15. 記録の足跡(きろくのあしあと
村はずれ、日がゆっくり沈みかける頃。
蔦が絡み合う小径の先に、石造りの古い家が一軒見えた。
塀は崩れ、窓は板で打ちつけられている。
扉は半分開いていたが、中は静寂だけが満ちていた。
三人は家の前で、いったん足を止めた。
「ここが最後の家みたい」
アイラが静かに言った。
ライネルは扉を見て首をかしげる。
「なんだか、ずいぶん長いこと空き家だった感じがするな」
イヴェラが慎重に扉へ手を伸ばした。
「入ってみるしかないだろ」
その時、背後から足音が静かに近づいた。
村長が、彼らの傍にゆっくり立った。
しばらく家を見つめてから口を開く。
「昔、夫婦が住んでいた家だ。
数年前から見かけなくなってな。結局、出ていった。
最後は···訳の分からんことだけ残してな」
「どんなことを?」
ライネルが尋ねた。
「この家も、子どもが消えたと言っていた。
そもそも他の二軒も、子どもなんて最初からいなかったのにな」
村長は鼻で笑い、付け足す。
「村の誰に聞いたって、この家はずっと二人だけだった。
だからある日突然『子どもを失った』なんて言い出した時は···
何かあって頭でもおかしくなったのかと思ったよ」
短い沈黙。
三人は再び家の中を見た。
そしてイヴェラが、静かに扉を押した。
ぎい···
古い扉がゆっくり開き、奥の空間が姿を現す。
家の中は静まり返っていた。
埃をかぶった床板、壁に掛けられた古い服掛け、暖炉には灰がそのまま残っている。
「ここ···つい最近まで、誰かいたみたいじゃない?」
アイラが用心深く言った。
イヴェラはゆっくり見回し、机のある小部屋へ足を向けた。
古い引き出しを開けた瞬間、紙の匂いとともに古いノートが——とん、と飛び出した。
「日記?」
彼女はそっと開いた。
文字は薄いが、インクの乾いた跡ははっきり残っていた。
『あの夜、子どもはずっと窓を見ていた。
誰かを待つみたいに。
「今日も来るよ」そう言い残して眠った』
ライネルは横から別の分厚い本を引き抜いた。
「これは記録だ。失踪事件をまとめたものらしい」
何枚かめくったところで、ライネルの指が止まる。
『三年前、北の村で失踪した子ども三名。
共通点:一定期間「人形」を所持。
失踪直前、「白い布」をかけて眠ったと推定。
失踪後、家族および周囲の記憶が微細に歪む』
「······今回の依頼と、流れが似てる」
ライネルの声が低く沈んだ。
アイラが小さく息を呑む。
「じゃあこれ···今回だけの事件じゃないんだ」
その瞬間。
風もないのに、本のページが——
すっ——
と、めくられた。
三人とも無言でその光景を見つめた。
その日、窓は閉まっていて、扉も施錠されていた。
外部侵入の痕跡は一切ない。
それなのに···子どもは消えていた。
最初は、かくれんぼだと思った。
部屋、箪笥、ベッドの下、台所、屋根裏まで。
あらゆる場所を探した。
だがどこにも、痕跡一つない。
結局、私は扉を開けて外へ出た。
何かが間違っていると···その時ようやく気づいた。
廊下の奥。
小さな部屋の扉が、半分だけ開いていた。
三人は慎重に中へ足を踏み入れる。
部屋は小さく、簡素だった。
家具は必要最低限だけ。壁には飾りもない。
ベッドの上には古い埃が積もっていた。
だが、その真ん中に——ひとつだけ。
埃の乗っていない四角い跡。
その上に、白い布がきっちり畳まれて置かれていた。
「······あれは」
ライネルが近づき、布を手に取った。
その瞬間、空気の密度が微かに揺れた。
ライネルが指先を広げ、感覚を研ぎ澄ます。
「微細だけど魔力が残ってる。古いのに···確かだ」
アイラはゆっくり室内を見回した。
どこか···おかしい。
ただの空っぽの部屋なのに、頭の中が妙に引っかかる。
「······記憶と違う」
彼女が小さく呟いた。
「何が?」
イヴェラが問う。
「さっき見た家具の位置と、今が···微妙に違うの。
この扉も···左にあった気がして···違ったっけ?」
言葉が途切れた。
自分でも確信がないと、彼女自身が分かっていた。
ライネルは周囲の気流を感じ取り、低く言う。
「······揺れてる。空間が」
「隙間が、まだ完全に閉じてないのか?」
イヴェラが低く問う。
ライネルは頷き、続けた。
「その可能性が高い。
ここの構造そのものが···まだ固定されてない。
ここにいた“存在”が完全に消えていないか···
あるいは、まだ留まってるか」
言葉を濁したその時。
小さな「ぱちっ」という音とともに、部屋の隅の壁紙がふっと浮いた。
何か。
見えないが、確かに“いる”何かが。
アイラは壁の方を見たまま、ふと——自分が何を探していたのか一瞬忘れたように首をかしげた。
「···私たち、何の依頼でしたっけ?」
その言葉に、イヴェラとライネルが同時に彼女を見た。
「···アイラ?」
イヴェラが静かに呼ぶ。
アイラは首を振り、独り言のように呟く。
「違う···ただ、ちょっと混乱しただけです」
ライネルの眉間に皺が寄る。
「記憶が揺れてる。
この隙間···まだ俺たちを引っ張ってる」
それを聞くとイヴェラはすぐ荷物をまとめ始めた。
「危険だ。長居するな。
痕跡は十分確認した。もう出る」
アイラは最後にもう一度、部屋の中を見回した。
その瞬間、耳元で誰かの囁きが流れた。
「···来てくれたんだね」
背筋を冷たいものが走る。
部屋は静かなのに、その静けさが···完璧すぎた。
音さえ隙間に飲み込まれていくみたいな感覚。
「今···開いてる」
「何が?」
イヴェラが短剣の柄を掴んだ。
「隙間だ。
完全に閉じきってなかった隙間···今、また開く」
その瞬間だった。
アイラが動きを止めた。
視線が、部屋の真ん中の虚空へ向いている。
「···あそこ···」
囁くように、彼女が言った。
「誰かがいる」
ライネルとイヴェラも同時に振り向く。
だが、そこには何もない。
それでも、アイラの目には確かに何かが見えていた。
青白い壁紙の向こう。
糸みたいに細い裂け目の間から、
小さな手が···ゆっくり床を引っ掻いていた。
「一緒に行こう」
アイラは言葉もなく、その手を見つめた。
そして彼女の身体が、空気の中へ滲むみたいに揺らぎ始める。
ライネルが叫んだ。
「アイラ、やめろ!」
だが手を伸ばす前に、
彼女は消えた。
音も、光も、痕跡もなく。
ただ残ったのは、
床に転がる小さな精霊石ひとつ。
アイラがいつも首飾りみたいに大事にしていた、それだった。
部屋の中は、また静かになった。
静かすぎて···
さっきまで人がいた場所が、夢だったみたいに思えた。
静かな闇。
◇
そして···
アイラはゆっくり目を開けた。
馴染みのものは何もない。
なのに、不思議と見知らぬ感じもしなかった。
穏やかな草原。
白い霧が流れる平らな丘。
空はなく、風も吹かない。
だがそこに、子どもが三人いた。
二人は並んで座り、
もう一人は少し離れた場所で静かに座っている。
アイラは慎重に近づき、口を開いた。
「···ここで、何してるの?」
子どものうち一人——茶色い髪の少女が顔を上げた。
「ただ···待ってたの」
隣の男の子も笑って頷く。
「友達。毎日来るよ。いっしょに遊ぼうって」
少女が付け足す。
「私たちはここで待つの。今日も来るよ」
「ここにどれくらいいるか、覚えてる?」
アイラがもう一度尋ねた。
少女は少し考えてから首をかしげる。
「よく分からない。
ただ···ずっといた気がする」
「···お父さんとお母さんは?」
今度はアイラが、さらに慎重に聞いた。
子どもたちは同時に首を振った。
「それって何?」
「おいしいもの?」
声は澄んでいるのに、どこか壊れた隙間を埋めようとしているみたいだった。
そして、少し離れて座っていた三人目の子が顔を上げた。
その子は、ほかの二人とは明らかに違った。
あまりにも静かで、動きさえ人間らしくない。
服装は整っていた。
だがそれより先に目に入るのは···肌。
色がない。
血が巡っていないみたいに、異様に白い。
そして何より、目。
年齢に見合わないほど深かった。
その子が口を開く。
「ここまで来たんだ」
その一言で、アイラは息を止めた。
「···あなた、誰?」
そう言うと同時に、白い霧が少し濃くなった。
アイラは静かに呼吸を整えた。
身体は無事なのに、心のどこかがじわりと鳴っていた。
その子——
静かに笑う三人目の子は、まだ同じ場所に座っていた。
「あなた···名前は?」
アイラが慎重に尋ねる。
「名前?」
その子は首をかしげた。
「それって、必要?」
そう言って、短く笑う。
「そんなの、なくてもいい。
言わなくても、伝わるから」
その瞬間、隣の二人も同時に頷いた。
「私たち、友達だよ」
「いっしょにいると···安心する」
アイラは視線を逸らした。
その目はあまりにも純粋だった。
だけど、その中に生気がない。
鏡みたいな瞳。
誰かに習ったみたいに笑う口元。
それは“子ども”というより、
“子どもだったもの”に見えた。
「ここはどこ?」
アイラはふと上を見上げた。
だが空は存在しない。
あるのは、ゆっくり流れる霧だけだった。
白い子が言った。
「ここは、覚えていなくていい場所だよ」
「···覚えなくていいって?」
「うん。辛かったことも、疲れたことも、全部忘れて···」
声は柔らかい。
あまりにも温かくて、それが正しいのかもと思いそうになる。
アイラは視線を落とした。
無意識に首元へ手が触れる。
いつも身につけていた精霊石。
けれど···ない。
「···!」
精霊石が消えた場所。
皮膚の上を冷たい空気が撫でた。
(覚えていなきゃ)
どこかで、とても小さな声が囁く。
(忘れて)
その瞬間、目の前の三人が静かに笑っていた。
アイラには分かった。
その笑みは···自然なものじゃない。
誰かに教わった表情を、
覚えた通りに真似している笑い。
「······ここから出なきゃ」
言葉が口から漏れる前に、
足元の霧がさらに濃くなった。
指先が冷える。
いや、冷えるという感覚さえ曖昧になっていく。
アイラはゆっくり手を上げた。
腕も軽い。身体も楽だ。
けれど、その楽さが···怖かった。
いま、何が間違ってるんだろう。
そう思ったはずなのに、
その思考さえすぐ別のものに塗り潰される。
「大丈夫?」
茶髪の少女が近づいてきた。
小さな手に、何かを持っている。
白い布だった。
白くて柔らかくて、温もりがある気がする布。
「これをかけて寝ると、心が楽になるよ」
少女は無邪気に笑った。
「みんな、そうなの」
アイラは反射的に布を見つめ、首を振った。
「···平気。まだ···」
その時、白い子が静かに言った。
「いろんな記憶が、君を苦しめてるんだね」
アイラは答えなかった。
「重たいものをずっと握ってると、いつか折れる。
ここでは···手放していい」
その言葉に、少し離れていた男の子が言った。
「僕も最初は名前を覚えてた。
でも今はなくてもいい。ここじゃ、そんなの要らないんだ」
アイラはぎゅっと目を閉じた。
だが霧は、囁くみたいに頭の中へ入り込んでくる。
手放していい。
記憶は痛い。
ここは大丈夫な場所。
彼女はふと、
“誰が私を呼んだんだっけ?”と思った。
「······ライネル?」
「イヴェラ?」
口にした瞬間、
その名前がひどく遠いものに感じられた。
——その時。
「アイラ」
誰かの声が聞こえた。
薄く、遠く、やっと届く程度の声。
その瞬間、白い子の目がわずかに揺れた。
「···誰が呼んだの?」
アイラが囁く。
三人とも同時に顔を上げた。
表情から笑みが消えた。
そして三人目の子が、初めて“本音”のこもった声で言った。
「······ここで、その名前を呼んじゃだめ」
その言葉と同時に···
霧が渦を巻いた。
地面がわずかに傾き、
空間の輪郭が微細に歪んだ。




