31. 残された残骸(のこされたざんがい)
窓の外から柔らかな陽射しが差し込んだ。
糸みたいに細い風が、カーテンを静かに揺らす。
ベッド脇の椅子に、アイラが黙って座っていた。
ライネルはまだ深い眠りの中にいた。
額には冷や汗がにじみ、
閉じたまぶたの下で、かすかな震えが走る。
「···だいぶ落ち着いてきたみたい」
彼女は独り言みたいに、そっと呟いた。
「呼吸も一定だし···」
しばらく窓の外を見ていたアイラは、
小さな気配に顔を向けた。
扉が開き、ラケンが入ってくる。
「ここにいたか」
「ラケン」
アイラは立ち上がり、ラケンは静かに近づいて窓際の椅子に腰を下ろした。
「だいぶマシそうでよかった」
「うん。大きな問題はないよ。順調に回復してる」
ラケンは頷き、しばらくライネルを見つめてから、
少し言い淀むような表情になった。
「······伝えることがひとつある」
「······なに?」
アイラは、彼の顔色が変わったのを感じた。
「調査隊が神殿の奥で、ジークって男の遺体を見つけた」
「···ジーク?」
「そう。覚えてるだろ。
前に最初の神殿依頼で、案内役だったやつ」
「······どこで見つかったの?」
「地下の回廊の一番奥だ。
破損のひどい区画で、傷も深かった。
何かを避けようとして、背後から不意打ちされた痕が残ってた」
ラケンの声は、少しずつ沈んでいく。
「それと···胸元に手紙が一通あったそうだ」
「手紙···」
「封筒の表に、イヴェラの名前が書かれていたって。
握った手から最後まで離さなかったらしい」
アイラは言葉を失い、息を呑んだ。
短い沈黙が病室に広がる。
「···イヴェラに渡さないとね」
そう言いながらも、唇の端に迷いが残った。
ラケンは静かに窓の外を見つめ、
アイラはゆっくりと視線を落として考え込んだ。
ラケンが席を立つ。
「じゃあ、イヴェラに伝えるってことで」
扉を開け、出ていった。
病室には再び静けさだけが残る。
アイラはしばらく窓の外を見ていた。
陽射しは変わらずそこにあったのに、
胸の奥はどうしても落ち着かなかった。
◇
二日が過ぎた。
病室の空気は、幾分やわらいでいた。
窓からの陽が静かにベッドを覆い、
ライネルは身体を支えて座っていた。
目を覚まして一日。
ゆっくりなら動ける程度まで回復している。
そばには相変わらずアイラがいた。
彼女は窓を少し開け、入り込む風を受けながら静かに尋ねる。
「身体、どう?」
「···大丈夫。
筋肉痛が少し残ってるくらいで、そろそろ出てもいいと思う」
ライネルは淡々と答えた。
アイラは小さく頷く。
そのとき、
扉が開いた。
見慣れた気配が病室に入ってくる。
イヴェラだった。
「イヴェラ!」
ライネルが先に顔を向けた。
アイラは黙って彼女を見る。
イヴェラは扉を閉めて近づいた。
二人をゆっくり見渡し、低く言う。
「···思ったより回復が早いね」
イヴェラは窓の外をちらりと見てから、短く口を開いた。
「動ける?
一緒に行って、片づけなきゃいけないことがある」
ライネルとアイラは無言で目を合わせた。
そして静かに、迷いなく立ち上がる。
理由を聞く必要はなかった。
イヴェラの表情が、もう答えを持っていたから。
三人は病室を出た。
短い廊下を抜け、扉を開けて陽の下へ歩き出す。
風が一度、髪を撫でていき、
その瞬間、灯りが消えるみたいに景色が切り替わった。
◇
廃墟となった空間は、何も語らなかった。
かつて多くの気配が行き交っていたはずの回廊と部屋。
その痕跡の上に、
今は灰と血の跡だけが重なっている。
影の組織の拠点。
いまや名もない瓦礫となり、
過ぎ去った過去みたいに静かに沈んでいた。
三人は黙々と奥へ進んだ。
ライネルは崩れた構造物や床の痕を見ながら口を開く。
「···いったい、何があったんだ?」
ここにはもう気配が残っていない。
倒れた家具、割れた瓶、
乾いた血の跡が散らばるだけだった。
見た目はある程度片づいたように見えるが、
消えない濃い気配が空間に残っている。
「···イヴェラ。片づけるなら、手伝うよ」
ライネルが静かに言った。
だがイヴェラは首を振る。
「大丈夫」
そしてゆっくり背筋を伸ばし、続けた。
「それより···私と行く場所がある」
◇
部屋は暗く、静かだった。
イヴェラは奥へ進みながら言う。
「ここは元々、組織の監視隊が使ってた部屋。
封印装置を保管して、操作していた場所だ」
ライネルとアイラは黙って後に続く。
イヴェラは部屋の隅に置かれた金属箱を開け、
中から黒く薄い器具をひとつ取り出した。
小さな魔力印が刻まれた、銀色の精密装置。
「君たちの首に埋め込まれてた封印具。
これで外せる」
ライネルは慎重に首筋を探った。
皮膚の下に、薄い金属の感触がある。
「今は不活性だけど、
組織が生きてたら、いつか必ず作動してたはず」
イヴェラはゆっくりライネルの背後へ回った。
指先に魔力を乗せ、慎重に器具を首筋に当てる。
短い振動。
そして「カチッ」。
細い金属片がひとつ、床に落ちた。
「終わり」
次はアイラの番。
アイラは緊張したように少し首を見せ、
イヴェラは同じ手順で封印具を外した。
手の中の二つの封印具が、床で「チャン」と音を立てて転がる。
二人は黙ってそれを見つめた。
「もう、潰れた組織に縛られる必要はない」
イヴェラの言葉が部屋に静かに残る。
しばらく、短い沈黙。
ライネルは足元の封印具を見下ろし、静かに口を開いた。
「···なんか、すっきりするな」
アイラも小さく息を吐いて頷いた。
「うん。
妙に···気持ちが軽くなった感じ」
短いけれど、不思議な平穏がよぎった。
長く縛られていた何かから解かれた者だけが感じる感覚みたいに。
「君たちは村に戻って」
イヴェラの言葉に、アイラとライネルは少し迷った。
「···イヴェラは?」
アイラが尋ねる。
「私はここで、締めをすることがある」
彼女の視線が一瞬、回廊の奥に留まった。
アイラが慎重に続ける。
「あ、そうだ。イヴェラ、渡すものがある」
アイラはポケットから古い封筒を取り出した。
「ジークがイヴェラに渡そうとしてた手紙。
でも···残念だけど、彼は戻れなかった」
イヴェラはゆっくり振り返り、アイラの手の手紙を見た。
「···そう。教えてくれてありがとう」
アイラは何かを問いかけたそうだったが、
結局黙って頭を下げた。
「じゃあ···村で」
ライネルも短く頷く。
イヴェラは何も言わず背を向け、回廊の奥へ歩いていった。
遠ざかる足音。
そして重たい扉が閉まる音。
しばらくして、
ライネルとアイラは、
イヴェラが静かに渡した帰還スクロールを見つめ、
黙ってそれを開いた。
渦巻く魔力の奔流。
そして二人の姿は、ほどなく空間から消えた。
ひんやりした空気の中で、
崩れた組織の残滓だけが、ゆっくりその場に残る。
何かが終わったという実感は···
まだ肌に落ちてこなかった。
◇
村は普段どおり静かだった。
人々の目にはまだ緊張が残っていたが、
通りを行き交う足取りは少しずつ日常を取り戻しつつある。
ライネルとアイラは見慣れた路地を辿り、ギルド近くの宿へ向かった。
村に戻って間もないのに、
二人の顔には妙な疲れが影を落としていた。
宿の入口に着くと、
ギルドの書記係が待っていた。
「あ、お二人。ちょうどよかった」
彼は軽く会釈し、メモを渡す。
「ギルドマスターからの伝言です。
明日の朝、ギルドに来てほしいって。
大事な話があるそうで」
アイラはメモを受け取り、頷いた。
「わかりました。ありがとうございます」
彼は短く頭を下げて去った。
部屋に入ると、
ライネルはすぐベッドに身体を預けて息を吐いた。
「···やっと一息つける」
「ほんと。なんか夢みたい」
アイラは簡単に夕食の準備を片づけてから窓辺へ寄る。
「でも、よかった。
こうして無事に村へ戻れたんだし」
ライネルは返事をせず、天井を見たまま目を閉じた。
その夜、
二人は久しぶりに余計なことを考えず、
静かに深い眠りへ落ちた。
◇
翌朝、
二人は約束の時間にギルド本部を訪れた。
入口にはすでにラケンが立っていた。
「待ってた。ついて来い」
短く言って、慣れた様子で奥へ案内する。
廊下を進むと、見覚えのある顔が見えた。
会議室。
長いテーブルの向こうに、
王国魔術師協会の調査官、アルゼン・アスマイル・ポニテ。
その隣には、疲れた気配のラケンが座っていた。
そして――
やけに陽気な声。
酒の匂いがうっすら混じった笑いと一緒に、
ギルドマスターが両腕を大きく広げて迎えた。
「おお〜来たか! うちの新米英雄ども!」
その声にアイラは反射的に眉をひそめる。
「···う、酒くさ」
小さくこぼした言葉に、
ライネルは黙って彼女へ視線を向けた。
小さく息を吐くみたいに、共感の目で一度だけ頷く。
その瞬間、アルゼンが短く笑った。
「この人は元・王国調査局だ。
今回の初動対応でも、影の立役者だった」
「···え?!」
アイラが驚いた目でギルドマスターを見る。
ライネルもはっきり反応した。
ギルドマスターは気まずそうに鼻を掻いた。
「はは···まあ、今はこの村を守るだけの爺さんだ。
昔の話は忘れろ」
アルゼンが静かに続ける。
「直接顔を合わせるのは二度目だな。
だが、その後も君たちの話は時々耳に入っていた」
彼は視線をライネルとアイラへ移した。
「想定を超える動きが多かったそうだ」
口調は淡々としているが、
その奥に静かな興味と評価の色が混じっていた。
アイラは軽く頭を下げ、
ライネルは黙ったままアルゼンの目を見返した。
「まず、この場は君たちに礼を言うために用意した」
アルゼンの声は少し柔らかく、
そこには確かな信頼があった。
「神殿の件。
そして内部で発生した特異な魔力反応と構造崩壊。
ギルドと協会は概ね把握し、
収集した資料も順次整理している」
ギルドマスターがゆっくり言葉を引き継ぐ。
「今回の件に関して、
ここにいないイヴェラも含めて――
お前ら二人の迅速な対応と救助、
それに現場の安定化まで。
十分な功績だと判断した」
ギルドマスターは書類を取り出した。
「そこで決めた。
ライネル・シュハルタ、アイラ・ブレンテル。
正式にCランク冒険者への昇格を認定する」
書類にはギルドの赤い印章が押されていた。
「···本当?」
アイラが目を見開く。
ライネルも驚きを隠せない。
マスターは笑って、二人にCランクのバッジをひとつずつ渡した。
「もちろん本当だ」
彼は一度息を整え、柔らかく付け足す。
「お前らのおかげで、多くの人間が怪我をせずに済んだ」
アイラは書類を慎重に受け取った。
小さな達成感が指先から広がる。
誰にも評価されなくてもいいと思っていた日々が、
今日は少し違って見えた。
しばらくして、沈黙を破るようにアイラが口を開いた。
「イヴェラは···どうなるの?」
その問いに、
ギルドマスターとアルゼンは静かに視線を交わした。
少しして、アルゼンが先に答える。
「イヴェラはすでにCランクだ。
この村では、それ以上の昇格はできない」
ライネルが静かに尋ねる。
「じゃあ···Bランクになるには?」
アルゼンはゆっくり頷いた。
「王都の冒険者学園。
そこで公式課程を修了すれば、
Bランクに上がれる」
「そうか」
アイラはその言葉を聞いて、少し考え込んだ。
そしてアルゼンが立ち上がる。
彼は懐から小さな印章を取り出した。
静かな指先から、何かをそっと取り出すような感覚が漂う。




