20. 赤い宝石(あかいほうせき)
床に散らばる無数の品の中で、
ひとつだけが、やけにアイラの視線を引きつけた。
小さな布の上に整然と並ぶ雑貨の間。
光を避けたみたいに陰のある色合いの銀の腕輪が、
赤い宝石を静かに抱いていた。
「え···これ?」
アイラはそっと手を伸ばした。
指先が触れると冷たくはないのに、妙な温もりが残っている。
長いあいだ忘れられていた品みたいに、薄い埃の感触があった。
「ライネル、これどう思う?」
ライネルがちらりと目を向ける。
「うん···まあ、悪くはないけど」
その時、近くで腰を下ろしていた露店の商人が目尻を細めた。
皺だらけの手で膝を叩き、言う。
「ほっほ。お嬢さん、見る目があるねえ」
「え〜、お嬢さんだなんて! 私そんな歳じゃないですよ!」
アイラは両手で頬を隠して目を逸らした。
笑いが漏れた顔がすぐ耳まで赤くなり、
ライネルも一瞬、顔を背けた。
おばあさんは軽く笑い、続けた。
「その腕輪、ただの飾りじゃないよ」
ライネルが少し首を傾げる。
「···普通の腕輪じゃないってことですか?」
「呪いだの何だのって言う子もいたし、
勇者一行の遺した遺物かもしれない、なんて噂もあったねえ」
おばあさんは言葉を流すみたいに、手のひらを一度払った。
「でも本当かどうか、誰に分かる。
口ばかりで、実際に手に取った者は誰もいなかったからね」
アイラは腕輪を見下ろした。
「そんなに長く?」
「ここに出してたのが···そうさね。ざっと五年は経つよ」
「こんなに綺麗なのに、誰も買わなかったんですか?」
「ほっほ。元々そういうもんさ。
価値が分かるのは、見る目のある者だけだよ」
ライネルはもう一度、腕輪を見た。
最初は古びた飾りだと思った。
だが角度が少し変わるだけで、
赤い宝石が妙に光を含む。
ただのきらめきじゃない。中で生きているみたいな。
「···アイラ」
「ん?」
ライネルが静かに言った。
「これ、買おう。気に入った」
アイラの目が輝く。
「やっぱり〜! ライネルも気に入ると思った!」
彼女が銀貨を取り出そうとした瞬間、おばあさんが手を振った。
「金はいらないよ」
「え···本当に?」
おばあさんは腕輪を丁寧に持ち上げ、ライネルの前へ差し出した。
「その腕輪も、もう疲れたんだろうさ。
ようやく···自分の主に会えたってわけだ」
ライネルは一瞬ためらい、静かに受け取った。
留め具は古いがしっかりしていて、
手首に吸い付く感触は思ったより楽だった。
「着け心地···いいな」
アイラはぱっと笑う。
「よかった〜!
私ばっかり色々買ってて、ちょっと悪かったんだよね〜」
ライネルも軽く笑った。
腕輪の赤い宝石が光を受けて、静かにきらりとした。
その瞬きは、不思議と目を離しづらかった。
◇
天幕の上に長く伸びた影が、ゆっくり足元へ降りてきた。
ライネルは空を見上げて言う。
「そろそろ···戻るか?」
晴れていた空は夕焼けに染まり、
市場の商人たちは一日を畳んで忙しく動いていた。
人々の足取りも、少しずつ緩んでいく。
「あれ、もう夕方だ」
アイラは腕を伸ばして背伸びした。
「今日はほんと、あっという間だったね〜」
「時間が早い」
ライネルが短く笑う。
「市場を見ただけなのに」
アイラは持っていた紙袋を両手に持ち、ぶんぶん振った。
パン、小さな工芸品、魔法用の小物がぎっしり入っている。
「いい時間だったなら、それでいいじゃん」
「でも···」
アイラは頭をかきながら言った。
「結局、私の物ばっかりいっぱい買って、ライネルのはその腕輪ひとつだけだね」
彼女の視線が、ライネルの左手首へ向く。
赤い宝石の銀腕輪が、夕暮れの光の中でかすかに輝いていた。
ライネルは首を少し向ける。
「見てると、この腕輪···思ったより似合ってる気がする」
アイラが、にっと片目をつぶった。
「でしょ? 私、適当に選んだわけじゃないから!」
「おばあさんのおかげもあるな」
「うん、それは···認める!」
二人は並んで歩いた。
一日中歩き回って疲れていてもおかしくないのに、
軽い買い物袋と馴染みの路地が、足取りをむしろ楽にしていた。
「今日は、ちょっとのんびりできたな」
ライネルが小さく言う。
「うん。たまにはこういう日も必要だよ」
アイラは頷いて笑った。
だが、その緩さは長くは続かなかった。
夕焼けが闇に飲まれかけた頃。
路地の奥のどこかで、ライネルの目つきが変わった。
◇
静かな路地の入口で、ライネルが足を止めた。
「···あそこ」
彼の視線が、狭い道の向こう、
人通りの少ない路地の奥へ向いていた。
「え? どうしたの?」
アイラが振り向いた時には、
もうライネルの表情は硬く引き締まっていた。
そこ。
狭く暗い通路の先を、ひとりの人物がゆっくり歩いている。
黒いマントを羽織った者。
深いフードで顔は見えない。
だが歩き方が慎重で、妙に——見覚えがある。
その手には小さな箱。
揺れもしないのに、
不思議と目を引く存在感。
そして···
「···あれは」
ライネルの目がかすかに震えた。
不快なほど粘つく魔力。
確かに感じたことのある気配だった。
最初の依頼の時、背中へ潜り込んできたあの冷気とよく似ている。
(まさか···)
ライネルは唇を結んだ。
迷いは長くなかった。
「アイラ」
「ん?」
「先に宿へ戻ってて。俺、ちょっと確認したい」
「今? この時間に? 誰かと会う約束?」
アイラは眉を寄せた。
だがライネルの顔は真剣だった。
「宿で説明する。
今は···どうしても確かめないといけない」
短い沈黙の末、アイラは頷いた。
「分かった。
ライネル、無理しないでね」
ライネルは静かに頷き、
黒いフードの影を追って歩き出した。
いつの間にか夕焼けは落ち、
夜が村を覆っていた。
◇
村の中心を外れると、
道の端にある神殿が少しずつ姿を現した。
白い壁。
すり減った柱。
そして、時おり灯る淡い明かり。
ライネルは距離を保ったまま、フードの男を追った。
男は神殿近くの小さな建物の裏手へ回り込み、
そこにはすでに、もうひとりが待っていた。
司祭の装いの人物。
ライネルは反射的に息を殺す。
黒いマントの男はためらいなく、
持っていた箱を司祭へ差し出した。
(取引···?)
その瞬間。
今まで沈黙していた箱から、
「ウゥン」と低い振動が走った。
ライネルの心臓が短く跳ねる。
その魔力。
はっきり感じる。
濁った揺らぎ。
不安定にうねる気配が、ゆっくり肌を撫でていく。
そしてそれは···
ライネル——自分に向かって反応していた。
(···俺を感知したのか?)
ライネルは本能的に一歩退いた。
だが、もう遅い。
司祭の視線が動き、
黒いマントの男がゆっくり振り返った。
「···!」
「静かに」
背後から鋭い囁き。
同時に強い腕が肩を引いた。
ライネルは一瞬で壁の陰へ引きずり込まれた。
荒い息が飲み込まれ、口を塞がれる。
「シッ。動くな」
低く、断固とした声。
聞き覚えがあるのに、まだ完全には信じきれない声。
ライネルは目を見開き、身を硬くする。
「···ラケン?」
「静かに。まだ近い」
司祭たちの声が少しずつ遠ざかる。
低い囁きが数度交わされ、
彼らは神殿の中へ急いで消えた。
しばらくして。
路地に、また静寂が落ちた。
ラケンが低く言う。
「ここまで来るとは思わなかった」
ライネルは歯を食いしばって問う。
「お前こそ、なぜここにいる」
ラケンは答えず、周囲を素早く見回す。
そしてライネルの腕を軽く引いた。
「ここじゃ話せない。ギルドへ行くぞ」
◇
人影のない道を、二人は歩いた。
足音だけが続く。
しばらく沈黙のあと、ライネルが先に口を開いた。
「あなたを完全に信じているわけじゃない。
今はただ、場を離れるだけです」
「信じろなんて言ってない」
ラケンの返事は短く乾いていた。
前を見たまま、付け足す。
「だが、あの箱の魔力···感じただろ」
ライネルは眉を少し寄せる。
「感じました。
確かに、どこかで嗅いだ気配でした。
ただ、正体までは分からない」
「だろうな」
ラケンは歩みを止めない。
「その力は、今じゃほとんど消えた系統だ。
おそらくお前の力から漏れた魔力に箱が反応した。
扱える奴は、この地にもう数えるほどしかいない」
ライネルが低く息を吐く。
「···だから見張っていたんですか」
「反応したのがお前だけだったからな」
短い沈黙。
ラケンが一歩前を行きながら言う。
「お前に話しておきたいことがある。
俺がなぜこの村に留まっているのか」
ライネルはその言葉の意味を噛みしめた。
警戒は解けないが、足は止まらない。
石畳の上に、二人の足音だけが続いた。
「ギルドだ」
ラケンが低く言う。
「話は長くなる」
◇
冒険者ギルドの灯りは淡かった。
扉は固く閉じられ、窓越しの灯火がひとつ、遅い夜を照らしている。
ラケンはギルドの片隅の古いテーブルに座り、
ライネルも向かいに静かに腰を下ろした。
しばらく、言葉がない。
ラケンは麦酒の杯を揺らした。
ほとんど空なのに、動きだけが重い。
ライネルが先に言う。
「さっき見た箱。
中の魔力···最初の任務で感じたことがあります」
「だろうな」
ラケンは杯を置き、ゆっくり頷く。
「不安定で、荒くて···
だが確かに“生きてるもの”の反応だ」
ライネルの表情がわずかに硬くなる。
「何なんです。
神殿で、何が起きている」
ラケンは一度目を閉じ、
ゆっくり言葉を吐いた。
「あの慈善神殿は元々、
三百年前に魔王を討った聖女『クレセリア』を祀っていた場所だ。
聖域だった」
ライネルが低く返す。
「···聞いたことはあります。
聖女の魔力を継いだ者たちが集まり、治癒と守護の信仰を続けてきたと」
「昔の話だ」
ラケンが低く言う。
「五年前から、神殿の中で怪しい動きが始まった」
ライネルの目が細くなる。
「具体的には?」
ラケンはすぐ答えた。
「魔力石、共鳴石、魔物の素材。
そういうものを集めろって依頼が、裏で流れ始めた」
「不特定多数に?」
「いや。条件付きだ」
ラケンは視線を上げずに言う。
「ギルド記録が曖昧な奴、
信用の薄い連中だ」
ライネルは顎に手を当てる。
「王都から調査が来たこともあると聞きました」
「そうだ」
ラケンが頷く。
「あの時、俺も調査班にいた」
「···あなたが?」
「物証は出ない。司祭どもは平然としてる。
班は撤収を決めた」
ラケンの目が一瞬揺れる。
「だが、俺は納得できなかった」
ライネルが静かに問う。
「だから···一人で残ったんですか」
ラケンはしばらく黙ってから、低く答えた。
「···今回、お前らが失踪依頼を片付けた村。
あそこが俺の故郷だ」
ライネルの視線が、ほんの少し揺れた。
「故郷? まさか···」
ラケンは笑わない。
その一言が唇を重く押さえつけた。
「結果的に···俺はそこで『忘れられた存在』になった」




