第40話 発熱とコーヒーと仕事
コーヒーメーカーの出来上がる音がリビングに響いた。
「おはよう」
ソファでもぞもぞと動く空翔に声をかけた。 ここは夏楓のアパートの部屋だ。豆からひいてコーヒーを淹れていた。今日の種類はエチオピアを選んでみた。コク深くフルーティな酸味のものだ。良い香りが漂う。今日のコーヒーの味は苦くない。日によって、苦味を強く感じるときもある。
「あ、うん。おはよう」
頭をぼりぼりをかいて、夏楓がかけたタオルケットをよけた。
「ごめんね。昨日から高熱出しちゃったみたいで……」
「今は?」
「うーんと、さっき計ったら、38.0だったかな。割と動ける方」
「いやいや、高熱だろ」
「……でも、仕事休めない。今日も行かないと責任あるし」
「それは休むべきだろ」
「空翔には関係ない! 私の会社はつぶしたくない。アメリカの店舗も日本の店舗も成功させたいの」
クローゼットに向かって、パジャマからスーツに着替え始めた。少しフラフラする体を気にしないよにした。夏楓の行動が身に余るようで、空翔は、夏楓の行動する腕をつかんだ。
「ちょ、ちょっと、やめてよ」
「……ただおさえただけで、動けないだろ」
「きつくつかむからでしょう!」
「休むのも仕事のうちだ。なおさら、感染症だったら顧客に迷惑かかるだろ」
パッと腕を外したあと、リビングに移動しながら後ろ向きで言った。
「そ、それはそうかもしれないけど!!」
「俺は帰る……」
夏楓の声をさえぎって、空翔は ソファに置いていた荷物を抱えて、玄関の方に移動する。夏楓は拍子抜けする。
「え、何、急に?」
「急じゃないだろう。俺には帰る家があるし、食材が待ってるから」
「コーヒー飲んで行けば……ラテアートとか」
「いらない」
空翔の口調が冷たかった。なんとも思ってないはずなのに、寂しかった。
「そっか。ごめんね、ありがとう」
夏楓はパジャマ姿のまま、玄関先で空翔を見送った。もう交際相手じゃない。それはわかっていた。もちろん、元さやに戻る予定もないが、夏楓にとってはどこかぽっかりと穴が開いた気分だ。誰でもいい。人恋しい気持ちになっているのかもしれない。そんな人なんていない。今は、仕事が恋人だ。ため息をついて、ベッドにくたんと横になる。スマホ画面を開いて、水川に高熱があることを連絡する。仕事に行くのをあきらめた。誰かの言葉を思い出した。
『休むのも仕事のうち』
階段を颯爽とおりた空翔は足をとめて、後ろを振り返った。本当は、夏楓のことが心配だった。無理をするところは昔から変わりない。仕事や大学の勉強に対する思いと全く同じだった。熱が出ても気にせず、通学していて喧嘩した時もあった。自分自身を大事にできない。優しくできない。そんな夏楓を3年間サポートしていたつもりだった。性格の不一致の部分もあったが、欠点だと思うところが惹かれる部分でもある。
今は、まだ孝俊と婚姻状態だと思い込んでいる空翔はこれ以上踏み込むことはしなかった。法に背く行為はしたくない。真面目な考えになっていた。頬をバンバンたたいて、気持ちを切り替えた。
朝ごはんの牛丼を駅前の牛丼屋で食べて、出勤した。昨日と同じワイシャツで昨日と同じ下着だということは考えないようにした。デオドラントスプレーで匂いをごまかす。
コホンと咳払いをして、はっとするが、昨夜の出来事を忘れたことにした。
タイムカードを切ってデスクに座る。オフィスフロアでは電話が鳴り響いていた。




