29. 実験の破局(じっけんのはきょく)
巨大な魔力の震動が実験場を覆った。
壁面の回路が一度ずつ脈打ち、床の魔法陣が薄く点いては消えるのを繰り返す。
高位司祭が歯を食いしばった。
息を呑み、実験体へ向けてもう一度叫ぶ。
「何をしている!
攻撃しろ!
早く、その力を放て!!」
返事はない。
代わりに――
バキィッ!!
金属が潰れる音とともに、アルガスの足が床を踏み砕いた。
衝撃で魔法陣が大きくうねり、回路を伝う震動が壁と天井を舐めるように駆け抜けた。
「······命令など」
荒れた鉄板を捻じ曲げるような声が漏れる。
語尾は歪むように低く震え、その一言だけでこの空間の“統制”が崩れていくのが分かった。
高位司祭は本能的に一歩、後ずさった。
「······今、何と言った?」
その瞬間。
ゴォォォン!!
アルガスの身体が空気を裂いて飛び込んだ。
血走った目。
吐息ごとに弾ける荒い金属音。
それはもう“実験体”じゃない。理性の殻が剥がれた獣――いや、それ以上に生々しい破壊そのものだった。
「ぁ――」
短い悲鳴すら最後まで出せない。
シュッ。
血と肉片が宙に散った。
高位司祭の身体が一瞬で断たれた。
首と肩、腹部が別々の方向へ弾け、床に落ちる前から断面の熱い血が壁と回路へ飛び散って染み広がる。
「···!」
残っていた下級司祭たちが一斉に悲鳴を上げた。
「じ、実験体が——!」
「に、逃げ——!」
言い終える前に、アルガスがゆっくり手を上げた。
指先を持ち上げる動作は遅い。
遅いのに、次に来る結末が鮮明すぎて背筋が凍る。
「······うるさい」
そして。
ゴォォォォン!!
爆音。
空間がぐらりと歪んだ。
圧縮された魔力が爆ぜるように噴き出し、魔力回路が悲鳴を上げるように震えた。水晶板に浮かんでいた数値が一瞬跳ね上がり、画面ごと裂けて消える。
「うああ—!」
「ぎ、ぎぃぃぃ——!」
司祭たちの身体が破片みたいに宙を舞った。
血。
悲鳴。
弾けた臓腑。
そして――沈黙。
瞬く間に全滅。
実験空間に残ったのは瓦礫と血、焼けた金属の匂いだけ。
最初は鼻を刺し、次の瞬間には舌先にまで鉄の味が貼り付いた。
そのときだった。
——チカリ。
ライネルの手首の赤い腕輪が、微かに、ほんの微かに光った。
炎みたいな閃光じゃない。心臓が一度跳ねるような残光。
その残光が空気を切ってアルガスの視界を掠めた。
アルガスの身体が小さく痙攣し、動きが止まる。
「···!」
頭を抱えた。
全身が震える。
分からない痛みが脳を抉るように、咆哮が弾けた。
「ぐああああああああっ!!!」
魔力が裂けるように噴き上がった。
壁面の回路が一瞬落ちてまた灯り、眩い青い閃光と赤い残光が重なって広がる。
直後――
ドン!!
アルガスが魔力波動を全身で爆ぜさせ、実験場の天井へ飛び上がった。
赤い残光が宙へ散り、魔力の痕跡が空気の中で不規則に揺れた。
彼が穿った軌跡に沿って、破片が波打つ。
虚空へ。
どこかへ。
残されたのは崩れた実験場と、血まみれの少年だけだった。
ライネルは事件の中心で、意識を失ったまま静かに倒れている。
胸がごく浅く上下する。息はまだ途切れていない。
だが魔力の流れは底まで落ちたみたいに、千切れそうに続いていた。
◇
狭い通路の中。
不規則な震動が足先へ伝わった。床が揺れるというより、足裏の下で何かが“鳴った”感覚。
「······感じた?」
立ち止まったアイラが問う。
イヴェラは黙って息を吸い込んだ。
鼻先を刺す、焼けた金属の匂い。
そして爆発の残滓。
ただの戦闘じゃ残らない、異質な魔力の痕だ。
「······これは単なる魔力暴走じゃない」
アイラの額に冷や汗が滲む。
「今のは··· 何かが爆ぜた」
イヴェラが顔を上げた。
瞳が鋭く細まる。
「方向は··· あっち」
指先が示すのは、長い廊下を越えた神殿のさらに奥。
「ライネル······お願い、生きて」
二人は同時に走り出した。
大きく吸っても肺が満ちない。
壁が近づくほど、魔力の残滓が皮膚を掻きながら通り過ぎた。
◇
神殿中央ホール付近。
崩れた石壁の向こう、廃墟になった実験場の一部が黒い煙の中に姿を見せた。
天井は一部引き裂かれ、床の魔法陣は半分溶けて消えかけている。
アイラが魔法で周囲の温度を探った。
指先が空を撫でると、まだ熱い残熱が薄く引っかかる。
「······今も魔力が残ってる」
残滓がまだ生きていた。
形はないのに、どこかに“痛み”みたいな感覚が染み付いている。
血の染みた石床が反応しているのか、壁の回路が最後の息を吐いているのか——判別できない。
イヴェラがもう一度、息を呑む。
「急いで」
◇
神殿裏手。
屋上の一部、影みたいに佇むラケンの目が細く裂けた。
彼は先ほどから、神殿深部から突き上がってくる波動を感じ取っていた。
そして、その瞬間。
ゴォォォン!!
屋根の一部が破片みたいに吹き上がった。
石片が空を裂いて夕空へ散る。
「···!」
赤い夕陽を背負った空。
そこから飛び出した影は、人のように見えた。
だが、人じゃない。
背に広がる翼。
昆虫のように透明で粘つく膜が光を反射してぎらつく。
羽ばたくたび、薄膜が擦れる音ではなく、金属が捻れる音が混じった。
ラケンは一瞬、言葉を失った。
「······何だ。今の··· 人間か?」
眼前を横切る影が咆哮し、空を裂いた。
爆発的な魔力が残滓となって撒き散らされ、痕跡が空中に帯のように残ってから、すぐに散り散りに砕けた。
跳躍じゃない。
脱出だ。
ラケンは崩れた屋根の縁を伝い、下へ降りた。
神殿内部へ、静かに潜り込む。
◇
崩れた通路。
ひび割れた天井。
床を覆う魔力の残滓。
ラケンは慎重に足を運んだ。
踏みしめる感覚が妙だ。瓦礫ではなく、魔力で固まってしまった“何か”を踏んでいるみたいだった。
そして低く呟く。
「······これは、ただの爆発じゃない」
粉砕された実験器具。
半ば溶けた魔法陣。
煤けた残骸、そして赤く灼けた魔力の痕。
「ここは··· いったい何だ」
血が滲んでいる。
瓦礫の隙間へ染み込んだ魔力が、まだ微かに生きていた。
その微かさが逆に不気味だ。最後まで食らいつく執念みたいで。
ラケンの眉が寄る。
「······何かが、いたんだな」
背負った剣に手を置いた。
長く分厚い刃。
普通の剣よりずっと大きく重い大剣。
鞘はない。
硬い革紐で背に固定されているだけだ。
ラケンは静かに紐を解きながら言った。
「······まだ、終わってない」
◇
実験場入口。
扉はすでに吹き飛び、内部は廃墟だった。
砕けたキメラの残骸が床を覆い、焼け焦げた魔法陣は形だけを残している。
割れた壁の隙間から煙が漏れた。
そして。
「······ライネル!」
最初に飛び込んだのはアイラだった。
瓦礫の山の間。
赤い血に濡れたまま倒れた少年。
その周囲には微かな魔力が残っている。
炎じゃない。消えかけの灰みたいな淡い残光だ。
「よかった······ まだ生きてる」
イヴェラが素早く状態を確認した。
「魔力循環は維持。
でも意識がない」
指先がライネルの頬を掠めた。
呼吸はある。
ただ魔力は枯渇寸前。底まで掻き取られた器みたいに空っぽだ。
アイラが歯を食いしばる。
「これを··· 一人で···?」
イヴェラが周囲を掃いた。
視線が実験台の一角で止まる。
「······これは···」
破片を退かすと、古い書類の束が現れた。
焼け焦げた紙。
魔術刻印の施された実験記録。
その上に、太い文字。
『計画名:アルガス・コア』
アイラが息を呑む。
「アルガス······ コア?」
イヴェラが静かに頁をめくる。
顔色が固まっていく。
「······単なる生体改造じゃない」
アイラが唇を結んだ。
「これ··· 召喚?」
イヴェラの声が低く沈む。
「正確には、“それ”をこの世界へ引きずり下ろす儀式」
そのとき、瓦礫の上を踏む足音が近づいた。
ラケンが入ってきた。
書類と廃墟を一瞥し、すぐにライネルへ視線を固定する。
「······息はあるな」
アイラが顔を上げた。
「ラケン?
あなた、どうしてここに···」
「質問は後だ」
ラケンは瓦礫を踏んで近づき、膝をついてライネルを素早く見た。
血の匂いが濃い。
それ以上に濃いのは、骨まで染みた魔力過熱の残響。
「この痕······ まさか、ライネルが戦ったのか」
イヴェラが短く頷く。
「一人で」
ラケンの口元が微かに歪む。
「······正気じゃない」
彼は書類へ目を向けた。
焦げた文字が薄く揺れて見える。
ラケンが低く読み上げる。
「古代破壊種と呼ばれた生体兵器······ 神話でしか語られない存在」
周囲をもう一度見渡した。
砕けた回路。
割れた床。
血に濡れた残骸。
「神々でさえ完全には消せなかったと伝わる。
破壊だけを繰り返す、本能の塊」
視線が書類の下段へ落ちる。
「誰かがそれを··· もう一度引きずり出そうとした。
“アルガス”の名で」
イヴェラが頁をめくった。
「構造がね。外部刺激に反応するよう設定されてる」
指先が文をなぞる。
「ライネルが一定以上、魔力を暴走させた瞬間··· コアが目覚める」
アイラが硬い声で継いだ。
「計画はほぼ完成してた。
誰かが来て、起こすだけで···」
ラケンが短く息を吐く。
「で、目覚めた奴が全部壊して消えた」
書類の最後の一文が目に刺さる。
『計画完遂時、波動の門が開く。
それは眠れる存在の意志を通過させる扉であり、
その存在は大地に“秩序以前の混沌”を再び呼ぶ。』
アイラが低く呟いた。
「······秩序以前の混沌」
ラケンが書類を畳むように手で押さえた。
「今のライネルは、それを目覚めさせた“鍵”になったってことだ」
ラケンの視線が、ライネルの赤い腕輪へ落ちる。
まだ微かに光を宿している。
弱いのに、妙に目に引っかかる。神経を擦るように。
そのとき。
ライネルの指が、ほんの少し動いた。
イヴェラが即座に身を屈める。
そして、彼の目がゆっくり開いた。
淡い青が宿る瞳。
焦点を探していく。
目を開く、それだけでどれほど辛いかが透けて見えた。
「······イヴェラ······ アイラ···?」
「ライネル!」
アイラが彼を強く抱きしめた。
「気がついた?
ほんと······ バカだよ、あんた······」
ライネルが細く息を吐く。
声は乾いたまま零れた。
「······まだ··· 終わった気がしない」
イヴェラが短く頷く。
「そう。終わってない」
歯を食いしばる。
「そしてあなたは、辛うじて生き残っただけ」
ライネルは崩れた天井を見上げた。
割れたガラス、ひびの入った回路、押し潰された瓦礫。
瞳に一瞬、アルガスの輪郭が掠める。
あの視線がまた自分を測る気配がした。
ラケンが一歩寄り、廃墟の中心で低く言った。
「ライネル。今のお前は··· 唯一の目撃者だ」
その言葉に、ライネルの喉が一瞬固まった。
彼が見たもの、味わったもの、そして消えた“厄災”の向き。
ライネルは目を閉じ、ゆっくり開く。
「···まだやれる」
「身体がもう少しついてくれば··· もう一度戦える」
沈黙。
イヴェラが向き直った。
長い息が漏れる。
「······くだらないこと言わないで」
声は抑えているのに、芯が剥き出しだった。
「今の自分の状態、分かってる?
さっき死にかけた子の言葉だ、それ」
視線が鋭く細まる。
「今は回復が先。
また戦う?
冗談じゃない」
ライネルは返せなかった。
視線を逸らすみたいに、僅かに俯く。
指先に力を入れようとしても、一本動かすのがやっとだった。
ラケンが顔を上げ、独り言みたいに呟く。
「······問題は、消えたあいつだ」
低い声なのに、重みがある。
ただ逃げたんじゃない。
“目的”を持って消えた。
短い、重い沈黙。
ラケンがゆっくり続けた。
「今この瞬間も··· 身体を整えて、次を準備してるかもしれない」
目が廃墟の向こう、闇の残る通路へ向いた。
「そして、また現れたら」
最後の言葉を、ラケンは低く押し込める。
「その時、俺たちは······ 止められるのか」




