11. 静寂の森(せいじゃくのもり)
ボブレ村の南門が、ゆっくりと開いた。
荒れた鉄の門がぎい、と軋みながら押し退けられると、冷えた朝の空気が静かに流れ込んでくる。
三人は、その隙間を縫うように並んで歩き出した。
「ふふん〜 ふふん〜♪」
先頭を行く少女が鼻歌を口ずさむ。
軽く弾むつま先。腕には短剣を下げ、短い外套を羽織っていた。
なにより目を引くのは、くしゃっとした金髪と――その隙間から覗く緑の瞳だ。
その目は、どこか妙だった。
澄んで明るいのに、どこか馴染まない。異物感がある。
人の視線を、離させない何かがあった。
「ほんと冒険者って感じ〜。今日はなんか、いい予感する」
アイラは両手を頭の後ろで組み、にっと笑った。
後ろを歩くライネルが、静かに言う。
「浮かれてるってことは、緊張してないんだな」
「どうして緊張してないと思うの? 冒険者としての初任務だよ?」
アイラはくるりと一回転して、ぱっと笑う。
ライネルは小さく首を振った。
「その分、ミスされたら困る」
「はぁ、つまんない〜。ライネルってほんと、何でも真面目すぎ」
頬をふくらませたアイラは、すぐに彼の隣へと歩み寄った。
「それよりさ。あなた、どうして冒険者をやろうと思ったの?」
ライネルは短く息を吸う。
そして、ひどく低い声で――ひとつの名を口にした。
「···オルタ」
アイラは瞬きをして、小首を傾げた。
「オルタ? それって··· 昔倒れた魔王の名前じゃない? 三百年前だっけ。人間と戦争して、消えたって」
ライネルはゆっくり頷く。
「最初に··· 俺が目を覚ました時。
その場にいた連中が、その名前を言った。
まるで··· 俺と関係があるみたいに」
アイラは黙って彼を見た。
ライネルの目は淡々としているのに、その奥で――とても深い何かが揺れていた。
「ただの偶然かもしれない。けど、流すには気持ち悪い。
冒険者になれば、世界を歩ける。
もしかしたら··· 何か分かるかもしれないだろ」
「···それ、ちょっとゾッとする」
アイラが小さく呟いた。
「じゃあ、お前は?」
ライネルが問い返す。
アイラは一度視線を落としてから、顔を上げた。
「私は··· 探さなきゃいけない場所がある」
いつもより落ち着いた声だった。
そこには、ぼんやりとした恋しさと、古い約束が混じっている。
「お父さんとお母さんと··· 離れる時。
その時、エルペンシアでまた会おうって言ったの」
「エルペンシア···?」
ライネルが聞き返すと、アイラは頷いた。
「どこにあるかは分からない。ただ··· エルフが暮らす村だってことだけは知ってる。
名前ひとつ頼りに、あちこち回ってたら――
いつか··· そこに辿り着けるかもしれないでしょ?」
短い沈黙。
ライネルは静かに頷いた。
「見つかる」
アイラは、にっと笑った。
ふざけたようで、少しだけ寂しそうな目だった。
「見つけるよ。約束だから」
◇
森道はゆるい傾斜に沿って続き、木々の影が彼らの足元を覆い始めた。
季節はまだ春だが、早朝の森は思った以上に冷える。
しばらくして、道が三方向に分かれた。
道標も印もなく、重たい岩がひとつ突き刺さるように置かれた三叉路。
「うーん···」
アイラは足を止め、辺りを見回す。
そして左の道を指さして言った。
「左がよさそう。草の匂いが濃いじゃん? こういう時は直感が一番って言うし」
彼女は鼻先を突き出すみたいに、くんくんと嗅いで結論を出した。
ライネルは無言で鞄から地図を取り出し、広げる。
木陰で薄暗くなった紙面を見つめたあと、右を指した。
「地図だと右だ。
近道だし、指定された通路の近くに繋がってる」
「ええ〜、またそういう計算で決めるの?
たまには“勘”ってやつを信じてみたら?」
アイラは唇を尖らせてぶつぶつ言った。
その時、イヴェラが何も言わずに右の道へ足を向けた。
静かな選択。
二人も、言葉なくそれに続いた。
「···だと思った」
アイラが小さく呟いて肩をすくめる。
悔しさより、慣れが勝っていた。
ライネルは横目で彼女を見て、かすかに笑う。
「多数決だ」
その短い冗談に、アイラはじとっと睨んで顎に手をついた。
「ねえ、イヴェラって元からあんな感じ?
何も言わないで、さっと行っちゃうタイプ?」
後ろから尋ねるように声を投げたが、前を歩くイヴェラは答えない。
ライネルが肩をすくめた。
「性格的には、あれでも親切な方じゃないか」
「はぁ、ほんと〜。無愛想にも程があるって」
アイラは小枝を足で、こつんと蹴りながらついていく。
少し歩いたあと、彼女がまた口を開いた。
今度は一拍遅れて、慎重に。
「それにしても··· イヴェラ。あなたは、どうして冒険者になったの?
もしかして··· 私たちみたいに、何か探してるの?」
イヴェラが、わずかに動きを止めた。
その瞬間、背筋を撫でるような冷たい気配が通り過ぎた。
彼女はゆっくり振り返り、短く、冷たく言う。
「くだらないこと言わないで」
アイラは瞬きをした。言葉が出ない。
イヴェラは低く、はっきり続けた。
「私たちは、つまらない冒険者ごっこをしに来たんじゃない。
目的を忘れないで。
表向きは冒険者のふりでも、実際の任務は――村の中で情報を集めること」
それだけ言い残し、イヴェラはまた前を向いて歩き出した。
後ろの二人は黙ってついていき、視線だけ交わした。
アイラは口元を少し下げて呟く。
「···ちょっと聞いただけなのに、なんでこんな殺気立つの···」
ライネルは黙ったまま前を見た。
その目もいつの間にか、少し硬くなっていた。
◇
少し時間が流れた。
三人は無言で森道を進んでいた。
さっきまで軽く流れていた空気が、いつの間にか変わっている。
最初は気のせいだと思った。
だがある地点から、その“静けさ”ははっきりしすぎていた。
「···静かだね」
アイラが先に口を開いた。
声も自然と低くなる。
「うん」
ライネルは短く答え、周囲を見回した。
葉の先、影、空の隙間――細部を慎重に撫でるように追う。
「鳥の声もしない」
アイラは耳を澄ませるように立ち止まった。
「さっきまでは虫の音もしてたのに··· 今は、ほんとに静か」
イヴェラは止まりこそしなかったが、歩幅をほんのわずかに落とした。
ライネルは道端の一本の木に視線を留めた。
表面が荒く剥げ、鋭い何かで引っ掻いた痕が残っている。
「これ」
彼が木を指すと、アイラが寄って一緒に見る。
「爪の跡みたい··· 獣?」
彼女が低く呟いた。
草むらには小さな足跡が点々と残り、
その中のひとつは――小さすぎて、軽すぎて、人間のものには見えなかった。
しかも地面には、灰色の小さな羽根が一枚落ちている。
「変だね?」
ライネルはそれを黙って見つめてから、静かに言った。
「痕が··· ぐちゃぐちゃだ。
通り過ぎたっていうより、ここで止まってたみたいだ」
「待ってたってこと?」
アイラはさらに声を落とす。
「断定はできない」
その瞬間、極薄い風がすっと撫でた。
草の葉一枚も揺れないほどの、軽い動き。
イヴェラが静かに手を上げた。
言葉はないが、意図は明確だった。
――警戒。
三人の歩みが同時に遅くなる。
草むらは静まり返り、気配はない。なのに感覚だけが背中を押す。
ここは、ただ静かな森じゃない。
何かが潜んでいる。
◇
道の先に、小さな丘が盛り上がっていた。
その上を、低く暗い塀が――閉ざされた聖域みたいに囲っている。
「多分、あそこ」
アイラが顔を上げ、白っぽい外壁を見た。
風に削られて色褪せた感じ。古い記念碑のようだった。
ラクナ外縁の祠。
地図ではただの中継地として印がついているだけだったが、実物は予想以上に頑丈で――妙に陰気だった。
「なんか、雰囲気おかしくない?」
アイラが小声で呟き、周囲を探る。
「魔力結界だ」
ライネルが塀の向こうの空気を見て言った。
「微弱だけど、見張り用の気配が流れてる」
「わざわざここまで来させた理由、あるってことか」
アイラが眉をひそめた。
祠の入口には、灰色のローブを着た信徒が一人、腕を組んで立っていた。
年はそれほど上には見えないのに、表情は必要以上に硬く、目にも客を迎える気配がない。
彼は三人を上から下まで眺め、顔をしかめた。
「お前らが··· 荷物運びに来たガキどもか?」
口調からして喧嘩腰だった。
敬意も、関心も、好奇心もない。
ただ“見下し”だけが乗っている。
ライネルが一歩前へ出て、丁寧に言った。
「はい。ギルドの依頼を受け――」
「いい、いい」
信徒は手を振って遮り、独り言みたいに呟く。
「まあ、こういうのが来るなら丁度いい。
適当に、気づかないだろうしな」
アイラの眉がぴくりと動いた。
彼女が二歩、前に出ようとした瞬間――
「アイラ」
ライネルが低く呼んだ。短いが、強い。
アイラは唇をきゅっと噛み、下がった。
不満げな目は残しつつ、言葉は飲み込む。
それを見ていたイヴェラが一歩出る。
表情は変えず、声も乾いていた。
「荷はどこ」
その短い一言に信徒は肩をすくめ、背後の鉄の扉をどん、と叩いた。
中で気配がしばらくしてから、重い音とともに扉が半分だけ開いた。
「中だ。気をつけろ」
信徒は振り返りもせずに言う。
「壊したら、お前らの責任だ」
そして目を細め、付け足した。
「注意事項は把握して来たんだろ?
ただの物じゃないってことくらい··· 言わなくても分かるよな」
言葉は尖っていて、どこか警戒が滲んでいた。
不親切というより、わざと線を引いている感じだった。
ライネルは依頼の荷を慎重に鞄へ入れた。
掌より少し大きい、正方形の金属箱。
小さいのに、指先に伝わる重さが不自然なほどずしりとしている。
イヴェラが先に歩き出し、ライネルとアイラも自然に続いた。
森道は相変わらず静かだった。
声ひとつないのに、荷を中心に妙な緊張がまとわりつく。
背中のどこかに視線が貼りついているみたいに。
「中身、何なんだろ···」
アイラは箱を横目で見て、小さく呟く。
「ただの魔法素材って言うのに、外に漏らすなって釘まで刺されてるし」
「開けるな」
イヴェラが短く言った。
「分かってる。開けないよ」
アイラは両手を見せて、ぶつぶつ言う。
「言ってみただけ」
森は、さっきよりもさらに静かだった。
陽は高くなってきたのに、森の中には湿った重さが漂っている。
何かを隠している感じが、消えない。
ライネルは黙って歩きながら、ふと速度を落として周囲を探った。
木陰、草むら。
そこに――“通った跡”がある。
「···止まれ」
低い声。
イヴェラが即座に足を止め、アイラも体を固くした。
ライネルは地面を見つめた。
乱れた落ち葉。
その下に、かすかに刻まれた小さな足跡。
獣でも、人でもない。
「この跡··· ついさっきだ」
その言葉に、アイラが息を飲む。
「まさか··· 魔物?」
ライネルの視線が、森の影の奥へ向いた。
何も見えない。だが――
そこが、動いた。




