14. 記録の痕跡(きろくのこんせき)
ボブレ慈善神殿、地下会議室。
分厚い祭壇紋の下に、金属の箱が重く置かれていた。
灰色のローブをまとった司祭たちが、その周囲を静かに囲んでいる。
「封印はまだ維持されています。しかし···微細な反応が検知されました」
先頭の司祭が頭を垂れて報告した。
「どんな反応だ?」
司祭は目を閉じ、魔力の残り香を思い起こすように低く言った。
「断定はできませんが···魔族の魔力による反応と推定されます。
ごく微細な振動が、封印に沿って広がりました」
その言葉が終わると、会議室の空気が一瞬揺れた。
何人かの司祭が頷き、眼差しがどこか鋭く光る。
「魔族の魔力···ついに長年の願いが叶うのか」
「この日を長く待っていた。いよいよ時が近い」
白い髭の高位司祭が髭を撫で、感嘆するように呟いた。
その声には畏敬より、期待が濃く滲んでいた。
指先で祭壇の上を撫で、低く囁く。
背後の別の司祭が慎重に口を開いた。
「ですが···三年前にも同じような兆候がありました。
あの時は結局、幻で終わりました。今回も——」
瞬間、高位司祭の目が鋭くその男へ向いた。
ほかの司祭たちは視線を逸らし、口を閉ざす。
「その時とは違う。今は魔力の質が違う。
セレン司祭の感応も一致し、記録の記述にも合致している」
だが、さらに別の司祭が控えめに言った。
「早計です。それに、魔力の主体が誰かも特定できていません」
その言葉に、全員の視線が箱へ集まった。
静まり返った空気の中、高位司祭が再び口を開く。
「セレン司祭によれば、その魔力は子ども二人のどちらかに由来するらしい···
一人は人間、もう一人はハーフエルフ」
口元に薄い笑みが浮かぶ。
「ハーフエルフではあるまい。
人間の姿に身を隠した魔族——その可能性の方が高い」
その眼差しは神を見ていなかった。
信仰ではなく、長年くすぶり続けた欲望だった。
そして、その欲望の火種は——誰かに捉えられていた。
◇
同じ夜、別の場所。
イヴェラは静かに宿を抜け出し、音一つ立てず廊下を横切った。
その動きは、平凡な冒険者のものではない。
外套の内側を少し捲ると、古びた紙一枚と、小さな黒い棺のような筒が見えた。
彼女は迷いなくそれらを取り出す。
路地の突き当たり、行き止まりの壁の前。
イヴェラは指で宙を軽く叩いた。とん、とん。
その単純な仕草が合図だった。
ほどなく、灰色の羽をつけた小さな黒いフクロウが闇を裂いて現れた。
羽ばたきの音すらなく、イヴェラの前に降り立つ。
彼女は無言で筒の蓋を開け、紙を滑り込ませた。
紙にあるのは、たった一文。
『ボブレ神殿の不審な動きを検知』
フクロウは短く頷くように動き、再び夜空へ舞い上がった。
イヴェラはその場にしばらく立ち尽くす。
(···向こうも、じきに気づく。
だが動くまで、どれだけかかるかは···)
手には短剣が握られていた。
戦うためではなく、いつでも対応できるように。
そして彼女の目は、闇の奥の何かを射抜いていた。
夜はそうして過ぎた。
眠る者がいて、起きている者がいる。
だが皆、何かを待っていた。
◇
そして翌朝。
三人はギルド支部の扉の前に立っていた。
朝の光が看板を照らし、扉を開けると馴染みのチャイムベルが鳴る。
受付台の奥で、緑髪をきちんと結った若い受付嬢が顔を上げた。
明るい笑顔で言う。
「来ましたね! 今日は···Cランク任務です」
「Cランク?」
アイラは驚いた目で紙を受け取った。
「昨日の任務はEだったのに···」
受付嬢はウィンクして、いたずらっぽく笑う。
「最近処理したゴブリン討伐が評価されたんです。
正式な討伐報告書もすごく綺麗に書けてましたし。
···誰が書いたかは、言わなくても分かりますよね?」
その言葉に、イヴェラは視線をそらした。
壁際の依頼掲示板を、無関心そうに眺める。
ライネルが紙を流し見しながら呟く。
「子どもの失踪事件···? 今回は単なるお使いじゃないな」
受付嬢が頷く。
「はい。ちょっと曖昧な依頼ではあるんですけど、村の人が必死に頼み込んできまして。
住民のほとんどはその人を精神異常者扱いしてますけど···あまりにしつこくて···」
声が少し落ちる。
「···実は、昔も一度似たことがあったって噂があるんです。
数年前···その村で、子どもが何人か突然消えたって···」
彼女は口をつぐんだ。
これ以上は言いたくない、というふうに。
アイラは目を細める。
「それ、いつのことか覚えてます?」
受付嬢は一瞬詰まってから、無理に笑って首を振った。
「いえ、ただの噂です。正確じゃないです」
その瞬間、イヴェラの視線が受付嬢の指先に留まった。
小さく、震えている。
短い沈黙。
ライネルとアイラは目を交わす。
その時、アイラの表情が少し固まった。
「···嫌な予感がする。変なだけじゃなくて···何か、
良くないことが起きてた感じ」
その言葉にイヴェラは僅かに目を細め、ライネルも静かに表情を引き締めた。
紙を折り直す。
「確認しに行こう」
ライネルが短く言った。
「今回もよろしくお願いしま〜す」
受付嬢は面倒な宿題を渡すみたいに、屈託なく手を振った。
いつも通り穏やかな出発···だが、今回は何かが違いそうだった。
◇
馬車の車輪の音だけが耳をくすぐる昼。
昼食を過ぎた頃。
三人は村の入り口に着いた。
日差しは温かく、風は柔らかい。
だが道端に、子どもも大人も、影さえない。
驚くほど静かだった。
その静けさが、逆に耳を打つ。
「おかしくないか?」
ライネルが低く言った。
「この時間にこの規模の村なら、子どもの声くらい聞こえるはずだ」
アイラは周囲を見回して頷いた。
表情が徐々に固くなる。
「気配がなさすぎる···隠されてるものがある感じ」
三人は依頼人の住所を辿り、村外れの古い家の前へ着いた。
扉はすぐに開いた。
やつれた顔の中年女性が姿を見せた。
目の下は深く落ち込み、痩せた手がドアノブを握ったまま震えている。
「···冒険者の方ですか?」
息を整えるように言った。
「来てくれて···ありがとう」
その言葉が終わる前に、三人とも悟った。
何かが、決定的におかしい。
「娘が···消えました。
突然、何の気配もなく」
言葉は短い。だが彼女の目は混乱と絶望でいっぱいだった。
「確かにいたんです。いっしょに暮らして、食事も作って、笑い合ったことだってあるのに···
最近、みんな言うんです。
『そんな子はいなかった』って」
視線が虚空を彷徨う。
「笑い声が···すごく明るくて。
毎朝、窓際に座ってリンゴを食べてたんです。
いや··· 柿だったかな? でも柿はあまり食べなかったような···」
声が薄れていく。
指先が震え始めた。
「年は···九歳···でしたよね。いや、十歳だったかな···?」
言葉が崩れ、瞳が揺れる。
記憶を掘り返すような動きが繰り返された。
自分の言葉に、本人が確信を持てていない。
それを見たアイラの目が硬くなる。
これは単なる悲しみではない。
記憶の亀裂だ。
「少し、家の中を調べてもいいですか」
イヴェラが静かに言った。
彼女が一歩踏み出すと、中年女性は迷いなく頷いた。
「はい···どうぞ。子ども部屋は、こちらです」
部屋の中は、異様なほど静かだった。
静かすぎて、何かが意図的に隠されているみたいな感覚がある。
アイラがベッドの下を指す。
「そこ、白い布。何か感じない?」
ライネルがそれを慎重に持ち上げた。
その瞬間、指先に痺れるような魔力が走る。
「確かだ。これは···何かの魔力に晒されてた物だ」
ライネルは布を丁寧に畳み、女性に近づいた。
「この白い布···何に使っていました?
その子が持っていたものですか」
中年女性はしばらく布を見つめ、低く言った。
「それは···少し前に、娘が友達にもらったっていう人形を包んでた布です。
その人形の布団みたいに、よく使ってました···」
それを聞いて、イヴェラは静かに頷く。
「依頼内容では、この家を含めて三世帯で子どもが消えている。
各家庭には確かに一緒に暮らしてきた記憶があり、失踪の時期も一致してない」
壁の方を見て続けた。
「なのに村の人間は、子どもが存在した事実すら覚えてない。
最初からいなかったみたいに。冗談で流して、真面目に取り合わない」
短い沈黙。
「···やっぱり、他の家も見た方がいい」
アイラが低く言い、目を据えた。
三人は黙って片付け、次の目的地へ向かって歩き出した。
村の西外れ、なだらかな丘の上。
古い家が一軒、待っていたかのように佇んでいる。
古びた屋根と静かな庭。
人の気配は確かにあるのに、異様に沈黙していた。
扉は閉まっている。だが、気配はある。
イヴェラが静かに扉を叩いた。
しばらくして、ぎい、と音を立てて開く。
乱れた髪、伸びきった顎髭の男が、隙間から姿を見せた。
寂れた目。乾いた唇。力のない瞳。
その視線が三人の上で止まる。
「失踪事件の調査で来ました」
ライネルが落ち着いて言った。
男は無言で頷き、扉を開けた。
「···入ってください」
家の中は整っている。だが、どこか冷える。
壁紙も床も暖色なのに、温もりがない。
アイラがゆっくり視線を回し、呟いた。
「変だよ。気配が薄すぎる。
住んでるのに、暮らしてる感じが全然しない···」
男は古いソファに座り、ぼんやりと手を組んだ。
「その子は···大丈夫だ。まだどこかに···」
虚空を探るような目が揺れ、イヴェラの問いに顔を向ける。
「“その子”というのは、お子さんのことですか」
「···そうだ。俺の息子···いや、娘だったか···」
その瞬間、声がかすれた。
瞳が揺れ、指が震え始める。
「おかしいだろ···名前が出てこない。
いつも呼んでた名前なのに···」
額を押さえ、俯く。
「誕生日だって覚えてたのに···チョコケーキが好きだったか···苺だったか···」
言葉が崩れる。
彼は自分に問いかけるように、同じことを繰り返す。
「毎晩、ベッドの横に人形を置いてやってた···よな?
それはこの家だったか? 別の家だったか···?」
ライネルが立ち上がる。
手を上げ、空気の流れを感じ取るようにしてから、壁へ近づいた。
「家族の絵だ。けど···変だ」
額縁を指す。
絵の中には笑う家族が描かれている。
だが、その間——誰かがいるはずの場所だけが、綺麗に空いていた。
消した痕も、汚れもない。
最初から描かれていなかったみたいに。
アイラは机の上のスケッチブックをそっとめくり、手を止めた。
古い紙に描かれた家族の姿の間に、ぽっかりとした空白がある。
「この絵も···同じ。
スペースはあるのに、人がいない。
記憶が綺麗に上書きされたみたい···」
イヴェラが静かに言った。
「誰かが消したんじゃない。
存在そのものが···最初からなかったことにされた」
声は淡々としているのに、そこには重く冷たい確信があった。
アイラは無言で、スケッチブックの最後のページをめくろうとして手を止めた。
紙の端に、薄く走り書きされた文字が目に入る。
『今、早く行かなきゃいけない気がする···』




