第八話
浩二との交際が始まってから、もう二年間経過していた。
「いってらっしゃい。」
そう言いながら朝5時に起きて作った弁当を浩二に渡す。
「ありがと。今日は飲み会あるから、帰り遅くなりそう。」
浩二は弁当を受け取り、締めかけのネクタイをいじりながら、ばたばたと靴を履いてそう答える。仕事の時間が迫っているらしい。
「じゃあ、いってきます。」
横目でちらりと私を見た後、浩二は仕事に向かって行った。
交際が一年半を過ぎた辺りから私たちはほぼ同棲をしていた。基本的に私のアパートに浩二が来る。
「やっぱ風呂付きの家はいいね。」
お風呂上り、ビール片手に毎日のようにそう言っている。
浩二の家は六畳間の一部屋。トイレは共同。お風呂はついていない。私の部屋に泊まらない日は、毎日銭湯に通っているという。
「引っ越したらいいじゃない。それとも、大きい部屋借りて一緒に暮らす?」
同棲が続いていた私は、その後を考えていた。
「んー。もう少し、金溜まったらかな。」
浩二にもそのことを話すのだが、毎回、曖昧な返答しかもらえていない。
二年も付き合っているのだから、そろそろ結婚を考えてもいいとは思うのだが……
そんなことを考えている内に時間が経っていく。朝は時間経過が早い。私も仕事にいかなくてはならない時間だ。自分用に用意した弁当を鞄に入れ、家を出る。
駅前にある私の会社には残念な事に駐車場がない。車で行くとしたら、近隣のパーキングを利用しなくてはならない。それを一か月も続けると大きな出費だ。
そのため私は、毎朝地下鉄に揺られながら出勤していた。
朝の地下鉄は学生やサラリーマンでいっぱいだ。イヤホンをつけ、周りとの空間を遮断している人。新聞とにらめっこしている人。知人と会話をしている人。
私はそれを遠目から眺めている。一人一人の習慣を見るのは人間観察のようで意外と面白い。
最寄り駅に下り、改札を出る。今日は日差しが強い。燦々と照り付ける太陽の日差しを遮る様に日陰を歩く。それでも途中、日陰が消えてしまうので、額に日光が当たらないように手で顔を隠しながら歩いた。
ビルが立ち並ぶ駅前。見上げると首を痛めてしまいそうな程大きいビルが何個もある。その中の一際大きいビルの四階が、私のオフィスだ。ビルの中に足を踏み入れると、冷房が効いていた。外の気温とは打って変わりひんやりとしている。肌寒いくらいだ。
エレベーターの前に立ち、矢印が上に向いているボタンを押す。一、二分待つと一階にエレベーターが到着して扉が開く。でかいビルのため、従業員の数も多いのだろう。エレベーター内で同じ会社の人と一緒になることは滅多になかった。
各階で止まっては降りていく人、乗ってくる人がいる。この時間がじれったい。
ようやく、四階に辿り着いた。オフィスに着いた私は、まず初めにブラックコーヒーを飲む。毎日のルーティンだ。これをすることによって仕事の効率が上がるのだ。
コーヒーを飲むために給湯室へ向かった。狭い給湯室の中では新人OL達が恋バナに夢中になっているようだった。きゃぴきゃぴとした高い声が入口の近くまで漏れ出している。しかし、私が中に入ると同時に話し声がピタリと途絶えた。
入社してからもう三年目。新卒だった私は気が付けば後輩を持つようになっていた。
給湯室にいたのは直属の後輩だった。先輩である私が来たため会話を辞め、無言になってしまったのだ。
「おはよう。朝早いね。」
この微妙な空気がいたたまれなくなった私は、珍しく自分から後輩に声をかける。普段はしないことだ。
「お、おはようございます。」
後輩達が声を揃えて言った。私はそんなに怖い先輩なのだろうか? よそよそしい雰囲気が狭い給湯室の全体を埋め尽くすように流れ出る。
気まずい。遠慮せず話を続ければよいのに。
「あ、あの、先輩って彼氏いるんですか?」
後輩の一人が恐る恐る声をかけてきた。もう一人は、辞めなよ。と言いたそうに、発言した後輩の袖を掴んでいる。
「まぁ、いるよ。」
職場にプライベートの情報を流すのは嫌いなのだが、ここでそっけなくしてしまうとさらに怖がられそうだったので答えることにした。
「やっぱり! 先輩美人だし、かっこいいから絶対いると思ってたんですよ!」
後輩は嬉しそうに答えた。これは予想的中の喜び。というよりは、普段口を開かない先輩が質問に答えてくれた喜び。に感じた。
美人でかっこいい。そんな風に後輩から思われていたなんて。正直、悪い気はしない。気を抜くと口角が上がりそうになるのを堪え、あくまでかっこいい先輩を演じてやろうとした。
浩二と出会うまで、一人で飲み屋に行くことが多かった私には仲の良い友人なんてほとんどいなかった。その上、コミュニケーション能力が乏しいから会社でも無口。ただの根暗な人間なのだが、それがかっこいいと思われていたのは嬉しい誤算だった。
「どれくらいお付き合いされているんですか?」
「もうすぐ二年かな。」
後輩達からの印象を崩さないように、出来るだけ笑顔で答える。
もう一人の後輩は、依然と辞めとけオーラを全開に出していたが私がちゃんと答えるものだから、驚いたのか。食い気味に顔を乗り出してきた。
「え! すごい! じゃあそろそろ結婚ですか?」
この子はずかずかと聞いてくるんだな。そう思ったが、基本的に会社では無口な私が、こうして話をする機会はなかなかなく、仕事以外の会話が意外と楽しかった。
ついつい余計なことまで言ってしまう。
「んー。それはまだかな。私はそろそろいいかなって思ってるんだけど……彼がね。」
「そうなんですね……あっ、きっとあれですよ! 先輩があまりにすごいから彼氏さん勇気出ないんですよ!」
後輩は励ますようにそう言った。よくしゃべる人だと思うが、きっと優しいのだろう。しっかりと言葉を選んで発言している気がする。
「そうだといいんだけどね。じゃあ、仕事に行きましょうか。」
「あっはい。」
思いがけず話し込んでしまった。朝礼の時間まで残り10分。そろそろいかなくてはいけない。
たまにこうして、後輩とコミュニケーションを図るのも先輩として大事だと思った。
また話しましょう。と声をかけて自分のデスクへ向かう。
俗に言うOLという仕事をしている私は基本的に朝から夕方までデスクワークに追われている。書類作成やデータ入力、電話対応を任せられているため業務中に周りの社員と会話をする時間はあまりない。
「お先に失礼します。」
午後七時を回った頃、ようやく仕事が終わった。周りを見ると、デスクの上に大量の書類を乗せてパソコンとにらめっこをしている社員がちらほら見える。それでも定時はとっくに過ぎているのだ。別に帰ってもいいだろう。軽い挨拶だけして職場を出た。
外はもうすっかり暗くなっている。帰りは近所のスーパーに寄って、夕飯の買い物をしたかったので少し急ぎ足で帰る。閉店時間は午後八時半、間に合うだろう。
地下鉄から降りるとそのままスーパーに向かう。個人経営のそのスーパーは大手の所より安い。その代わりといったらなんだが閉店が早い。普段はもう少し残業をしているため、このスーパーに来ることはなかなか難しい。そうなるともう面倒くさくなってしまい、コンビニで夕飯を済ませてしまうことが多かった。
それでも最近は、結婚を見据えてなるべく料理をするようにはしているのだ。
時間に余裕がある日はレシピ本をキッチン脇に置いて、それを見ながら料理をしていた。
今日は浩二が飲み会だと言っていたので簡単な物にしよう。
それにしても、どうして浩二は結婚に後ろ向きなのだろうか。今は仕事が一番楽しいんだ。なんては言っているものの結婚一つでそこまで変わるだろうか? すでに同棲をしているのだから環境もそこまで変化しないはず。
レスになっているわけでもない。デートにもよく行く。二年付き合った今でも私たちの関係は良好だと思っているのだが。
多少、慣れのせいか付き合い立てよりはそっけない時もあるのだが、それはどのカップルにも起こることだ思っている。
しつこくし過ぎるのも嫌がられてしまうだろう。浩二が決意するのを待つしかないと半ば諦めていた。
そういえば今日の帰りは何時になるのだろうか。浩二は飲み会に行くと深夜まで帰ってこない。いつも私が熟睡している二時か三時にふらふらしながら帰って来るのだ。
泥酔状態で帰って来るため、後の処理も面倒くさい。かといって乱暴になったり、人様に迷惑をかけているところは見たことがないので、酒癖が悪いとは思っていない。
週に一度か二度訪れる一人で食べる晩御飯。その日は決まってスーパーで安売りしているお惣菜だ。帰るまでの間に、すっかり冷え切ったコロッケをレンジに入れる。冷凍しておいたご飯を温め、インスタントの味噌汁にお湯を注いだら今日は終わり。簡単な夕飯を食べて一息ついた。
ソファーに座り、テレビをつける。バラエティー番組が放送されていた。若手芸人が、MCにいじられている所だ。
最後まで見ようと思ったのだが、仕事の疲れと、満腹中枢が刺激されたことによって眠気に襲われていた。
いけない。このままだとソファーで眠ってしまう。重い体を起こし、お風呂場へ向かう。
脱衣所の脇に置いてある洗濯機の上には、浩二が今朝脱いだシャツがそのまま放置してあった。いつものことだけど、だらしないな。そう思いながら洗濯物を入れてある籠に放り込む。洗濯物も随分と溜まっている。
今日は妙に体がだるい。眠気が全身を包み込んでいた。幸い、明日は休み。
明日やろう。洗濯機を回すことなく、シャワーを浴びた。
午後十一時。浩二はまだ帰ってこない。電気を消し、布団に入る。浩二が帰ってきたらきっと起こされてしまうだろうから、すぐに眠りに付きたかった。
――もっと寄ってよ。狭いんだけど。
――これ以上寄ったら落ちるよ。
浩二がいる時はいつも一緒に寝ている。そして毎日、同じことを言いあっている。私の部屋のベットはシングルだ。大人二人が寝るには狭い。
一人用のベットのはずなのにやけに広く感じるのは、ここで二人で寝ることに慣れてしまったからだろう。
それくらい長い時間、一緒にいる。浩二はもう、私の人生の一部なのだ。
布団に入り考え事をしている。気が付くと眠りに入ってしまったようだ。
夢を見た。浩二と二人でお花畑に出掛けている夢。
空には雲一つなく、青々としていた。鳥たちが気持ちよさそうな声を上げ、飛んでいる。そして足元には色とりどりの鮮やかな花達が咲いている。
その中を、二人で手を繋いで歩いていた。夢だからだろう。熱くも寒くもないし、風も感じない。けれどとてつもない程心地よい。今すぐに寝転がりたい気分だ。
終わりの見えないお花畑をひたすら歩いていると、前方に大きな光の塊が見えた。あれは何なのだろう? 分からなかったが、吸い込まれるようにその光に近づいて行った。
光との距離が約一メートルになるまで歩み寄ると、それは、さらにその輝きを増し私の体を包み込むように飲み込んでいった。
体が宙に浮いている気がする。あぁ、なんて気持ちがいいのだろう。このままずっとこの光に包まれていたい。
浩二と一緒に。目を閉じた時に瞼に映ったのは暗い暗闇ではなく眩い光だった。
「んっ。」
人の気配と物音で私は目を覚ました。
「あっ。起こしちゃった? ごめんね。」
部屋には浩二がいた。もうスーツに着替えをしている所だ。
「何時に帰ってきたの? 今日も仕事?」
目をこすりながら尋ねる。まだ眠い。
「二時頃だったかな。うん、仕事。」
二時か。いつもなら浩二が帰ってきたときの物音で起きるのだが、昨夜は全く気が付かなかった。様子を見る限り浩二もそこまで酔っていなかったのだろう。気も使って静かにしていたのかもしれない。
二日酔いの浩二はすこぶる顔色が悪い。今日は元気そうだった。
「珍しく起きなかったね。ずっと寝てたよ。」
「うん。ごめんね。」
「大丈夫だよ。相当疲れ溜まってるんじゃない? 今日休みでしょ? ゆっくり休んで。」
そこまで仕事でもプライベートでも疲れるようなことはしていないはずなのだが、確かに体が重い。それに少し、体に熱気が籠っているように感じた。
「そうする。なんか熱っぽい気もするし。」
「熱? 風邪でも引いたんじゃない?」
浩二は履き途中のズボンから手を離し、ベット脇に来てしゃがむと私の額に手を当てた。もう片方の手は自分の額へ。
どうやら熱を測ってくれているようだ。
「うーん。確かにちょっと熱いかも。病院行ってきなよ。」
少し吐き気がするだけで病院に行くほどではない気もするが、浩二に移してしまうのも申し訳ない。
「分かった。」
「うん。じゃあ俺、仕事行ってくるから。」
浩二はそういうと立ち上がってズボンを履き、ネクタイを締め、仕事へ行った。
風邪か。天井に向かって大きな息を吐く。風邪などめったに引かなかった。最後に引いた時のことを思い出せない程、風邪とは無縁の生活を送っていたのに。
浩二の言った通り、知らぬ間に疲れが溜まっていたのかもしれない。時計を見る。まだ、七時半だ。この時間では病院はやっていない。急患で行くものでもないし、もうひと眠りしてからいこう。
そう思って再び、布団の中に潜り込んだ。
四時間程寝ていただろうか。今日二度目の朝を迎えた。よくこんなに眠れるものだな。若干自分に呆れながらもベットから出て、身支度を整える。
と言っても、病院に行くだけ。くしで寝ぐせを直して着替えをしたら終わりだ。マスクをするので化粧もしない。起きて十分で家を出た。
外に出ると昨日とは、打って変わって気温が低い気がした。季節の変わり目にしてはまだ早い気がする。これも体調不良の影響だろうか。体温調整がうまく出来ていないのだと思った。
家から徒歩十分歩いた所にクリニックがある。そこの内科で見てもらおう。
今日は洗濯もしなくてはならない。浩二も今日は飲み会はなく、真っすぐ家に帰って来るらしいので料理も。掃除もしばらくしていない。今日の休日を使ってまとめてしようと思っていたのだ。
念のため病院には行くが、早めに帰りたかった。まぁ、このくらいの体調不良であれば風邪薬を処方されてすぐに終わるだろう。
クリニックに到着した。中に入ると消毒液の臭いが、マスクをしているにもかかわらず鼻を刺激してくる。あまり得意ではない臭いだ。
「今日はどうされましたか?」
受付の女性が声をかけてきた。とても爽やかな笑顔だ。私もこれくらい自然な笑顔を作れたらもっと後輩に声をかけられるだろうに。
「ちょっと熱っぽくて。」
「そうでしたか。保険証はお持ちですか?」
この人は看護師なのだろうか? 今は受付をしているが、白衣を着ている。それに看護師という職業が似合いそうな、温和な雰囲気が出ていた。
「はい。お願いします。」
そういって保険証を手渡す。
「では順番にお呼びしますのでお掛けになってお待ちください。」
待合室には、子連れの母と老夫婦が一組ずついるだけだった。この人数だと順番が回ってくるまでそう時間はかからないだろうと思い少し安心する。
しばらくぼーっと待合室に設置させているテレビを見ていると名前を呼ばれた。
「はい。」
返事をしてから、看護師に誘導させるまま医者の前に座る。優しそうなおじいちゃん先生だ。カルテを見るために、着けていた丸眼鏡を外す。どうやら老眼の様だ。
「えー。熱っぽいだったかな。ちょっと喉見せてくれる。」
おじいちゃん先生はそういうと、丸眼鏡をかけ直し私の方を向いた。先生に向かって、口を大きく開ける。
「うーん。喉はあまり腫れていないようですね。」
そういうと先生はいくつか私に質問をしてきた。
それにひとつずつ答えていく。先生の後ろにはさっきまで受け付けにいた女性が立っていた。やはり看護師だったらしい。受付は交代制のようだ。
「ただいま。」
「おかえり。」
時刻は午後七時。浩二が仕事を終え、家に帰ってきた。
「具合大丈夫?」
ソファーに座っていた私に浩二が尋ねる。
「うん。風邪じゃないって。」
「あっ。そうだったんだ。良かったね。」
着ていたスーツをハンガーにかけながら浩二は言う。
深く深呼吸して息を整えた。
「あのね。」
「ん?」
「私……妊娠してるんだって。三か月……」
浩二の手が止まる。そしてゆっくりと私の方を見た。
「まじで?」
「うん。」
先生からの質問に、いくつか答えていくうちに妊娠が疑われた。そして、併設してある産婦人科へ受診を進められたのだ。
産婦人科へ行き検査をしてもらうと陽性。おなかの中に赤ちゃんがいるという。
それを聞いたとき、もちろん驚いた。浩二は毎回、しっかりと避妊具を装着していたし、まさか自分が。と思っていたのだ。
しかし、それと同時にチャンスだと思った。なかなか結婚に踏み出さない浩二も、私が妊娠しているとなれば決断できるだろう。
それに嬉しかった。結婚前とはいえ好きな人との間に子供ができたこと。
それは浩二も同じだと思う。
もちろん驚きはするだろう。けど、二年間も寄り添い続けた彼女が自分の子供を授かったのだ。大喜びするに違いないと思った。
もしかするとうれし涙を流すかもしれない。
「順番、逆になっちゃたけど、そうゆう時もあるよね。男の子か女の子かまだわからないけど、浩二はどっちがいい?」
男の子だったら、浩二みたいに優しくて紳士的な子供になってほしいな。見た目は少し怖いけど。
女の子だったら、どうしようかな。私みたいにはなってほしくないから、ピアノとかバレエとか、女の子らしい習い事でもさせようかな。
期待と希望に胸を膨らませるとはこのことだろう。何気ない日常の中に一筋の大きな光が差し込んできたようだった。
私はソファーから立ち上がり、浩二に歩み寄る。
「子供が生まれたら、お金とか生活とか今より大変になると思うけど、一緒に頑張っていこうねっ。」
そう言って浩二の手を握り締めた。