23. 指名依頼(しめいいらい)
「組織から……また書簡が来た」
イヴェラの声に、微かな緊張が混じっていた。
会議室は一瞬止まったように静まり、全員の視線が彼女の手にある封印文書へ集まる。
「また?」
ライネルが席から身を起こした。
「昨日も来てたよな」
「そう。でも今日……また来た。
それに、内容が真逆だ」
イヴェラは封を解き、紙を広げた。
一行ずつ、ゆっくり読み下しながら唇を動かす。
「『神殿調査の再開を承認する。
可能であれば、早急に再侵入せよ』」
ライネルが呆れたように笑った。
「一日で変わるのか? なんだよ、これ」
アイラが腕を組み、首を傾げる。
「単純に……組織も急に動かざるを得なくなったんじゃない?
神殿で何か感知されたとか」
「……おかしい」
イヴェラは紙を見下ろしたまま低く言った。
「たった一日で判断がひっくり返る?」
アイラが肩をすくめる。
「上で決裁が変わったとか、
新しい情報が入ったとか。そういうことでしょ」
イヴェラは返さなかった。
沈黙が長くなるほど、理由のない不安だけが輪郭を増していく。
「……確実に、何かがこじれてる」
しばらくして。
扉が静かに開き、ラケンが入ってきた。
今日は初めて会議室の中まで足を踏み入れる。
彼は慣れたように奥へ進み、軽く頷いた。
「何かあったか? みんな顔が冴えないな」
イヴェラはラケンを見て、短く言った。
「神殿調査を、もう一度やる。
前に見られなかった区画まで含めて」
「また?……急だな、なんで」
ラケンは顎に手を当て、少し考えてから低く付け足す。
「前回は俺が依頼を掛ける形で通ったけど……
あれはほとんど運だった。今回も通るとは限らない」
「一回だけ」
イヴェラの口調は断固としていた。
理由を長々と説明しなくても、意思は伝わる。
ラケンが軽くため息を吐いた。
「……分かった。
俺も、穏やかじゃない気はしてた」
視線を上げ、三人を見渡す。
言葉の端が少し捻れる。
「でも、お前らがそこまで踏み込むなら……
普通の冒険者じゃないだろ」
ライネルが笑いを混ぜて返した。
「ただの……好奇心旺盛な旅人ですよ」
イヴェラは黙って、薄く笑うだけだった。
アイラは一瞬視線を逸らし、冗談めかして手を振る。
真実は、まだ口に出されない。
◇
神殿の塔、さらに奥。
石壁に囲まれた部屋の中、一本の蝋燭が淡く揺れていた。
その光さえ、誰かの視線を気にしているみたいに小さい。
黒いローブの司祭が静かに立っていた。
本を閉じ、低く呟く。
「……確かに感知されました」
闇の向こうから声が返る。
「魔力反応か」
「はい。感知石で造られた石像が……確かな反応を示しました」
司祭は、窓の隙間から差し込む青い光を見上げ、言葉を続けた。
「正確には……『人間でありながら、魔族の魔力を持つ子』。
その存在が神殿内部へ入った瞬間、石像が反応しました」
短い沈黙。
「……なら、ほぼ確定だな」
司祭は頷き、声をさらに落とす。
「……あの者、ライネル。
覚えています。彼が足を踏み入れた時、魔力の流れが微かに歪んだ。
普通の人間では出ない形でした」
蝋燭のそばへゆっくり近づく。
灯りに照らされた顔は整っているのに、瞳だけが冷え切っている。
「魔族の痕跡があるのに……外見は人間。
いったい何者だ」
司祭の笑いが細く漏れた。
「この程度なら……試す価値はある」
闇の声が問う。
「では、どうする」
司祭は答えを用意していたように言った。
「神殿側から直接、指名依頼を出します。
表向きは『不安定な構造の調査』ですが……」
「……あの子を、もう一度中へ引き込むつもりか」
司祭は手のひらで蝋燭の火を覆い、影を濃くした。
「入ってさえくれれば、あとはすべてこちらの思うままです」
机の上へ書類を一枚置く。
文書の上段には、すでに名前が書かれていた。
指名対象:ライネル
司祭は本棚を押し開け、窓の外の塔を見上げた。
「……あの子だけ、切り離せばいい」
口元がゆっくりと上がる。
風もないのに蝋燭が消えた。
部屋の温度が、目に見えて落ちた。
◇
闇だった。
静かで、沈んだ水の底のような感覚。
ライネルは息を吸い込んだ。
空気が軽い。そして……この場面、この感覚。
またこの夢だ。
この村に着いた最初の日。
最初の依頼を受ける前の夜にも見た夢。
宙に浮いているような感覚。
地も空もなく、無重力のまま押し流される気分。
その時。
光なのか記憶なのか分からない欠片が、静かに降ってきた。
そして、その欠片の向こうに、誰かの輪郭が現れた。
どこかから声が聞こえる。
薄い空間の中、誰かが彼を呼んだ。
「……オルタ」
初めて聞く名なのに、ずっと前から知っていたみたいに。
ライネルの意識の奥で響いた。
欠片の向こう。
白いローブの女が立っていた。
長い髪が腰まで流れ、
届かない距離から、彼を静かに見つめている。
見たことのない顔なのに……懐かしい。
彼女は泣きも笑いもしない。
唇も動かないのに、瞳がはっきり語っていた。
(そこにいたのね……)
ライネルは動こうとしたが、足先の触れる場所がない。
近づけなかった。
瞬間、神殿で見た壁画が頭をよぎる。
聖なる女神のように描かれた姿。
その女と、目の前の存在が重なった。
これは現実か。夢か。
過去の記憶か、これからの予兆か。
確信は持てないのに、
自分の中のどこかが、この瞬間を知っていた。
彼女は誰かを待っていて……
その待ちの終わりが、自分だと言うみたいだった。
ライネルは息を荒くしながら身を起こした。
いつの間にか、朝だった。
窓の隙間から陽射しが薄く差し込む。
それでも夢の残像は、なかなか消えない。
「……なんなんだ、この夢」
額を押さえ、ため息を吐く。
記憶は曖昧なのに、感覚だけが鮮明だった。
宿の扉を出ると、
もう朝日が高く上っていた。
扉に小さな紙片が貼られている。
簡潔で、見覚えのある筆跡。
『ギルド招集』
ライネルは襟元を正し、短く呟く。
「早いな……」
しばらくして。ギルド本館の受付窓口前。
いつも明るい受付嬢の顔に、妙な緊張が乗っていた。
「あ、ライネル様……来られたんですね」
「ええ。呼び出しだと聞いて」
受付嬢は少し迷ってから、慎重に口を開く。
「今回の件……少し特殊です。
依頼等級はEなんですが……」
依頼書類を差し出し、続けた。
「神殿側から……指名依頼が来ています」
ライネルの眉がわずかに上がる。
「指名?」
「はい。正確には……
『前回の探索に参加した同一メンバーで構成された冒険者チームに、
構造点検と異常現象の調査を依頼する』、という内容です」
アイラが書類を覗き込み、笑った。
「それ、完全に私たちじゃん」
「名前を直接書いたわけではありませんが」
受付嬢は声を落とした。
「前回提出された報告書と探索日誌に基づいて、依頼が来ました。
それと、処理も……異常なほど早いです」
「早い?」
ライネルが問うと、受付嬢は頷いた。
「事前承認の手順もほとんど省かれて、すぐ許可が下りました」
ライネルは書類をゆっくり追った。
口調は淡々としているのに、視線は一行たりとも逃さない。
「Eでも、内部の異常現象……
確かに、もう少し踏み込む余地はあるな」
アイラが腕を組んで言う。
「等級は低いのに、実際の危険度は高い。
そういう匂いだね」
受付嬢が気まずそうに笑う。
「念のため申し上げますが、神殿はとても繊細な場所です。
行動には十分ご注意ください」
その時、背後からイヴェラが静かに近づいた。
「私たち三人、全員含まれてるのね?」
「はい」
受付嬢が頷く。
「名前は出してませんが、前回の日誌を基準に依頼が来ています」
イヴェラは書類を受け取った。
彼女の視線がゆっくり動く。
神殿内部の構造異常。
不規則な魔力反応の感知。
原因不明の光の痕跡。
対象:Eランク承認冒険者の派遣(3名以上)
「好都合ね」
ライネルが書類を畳んで言う。
「もう一度入れる」
アイラも頷いた。
「今度は、もっと奥まで見よう」
だがイヴェラは黙っていた。
書類の上から、目がなかなか離れない。
(名前は書かれていないのに、こちらを正確に狙った“指名”)
(異常に早い承認)
そして……
誰かにライネルが目を付けられた感覚。
イヴェラは心の中で短く呟いた。
(……匂う)
神殿へ向かう道。
昨日と景色は大きく変わらない。
だが三人の足取りは、昨日より重かった。
陽は高く、日差しは強い。
それでも三人はしばらく言葉を交わさなかった。
「……今回」
先に口を開いたのはライネルだった。
「何か出そうな気がしない?」
アイラは腕を頭の上に乗せて答える。
「うん。私もそう思う。
何かは分からないけど……神殿が私たちを呼び戻したのは確かだし」
ライネルが口元を上げる。
「異常反応、魔力残留、構造異常……全部、表向きだ。
本当の目的は別にある」
アイラがくすっと笑う。
「もしかして私たちに惚れたんじゃない?
探索が綺麗すぎて」
イヴェラは前を歩く。
手の中の依頼書が、皺になるほど強く握られていた。
(これは単なる要請じゃない)
誰かが三人を正確に狙っている。
そして……ライネル。
分かっていながら知らないふりをする。
それが今、彼女が選んだ対応だった。
同じ頃。ある建物の屋根の上。
ラケンが神殿の方を見ながら低く独り言を漏らした。
「……本当に指名依頼が通ったか」
彼は依頼書の写しを確認し、目を細める。
「俺が掛けたわけでもないのに……誰が動かした」
ラケンは身を起こす。
腰の装備を素早く確かめる。
音を抑えた、機動性重視の潜入構成。
神殿の塔を見上げ、表情が固まった。
懐から何かを取り出して一度見つめ、
何も言わず鞄の奥へ押し込む。
唇は固く結ばれていた。
「着いた」
ライネルが神殿前の石段を見上げ、呟く。
壮大な石造建築。
だがその向こうから滲む気配は、前回より冷たく重い。
階段を上がりながら、アイラが腕を組んで言った。
「……気のせいかな。今回は、もっと静か」
言い終えるより早く、入口側から足音がした。
がちゃり。
重い扉が開き、白いローブの男が姿を現す。
若くも老いてもいない中年。
滑らかに撫でつけた髪、整えられた指先。
無駄のない所作。
「ようこそ。
神殿の依頼に応じていただき、感謝いたします」
語尾は穏やかなのに、声色は冷たく押さえられていた。
ライネルが一歩進み、尋ねる。
「ジーク書記は……今日は出ていないんですか?」
司祭はわずかに首を傾げた。
「ジーク書記は、別件で不在です」
「……そうですか」
ライネルは短く返した。
その隣でイヴェラが司祭をゆっくり観察する。
ローブのボタン。指先。足運び。
整った外見と抑えた口調。
なのにどこか……計算の匂いがする。
司祭は用意していたように書類を差し出した。
「今回の依頼は、神殿内部の構造安定性の再点検が目的です。
既存の探索区画に加え、補助祭壇区画の一部を新たに開放しました。
まずはそちらから案内いたします」
ライネルは書類を受け取り、頷く。
「分かりました。案内してください」
司祭は静かに脇へ退いた。
扉の向こう。
さらに濃くなった闇が、彼らを待っていた。




