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18. 現実に続く道(げんじつにつづくみち)

しばらく、誰も言葉を発しなかった。そこに残ったのは、静かな気配と、消えた余韻だけだった。

ライネルが口を開いた。低く、慎重な声。

「存在しなかったはずの子が、ほんの少しでも“存在したみたいに”記憶されたのは···」

語尾が薄れた。何かを断じるには、あまりにも多くが過ぎ去ったあとだった。

アイラがうなずき、言葉を継ぐ。

「···悪霊のせいだけじゃない。誰かが、その存在を本気で必要としてたから」

彼女は一度息を整え、ゆっくり続けた。

「心の中の穴を···その子が代わりに埋めてたんだよ」

言葉が終わると、周囲が少しずつ落ち着いていった。ねじれていた感覚が元に戻っていく。どこかへ引きずられていた意識が、ゆっくり解けていく。

その瞬間——頭上から柔らかな光が落ちた。穏やかな波が広がり、空間の上に道が開く。

温かな手のひらみたいだった。上へ伸びるその道は、現実につながるポータルだった。

イベラの声が、かすかに染み込む。

「亀裂が閉じてる。今が最後よ。早く戻って!」

ライネルが子どもたちに手を差し出した。

「ほら、行こう。戻るぞ」

子どもたちは一瞬、ためらった。目の前の光を見つめる視線が揺れ、足が床に貼りついたみたいに動かなかった。

それでも、ゆっくりと——ライネルの手を握った。

その手の温かさを感じた瞬間、子どもたちの目元に涙がにじんだ。

「本当に···行っていいの?」

アイラは小さく笑ってうなずく。

「ここは、あなたたちのいる場所じゃない。待ってる人がいるでしょ」

子どもたちは静かに、でも確かな足取りでポータルへ向かった。光が近づくほど、震えが大きくなっていく。

ポータルから溢れる光が、少しずつ揺れ始めた。息を荒くするみたいに、不安定に瞬く。亀裂が限界に達した合図だった。

アイラも光へ向けて身体をひねった。そのときだった。

亀裂全体が、大きく鳴った。

ドン。足元が割れる音が走り、空間が不安定に揺れた。宙の魔力が、わっと崩れるような音まで混ざってくる。

ライネルが叫ぶ。

「今だ! 走れ!」

子どもたちとアイラが同時に地を蹴った。光が彼らを包み、輪郭が少しずつ現実へ戻っていく。ほんの少し遅れただけで、飲み込まれそうな圧が足首を掴んだ。

最後の刹那、アイラは一度だけ振り返った。

空っぽの亀裂。悪霊も、子どもも、幻も消え···何もない沈黙だけが残っていた。

アイラはそっと目を閉じた。そして、最後の挨拶みたいに、小さく囁く。

「···さよなら」

彼女も光の中へ消えた。

パチパチッ。

亀裂が完全に閉じ、すべてが静かに沈んだ。

ライネルは床に膝をつき、息を整えた。肺が空っぽだったみたいに、吸い込む息がしばらく長く続いた。背中を風が一筋抜け、さっきまでの戦いが悪夢みたいに遠のく。

彼は子どもたちを素早く見回した。

「よし。二人とも無事だ」

子どもたちはまだ呆けた顔だった。けれど生きていた。視線が揺れても、指先が震えても、確かに——ここにいる。

ライネルが顔を上げる。隣にはアイラがいた。

彼女は座ったまま目を閉じていて、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。まるで、断ち切った何かを慎重に胸の内へしまうような表情だった。

アイラは心の中で、静かに繰り返した。

『···両親と交わした最後の約束。いつかまた会おうって。覚えてるって···』

彼女は一瞬、視線を落とす。

『本当は、私も時々思ってた。もしかして···もう忘れられてるんじゃないかって』

『何年も何の便りもなくて。もしかしたら···私だけがあの約束に縛られてるのかも、って』

アイラは静かに息を吐いた。震えないように、ゆっくり、ゆっくり。

そして小さく、でも確かに顔を上げる。

『それでもいい。私はまだ···あの約束を覚えてるから』

村はずれ、早朝。

子どもたちの目が大きく見開かれた。そして一気に、音のする方へ駆け出した。

走る足取りは震えていたけれど、止まる理由はなかった。転びそうになっても、それでも前へ——。

大人の腕の中に抱きしめられる子どもたち。込み上げた嗚咽と安堵の吐息が、朝の空気へ弾けた。声が割れ、手が震え、抱き締める力が強くなる。

そのとき、子どもたちの片方がふと立ち止まった。そして振り返る。

まだ地面に座ったままのアイラを見て、その子はゆっくり頭を下げて礼をした。

静かで、まっすぐな礼だった。短い動作なのに、心が長く引き留められる。

アイラはそれを見つめ、そっと笑った。その笑みが、言葉の代わりだった。

涙と笑顔、そして溢れる安堵の吐息。子どもたちは戻ってきた。

けれどイベラは、その流れをそのまま流さなかった。小さな疑問を残すように問う。

「三人目は?」

アイラは一度だけ視線を落とし、静かに答えた。

「この村の人たちは···その子を覚えてない。そもそも、存在したことがない子だから」

ライネルがうなずき、問い返す。

「じゃあ···どうして現れた?」

アイラはゆっくり視線を伏せた。耳の奥に残る、忘れられない声がよみがえる。あのときの目。最後の頼み。

「誰かが···その存在を、本気で望んだから」

「心の中の穴を、その子が代わりに埋めてたんだよ」

ライネルは目を閉じた。黙って、しばらく考え込む。“消えた”という言葉と、“残った”という言葉が頭の中でぶつかる。

「···結局その子は、いなかった存在でも、少しの間は誰かにとって本物の慰めだったんだろうな」

アイラは小さく息を吐いた。

「だから···余計に悲しい」

「本物じゃなかったのに、それでも誰かを支えてたってことが···」

沈黙が落ちた。朝の空気を風がゆっくり撫でていく。泣き声が引いたあとには、残った呼吸だけが整って聞こえた。

ライネルが低い声で付け足す。

「消されたからって···全部が無かったわけじゃない」

「誰かの心に触れたなら、それは確かに···存在したんだ」

アイラはその言葉を聞き、ゆっくりうなずいた。そして最後に、亀裂があった方向を見て、ごく小さく囁く。存在しなかった存在へ贈る、短く静かな別れだった。

——そのとき。

穏やかだった気配が、一瞬揺れた。地面に静かに魔方陣が一つ描かれる。精密な刻印の間を赤い魔力が流れ、ローブの裾がはためいて、その中心から男が歩み出た。

白いローブ。赤い魔力刻印が肩と袖に刻まれ、腰には王国冒険者協会の紋章が下がっていた。

そして彼の手には、かすかに光る宝石が一つ。

イベラが素早く腰を落とす。ライネルも同時に一歩退き、指先に力を込めた。

「······王国所属か?」イベラが低く言う。

男は戦闘態勢を取らないまま、静かに視線を落とした。

「王国冒険者協会所属。調査官、アルゼンだ」

声に無駄がなく、落ち着いている。短い名乗りだったが、そこには確かな権威があった。

ライネルが目を細めて問う。

「助けてくれたのは感謝する。でも、俺たちの依頼に介入した正当な理由は説明してもらう必要がある」

イベラが静かに続ける。

「協会の調査官が直々に出るほどなら···この件、ただの魔物退治じゃないわね」

アルゼンはふっと笑い、視線を逸らした。

「正当な理由、か···言われると思ってた」

彼は消えた亀裂の跡を見て、言葉を継ぐ。

「まずは礼を言う。今回、お前たちがいなければもっと厄介になっていた」

「正式な経路じゃないが、実質的な協力として認める。助けられた事実は否定しない」

短い言葉。けれど口調よりも、その速度の方が誠実に聞こえた。

「三年前、“蒼白の残滓”は異次元儀式実験の最中に発生した特異個体だった」

「協会は、その実験がサイニック教団と関わっていたと見ている。確証は掴めていないが、状況証拠から最有力の背後だと判断している」

淡々とした語り口。ただ、言葉の端に薄い警戒が滲んでいた。

「問題は···その教団が今、完全に姿を消したことだ。表に出た活動もなく、内部構造も掴めない」

「それなのに、この周辺で再び残滓が現れ、痕跡が少しずつ動き始めた」

その言葉に、ライネルの目つきが変わった。

「教団、か···」

彼は一瞬迷ってから、静かに口を開く。

「“黒太陽の教団”について、聞いたことは?」

調査官の視線が、ほんのわずかに揺れた。短い沈黙。

反応は確かだった。アルゼンは一瞬視線を外し、何でもないように答える。

「聞いたことはある。数年前、内部崩壊で壊滅した集団だ」

「中核の教団員は短期間で全員死亡。本部も全焼した、と記録されている」

「その後は···不明だ」

ライネルはうなずいたが、表情は簡単に解けなかった。

アルゼンは懐から小さな箱を取り出した。中には薄く平たい銀色の刻印石が入っている。

中央には王国冒険者協会の紋章。

「今回の件への、私的な謝礼だ」

「王国冒険者協会との実質的な信頼を示す証だと思っていい」

彼はライネルへ静かにそれを渡す。

「いずれ必ず、使う場面が来る」

それは予言じゃなく、確信に聞こえた。

「忘れず、大事に持っておけ」

彼は軽く頭を下げ、魔方陣をもう一度展開した。

最後の瞬間、誰にも届かない距離で、独り言みたいに低く呟く。

「ボブール所属の冒険者···ライネル、だったな」

消えた亀裂の跡へ視線を向け、続ける。

「今の時代じゃほとんど使われない念動系統を、あそこまで実戦で通すのは珍しい」

短く息を吐いてから、言った。

「···上に報告しておくべきだな。名前は、覚えておく」

魔方陣の光が広がり、すぐに消えた。

短いが、激しかった戦いのあと。三人はしばらく、言葉を失って立っていた。

イベラが先に口を開く。

「とにかく村へ戻ろう。依頼の整理もしないと」

アイラは短く息を吐いた。指先にまだ弱い震えが残っていたが、目は落ち着きを取り戻していた。

三人は黙ってうなずき、ゆっくり歩き出した。

村の会館、小さな事務室。村長が机の向こうに座っていた。

彼は無言で引き出しを開け、王国公認の依頼完了書を取り出す。判の墨はまだ乾いておらず、紙面には「完了」の二文字がはっきりと残っていた。

村長はそれをテーブルに置いた。

「ご苦労だった」

短い言葉。だが、押し殺していた安堵と本音が詰まっていた。

「子どもたちも無事に戻り、村を押さえつけていた悪い気配も消えた」

彼は目を逸らさず、言葉を添える。

「村の者を代表して···礼を言う」

イベラはうなずいた。

村長は書類の不備がないかもう一度確かめ、封印印章を押した小さな封筒を差し出した。

ライネルは完了書を受け取り、ゆっくり言う。

「任務の功績も残って、記録も順に整理されるだろう。でも···それより大事なのは」

彼は隣のアイラを見た。

「アイラ。お前は最後まで、自分を失わなかった」

アイラは一瞬、目を閉じた。記憶が重なって通り過ぎる。亀裂の霧、子どもたちの泣き声、最後の挨拶、そして戻った朝。

それから息を整え、小さく笑って答えた。

「まあ、覚えてる限り···私は、私ですからね〜」

それはただの冗談じゃなかった。不完全な世界の中でも、自分を掴んで耐えた人の言葉だった。

窓の外から朝日が差し込む。

村の外れでは煙が上がり、どこかで子どもたちの笑い声が聞こえた。

静まり返っていた村は、少しずつ息を吹き返していた。

そのすべてを見つめながら、三人は静かに次の道の準備をしていた。

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