけて通り過ぎた。
次に見つけたのは、沼地のど真ん中に生える巨木のような植物だ。
膝まで沈む泥の中、
葉の間に赤い実が目立つように実っていた。
彼は足を止める。
光を含んだ実が、宝石みたいに揺らめく。
「……まさか、あれか」
そう思うより先に、手が伸びていた。
意識より速い反応。
本能が先に動いていた。
近づいた途端、
植物が触手を絡めるように伸ばしてくる。
ざくっ。
鋭い骨刃が触手を真っ二つに裂いた。
赤い汁と、異様に生臭い匂いが広がる。
「……これも違う」
彼は実をひとつ握り潰す。
柔らかく、温い。
だが、中身は空っぽの果実。
自分でも分からないまま「赤」に反応してしまうこの本能は、
記憶を失った怪物に残された、
唯一の手がかりであり、忘れられた証でもあった。
そして乾いた峡谷で。
巨体のトカゲ型魔獣が、
岩の上をゆっくりと這い上がっていた。
背骨に沿って突き出た、赤い結晶。
それは、
彼が探すものにあまりにも似ていた。
「……あれか」
ばさっ。
背中の昆虫の羽が開く。
彼は垂直に落ちるように空を切った。
魔獣が頭を上げるより先に――
ぶつっ。
腕から伸びた骨棘が背骨を貫き、
赤い結晶を粉々に砕いた。
魔獣は咆哮ひとつ上げず、崩れ落ちる。
血に濡れたまま、
彼は欠片をひとつ拾い上げた。
一瞬、
指先に小さな震えが伝わる。
――だがそれも、
偽りの感覚だった。
「……これも、違う」
彼は欠片を投げ捨てる。
転がった石が、寂しく砕け散った。
それでようやく、彼は小さく呟いた。
「同じ色だけじゃ……意味がない」
宝石じゃない。
光でもない。
彼に必要なのは「波動」だった。
あの日、記憶の底で、
白いローブの女が放った――
あの赤い振動。
それだけが、
彼の心臓ではない心臓を揺らせる。
それでも彼は止まらない。
その波動に、もう一度触れるまでは。
◇
どれだけ歩いたのか。
月明かりさえ遮られた森を彷徨っていると、
時間の感覚すら曖昧になっていく。
そのとき――
遠く、森の下の闇の中から、
濃い煙と共に、何かが裂けるような悲鳴が響いた。
「きゃあああっ!」
鋭く、途切れ途切れの声。
子どもか、女か、判別もつかない。
彼は足を止め、
ゆっくりと視線を向けた。
丘の向こう、下の村が燃えている。
赤い炎が空へ跳ね上がり、
黒煙を吐き出していた。
「……騒がしい」
無表情のまま、
燃え落ちる村を眺める。
感情のない瞳で、
赤い炎を見つめる。
だが彼の視線は、
炎にも、悲鳴にも留まらなかった。
ゴブリンの魔術師が振るう杖。
その先端に――
赤い宝石が嵌まっていた。
アーガスの眼が、細く震えた。
背中の昆虫の羽が、気配のない風を起こしながら微かに揺れる。
ばさっ。
羽音ひとつ。
彼は静かに、村へ向かって歩き出した。
炎はすでに村の大半を呑み込んでいた。
石垣は崩れ、
屋根は落ち、
煤けた煙の合間から、死者の形が少しずつ露わになる。
男が、幼い娘を抱きかかえていた。
「頼む……頼む! この子だけは……!」
声は裂けていた。
背後では炎が風のように揺れている。
「くくく……泣きついても無駄だ」
杖を持つ年老いたゴブリンの魔術師が、口角を歪めた。
目にはねじれた満足が満ちている。
「それがお前の最後の遺言か?」
男はさらに身体を丸め、
娘を全身で覆った。
娘は泣かなかった。
ただ父の背にしがみつき、
目を閉じて震えているだけだった。
「さあ、片付けるか」
ゴブリンが杖をゆっくり持ち上げ、
先端を鋭く突き下ろす。
ずぶっ。
杖が男の背に突き刺さった。
「……パパ!」
娘の悲鳴が遅れて響く。
だがゴブリンは構わず、また杖を持ち上げた。
「次はお前だ、小さな虫め」
その瞬間――
とん。
誰かの足音が、
瓦礫を踏んだ。
ゴブリンの一匹が振り向く。
「ん? なんだ、お前――」
言い終える前に、
アーガスが腕を振った。
ぶつ、ぶつ、ぶつ。
腕から伸びた鋭い骨棘が、
三体のゴブリンを一直線に貫いた。
反応する暇もなく、倒れる。
「なんだこいつ!? 死にてえのか!」
「囲め! 数はこっちが多い!」
六体のゴブリンが斧と剣を振りかざして突進した。
アーガスは瞬きもしない。
腕の骨が――
ごき、ごき、と再びせり出し、広く展開する。
一瞬で、五体が別々の方向へ弾け飛んだ。
胸、喉、腹。
致命の部位に正確に突き立った骨は、
悲鳴を上げる隙すら与えない。
「弓兵! 早く撃て!」
遠くで、ゴブリンが弓を引いた。
ひゅっ。
矢が飛び、アーガスの肩を正確に射抜く。
――だが。
折れた。
皮膚は外骨格のように硬く、
矢は表面で弾かれて砕け散った。
「……」
アーガスは矢を放った方へ跳んだ。
すっ。
手刀が喉を撫で、
その瞬間――
ゴブリンの頭が宙へ舞った。
周囲が、また静まり返る。
「なんだ……あの化け物……」
ゴブリンたちに不安が広がり始めた。
そのときだ。
遠くから、低く、粘ついた声がした。
「相手にできそうだな。腕試しでもしてみるか」
老ゴブリンの杖先に、赤い魔法陣が浮かび、
火球が放たれた。
どおおん!
爆炎が一帯を覆う。
――しかし。
炎の中で丸く畳まれた殻、外骨格がゆっくりと開いていく。
「なんだ、あの殻は……」
アーガスがその中から姿を現した。
そして――
ばさっ。
背中の昆虫の羽が開き、
彼の身体を空へ持ち上げる。
空中で腕を広げ、
彼は小さく呟いた。
「ボーン・レイン(Bone Rain)」
彼の身体から、
数十本の骨針が――
空から降り注いだ。
それは矢でも槍でもない。
彼だけの、狩りの本能だった。
どすっ、どすっ。
ずぶっ、ずぶっ。
ぶつっ、ぶつっ。
雨のように落ちた骨針が、
数十体のゴブリンを貫いた。
彼らは反応もできず、
その場で、声もなく倒れていく。
「……っ」
杖を握る老ゴブリンが、
小さな身体を震わせて後ずさった。
燃える瓦礫の中、
赤い石が嵌まった杖が目に入る。
それがすべて、
アーガスの視界に収まった。
……どくん、どくん。
アーガスが無言の歩みで近づく。
「ま、待て! 待ってくれ!!」
老ゴブリンが叫んだ。
「こ、降伏する! 降伏だ!」
両手が震える。
「欲しいものがあるなら何でもやる!
部族ごと差し出してもいい!
力も! 情報も! ぜんぶ……!」
アーガスは老ゴブリンを見下ろし、口を開いた。
「……その赤い石、寄こせ」
「あ、ああ! これだ! これだな!」
老ゴブリンは杖を差し出した。
先端の赤い宝石は、
血色の炎に照らされて、いっそう鮮やかに光る。
アーガスはそれを掴んだ。
――だが、期待した振動はどこにもない。
「……これも、違う」
無表情のまま、彼は杖をへし折った。
ばきっ。
杖は呆気なく折れ、
赤い石は地に落ちた。
「ま、待て! お、俺は弱いが、お前の役に立てる!」
老ゴブリンが地を這って縋る。
「お前が何を探してるのか、俺が――」
「そうだ。お前は弱い」
アーガスは静かに頷いた。
「……だから」
足元から、
細い骨針がせり上がる。
「だからなおさら、
俺には要らない」
ずぶっ。
胸を貫いた骨針は、
一言も残さず、老ゴブリンの命を奪った。
血の気のある息が止まると、
転がっていた赤い石が、ほのかに光を含んだ。
月のない夜。
黒雲の切れ間から、
一条の光が落ちる刹那。
彼は石を拾い上げ、
その光にかざしてみた。
赤い石は、一瞬だけ生きているように煌めいた。
血のように澄み、鮮やかな色。
だがあの日の波動も、
心臓を揺さぶった震えも、
何ひとつ残っていない。
彼は低く囁いた。
「……偽りの光だ」
アーガスは迷いなく村に背を向けた。
ここには、彼が求めるものも、
何かが目覚める兆しもない。
……どくん、どくん。
昆虫の羽が小さく震え、
足は山の方へゆっくりと向かう。
そのとき――
さく、さく。
小さな足音がした。
アーガスは立ち止まる。
振り返らなくても分かった。
誰かが、自分を追ってきている。
「……帰れ」
背を向けたまま言う。
だが足音は止まらない。
さく……さく……
近づいてくる。
彼はゆっくり振り向いた。
そこにいたのは、
燃えた村の生き残りの少女だった。
彼が捨てた赤い石を胸に抱え、
黙って歩いてくる。
「その石は俺には意味がない。好きにしろ」
アーガスが低い声で、無感情に言う。
少女は答えない。
口元には薄い笑みが浮かんでいるのに、
瞳には涙が溜まっていた。
アーガスは一瞬、視線を止めた。
「……笑っているのか」
「……泣いているのか」
思わず、呟いていた。
その瞬間――
少女の胸の赤い石が、
小さく、本当に小さく波動を放った。
赤い閃光。
記憶の中の波動に、似ていた。
アーガスの目が見開かれる。
頭の奥で、失われた記憶が火花のように走った。
白いローブと赤い波動。
心臓が揺れた、あの瞬間。
「……いや、いまのは」
彼は少女の前に踏み込み、
彼女が抱えている石を取り上げた。
握り直す。
――だが今回は、
何の反応もない。
「……やはり、違う」
視線が、ゆっくり少女へ移る。
「なら……石に反応したのは、お前の方か」
アーガスは確信した。
この子は、ただの生存者ではない。
彼が探し続けた、
赤い波動の糸口。
あの記憶と、
何かが確かに繋がっているはずだ。
しばらく、二人の間に
言葉のない時間が流れた。
炎はまだ空を焦がし、
燃えた村の灰が風に舞う。
その中で、
アーガスは低く言った。
「お前……ついてくるか」
少女は口を結んだまま、
静かに頷いた。
「……いい。ついてこい」
少女は何も言わない。
それでも小さな足取りは、
ゆっくりと彼の後ろについた。
二人の背後には、
焼け落ちた村と、
赤く染まった空が残り、
前方には、
どこへ続くかも分からない、
果てのない暗い森道が広がっていた。




