表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/75

14. 記録の痕跡(きろくのこんせき)

ボブレ慈善神殿、地下会議室。

分厚い祭壇紋の下に、金属の箱が重く置かれていた。

灰色のローブをまとった司祭たちが、その周囲を静かに囲んでいる。


「封印はまだ維持されています。しかし···微細な反応が検知されました」

先頭の司祭が頭を垂れて報告した。


「どんな反応だ?」


司祭は目を閉じ、魔力の残り香を思い起こすように低く言った。

「断定はできませんが···魔族の魔力による反応と推定されます。

ごく微細な振動が、封印に沿って広がりました」


その言葉が終わると、会議室の空気が一瞬揺れた。

何人かの司祭が頷き、眼差しがどこか鋭く光る。


「魔族の魔力···ついに長年の願いが叶うのか」


「この日を長く待っていた。いよいよ時が近い」

白い髭の高位司祭が髭を撫で、感嘆するように呟いた。

その声には畏敬より、期待が濃く滲んでいた。


指先で祭壇の上を撫で、低く囁く。


背後の別の司祭が慎重に口を開いた。

「ですが···三年前にも同じような兆候がありました。

あの時は結局、幻で終わりました。今回も——」


瞬間、高位司祭の目が鋭くその男へ向いた。

ほかの司祭たちは視線を逸らし、口を閉ざす。


「その時とは違う。今は魔力の質が違う。

セレン司祭の感応も一致し、記録の記述にも合致している」


だが、さらに別の司祭が控えめに言った。

「早計です。それに、魔力の主体が誰かも特定できていません」


その言葉に、全員の視線が箱へ集まった。

静まり返った空気の中、高位司祭が再び口を開く。


「セレン司祭によれば、その魔力は子ども二人のどちらかに由来するらしい···

一人は人間、もう一人はハーフエルフ」


口元に薄い笑みが浮かぶ。


「ハーフエルフではあるまい。

人間の姿に身を隠した魔族——その可能性の方が高い」


その眼差しは神を見ていなかった。

信仰ではなく、長年くすぶり続けた欲望だった。


そして、その欲望の火種は——誰かに捉えられていた。



同じ夜、別の場所。


イヴェラは静かに宿を抜け出し、音一つ立てず廊下を横切った。

その動きは、平凡な冒険者のものではない。


外套の内側を少し捲ると、古びた紙一枚と、小さな黒い棺のような筒が見えた。

彼女は迷いなくそれらを取り出す。


路地の突き当たり、行き止まりの壁の前。

イヴェラは指で宙を軽く叩いた。とん、とん。

その単純な仕草が合図だった。


ほどなく、灰色の羽をつけた小さな黒いフクロウが闇を裂いて現れた。

羽ばたきの音すらなく、イヴェラの前に降り立つ。


彼女は無言で筒の蓋を開け、紙を滑り込ませた。

紙にあるのは、たった一文。


『ボブレ神殿の不審な動きを検知』


フクロウは短く頷くように動き、再び夜空へ舞い上がった。


イヴェラはその場にしばらく立ち尽くす。


(···向こうも、じきに気づく。

だが動くまで、どれだけかかるかは···)


手には短剣が握られていた。

戦うためではなく、いつでも対応できるように。

そして彼女の目は、闇の奥の何かを射抜いていた。


夜はそうして過ぎた。

眠る者がいて、起きている者がいる。

だが皆、何かを待っていた。



そして翌朝。


三人はギルド支部の扉の前に立っていた。

朝の光が看板を照らし、扉を開けると馴染みのチャイムベルが鳴る。


受付台の奥で、緑髪をきちんと結った若い受付嬢が顔を上げた。

明るい笑顔で言う。


「来ましたね! 今日は···Cランク任務です」


「Cランク?」

アイラは驚いた目で紙を受け取った。

「昨日の任務はEだったのに···」


受付嬢はウィンクして、いたずらっぽく笑う。

「最近処理したゴブリン討伐が評価されたんです。

正式な討伐報告書もすごく綺麗に書けてましたし。

···誰が書いたかは、言わなくても分かりますよね?」


その言葉に、イヴェラは視線をそらした。

壁際の依頼掲示板を、無関心そうに眺める。


ライネルが紙を流し見しながら呟く。

「子どもの失踪事件···? 今回は単なるお使いじゃないな」


受付嬢が頷く。

「はい。ちょっと曖昧な依頼ではあるんですけど、村の人が必死に頼み込んできまして。

住民のほとんどはその人を精神異常者扱いしてますけど···あまりにしつこくて···」


声が少し落ちる。


「···実は、昔も一度似たことがあったって噂があるんです。

数年前···その村で、子どもが何人か突然消えたって···」


彼女は口をつぐんだ。

これ以上は言いたくない、というふうに。


アイラは目を細める。

「それ、いつのことか覚えてます?」


受付嬢は一瞬詰まってから、無理に笑って首を振った。

「いえ、ただの噂です。正確じゃないです」


その瞬間、イヴェラの視線が受付嬢の指先に留まった。

小さく、震えている。


短い沈黙。

ライネルとアイラは目を交わす。

その時、アイラの表情が少し固まった。


「···嫌な予感がする。変なだけじゃなくて···何か、

良くないことが起きてた感じ」


その言葉にイヴェラは僅かに目を細め、ライネルも静かに表情を引き締めた。

紙を折り直す。


「確認しに行こう」

ライネルが短く言った。


「今回もよろしくお願いしま〜す」

受付嬢は面倒な宿題を渡すみたいに、屈託なく手を振った。


いつも通り穏やかな出発···だが、今回は何かが違いそうだった。



馬車の車輪の音だけが耳をくすぐる昼。

昼食を過ぎた頃。

三人は村の入り口に着いた。


日差しは温かく、風は柔らかい。

だが道端に、子どもも大人も、影さえない。

驚くほど静かだった。

その静けさが、逆に耳を打つ。


「おかしくないか?」

ライネルが低く言った。

「この時間にこの規模の村なら、子どもの声くらい聞こえるはずだ」


アイラは周囲を見回して頷いた。

表情が徐々に固くなる。

「気配がなさすぎる···隠されてるものがある感じ」


三人は依頼人の住所を辿り、村外れの古い家の前へ着いた。

扉はすぐに開いた。


やつれた顔の中年女性が姿を見せた。

目の下は深く落ち込み、痩せた手がドアノブを握ったまま震えている。


「···冒険者の方ですか?」

息を整えるように言った。

「来てくれて···ありがとう」


その言葉が終わる前に、三人とも悟った。

何かが、決定的におかしい。


「娘が···消えました。

突然、何の気配もなく」


言葉は短い。だが彼女の目は混乱と絶望でいっぱいだった。


「確かにいたんです。いっしょに暮らして、食事も作って、笑い合ったことだってあるのに···

最近、みんな言うんです。

『そんな子はいなかった』って」


視線が虚空を彷徨う。


「笑い声が···すごく明るくて。

毎朝、窓際に座ってリンゴを食べてたんです。

いや··· 柿だったかな? でも柿はあまり食べなかったような···」


声が薄れていく。

指先が震え始めた。


「年は···九歳···でしたよね。いや、十歳だったかな···?」


言葉が崩れ、瞳が揺れる。

記憶を掘り返すような動きが繰り返された。

自分の言葉に、本人が確信を持てていない。


それを見たアイラの目が硬くなる。

これは単なる悲しみではない。

記憶の亀裂だ。


「少し、家の中を調べてもいいですか」

イヴェラが静かに言った。


彼女が一歩踏み出すと、中年女性は迷いなく頷いた。

「はい···どうぞ。子ども部屋は、こちらです」


部屋の中は、異様なほど静かだった。

静かすぎて、何かが意図的に隠されているみたいな感覚がある。


アイラがベッドの下を指す。

「そこ、白い布。何か感じない?」


ライネルがそれを慎重に持ち上げた。

その瞬間、指先に痺れるような魔力が走る。


「確かだ。これは···何かの魔力に晒されてた物だ」


ライネルは布を丁寧に畳み、女性に近づいた。


「この白い布···何に使っていました?

その子が持っていたものですか」


中年女性はしばらく布を見つめ、低く言った。


「それは···少し前に、娘が友達にもらったっていう人形を包んでた布です。

その人形の布団みたいに、よく使ってました···」


それを聞いて、イヴェラは静かに頷く。


「依頼内容では、この家を含めて三世帯で子どもが消えている。

各家庭には確かに一緒に暮らしてきた記憶があり、失踪の時期も一致してない」


壁の方を見て続けた。

「なのに村の人間は、子どもが存在した事実すら覚えてない。

最初からいなかったみたいに。冗談で流して、真面目に取り合わない」


短い沈黙。


「···やっぱり、他の家も見た方がいい」

アイラが低く言い、目を据えた。


三人は黙って片付け、次の目的地へ向かって歩き出した。


村の西外れ、なだらかな丘の上。

古い家が一軒、待っていたかのように佇んでいる。

古びた屋根と静かな庭。

人の気配は確かにあるのに、異様に沈黙していた。


扉は閉まっている。だが、気配はある。


イヴェラが静かに扉を叩いた。

しばらくして、ぎい、と音を立てて開く。


乱れた髪、伸びきった顎髭の男が、隙間から姿を見せた。

寂れた目。乾いた唇。力のない瞳。

その視線が三人の上で止まる。


「失踪事件の調査で来ました」

ライネルが落ち着いて言った。


男は無言で頷き、扉を開けた。

「···入ってください」


家の中は整っている。だが、どこか冷える。

壁紙も床も暖色なのに、温もりがない。


アイラがゆっくり視線を回し、呟いた。


「変だよ。気配が薄すぎる。

住んでるのに、暮らしてる感じが全然しない···」


男は古いソファに座り、ぼんやりと手を組んだ。


「その子は···大丈夫だ。まだどこかに···」


虚空を探るような目が揺れ、イヴェラの問いに顔を向ける。


「“その子”というのは、お子さんのことですか」


「···そうだ。俺の息子···いや、娘だったか···」


その瞬間、声がかすれた。

瞳が揺れ、指が震え始める。


「おかしいだろ···名前が出てこない。

いつも呼んでた名前なのに···」


額を押さえ、俯く。

「誕生日だって覚えてたのに···チョコケーキが好きだったか···苺だったか···」


言葉が崩れる。

彼は自分に問いかけるように、同じことを繰り返す。


「毎晩、ベッドの横に人形を置いてやってた···よな?

それはこの家だったか? 別の家だったか···?」


ライネルが立ち上がる。

手を上げ、空気の流れを感じ取るようにしてから、壁へ近づいた。


「家族の絵だ。けど···変だ」


額縁を指す。

絵の中には笑う家族が描かれている。

だが、その間——誰かがいるはずの場所だけが、綺麗に空いていた。

消した痕も、汚れもない。

最初から描かれていなかったみたいに。


アイラは机の上のスケッチブックをそっとめくり、手を止めた。

古い紙に描かれた家族の姿の間に、ぽっかりとした空白がある。


「この絵も···同じ。

スペースはあるのに、人がいない。

記憶が綺麗に上書きされたみたい···」


イヴェラが静かに言った。


「誰かが消したんじゃない。

存在そのものが···最初からなかったことにされた」


声は淡々としているのに、そこには重く冷たい確信があった。


アイラは無言で、スケッチブックの最後のページをめくろうとして手を止めた。

紙の端に、薄く走り書きされた文字が目に入る。


『今、早く行かなきゃいけない気がする···』


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ