19. 見定める眼(みさだめるめ)
イヴェラは無言で書類を差し出した。
その手つきに迷いも感情もない。
ただ任務が終わったという事実だけが、静かにそこにあった。
受付嬢は瞬きをしながら書類を受け取る。
指先が紙に触れた瞬間、事務的な冷たさと、妙な緊張がいっしょに滲み込んでくるみたいだった。
「···本当に、解決したんですか?」
驚きの混じった声。
彼女は判子と文字を確かめるように、書類を二、三度目で追った。
表情にはまだ、信じきれない気持ちがそのまま残っている。
「子どもたちは無事に、家族のもとへ戻りました」
ライネルは一度目を閉じ、開いた。
短い息には疲労と、それ以上に深い責任が滲んでいた。
受付嬢は書類から目を離せないまま、ぎこちなく笑った。
「あ、はい。なんていうか···チームにCランクの人もいるし、何とかするんだろうなとは思ってたんですけど···」
褒め言葉なのか疑いなのか、微妙に引っかかる言い回しだった。
ライネルは首を少し傾げて問い返す。
「それって、この依頼が本来Cランクにしては危険だったって意味ですか?」
受付嬢は咳払いして、話を逸らした。
「普通、行方不明者の捜索はEランク依頼なんですけど···」
彼女は書類を見下ろし、慎重に付け足す。
「これは長く燻ってた件ですし、村側の要望もすごく強くて。
Cランクに引き上げられはしましたけど···とにかく、無事に解決して本当に良かったです。はは···」
笑いは硬く、語尾は濁った。
正直な安堵の方が、表情に近かった。
「もう···ほんと···しんどかったんですけど!」
横で、アイラがふっと吐き出すように言った。
声は率直で、その分だけ棘がある。
「子どもを探さなきゃなのに悪霊まで···! 普通の失踪事件じゃなかったですよ」
彼女は腰に手を当て、大きく息を吐く。
疲労と、それでもまだ残る緊張が、肩に薄く引っかかっていた。
受付嬢は気まずそうに笑い、頷いた。
「でも誰も怪我してないですし···おかげでギルドとしても助かりました。
経験としても、かなり良い依頼だったと思いますよ」
イヴェラは相変わらず無表情で立っていた。
腕を組んだまま、ライネルとアイラのやり取りを静かに聞いているだけ。
ギィ···
古い木の扉が、ゆっくり開いた。
年季の入った蝶番が軋み、低く鳴る。
その音に、ギルド内の視線がいくつか自然と向いた。
話していた連中は言葉を止め、
静かに酒を飲んでいた者のひとりは杯を置いた。
特別に騒がしいわけじゃない。
ただ——
『気に障る人物が入ってきた』
それを人々が、ほとんど同時に感じ取ったようだった。
古い床を踏む足音が、柔らかいのに重い。コツ、コツ。
妙に鮮明で、聞く者の背筋に静かに沈む感覚。
聞き覚えのある、だが歓迎できない声が背後から鋭く飛んだ。
「ようやく、偉そうなツラを拝めるな」
侮蔑と嘲り、そして劣等感が混じった不快な調子。
モネロだった。
数日前、ギルドに初めて来たイヴェラに絡み、
たった数秒で圧倒されたCランク冒険者。
その屈辱はギルド内で、もうしばらく語り草になっているはずだ。
だが今日の彼は、ひとりじゃなかった。
黒い外套の隙間から、重々しく吊るされた大剣が見えた。
それだけで圧がある。
ラケン・クロノフ。
Bランク冒険者。
この村の周辺で、彼の名を知らない者は少ない。
赤い髪は乱れているのに、どこか手を入れていない自然さがあった。
わざとそうしているのが、彼の流儀らしい。
少し垂れた目元には疲れの痕が残り、
瞳の奥には簡単には読めない何かが潜んでいる。
遠目なら、脅威は感じないかもしれない。
だが近づけば、軽く扱える男じゃないと分かる。
イヴェラがわずかに顔を向けた。
「ラケン兄!」
モネロが赤髪の男へ顔を向ける。
その瞬間、壁に凭れていた冒険者たちも口を閉ざした。
受付嬢でさえ、手にした書類を落としかける。
ラケンは周囲を一瞥し、言った。
「腕の立つやつがいるって聞いてな。もしかして···お前らか?」
イヴェラが一歩前に出る。
視線は鋭く、声は冷たく落ちた。
「誰だ」
ラケンは両手を軽く上げ、笑う。
「違う違う。今日は喧嘩しに来たんじゃねえ。
仲間が恥をかかされたって聞いてさ···顔でも見ておきたくてな」
モネロが顎を上げ、嘲るように言う。
「あん時は俺が油断しただけだ。本気でやればお前なんか——」
「じゃあ今、やってみる?」
イヴェラの言葉は短い。
針みたいに鋭く刺さった。
ラケンの目が、ほんの一瞬揺れた。
だが空気は、すぐにアイラの声で断ち切られた。
「あ、やめやめ!
やっと依頼が片付いたのに、また揉め事とか疲れるってば!」
ライネルもイヴェラの方へ静かに寄る。
「イヴェラ。今は無用な摩擦は避けよう」
イヴェラはしばらくラケンを見てから、静かに視線を外した。
ラケンは笑みを保ったままだった。
だが、その笑いには温度がない。
品定めするように、三人をゆっくり目で追う。
「でさ」
ラケンが腕を組み、言った。
「どんな依頼だった? こんな田舎でCランクって、普通じゃねえだろ」
一瞬迷ったライネルが、落ち着いた声で答える。
「隣村の外れで失踪事件がありました。
子どもが数人消えて、調べている途中で···悪霊の痕跡も確認しました」
ラケンの眉間が寄る。
「···悪霊?」
その瞬間、受付嬢が驚いたように割り込んだ。
「そうです! 正式書類も確認しました。
ほら、ここ、村長さんの印がある完了証明です!」
受付嬢は手元の書類を小さく振る。
上部には、小さいがはっきりした印が押されていた。
ラケンは書類をちらりと見て、再びライネルへ視線を戻す。
笑顔はそのまま。だが目は冷たく細くなっていた。
「···その失踪、かなり長引いてた件だろ」
一拍置いて、言う。
「それを悪霊込みで···お前ら三人で片付けたって?」
アイラが肩をすくめ、笑った。
「なんです? 私たちをどう見てるか知らないけど、チームワーク良いんで!」
ラケンは無言で三人を見つめ、短く呟いた。
「···思ったより面白い連中だな」
語尾を濁し、背を向ける。
横で唇を尖らせていたモネロが言った。
「兄貴、マジで帰るのか? このまま?」
ラケンはモネロを一度だけ睨み、答えた。
「···用は済んだ。行くぞ」
それ以上は言わない。
重い足取りで、静かにギルドの外へ消えた。
モネロも口を結び、その後を追う。
去ったあとには、短いのに妙に重い静寂が残った。
アイラがラケンの背中を見ながら、小さく呟く。
「···なに、あの人」
ふと、イヴェラが片眉を寄せ、扉の方をしばらく見つめた。
もういないはずの影を追うみたいに、視線が外へ留まる。
「何かを隠してる目だ」
ライネルは隣で静かに頷いた。
その時、ギルドの隅で静かに麦酒を飲んでいた中年男が、杯を置いた。
卓に触れた音が、妙に鮮明に響く。
男はライネルたちへ、ずかずか歩いてきた。
半分しかめた顔で言う。
「ふぅ···見た目より厄介な連中だろ」
アイラがきょとんとして男を見る。
男は顎で、さっき出ていった二人を示した。
「赤髪の方だ。ラケン」
「···あの人を知ってるんですか?」
ライネルが尋ねる。
中年男は鼻で笑い、隣の椅子に勝手に腰掛けた。
「知らねえわけがあるか。王都でもそこそこ名のある剣士だった。
昔は騎士団にもいた」
髪を両手で後ろへ撫でつけ、続ける。
「腕も立つし性格も真っ直ぐで、最初は皆期待してたんだ。
だが、いつからか変わった。なんつうか···やけに執拗になった」
「どうして?」
アイラが首を傾げる。
「数年前、家族が失踪したって噂が流れた。
血縁か、本当に弟妹かは知らねえが···ずいぶん探し回ってた」
「···だから、この近くにいるんですね」
ライネルが静かに言う。
中年男は頷く。
「モネロってやつは、子どもの頃からの知り合いらしいが···今じゃ影みたいにくっついてる」
中年男は卓に肘をつき、ギルド内を見回す。
「ラケンってやつは、初対面の相手に必ず絡む。
口では“試してる”って言うが···俺はああいうやり方、好きじゃねえ」
麦酒の杯を軽く揺らす。
「ま、今日は顔を見に来ただけならまだマシだ。
余計な難癖さえつけなきゃ、問題にはならねえだろ」
男の話が終わると、短い沈黙が落ちた。
その空気を破ったのは、にぱっと笑って両腕を掲げたアイラだった。
「よーし! そろそろ市場、見に行こ!」
突然の提案に、ライネルが瞬いた。
「···今?」
「当たり前じゃん! 依頼も終わったし、報酬もそこそこ出たでしょ?
装備もちょっと傷んだし、食料も補充しなきゃ!」
アイラは腕を組んでいるイヴェラへ視線を向ける。
「一緒に行く? イヴェラ」
イヴェラは少し黙ってから、静かに首を振った。
「私はいい。二人で行け」
「···またそれ」
アイラが唇を尖らせる。
「ちょっと仲良くなったと思ったら、すぐ突き放すんだから。ほんと冷たい」
「いいもん。ライネル、私たちで行こ」
ライネルはアイラへ軽く笑って言う。
「行こう」
◇
ボブレ村の市場は、思った以上に活気があった。
明るい陽射しが天幕の間を流れ、あちこちから笑い声が漏れる。
小さな子どもたちが木剣を振り回して走り回り、
片隅では商人が重い箱を運びながら声を張り上げた。
「焼きたてパン! 焼きたての黒麦パンだよ——!」
「これ、ほんと美味しい! ライネルも一口飲んでみて!」
アイラは小さな杯に入った果汁を揺らし、差し出す。
ライネルは静かに受け取り、口にした。
甘い香りが口いっぱいに広がり、喉の奥へ染みていく。
彼はわずかに笑った。
「悪くない」
「でしょ?」
アイラは杯を手に、くるりと回って笑う。
二人は市場をゆっくり歩いた。
革装備の店に寄り、
菓子屋では焼きたてのクッキーやケーキを味見した。
「ねえ、ライネル」
アイラは淡く光る腕輪をひとつ手に取り、慎重に口を開く。
「私は精霊石で精霊の力を借りて魔法を使うでしょ?
でもライネルって、道具を使ってないみたいだった」
「うん」
ライネルは周囲を見ながら答える。
「俺のは詠唱でも精霊頼りでもない。
だから、逆に何か握ってると邪魔かもしれない」
「じゃあ、手首に何か付けるのは? 例えば——こういう腕輪!」
アイラはきらめく腕輪を、彼の目の前で揺らした。
「魔力増幅の腕輪とか、ただの飾りでもいいし!
私はいろいろ買ったのに、ライネルだけ何も買ってないじゃん」
ライネルは首を少し傾げる。
「俺は別に必要ないけど」
「でも〜!」
アイラはライネルの腕をつんつん突きながら言った。
「イヴェラが“好きなの買っていい”って言ってくれたのに、
私だけ買い物してると···ちょっと、気まずいじゃん」
ライネルは短く笑った。
「分かった。じゃあ一本だけ買うか」
「ほんと?!」
アイラの目が輝き、彼の手首をぱっと掴む。
「こっち! さっき目を付けてた店があるの!」
そうして二人は市場の人波へ、足早に消えていった。
陽射しの中で光る欠片みたいに、束の間だけ平和だった。
だが——
その背中を、
誰かが静かに見つめていた。




