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26. 実験空間(じっけんくうかん)

神殿の奥深い通路の扉が「カチッ」と音を立てて閉まった瞬間、

空間が息を止めたみたいに静まり返った。


すぐに壁面と床に沿って、極めて微細な魔力の振動が広がる。

波紋は大きくない。代わりに、密度が高い。

まるで足取りひとつ、息づかいひとつまで数え上げると言わんばかりに。


「···待って」


アイラは身を低くして目を閉じた。

石床の冷たさが膝に触れる。

一度息を整え、空気の“目”をなぞるように探った。


魔力は本来、“流れる”感覚だ。

けれど今は···流れているふりをしている。

自然なふりで、薄く薄く上に載せられているだけ。


指先が、一度で異物を拾い上げた。


「これ、施錠魔法じゃない。結界に近い」


「どんな結界」

イヴェラが短く問う。


アイラは唇を軽く噛んだ。

答える前に、もう一度周囲を“聴く”ようにさらう。


「感知。私たちが動くと、流れがついてくる。

もう誰かに見られてるかもしれない」


言葉を吐いた瞬間、喉が渇いた気がした。

ここでは、ひと言でさえ···気づかれたら終わりだ。


イヴェラはすぐにポケットから小さな装置を取り出した。

金属の縁。内側には魔力の精製石。

手のひらほどの大きさなのに、精密な角と紋様が刻まれている。

小さく精巧な分、値の張る代物だった。


「念のために用意してた」


カチッ。


機械音すらなく、共鳴だけが浅く広がる。

風が撫でるように、薄い振動が壁を伝って伸びた。


その振動が結界の流れに触れると、波形がわずかにずれた。

完全に断ち切れるわけじゃない。

けれど“正確な視界”は曇らせられる。

くっきりした像が、滲んだ感知に変われば···隙が生まれる。


イヴェラがアイラを見る。


「アイラ。攪乱できる?」


アイラはゆっくり目を開けた。

瞳が一瞬揺れて、すぐに定まる。


「完璧じゃないけど···視界をぼかすくらいなら」


イヴェラは頷いた。

迷いじゃない。決断を固める動きだった。

その目はもう次の場面を計算している。


二人は同時に身を低くした。

壁にもたれるというより、壁と同じ高さに“貼りつく”ように。

衣擦れが石に触れないように。

つま先が床を引っかかないように。


静寂の中で、緊張だけがせり上がる。

ここからが始まりだ。


イヴェラは装置を床に置いた。

石に触れた瞬間、空気中に伸びていた魔力線が微細に歪む。

感知線の一部が方向を失い、見当違いの場所を探り始めた。

まるで目をこする人みたいに、時々焦点を落とす。


「アイラ。今」


アイラは息を殺し、イヴェラの横へぴたりと寄った。

互いの体温がわかる距離。

視線が研ぎ澄まされる。

冗談が入り込む余地なんて、どこにもない。


「神官···いる。二人。

左の階段、上のほうを監視してる」


「距離は」


「近い。十歩以内」


イヴェラは頭の中で角度を描いた。

階段の高さ。柱の影。

監視の視界が重なる範囲。

死角が生まれる瞬間。

攪乱の波が揺れる周期。


『死角は三秒。

波の周期に合わせる』


小さな手振りひとつ。

アイラがごく僅かに頷いた。


二人は壁に沿って、滑るように動いた。

足音はない。

あったとしても、神殿が先に飲み込む。

天井のどこかから落ちる水滴の音、

遠くから染み込んでくる淡い祈りの残響が、

むしろ足取りを隠してくれた。


神官たちの視線が、攪乱装置のほうへ一度寄る。

一人が護符を持ち上げ、周囲をなぞるように見回した。

目が速く、だが癖のように動く。

緊張というより、“仕事”に近い顔だった。


「今···何か掠めた気がしないか」


隣の神官が低く言う。


「また下で実験してるんだろ。

俺たちは持ち場だけ守れ」


無駄な疑いは切り捨てられた。

その一言が、この神殿の空気を説明している気がした。

慣れ。無感覚。そして“当たり前”。


イヴェラとアイラは影の中で息を飲んだ。

アイラは反射的に掌へ力を込める。

魔力の流れを、さらに薄く、さらに静かに保つ。

目立てば終わりだ。


そしてまた、ごくゆっくり動く。


そのときアイラが、はっと止まった。

指先に触れる“筋”が違う。


壁面を伝う魔力の波が一定じゃない。

隠したものと、隠すために上塗りしたものが重なっている感覚。

一枚じゃない。二枚。

表は神殿の結界、内側は別の筋。


アイラは指先に、かすかな光を滲ませた。

壁のざらついた表面を撫でるように滑らせ、薄い魔力の流れを引き出す。

光というより···方向を取る糸みたいなものだ。


交点が見えた。

肉眼ではほとんど見えないのに、魔力はそこで“ひと呼吸”止まった。

流れが一度途切れ、また繋がる小さな隙間。


「···ここ」


イヴェラは腰元から小さな増幅石を取り出した。

紋様の上にそっと当てると、細い線が反応して光る。


同心円。角の線。

古い紋。


神殿に混ざっているにしては古すぎる。露骨すぎる。

まるで「ここだ」と、わざと印を残したみたいに。


「イヴェラ、あれ···」


「封印の紋様」

イヴェラがすぐに受けた。

「資料室で見た“深層構造結界”と筋が同じ」


アイラは紋様の上に掌を置いた。

魔力が静かに触れた瞬間、小さな振動が返ってくる。

“石”じゃない。石の内側に眠る何かが反応する感覚。


壁が揺れた。

何かが息を吐くような。

長い間押さえつけられていたものが、ようやく伸びをするみたいに。


石が剥がれるように、壁の一部が隙間を作った。

埃が薄く舞う。

その向こうから、古い湿気と冷たい匂いが一気に押し寄せた。


その先。

狭く、暗い通路。


封印の欠片が色褪せたまま垂れ下がり、

その下には古代語が刻まれている。

読めない。

けれど意味は、肌でわかった。


『入るな』

『ここは下だ』


アイラが小さく言う。


「···本当に、この道で合ってるのかな」


不安じゃない。確認だった。

もう一度聞かなければ···足を出せない問い。


イヴェラは迷わなかった。


「確信はない」

「でも、ライネルがあっちにいる感覚は確か」


それは勘じゃない。確信に近い。

イヴェラの瞳は揺れない。

アイラはその目を一度見て、頷いた。


二人は呼吸を合わせた。

そして闇の中へ入っていく。


通路は想像以上に狭く、曲がりくねっていた。

身を低くしないと進めない。

肩が壁に擦れると、石の粉が服に乗る。

床は不規則で、足首が折れそうな溝があちこちにある。


湿気が肌を撫でた。

カビの匂いがする。

そしてその間に、もっとはっきりしたものが混じった。


「···血の匂い」

イヴェラが低く言った。


アイラの目が一瞬揺れる。

口の中がからからに乾いた。

それでも足は止めない。

止まれば···想像が先に走る。

想像はいつだって最悪へ向かう。


壁面には引っかき傷があった。

古い傷。

急いで付いた傷。

違う“時間”が、一つの壁に重なっている。

爪で引いたみたいなものもあれば、

何かに引きずられながら残したようなものもあった。


「ここ···前に誰か入ったのかな」


アイラが低く聞くと、イヴェラはすぐ答えた。


「いたんだろ」

声は淡々としている。

「生きて出たかは、知らない」


淡々としているのは、冷たいという意味じゃない。

イヴェラの淡々は···心を隠すやり方だった。

指先が一瞬ぴくりと動いて、また元に戻る。


床は湿っていて、一歩ごとに残滓がうねる。

魔力じゃない。魔力に張りついた感情みたいなもの。

不快に粘つく残響が、足首を掴んで引く。


通路が少し広くなる区間。

壁の亀裂から、淡い光と音が滲んだ。


イヴェラが手振りで止まれと示す。

二人は同時に身を低くした。

息を分けないように、薄く吸って薄く吐く。


隙間の向こう。


「···実験区画の魔力反応が急激に上がりました」


聞き慣れない男の声。

落ち着いているのに、どこか浮き立った調子。

まるで良い結果を待つ研究者みたいに。


「制御範囲を超えています」


短い沈黙。

その沈黙の上に、聞き覚えのある口調が重なる。


「よろしい。予定通り開始しなさい」

「失敗を恐れる理由はありません」

「今回は···確信がありますから」


イヴェラは息を止めた。


その声。

ライネルを“ひとりで”呼んだ神官だ。

あの日の視線まで、瞬間的に蘇る。

親切なふりをしながら、人を数字で見る目。


イヴェラの手が反射的に握り締められる。

手の甲に筋が浮いた。

爪が肉に食い込むほど力が入る。


『ライネル···耐えて』


言葉にはならない。

代わりに、その想いが足取りをさらに静かにした。

アイラはイヴェラの拳を一瞬見て、視線を逸らす。

今は···掴んでやれない。

掴めば、音が出る。


二人はまた動いた。

目的地は遠くない。

音の密度と魔力の匂いが、近づいてきている。

通路の先で光がはっきりして、

人の声もさらに明瞭になった。


そして、そのときだった。


床の下から、極めて低い振動が一度響いた。

足裏を伝って膝まで、ずしりと叩く。


まるで···巨大な何かが、内側から扉を叩いているみたいに。


アイラがイヴェラを見る。

イヴェラは頷いた。


『ここだ』


二人はさらに深い闇へ、足を運んだ。



ライネルは膝を折った。

呼吸が荒い。

疲労が先に押し寄せ、魔力がその後を追った。


手首が痺れる。

指先が感覚を失っていく気がした。

それでも手を開けば、まだ蒼い気配が集まる。

炎みたいに弾けるんじゃない。刃のように···薄く立つ。


それでも瞳に残る蒼は、消えなかった。


『終わってない』


倒してきたものは、あまりにも“軽い”。

生きたものを斬り伏せた重さじゃない。

ただ···壊れる。

命令通りに動いて、途切れる。


息を吸うたび、血の匂いが喉の奥に残った。

自分の血か、他人の血か、区別が曖昧になる。

床に落ちた雫が、つま先を濡らした。


ライネルは歯を食いしばり、視線を上げた。


そして、ようやく気づく。


この戦いは、生き残るための戦いじゃない。


測定だ。


怪物が押し寄せるタイミングも、数が増える間隔も、

時々見せる反応の“間”まで···全部が計算されている。


少し強くなれば、少しだけ強いものが来る。

呼吸が乱れれば、その瞬間を狙って群がる。

魔力が爆ぜれば、その波形を読むように遅れて引く。


精密すぎて···偶然じゃない。


誰かが見ている。

どこかで、彼の魔力がどう揺れるのか。

どの瞬間に爆発して、どの瞬間に消えるのか。


ライネルは一瞬、首の後ろが冷えた。

壁に囲まれていても···視線が貫いてくる。

そんな感覚。


『俺が···実験体だって?』


指先が震えそうになったが、無理やり押さえ込む。

怒りがこみ上げる。

だがその怒りは暴れない。

内側へ沈み、より硬い形へ変わった。


蒼い気配が、また指先に集まる。

これは怒りじゃない。決意に近い。


ここで止まれば、終わりだ。

ここで折れれば、奴らの望む結果になる。


ライネルは短く息を吐いた。

脳裏をよぎる顔があった。

アイラ。

イヴェラ。

そして···自分を信じてついてきた者たち。


彼らが今どこにいようと、

ここで倒れたら···そこへ届く道が消える。


ライネルは歯を食いしばった。


「···ここで折れるわけにはいかない」


言い終えると、蒼い気配が掌でさらに鮮明になった。

次の波が来るタイミングを···彼はもう掴んでいた。


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