第33話 夏楓の心の葛藤
閉店後の『プードル』で夏楓は会計の締め方を行っていた。帳簿に今日の売り上げの計算の記入をまとめている。キッチンやホールの掃除は他のスタッフにお願いしていた。ほうきを持ちながら、夏楓に近づくのはのパート勤務の有希菜だった。
「社長。今日は大変でしたね。橋浦さんの代わりに穴埋めしたんですよね」
「仕方ないよ。発熱したら、どうしても出勤できないし、そういう時代っていうかね。経営者としても無理に出勤してなんて言えないもの。それより有希菜さんもパートなんだから切り上げていいんだよ。定時で上がっていいからね」
レジスターの蓋をガタンと閉めて帳簿をパタンと閉じて筆箱のファスナーを締めた。
「はーい」
有希菜は、ほうきを片づけてスタッフルームの方へ移動する。木下美佳は着替えを終えるとそそくさと帰っていく。
「お先に失礼します」
「はーい、お疲れ様」
夏楓はお辞儀をして挨拶する。出入り口の鐘の音が響く。
「これでよし。会計もあってたし、両替の準備もいいね。明日銀行行かないといけないなぁ……」
そこへ私服の着替えを終えた有希菜が夏楓の横に移動した。
「社長、聞いていいですか?」
「え、どうかした?」
「お店に来ていたお客さんって元カレだったんですか?」
「え?」
「今日、聞いちゃったんです。話してるのを」
「あー、そうだったんだ。うん、まぁ、そんなとこ。でもまぁ、結婚する前の話だし。今は離婚して私はフリーだけどさ。あっちはあっちの家庭があるだろうからあまり関わらないようにしようかなって思ってたところ」
「えー、元カレさんの方は結婚指輪してませんでしたけど……」
有希菜は口もとに手をあてて話す。その話を聞いた夏楓は冷や汗をかく。
「もう有希菜さん見すぎてだから。あっちが独身でもよりを戻すってことは絶対無いから安心して。私は仕事人間として生きるのよ。社長の務めを果たさないといけないの」
「……社長? 思ってることと違うこと言ってますよね?」
「な、なんで、そうなるの?」
「社長の眉がくいってゆがむの癖あるじゃないですか。私そういうの敏感にわかっちゃうんですよねぇ」
有希菜は、洞察力に優れていた。夏楓の微かな違いを見分けられる。本音が透けて見えるようだ。
「あー……有希菜さんには嘘つけないみたいね」
「その通り。今度、お茶しに行きましょう。話聞きますから。私息子が小学生になったので、少し時間に余裕出たんですよ。都合つけて計画しましょうね。それじゃぁ、お先に失礼します」
「あ、はい。うん。お疲れ様」
夏楓は複雑な表情を浮かべて、有希菜を手を振って見送った。後ろからぬっと背後霊のように現れたのは大学生の岩崎潤だった。
「うわぁ! びっくりした。潤くんか。誰かと思ったよ」
「僕は背後霊に見えたんですか。何か隙があるなぁって思ったんですよ。社長ってしっかりしてるようで時々ぼんやりしてるから。若い子に負けますよ?」
「ハハハ……君には私はそう見えているのね。まぁ、話しやすい職場を目指してるからさ。良いのよ。なんでも話してもらって。友達みたいに……」
にへらにへらと笑いながら、対応してると、潤は急に真剣な顔をしてじりじりと近寄って来る。何をする気なのかと後退する夏楓の顔を横に壁ドンをした。じっと顔を見合わせる。何をされるのかとドキドキする夏楓は、ごくりとつばを飲んだ。突然、潤はパッと表情が柔らかくなった。
「こういうのやってみたかったんです。驚かしてごめんなさい。あれ? 社長?」
四つん這いになって、息を整える夏楓がいた。潤はけろっとしていた。
「ちょ……私には心臓に悪い。それ。冗談きついよ」
呼吸が荒くなっている。このドキドキは何か。好きなわけじゃないはずだ。年下のイケメンな男子にときめいてる場合か。職場恋愛はご法度だと言い聞かせる。
「え、うそ。こういうの初めてでした? もう、本気にしないでくださいよ。社長。んじゃ、お先に失礼します」
「え、あ、うん。……冷静に話せないけど、また明日もよろしくね」
潤は投げキッスをして、外に出て行った。夏楓はまだ呼吸と心臓が落ち着かなかった。社長としてあるまじき行為に頬をバシンとたたく。
(だめだ、だめだ。あの子はバイトよ。夏楓しっかりして!)
そう言い聞かせて、身の回りの後片付けを続けた。
夜の8時に街路樹のベンチからお店の中をのぞく1人の男性に気づくまでには時間がかかった。




