12. 怪しい運び物(あやしいはこびもの)
パサッ。
草の葉が一枚、踏み潰される音。
静かだが、確かな気配だった。
その瞬間、イヴェラが手を上げた。
アイラは短く息を吸い、指先を開く。
すっ。
宙に描かれた魔法陣が、ゆっくりと光を含む。
黄緑の気配が丸く広がり、風の流れが周囲を包んだ。
「来る」
イヴェラの言葉が終わるより早く。
ガサッ。
草むらが一斉に揺れた。
短い腕。牙を剥いた口。尖った耳。
黄ばんだ目が、森の陰から弾けるように飛び出してくる。
――ゴブリンの群れだった。
「ゴブリン!」
ライネルが短く叫ぶ。
「散れ!」
三人は訓練でも受けたみたいに、三角形へと散開した。
迷う暇もなく、ゴブリンが六匹。
四方から、沸き立つように飛び出してくる。
森の影に身を縮めていた連中が、いっせいに襲いかかったのだ。
アイラの指先で黄緑の魔法陣が浮かび上がる。
気流が一つに束ねられ、先頭で突っ込んできたゴブリンがそのまま弾き飛ばされ、地面に転がった。
イヴェラはすでに敵の中へ潜り込んでいた。
両手に短剣を握り、枝の隙間を裂くように走る。
一匹の脇腹をかすめて通り過ぎる、その刹那。
すっ。
短く、正確な軌跡。
ゴブリンが悲鳴すら上げられずに崩れ落ちた。
「イヴェラ、後ろ——!」
ライネルが叫びかけた、その瞬間。
ドン!
背後で鋭い気配が跳ね上がった。
ゴブリンが枝を弾くように蹴って跳び、ライネルの背へ――
背負っている荷袋を、狙い澄まして突っ込んでくる。
「···あいつ、荷を狙ってる?」
アイラが短く呟き、弾けるように振り向いた。
指先に魔力の気流が凝縮する。
「風よ、盾となれ···
ウィンド・ガード(Wind Guard)!」
黄緑の魔法陣が宙に展開した。
瞬時に形成された風の壁が、ゴブリンの突進を正面から受け止める。
ドン!
ゴブリンは荷に触れる前に弾き飛ばされ、地面へ叩きつけられた。
歯を剥いて身体を起こしながらも、視線だけは最後まで荷袋から離れない。
「···助かった、アイラ」
ライネルが短く息を吐いて言った。
視線はなお、荷の向こうを射抜いている。
そして。
ぴいん。
彼の瞳が青く光った。
冷たい波が眼の奥で揺らぎ、指先へと広がっていく。
「···下がれ」
ライネルが手を伸ばした瞬間、周囲の空気が歪むように撓んだ。
その中心から、見えない力が爆ぜるように広がる。
ドン! バキッ! ゴン!
ゴブリン三匹が同時に吹き飛んだ。
宙で転がり、木に身体を打ちつけ、そのまま崩れ落ちる。
短く、強い――完璧な制圧。
その時だった。
ライネルの背負う荷袋の中。
小さく硬い箱の内側で、かすかな青い光が点滅した。
パチッ、パチッ。
速く、微細な振動。
誰も気づかないほどだが、光は確かにそこにあった。
ドサッ!
ゴブリンが一匹、地面に転がる。
それでも、奴の視線は最後まで荷袋に貼りついていた。
ライネルは本能的に、その視線を追った。
(ゴブリンども··· 俺たちの荷を狙ってる)
その瞬間。
ガサッ。
茂みの一角が弾けた。
横からゴブリンが飛び込んでくる。
気づけなかった気配。視界が散っていたせいだ。
ライネルは反射的に手を上げ、念動を発動しようとした。
だが。
青い光が立ち上がる前に、集中が途切れた。
すっ。
ゴブリンの短剣が、彼の腕をかすめた。
薄い血の線が袖を伝う。
(···視界を奪われると、力も切れる)
ライネルは歯を食いしばり、後退した。
魔法陣なしで発動する力――だからこそ、視線と意志が何より重要だった。
「ライネル!」
アイラが叫ぶ。
「大丈夫··· 問題ない」
ライネルは歯を噛み、さらに下がる。
荷袋が揺れないよう、肩紐をきつく締め直して押さえた。
イヴェラは敵をもう一体斬り捨て、向きを変える。
視線が一瞬、ライネルへ流れたが、身体は動かない。
敵の数はまだ多い。
イヴェラが相手にしているだけでも、二体は残っていた。
助ける余裕も、助ける理由もない。
彼女の短剣は次の標的へ、迷いなく走った。
「アイラ、防御は頼む」
ライネルが息を整える。
「分かった」
アイラは額に汗を滲ませ、短く返した。
指先がもう一度、宙に軌跡を描く。
パサッ··· パサッ···
森の暗がりから、別の影が姿を現す。
追加で二匹。
最初の六匹に加わり、戦場は一気に八へ膨れた。
森はすでに混沌だった。
一団が周囲を揺らして隙を作り、残りが荒れ狂いながら荷へ視線を集める。
イヴェラは言葉もなく、息遣いすらなく、森を裂いていた。
肩を落とし、木の影に沿って流れるように動く。
短剣はすでに手の中にあり、身体の一部みたいに自然だった。
すっ。
左から一匹が飛び出す。
イヴェラは顔も向けずに腰だけを捻った。
半円を描いた刃先が、ゴブリンのうなじを掠めるように切る。
ずん。
血はほとんど跳ねない。
斬ったというより、“切り落とした”が近い。
綺麗で、正確だった。
「次」
イヴェラの瞳が静かに横へ動く。
ゴブリンが二匹、同時に突っ込んできた。
一匹は正面。もう一匹は木を伝い、上から落ちてくる。
だがイヴェラは止まらない。
むしろ距離と速度を測るように、たった一歩だけ横へずれた。
すっ。
上から落ちたゴブリンの腕が、宙で断たれた。
同時に、正面から来た奴のうなじへ短剣が突き立つ。
最初からそうなると分かっていたみたいに。
視線すら揺れない。
ドン!
地を蹴って跳ね上がり、木を踏んで反対へと跳躍する。
「遅い」
二匹のゴブリンが空を切り、イヴェラのいた場所へ武器を振り抜いた。
次の瞬間。
すっ、すっ。
回転しながら叩き込まれた二本の短剣。
彼女は落下の勢いのまま、敵の喉元を突き抜いた。
そのまま腰を落として草むらの下へ潜り込む。
動きは影みたいに軽いのに、致命的だった。
背後で誰かが傷を負う音がしたが、イヴェラは振り返らない。
「守る気はない」
ほとんど独り言みたいに、低く呟く。
「生きたいなら、耐えろ」
一振り。
また一体が倒れる。
誰かを守るためには動かない。
信じているからだ。
冒険者なら、自分の身くらい自分で守れる。
それができないなら――その程度だった、それだけ。
イヴェラの役割は一つ。
敵を、最速で減らすこと。
それがイヴェラの戦い。
そして、彼女が生き残ってきたやり方だった。
「側面、あと二匹!」
アイラが叫んだ。
素早く魔法陣を展開する。
彼女は攻撃より、流れを制御するのが得意だった。
危険を遅らせ、味方の隙を埋める。
歯を食いしばり、もう一度防御魔法を組む。
ピイィィン——
風が薄く巻きつき、ゴブリンの侵入角がずれた。
奴らは一瞬、バランスを崩して足を取られる。
その短い隙。
ライネルは最後の手段みたいに手を伸ばした。
そして。
何かが、飛んだ。
ゴブリンの短い槍が空を裂いて飛来する。
一気に距離を詰めてくる殺気。
ライネルは息を止め、腕を伸ばした。
ドン——!
地面に落ちていた小石が渦を巻くように浮かび上がり、ゴブリンの脇腹を叩き抜いた。
「——ぐっ!?」
ゴブリンは目を見開いたまま、横へ吹き飛ぶ。
乱暴に弾いたのではない。
誰かが掴んで捻ったみたいに、滑らかな動きだった。
その瞬間、周囲の物が微かに震え始めた。
細い枝、折れた木片、落ちた短剣。
ウィィン···
細い波が腕先を伝い、目に見えない糸で周囲を繋ぐみたいに広がる。
また一匹、ゴブリンが突っ込んでくる。
ライネルは迷わない。
崩れた岩片へ視線を投げ、手を振り払った。
ブン—— ゴンッ!!
空中に浮いていた岩が、ゴブリンの頭頂を叩き割った。
奴は悲鳴もなく倒れる。
指先が微かに震えた。
魔法陣なしで繋がる意志。
――念動系の魔法。
周囲のゴブリンが、一瞬動きを止めた。
人の領域ではないと、奴らも本能で悟ったようだった。
その瞬間。
ライネルの瞳が、再び青く光った。
瞳の奥の波が震えとなって広がり、彼の周囲へ魔力が凝縮する。
ドン···!
空気全体が鳴り、ゴブリンたちの身体が宙で止まった。
次の瞬間。
見えない力が内側から押し潰した。
パキッ、グシャッ!
胴が歪み、手足が異様に折れ曲がる。
いくつかは骨が内へ畳まれ、赤い血が静かに散った。
音のない、だが確かな死。
そして、短い静寂。
どさっ。
最後のゴブリンが倒れた。
森に、短い沈黙が落ちる。
イヴェラは短剣を払って、荷紐を掛け直した。
無駄のない動き。最初からこういう戦いが日常だったみたいに。
ライネルは片膝をつき、荒く息を吐いていた。
血の匂いが喉に貼りつく。
その時だった。
ゴン。
空気が、ごく微かに震えた。
錯覚で流すには、はっきりした波動。
ライネルの視線が、イヴェラの肩越し――金属箱へ吸い寄せられる。
ゴン。
今度は確かだった。
中で何かが、生きているみたいに蠢いた。
そして。
青い光。
箱の隙間から、かすかな光が滲んだ。
肉眼ではほとんど見えないほどだが、ライネルには分かった。
澄んで冷たい――それでいて、どこか見覚えのある魔力の痕。
光は静かに揺らぎ、流れ出すように彼の視界へ入ってくる。
一瞬、息が止まるほど鮮明に。
「···見たか?」
ライネルが低く問う。
「何を?」
アイラが首を傾げ、箱を見る。
「さっき、あそこから··· 光が出た」
ライネルはゆっくり立ち上がった。
だがアイラはしばらく箱を見て、首を横に振る。
「全然、見えなかったけど?」
イヴェラは答えない。
そもそも会話に興味がないみたいに、無表情で荷紐を整えるだけだ。
ライネルは黙って唇を引き結んだ。
光を感じ取ったのは、自分だけ。
そして、その震えが――自分の念動と同じ感覚だったことも。
「ライネル、その腕··· 大丈夫?」
アイラが近づいて訊いた。
血が服を伝い、かなり広がっている。
「深くはない。骨まではいってない」
ライネルは腕をそっと押さえながら答えた。
声は落ち着いているのに、表情は疲れていた。
「でも、今は無理だね」
アイラは彼の前にしゃがみ、手のひらを開く。
「動かないで。風の流れに合わせるから」
指先が宙に小さな軌跡を描き始めた。
低く澄んだ詠唱が、静かに流れる。
「静かな循環よ、血の流れを包み、
傷を撫でて、再び肉を繋げ···」
すうっ。
黄緑の気流が指先から揺らめいて広がった。
気流は静かに、誰かの吐息みたいにライネルの腕を包む。
傷の熱がすっと引き、血が固まり、痛みも和らいでいく。
ライネルは静かに息を吐いた。
「···不思議だな」
「精霊の力を、ちょっと借りただけ」
アイラは何でもないみたいに笑う。
「風は流れを整えるのが得意なの。
血を止めたり、ちょっとした傷ならすぐ塞げる」
その笑みは、いつもの悪戯っぽさと違っていた。
静かで、
不思議なくらい温かい。
イヴェラが振り返りもせずに言った。
「片付いたなら移動する。
ここに長居すれば、また来る」
ライネルは返事の代わりに、鞄の肩紐を握り直した。
箱の残った微かな震えが、手の甲をくすぐるように伝わってくる。




