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マザー・ライト  作者: 九条シオ
9/15

第九話

 祖父の家には黄色のビニールテープが何重にも巻き付けられており、入口前に関係者以外立ち入り禁止の文字が書かれていた。

「ここ? おじいちゃんの家。」

 紗季がそう聞いてきた。不思議。といった感じだ。

「そうだよ。」

 紗季が不思議がるのも無理はない。想像していた家とは違うからだろう。

 祖父の家は築二十年。新しいかといえばそうではないのだが、普通の老人の家と比べると新しい。オール電化だし、畳の部屋もない。

 紗季の祖父母の家は一階建ての平屋で縁側があったり、部屋が全部畳だったするそうだ。そっちのほうが一般的だろう。

 祖父の家は私が生まれると分かってから建てたものなのだ。それまで実家の秋田で生活をしていた祖父母は二十年前に仙台に引っ越しをした。

 きっと、私と母が一緒に暮らせなかったからだと思う。母は仙台で私を産み、姿を消した。だから私の面倒を見るために祖父母は地元を離れたのだと予想していた。

「よし! じゃあ潜入しますか。」

 紗季は両手を握り締め、自分を鼓舞するように気合を入れている。

 ビニールテープを潜り抜け、玄関の前に立つ。去年までずっと住んでいた場所なのに、この家にはもう祖父も祖母もいないと思うとそれだけで全く別の家のように思えた。

 元自分の家。とはいっても今は違う。家の中に入っていることがばれたら下手をすると不法侵入で訴えられるかもしれないと思うと体に緊張が走った。

 生唾をゴクリと飲み込み、持ってきた合鍵で家を開ける。紗季も緊張しているのか隣にいるのに物音一つ立てない。

 鍵が開いた、ガチャ。という音とドアを開くときの、ギイイイイ。という音が響く。心霊スポットに入るかのような不気味な感覚がしていた。

 ゆっくりとドアを開け、ゆっくりと中に足を踏み込む。まるで空き巣のようだ。

 二人とも中に入り、ドアを閉めるとようやくほっと一息つくことができた。

「おじいちゃんの部屋は?」

「二階の奥。」

 腋から出る汗が気持ち悪い。

 それでもリラックスしている時間はないため、階段を上り祖父の部屋に向かう。

 実をいうと、私は祖父の部屋にだけは入ったことがない。ここには入っちゃだめよ。と祖母に口酸っぱく言われていたからだ。その言いつけを破ることはなく二十年の間、守り続けた。

 そのことについて深く考えることはしなかったのだが、やはり母に関する情報があったのかもしれない。だから私に知られないように部屋に入ることを禁じたのかもしれないのだ。

「あれ? 開かないよ。」

 先にドアノブに手を伸ばしていた紗季がそう言った。

「えっ。」

 紗季を押しのけるようにドアの前からどかす。

「なんで。」

 何度ドアノブを回しても開かない。よく見るとドアノブの下に鍵穴が付いていた。

 どうやらここにも鍵をつけていたようだ。

 知らなかった。なんて用心深い祖父なのだろうか。しかし、これで確信することができた。この部屋にはなにかある。

 そう思うと体に活力が湧いてくる。目に力を入れ、自分に気合いを入れ直したあと、ドアに背を向け走り出す。

「真子!? どこ行くの!」

「鍵!」

 それだけ言うと一気に階段を駆け下り玄関まで走った。

 靴箱を開け、祖父の靴を出す。それも普段は履かない革靴を。

 ――いいか、真子。絶対に人に見られたくないものはこうやって靴の中敷きの下に隠しておくんじゃ。

 そう言った祖父は意地悪そうな顔でにやりと笑うと靴底に一万円札を隠していた。ばあさんに見つかったら取られるからな。と付け加えて。

 もし、鍵が祖父にとって絶対に人に見られなくないものならば、きっとここにあるはずだ。

 靴を手に取り、中敷きをゆっくりと取り出す。靴底には一万円札が入っていた。これではない。一万円札も取り出す。

 靴の中を覗き込むように顔に近づける。するとつま先部分に光る物があることに気が付いた。

 興奮した私はすぐに靴の中に手を突っ込み、それを取り出す。鍵だ! やはり祖父の隠し場所は変わっていなかった。

 鍵を握り締め、二階に向かって走る。

「鍵、あったよ!」

 部屋の前で座りながら、スマートフォンをいじっていた紗季に声をかける。

「ほんと!? やったじゃん。」

 深呼吸をして気持ちを落ち着かせた後、鍵穴に鍵を差し、回す。

「やたっ」

 紗季が嬉しそうに声を出した。開いたのだ。

 ドアを開ける。

 果たして、このドアの向こうには何があるのか。私はようやく真実を知ることが出来るのだろうか。

 ゲームの主人公が冒険に出る時ってこんな感情なのかもしれない。そんなことを思いながら、希望と不安を抱き、祖父の部屋に足を踏みいれた。

「へぇ。なんか書斎って感じだね。」

 紗季は部屋の中をきょろきょろしながらそういう。

 初めて入る祖父の部屋。ドアを開けて正面には机と社長が座ってそうなくるくる回る黒い椅子が置いてある。

 右側には本棚。書物や文庫の他に野草や動物の図鑑が何冊か置いてある。祖父は自然が好きだったのだろうか。思い返しても祖父が野草や自然についての知識を披露しているところは思い出せない。

 左側には、長テーブルが置いてある。その上に昔流行っていたらしい巨大なCDのような物が何枚かある。テーブルの脇には観葉植物が飾ってあった。

 渋い大人の部屋だな。というのが真っ先に浮かんだ感想。もっと秘密基地のような神秘さがあるのかと思っていたから少しがっかり。

「おじいちゃんって真面目な人だったの?」

 紗季が本棚に置いてある本を手に取りながらそう言った。

「いや、どっちかっていうと気さくなおじいちゃんだったよ。」

 生前の祖父は読書好きではあったが、真面目。という印象は微塵もない。お笑いのテレビ番組を見ながら笑っては、芸人の下手なものまねを見せてくるような人だったのだ。

 さて、肝心の母の手掛かりはあるのだろうか。はじめに、机に取り付けられている引き出しの中を探してみることにした。

 中にはペンや万年筆、定規といった文房具が綺麗に並べられてあった。毎年、手書きで書いていた年賀状や手紙はここで作っていたのだろう。机の上にはうっすらと黒い鉛筆の跡が残っている。

 文房具が並べられている隣には写真が数枚、無作為に重ねられていた。

 一番上にあったものを手に取る。

 懐かしい、見覚えのある写真。

 私の入学式に祖父母と三人で撮ったものだ。他の写真も見てみると、そのほとんどが私と祖父母の三人で撮った写真だった。

 小さい頃、公園にピクニックをしに行ったときの写真。私たち、家族の写真が時系列のように年代順に重ねてあった。

 懐かしいな。祖父母は私が寂しい思いをしないように、休日になると頻繫にどこかへ連れて行ってくれていた。

 きっと、父母がいない分、その寂しさを紛らわせるように。

「お母さんの情報なんかあった?」

 紗季の声で現実に引き戻される。

「いや、なにも。」

 良き思い出の数々は見つかったものの、母に関するものは一つもなかった。

「ねぇ。これ。」

 そう言った紗季は本棚の一番上の段にある古びた本を、背伸びをしながら手に取った。

 その本は濃い茶色の分厚いカバーで作られており、魔法の本のような雰囲気が出ている。

「これアルバムじゃない?」

 紗季が本を開きながら言う。やっぱり。と口に出したので私もその本を除き込むように紗季に近づいた。

 アルバムだった。それも私が写っていない、見覚えのないアルバム。

 写真は色付きではあったが、かなり画質が酷く隅が黄ばんでいる。スマートフォンの方が綺麗な写真を撮ることが出来る。

「この家族は?」

 紗季が指を指した写真は一階建ての平屋を背に映る若い男女。夫婦なのだろう。母親の手には我が子が抱きしめられていた。

 見たことのない人たちだった。アルバムからその写真を取り出して裏返す。裏側にはそれぞれの立ち位置に合うように名前が書かれている。

「トキ……。」

 そこには祖母の名前が書かれていた。

「この人、おばあちゃんだ。」

 写真に目を落としたまま呟く。

「え? じゃあ、この抱きかかえられているのがお母さん?」

 紗季は私が手に持っている写真に映っている、赤子を指さしてそう言った。

「あかり……。」

 祖母の名前の隣に書いてある名前。

 ――あかり? あかりでねぇか。

 施設での祖母の言葉を思い出す。母の名は「あかり」。その写真に映る赤子は紛れもなく母だった。

「他にもいっぱい写真あるよ。」

 紗季がアルバムを捲りながら言う。

 赤子だった母はアルバムを捲るごとに年を重ねていた。小学校の入学式の写真。母は可愛らしい帽子を被ってピースをしている。

 これは旅行に行ったときの写真だろうか。フェリーの上にいる祖父母と母。母はカモメに餌をあげながらニッコリと笑っている。

 アルバムの中にはどこにでもいる普通の幸せそうな家族が映し出されていた。

 ページを捲る。母と祖父母が親戚と思われる人たちと大勢で撮った写真があった。

 宴会場で楽しそうに酒を酌み交わす大人たち。脇には、母も含め同年代の子供達がトランプを広げて遊んでいた。

 それを見た時、胸に鈍痛が響いた。私は母と祖父母以外の血縁者を知らない。

 親戚の集まりなんて行ったこともない。

 こんな風に子供たちと戯れている母が羨ましかった。それと同時に若干の憎しみともとれる感情が湧き上がってきた。私のこの不幸がすべて母が招いたことであるだろうに……

 当の母が親戚に囲まれて嬉しそうな顔で笑っている姿が気に入らなかったのだ。

 首を左右に大きく振る。この醜い感情を振り払おうとした。母だって好きで逮捕されたわけではないはずなのだから。

「最後のページだ。」

 紗季が寂し気に言った。私はほっとしている。こんな環境で育ってきたものだから円満な家族を見るのは昔から不快だったのだ。

 変な劣等感や嫉妬が体を渦巻き始めるのだ。そんな気持ちになる自分も嫌でいつも苦悩していた。

 最後の写真はおそらく、母が秋田から仙台に旅立つときの写真。

 駅を背に三人で写っているものだった。きっと母が二十歳くらいのときなのだろう。祖父母の顔も私が見慣れた皺だらけになっていたし、母の顔も記憶にあるものと多少は一致していた。

 18回しか会ったことのない母の顔を思い浮かべる。

 アルバムの写真に映っているのは、将来を夢見て目を輝かせている母。しかし私が見てきた母の特徴は、痩せこけた頬。目の下のくま。どこか幸薄そうな顔だった。

 一体、母の身に何があったか。何をして逮捕されてしまったのだろうか。

 アルバムの中にそれを探る手掛かりはなかった。最後のページまで見終えた私たちは、再び母に関する情報を集めるべく、祖父の部屋を歩き回った。

 しかし、机の中にも、長テーブルの上にもそれらしき情報が乗っている物は一つもなかった。

 深くため息をつき足元に視線を落とす。見つからなくて当然かもしれない。だって十八年間の間、私は母について知ることが出来ていないのだ。

 祖父母が知られない様にしていたに違いない。

「ないね。」

 紗季はそう言うと、探すの諦めたのかまた本棚に向かった。適当に手に取ってはパラパラ捲り、本棚に戻す。その行為を何度も繰り返し行っている。

 このまま母に会うことも、母の事を知ることも出来ないまま私は一生を終えてしまうのだろうか。

 せめて一目会うだけでも、何なら母の事を知るだけでも良かったのに、他の人たちが当たり前の様に知り得ることが自分には何一つ出来ない。

 ただただ、虚しくなった。

「ねぇ! これ。」

 紗季が発した声が急に耳に響いてきた。首を上げ、紗季の方を見る。

「どうしたの?」

 紗季が、手に持っている本を開いて私に見せる。

「これ、おじいちゃんの日記じゃない!」

 口角を上げ、ドヤ顔で私を見るその瞳は輝いていた。してやったり。という感情がひしひしと伝わってくる。

 駆け足で私の元にその本を持ってくる。

 それを受け取り、椅子に腰を掛け、テーブルに本を広げる。

 日記と思われるそれには、まるで教科書の様に整った活字が連ねられていた。これは若い頃、習字を習っていた祖父の字だった。

 本を捲る。ページの最初の方に日付、その後にその日の祖父の想いが書かれていた。

 ――2016年 ○月○日 今日の朝食は、白米、なすの味噌汁、だし巻き卵、納豆だった。ばあさんの作るだし巻き卵はふわふわしていてとても美味しい。

 ――2014年 ○月○日 今朝は朝市で新鮮な鰹を買った。刺身にして食べる。生臭さは一切なく、新鮮さを感じさせた。見事な逸品だ。

 ――2013年 ○月○日 山菜を取りにいった。蕨とフキノトウが取れた。家に帰り、蕨は醤油でフキノトウはばあさんに筑前煮にしてもらった。美味。

「ねぇ。これって献立表なの?」

 紗季ががっかりした表情でそう尋ねる。何回か適当にページを捲ったが、そのほとんどに書かれていたのは食事について。

「なんかそうっぽいね。」

 拍子抜けだ。祖父がそこまで食について関心があるとは知らなかったが日記に書くほどのことではないだろうに……

 ため息をつきながらパラパラと日記(献立表?)を捲る。その手つきに力は籠ってない。頬杖をつき、適当に捲っていたのだ。

 最後から読み進めていたページを一番最初に戻す。やはり、食べ物に関することしか書いていない。

 それでも何回かページを捲る。

 ――2020年 ○月○日 まさか……あかりが……突然の警察からの連絡に私もばあさんも気が動転している。しばらくあかりから連絡が来なかったのは、思い詰めていたからなのか……父として、娘の気持ちに気が付いてやれなかったこと、情けない。

 このページが目に留まったのは、祖父の字が震えていたからだ。辛い感情がペンに伝わっている様にここだけ明らかに違っていた。太く、濃く書かれているのは震える手を抑え込むように力を入れて書いたからだろう。

 改めて日記を速読するように捲ると、濃く、震えた字で書かれたページが何か所かあった。

 この字で書かれているところが母に関することなのだ。

 もう一度、先程のページに戻る。母について警察から連絡が来たらしい。きっとこれが母がなんらかの事件を起こした日に違いない。私が生まれた年だ。

 次の日の日記にはこう書かれていた。

 ――あかりが、お腹の中に子を身籠っているという連絡を受けた。しかし、刑務所では子育ては出来ないという。そのため、私たちに子を育てて欲しいと……。

 それから何日かは母と、これから生まれてくる子供、つまり私だ。そのことで日記は埋め尽くされていた。

 ――正直、育てる自信がない。娘の悩みにも気づいてやれなかった私たちがこれから生まれてくる孫をちゃんと育ててあげられるのだろうか……ばあさんも一日中頭を抱えているようだ。

 ――どうしてこんなことに……あかりが犯した罪。それについての動機や背景を警察に教えられた。なんて可哀そうに……加害者の親族である私がこんなことを言うのは世間様、被害者様に失礼だろう。しかし、娘の不幸が不憫でならない……。

 言葉だけなのに、祖父の辛さが胸の中に流れこんできた。

 ――暴行罪……懲役二年の判決。娘にはしっかりと罪を償って出てきて欲しい。そうして今度は幸せになって欲しい。親として、そう思うばかりである。

 懲役二年? 二年だけだったら私が三歳の時にはもう刑期を終えているはずではないのか? ではなぜ、その後も会えなかったのか。いや、そもそも逮捕されていたのなら、一年に一回だって会うことは出来ないはずなのだ。

 ――ばあさんと一緒に仙台に引っ越しをしよう。あかりの事件がニュースで報道されてから、近所からはひどい扱いを受けている。犯罪者の親として……これから生まれてくる孫のためにも地元を離れた方がいい。田舎だとすぐに噂が広まってしまう。

 日が経つごとに次々に露わになっていく母の過去。私はじっと日記を見つめ、真実を知ろうとしていた。

 ――仙台に引っ越しをした。まさかこの年で新しく家を買うことになるとは……ここからもう一度、やり直そう。あかりが無事に戻ってくるまで。

 ――あかりが子を出産したとの連絡が入った。ばあさんと一緒に病院へ行く。

 私が生まれてから、ずっと笑顔で暮らしていた祖父母がこんなにも辛い日々を過ごしてきたことは知らなかった。

 ――あかりがこの子の名前は真子にして。と言っていたと看護師さんから話を聞いた。病院に着いた時、あかりの姿はもうなく、刑務所で体を休めていると話された。真子は泣いていた。母がいなくなったことを本能で理解しているのだろうか。この子に物心がついた時、母親の事をどう説明したらいいのだろう。私には分からない。あかりよ、早く戻ってきておくれ。

 祖父の日記は母が捕まった日からは、食に触れることもなく辛い日々のみが記されていた。しかし、このページを境に徐々に字から震えが消え活気が戻ってきたように思えた。

 ――ついに真子が退院し、家にやってきた。娘のこともあり、手放しに喜ぶことは出来ない。しかし、やはり愛おしい。自分に孫が出来たことが純粋に嬉しい。大切な孫を、大事に大事に育てていきたいと思う。

 ――真子がハイハイをするようになった。この純粋無垢な笑顔には人を元気にする力がある。

 ――真子が歩いた。それを見てばあさんと四十年ぶりに抱き合った。孫の成長はなによりも嬉しい。すくすくと元気に育っておくれ。

 娘が捕まり、地元では色眼鏡で見られていた祖父母。人生のどん底だっただろう。

 それでも私のためにまた頑張ろうと決意してくれた祖父母は心から優しい人たちだったのだ。

 日記には私の成長を描かれており、見ていて嬉しかった。

 ――娘が逮捕されて一年。ようやく一年経ったと思ったある日。あかりが突然、家に帰ってきた。

 再び、震えだす字。その内容は母の帰宅を示すものだった。一年ぶりの母の帰宅なのに、どうして祖父の字は震えているのだろう? 喜ばしいことではないのだろうか。

 その答えは次の一文に隠されていた。

 ――あかりは、脱獄したらしい。

 震えながら書いていた字がさらにその震えを増している。もうこれは悲鳴だ。

 祖父の字から悲鳴が聞こえる。悲痛の声、驚嘆の叫び。

 ありとあらゆる負の感情がこの一文の中に込められているような気がした。

 脱獄なんてしたらさらに刑期は伸びるだろう。

 なぜ母はそんな愚かな選択をしたのか。

 ――なぜ、脱獄なんて馬鹿な真似をしたのか。問い詰めた私にあかりは言った。娘に会いたかったと。生まれて一年の我が子を放っておけるわけがないだろうと。私の前で涙を流した。

 私のためだったのか。

 生まれたばかりの我が子に会うために母は脱獄をした。

 いくら私のためにした行為だと言われても、ちっとも嬉しくなんてない。寧ろ、母はいかれている。そう思った。

 二年の刑期を真っ当すれば良かっただけのではないのか。それさえ乗り越えれば、その後はずっと一緒にいられたはずなのに。

 手のひらをぐっと握りしめる。

 そうだったのか……一年に一回会えていたあの日は、母が脱獄をした日だったのか。

 少しずつ、不可解だった母の行動が明らかになっていく。

 けれどまだ、払拭しきれない謎は多い。

 十八回の脱獄なんてほんとに行えるのか? 日本の刑務所はそんなにずさんな作りをしているのだろうか。

 一つ疑問が解決すると、別の疑問が増える。永遠に終わりを告げることのない迷路にでも入っているような気がする。

 祖父の日記はそこで終わりを迎えていた。書く気が失せてしまったのか、書く気力がなくなってしまったのか。

 結局、母について分かったことは、暴行罪で二年の判決を受けたこと。しかし、一年余りで脱獄してきたこと。それだけだった。

 誰に、なんの動機で暴行してしまったのか。

 脱獄した後どうなったのか。

 今はどこにいるのか。

 知りたいことは、まだ山ほどあるのに日記にはこれ以上の情報はもうない。

「真子のお母さん……今、どこにいるんだろうね。」

 祖父の部屋に流れるこの不穏な空気を少しでも消そうとしてくれているのか、紗季は黙り込む私に尋ねてきた。

「分からない。」

 閉じた日記を見つめながら、そう答える。会話は終わる。また、無言の空間が流れ出してきた。

 目の前にある日記を持ち上げる。ふと祖父の顔がよぎった。祖父はどんな思いでこの日記を書いていたのだろう。

 どんな思いで私を育ててくれていたのだろう。一緒に暮らしてしたのに私は微塵も祖父母の苦悩に気が付くことが出来なかった。

 もっと母について調べておけば良かった。例え教えてくれなかったとしても、しつこく聞けば良かった。

 そうしたならば、祖父母の心の負担を少しでも解消してあげることが出来たかもしれないのに。

「真子? 大丈夫?」

 紗季に肩を掴まれてハッとした。死んだ魚の目をしていたよ。と心配そうに私を見ている。大丈夫だよ。と答えて本棚へ向かう。用済みとなった日記を棚にしまうためだ。

 日記を取り出したせいで隣にあった本が斜めに倒れていた。それを直し、元の位置に日記をしまおうと少し背伸びをする。

 敷き詰められた本たちのせいで真っ暗になっている本棚の奥に、くしゃくしゃに丸まった紙があることに気が付いた。

 なんだろう? 日記の切れ端だろうか。時間が経ち、少し黄ばんできている日記は破れてしまっていてもおかしくない。

 長くない手を精一杯伸ばして紙を取り出してみる。

 その紙切れは、鼻をかみ終わったティッシュペーパーのような形をしている。それを破れないように丁寧に開いた。

「なになに?」

 紗季が紙を覗き込むように近寄ってきた。

「電話番号?」

 私と紗季は同時に頭を傾けた。

 くしゃくしゃの紙には十桁の数字が二つ。数字の横に名前が書いていた。紗季の言った通り、恐らく電話番号だろう。横についてる名前がその人の番号ということだろう。二人とも知らない名前だった。一つ目が男性。二つ目が女性。

 それくらいしか分かることはなかった。

「誰の番号? 知っている人?」

「ううん。どっちも知らない。」

 もしかしたら忘れているだけかもしれない。と何度も考えてみたがやはり知らない人たちだ。祖父母の知り合いのなのかも母に関係する人なのかも分からない。

「電話してみたら?」

「えっ? いきなり?」

 電話が繋がったとしてどうしろというのだろう。知らない人から知らない人へかける電話なんてどうかしていると思う。

「お母さんのこと知ってるかどうかだけでも確かめたらいいじゃん。」

「んー……」

 紗季の意見は間違っていないがなんだか煮え切らない。祖父の部屋にあった紙切れに書いてある番号なのだ。全く無関係の人ではないはずだ。

 かと言って私にそんな度胸はないし怖い人達だったらどうしよう。という気持ちが大きかった。

「もうっ。ここまで来て意気地ないんだから。」

 紗季はそう言って私の手から紙切れを奪い取った。

「ちょ、ちょっと……」

 私のポケットに手を突っ込みスマートフォンを取り出した紗季。

「暗証番号は?」

「え?」

「スマホのロック。」

「0532……だけど……。」 

 紗季は私のスマートフォンのロックを解除すると、紙とスマートフォンを交互に見ては番号を打ち込んでいった。

「ねぇっ。電話する気?」

 紗季は答えず、スマートフォンを耳に押し当てた。

「あっ。もしもし。突然の電話大変申し訳ございません。安西あかりさんってご存じですか? 連絡待ってまーす。」

 呑気な声でそういうと画面を耳から離し、私のポケットに返した。

「留守電。」

 ため込んだ緊張を一気に吐き出す。

「なんで勝手なことすんのよ!」

「うじうじ悩んでるからでしょ。」

 紗季は、呆れた。といったように両手を肩くらいまで上げ、掌を上に向けて首を左右に振った。

「だからって……」

「お母さんの事、知りたくないの?」

「そうゆうわけじゃないけど……」

 真剣な眼差しを向ける紗季を直視することが出来ずついつい下を向いてしまった。それでもまだ紗季の視線を感じる。きっと私に決定権を委ねているのだ。

 いくら紗季が気の強い人で、私がその逆だとしてもこれは私の問題なのだ。

 自分で決めるしかない。紗季はあくまで手伝ってくれているだけだ。

「うん。やっぱり知りたい。」

 そう言って顔を上げると紗季は少し微笑んでいた。

「そう来なくっちゃ!」

 紗季が私の肩をバシバシと叩く。私はこの決意を忘れないように鞄の中に祖父の日記をしまい込んだ。

 祖父の家から出ると空は赤一面の夕方模様を映し出していた。

 仕事終わりのサラリーマンやカラスの鳴き声が、帰る時間を知らせてくれているような気がした。

「誰の番号だったんだろうね?」

 隣を歩いてる紗季が横目で私をちらりと見ながらそう言った。

「んー。全く分かんない名前だったし……あっ。折り返し来たらどうしよう。」

「普通に出たらいいじゃん。おじいちゃんにしろ、お母さんにしろ、真子の家の誰かとは関係ある人なんじゃないの。」

「そうだね。」

 ようやく今日が終わる。

 一日がやたらと長く感じたのは、私の感情を揺さぶる出来事ばかり起こったからだろう。一難去った。といったところだ。

 これから次々に更なる困難がやってくる気はするのだが、とりあえず考えない様にしよう。

 当たって砕けろだ。

 疲れた体に染みわたる夕方の風は妙に心地よい気がした。

 お母さん……会えたらいいな。

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