第61話 苦くない甘いコーヒーを見つけた
目を覚めると、外から聞こえる鳩の鳴き声が響いていくのがわかった。ぼんやりとしていると、台所から良い香りが漂ってくる。いつも嗅いでいるものとは違う気がした。
アメリカから帰ってきて、1週間は経っていた。何の代り映えのない日常が戻っている。変わったことと言えば、朝に飲むコーヒー豆の種類だ。今朝起きた時の香りは昨日とは違う。ネクタイを整えながら、台所に立つ夏楓の横に立った。キャビネットに入れていたお気に入りのマグカップをとる。
「おはよう」
「うん、おはよう。空翔、ブラック飲んでみない?」
「え? 新しく買ったやつ?」
「そう、アメリカに行ったときに現地の人におすすめなコーヒー豆を勧められたのよ。エルサルバドルコーヒーってさ、甘いんだって」
「え、そうなの? 苦くないんだ?」
「そう。苦味が必要な人は深煎りにしないといけないくらい甘いみたいのよ。飲んでみて」
「ちょっと待って」
空翔は夏楓のすすめられたコーヒーを飲む決意をしながらも台所の引き出しからあるものを出した。
「ん?」
「甘いかどうかわからないから、念のためチョコレート用意しておくわ」
「苦味対策ってことかな。まぁ、いいけど。どうぞ」
唾を飲み込みながら、そっと息をふきかけて冷ました。気合いを入れてコーヒーを飲んでみる。想像以上にいつも飲むコーヒーより甘かった。
「これなら、ブラックでもいけるかもしれないな」
「でしょう? ……よかった。ポーチドエッグのトーストセットも作っておいたからぜひ一緒にどうぞ」
まるでお客さんに出すように夏楓は食卓に出来立ての朝食を並べた。もちろん、向かい側に自分の分も置く。
「あ、ありがとう」
「向かい側に私の顔は見たくないかもしれないけどね。普段、一緒に朝ごはん食べないもんね」
「……まぁ、そうだったな」
空翔は、マグカップを食卓に置いて、席に着く。頬を少し赤くする。せわしなく、過ごす朝の時間が今日はゆっくり取れてほっとする。通常より早く目が覚めたことも運が良かった。
「「あのさ」」
ご飯を食べながら、2人同時に声をかける。
「夏楓からいいよ」
「ごめんね、先に言うんだけどさ。私、来月、この部屋から出ようと思うんだ。いつまでも空翔に迷惑かけるわけにもいかないし、いつか空翔に彼女が出来たらとか奥さんができたらと考えると申し訳なくて……孝俊がいた時は3人だったから平気かなと思ったけど、今は2人きりだし」
空翔は思ってもみないことを言われて、ショックを覚えた。
「……そっか。俺は、全然迷惑だなんて思ったことはないけどな」
「そう? でも、今後のこと考えるとさ。2人でルームシェアは気まずいかなと思って……」
「あ、ああ。夏楓、例の同僚の……あれ、橋浦くんだっけ。部屋に入れたいとかあるの?」
空翔はそうであってほしくないと思いながら、恐る恐る聞く。
「え? 橋浦くん?! ……そ、そんなんじゃないよ。ただの同僚だから」
顔を真っ赤にさせて、否定する。2人でいたところを見られたことを思い出す。恥ずかしい記憶を消し去りたかった。その様子に空翔は勘違いする。
「顔真っ赤にさせるってことはそうなんだろ? 俺はいいよ。別に。むしろ、俺がこの家出るから。気にしないで連れ込めばいいさ」
突然、不機嫌な態度になる空翔に夏楓は焦った。立ち上がって、腕時計を装着する行動を見て、もう行くんだと察した。
「え、待って。何か勘違いしてる? 私、橋浦くんのこと何とも思ってないから」
「そんな、焦って言い訳しなくてもいいよ。俺もただの同居人だから」
心にもないこと言ってしまう空翔は、目を伏せる。本当はそんなこと言うつもりじゃない。素直に言えなかった自分が腹立たしい。
「ただのって……確かに同居人だけど!! こんなに長く一緒に住めるって思ってなかったし。同棲してた頃と比べて、恋人な関係じゃないし、干渉し合ってなかったけど、空翔は私のためにアメリカまで来てくれたんだよね。それはただの同居人でできることは無いと思うけど……ものすごく嬉しかったよ」
目をうるうるとさせて訴える。
「あ、あれは……孝俊が」
ぼそぼそと話す空翔に深くお辞儀をして夏楓は謝った。
「ごめんなさい。仕事で忙しかったのに来てくれてありがとう。もし、もしね。空翔が迷惑じゃなかったら、このままここに住み続けたいんだけど、だめかなぁ」
「……さっきから言ってるけど、迷惑じゃないって」
「本当? ありがとう。これからもよろしくお願いします」
また深くお辞儀する。空翔は頬を赤くして、横を向く。
「んで? 俺の話は?」
「え?」
「さっき、声重なっただろ」
「あ、うん。どうぞ」
にこにこしながら、夏楓はじっと空翔を見る。一緒に住んでもいいと許可をもらえて素直に嬉しかった。家賃と光熱費が半分で広い部屋に住めるのは抜け出すにはちょっと勇気が必要だった。それだけでも安堵だった。顔が緩んでいるところに、空翔はじっと夏楓に顔を近づけた。夏楓は思いがけず、目をつぶる。ふと、唇に温かいものが触れた。
「行ってきます」
空翔は何事もなかったようにバックを持ち、玄関のドアを開けて、出て行った。
夏楓は、しばらく恋愛事をしてなかったため、忘れていた感覚が戻って来た。顔を耳まで真っ赤にさせて、ぺたんと床に座った。
「ちょ、ちょっと……どういうことよ」
床に落ちたスマホが何度もコールしていることに気づかないまま、下唇を指でつかんでしばらくぼんやりと玄関を見つめ続けた。




