第七話
祖母からの衝撃的な告白は、数日たった今でも一言一句忘れることなく、脳裏に強く残っていた。
何かの罪を犯し、逮捕されていた母。服役中のため、会うことが出来なかったのか。
では、なぜ一年に一度とはいえ会うことが出来たのか。そして現在、全く音沙汰がないのはどうしてなのだろうか。母はまだ刑務所の中にいるのだろうか。
毎日、同じことを自問自答しては頭を悩ませる。
混沌の闇とは正にこのことだと思った。何時間考えようと、何日間悩み続けようと、問いに辿り着くことは不可能に見えた。
それでも、これが親子の愛というものなのか。もう知らない。前科持ちの母になんて会いたくない。などとは一切思わなかった。
逆に、もっと母のことを知りたいと思った。
前科持ちの母はきっと世間から蔑まれている。その助けになれるのは娘である自分しかいないのではないか。
母に会って、私にその悩みを打ち明けて欲しい。真実を告げて欲しい。私の事を頼って欲しい。そんな思いが、胸の中にひっそりと湧き上がってきていたのだ。
同時に、それが如何に困難であることなのかも。
謎に満ちた両親の存在。
祖母の衝撃の告白。
祖父はもうこの世にいない。
祖母は認知症。
これだけの悪条件が付いてくるのだ。この難事件に立ち向かうには、解決させるにはどうしたら良いのか。私には見当もつかなかった。
有名な名探偵でも、この謎を解くのは容易ではないだろう。
六畳間の小さな部屋にベットを置いている私の部屋は狭い。それ故私は、部屋にいる時は大抵ベットに横になっている。
部屋の三分の一は占領しているベットに寝転がり、スマートフォンを操作する。
思いついたのはSNSで母を探すこと。
――○○駅の近くで財布を拾いました。拡散希望。
SNSを通じて落とし物を持ち主に返したことが以前話題になっていた。
その他にも行方不明者を探したり、特定の誰かにメッセージを届けるためにそれを有効活用している人を見たことがある。
スマートフォンの普及によって便利になったそれらの恩恵を受けようと思ったのだ。
試しに、母の名前を検索して見たが何も出てこなかった。
次に、母を探しています。とSNSに投稿しようしたが途中で辞めた。母や私に余分な情報までもが特定されてしまう気がしたのだ。
ため息をつきスマートフォンをベット脇に放り投げる。枕に顔をうずめ、どうすればよいのか錯誤するも、いい案は全く思い浮かばない。
――真子。いい子にしてたの?
母の笑顔と言葉が流れ込んできた。母は明るい人だったはずだ。思い返せれる顔はいつも笑顔だったのだから。
いつも、といっても一年に一回きりだからあてにならないのかも知れないが……
私といる時、困った顔をしている母を見たことはない。それどころか、いつも優しい顔で見つめてくれていた。
その前の日、もしくは次の日。母は刑務所にいたのだろうか?
刑務所のことはよく知らないが、受刑者たちには重労働が課せられている。というイメージがある。それを、あの母が行っていたのだろうか。
何も分からないもどかしさが体の外にも影響を与える。気持ちは落ち着かず、うつぶせで寝転がっていた私はしきりに足をばたつかせ、部屋に何度も騒音を響かせていた。
途中、ベットに隣接している壁から、大きな音が鳴った。騒音に腹を立てた隣人が叩いたのだろう。
ごめんなさい。とは思ったが、私の現状も知って欲しい。この状況で冷静になっていられる人はいないと思う。と顔の見えない隣人に向けて文句を言い放った。
時刻は深夜1時を回っている。
今の私に安息の眠りなどなかった。常に脳内を駆け巡る母の存在が、眠りから遠ざけていたのだ。
目を閉じては開く。スマートフォンの電源を入れては消す。それの繰り返しを朝まで延々と続けていた。
仰向けになってスマートフォンを見た後、両手を思い切り広げる様に手の力を抜いた。
「いった。」
シングルベットの横幅では腕を開くのに狭すぎたようだ。壁に手を打ち付ける。
「なんなのよ。」
大したことのない痛み。よくあるミス。それなのに、不幸が次々と訪れているような気がしてしまった。
――あんた。今回はちゃんと、勤めを終わらせてきたんだろうね?
母と祖母の会話を思い出した。これは私が七つの時だったはずだ。母の膝で眠った私。その後、母は私の体をそっと抱きかかえ、ベットまで運んでくれた。
ベットに運ばれると、いつもはそのまま朝まで爆睡をするのだが、この日はうたた寝くらいですぐに目が覚めてきたのだ。
どれくらい寝てしまったのか不明だった私は、まだ母がいるのか気になって居間に向かった。
足音を立てないように忍び足で階段を下りたのは、起きていることがばれないためではない。母がいるのか、いないのか。どきどきしていたため、ゆっくりと歩いていたのだ。
階段を降りると、薄暗い廊下の奥に光が差し込んでいた。居間からだった。
光に吸い込まれるように近寄っていく。
少しだけ開いている居間のドア。その向こう側には立って話をしている母と祖母がいた。祖母が母を責めているように聞こえた。
ただ、七つの私には、その内容を理解することは出来なかった。けれど、割って入っていけるような様子でもなかったので、再び寝室に戻って、そのまま眠りに入ってしまった。
そのことについて深く考えるはそれからもなく、記憶の底にしまい込んでいたのだ。
勤めとは? これは服役していたことを指しているのではないか? だとするならば、祖母はやはり母の罪を知っていたのだ。おそらく、祖父も。
私にそれを隠していたことが、例え優しさだったとしても納得できないものがある。真実を知っていればもっと別の選択肢もあっただろうに。
一人だけ、のけ者にされていたのだ。
電気を消し、真っ暗になった部屋の中。スマートフォンの明かりだけに照らされた顔。祖母の言葉がきっかけとなって蘇った記憶は、残酷なまでに自分が孤独であることを知らしめることになった。
カーテンの隙間から入り込む光に鬱陶しさを感じる。どうして寝れなくても朝は勝手にやってきてしまうんだろう。
結局、眠りにつけたのは4時頃だっただろうか。
真っ暗な空間の中で手を伸ばす私。その向こうには母がいるのだが、次第に遠ざかっていく。走ろうとしても走れない。母の姿はどんどん遠くなっていくばかりだった。
やっとの思いで眠りにつけたと思っても悪夢を見る。
寝ても寝れなくても朝になった時には最悪な気分だった。
テーブルの隅に置いてある置き時計を見る。ベットにいながらでも手が届く所に時計を置いておくと、寝ぼけながらアラームを消してしまう。
そのため起き上がらないと届かない机の上に時計を置くのが私の決め事だった。7時43分。
体中の二酸化炭素を全て吐き出すように大きなため息を零す。体は重いし、だるくてしょうがないのに、もう眠れる気配はない。
ため息と一緒に悩みも不安も体から吐き出せたらいいのに。
ブブブ。ベットでうなだれているとスマートフォンが短く振動した。画面上に表示させる送り主の名前を見る。紗季からだ。
紗季とは小学校からの友達。中学まで一緒で高校は違う学校に進んだのだが、今でも連絡を取り合う程、仲が良かった。
私は母の事でいじめられていた小学生時代のこともあり、なかなか気を許せる友人が出来なかったのだが、そんな私と一番仲良くしてくれたのが紗季だ。
――真子ちゃんをいじめる子は私が許さないから。
そう言っていじめっ子たちを追い払う紗季に何度も助けられたものだ。
今日は映画のお誘いだった。遊びに行くほど気持ちに余裕はなかったのだが、じっとしているのも精神的に良くないだろう。
重たい体を起こし、洗面台に向かった後、軽くシャワーを浴びて化粧をした。すっぴんの自分が苦労人の様に見えたのはきっと間違いではない。
ぼさぼさの髪。睡眠不足で腫れぼったい瞼。とても年頃の女性には見えない。うんざりする。もう鏡を見たくない。そう思った私は、化粧もほどほどに足早に家を出た。
待ち合わせは仙台駅前。歩ける距離なので歩くことにした。外に出て大通りまで歩くと、道行く人の笑い声が聞こえてきた。親子が手を繋いで歩いている。男性が自転車に乗って颯爽と走り抜けていく。
何でもない当たり前の風景なのに、妙に空が薄暗く見える。
太陽はこんなにも照り付けているというのに。
仙台駅に着くころには額にうっすらと汗が滲んでいた。小さめのトートバッグからハンカチを取り出して拭う。
「真子! お待たせ!」
紗季が5分程遅れて到着した。地下鉄に乗ってきたとのことで、汗は一つもかいていない。
「全然。待ってないよ。」
取り繕った様な笑みが、顔から零れる。紗季にばれていないだろうか?
申し訳ないが今日は楽しめる気など少しもしなかった。それでも誘いを断らなかったのは家にいたくなかったのと、体裁を保つために他ならない。
「ずっと前から見たい映画あったんだ! それ見よう!」
満面の笑みを浮かべながら紗季がはしゃいでいる。
紗季は可愛い。顔立ちや、スタイルの話ではなく、雰囲気がだ。短く切っている髪。これはショートボブというのだったかな。元気そうな明るい女の子を連想させる髪型に、ダメージが入ったショートパンツ。上はスポーツブランドのロゴが入った白色のシャツ。
小学生の頃はもっとピンクとか、キャラクターがついた服を好んでいたように思えたのだが、今はそんな感じだ。
ストリート系なんだよ! と紗季がよく言っていた。
二人で映画館に足を運ぶと、紗季が手際よく二人分のチケットを購入してくれた。最近はすべてパネル式になっており、滅多に来ない私は購入の仕方がいまいち分からない。
隣のパネルでは、スタッフの人に操作方法を教えてもらいながらチケットを購入している人がいる。それくらい分かちづらいのだ。
従業員不足解消。それを試みての作戦なんだろうけど、これではかえって人手が必要になるのではないか。なんて思いつつ、紗季から渡されたチケットを受け取り、今度はジュースとポップコーンの売り場へ並んだ。
ポップコーンは紗季の希望でキャラメル味のやつにした。甘ったるい匂いが良いらしい。
それを持ってシアタールームの中に入り、明かりが消えるまでの間、紗季と会話をする。内容は何一つ頭に入ってこない。適当に笑顔で頷く。
上映開始時間が迫り、明かりが消えた。私はそれに安心した。いつもは楽しい紗季とのおしゃべりも、今日は苦痛だったからだ。映画が始まれば会話はしなくてすむ。
自分の世界に入り込むことが出来た。
「感動したね。私、ラスト泣いちゃったよ。」
紗季は赤くなった目がしらを抑えながらそう言った。
映画の内容は、よくある親子の愛の物語だった。思春期の息子が高校受験失敗を期に不良になる。その後、飲酒、喫煙、万引きなどの様々な問題を起こした息子は少年院に入ることになり世間や近所から酷くバッシングを受ける様になったのだ。
母親は少年院にいる息子のもとへ毎日欠かさず手紙を送った。少年は院での暮らしや、母からの手紙で徐々に更生していく。
善良な行動が高く評価された少年は、他人に貢献することの喜び、生きがいを学んでいった。そうして出所が決まる。
院から出てすぐ、桜並木がある。そこを真っすぐ歩いていると母親が息子の帰りを待っていたのだ。母は泣きながら息子を抱きしめた。
母親の愛に気が付いた息子はこれまでも行いを猛省し、真っ当な社会人として生きること、親孝行することを決めた。
そんな物語に紗季は感動し、涙を流しながら見ていたという。
こんな映画の内容に感動できるのは、なに不自由ない家庭環境で育ってきた恵まれた人たちだけだ。その辛さが分からないから感動するのだ。
映画はずるい。ラストなんていくらでも変えることが出来るのだから。親子の物語なんて基本的にハッピーエンドで終わる。
じゃあ、私と母の物語はどうなるのだろうか……ハッピーエンド。そんなものは到底想像することが出来なかった。
紗季の提案で、カフェでお茶をすることになった。タピオカ入りのミルクティーを二つ注文する。気分は最悪でも、甘いものはやはり美味しい。口の中に流れ込んでくるミルクティーと柔らかいもちもちの食感が癖になるタピオカ。
気分転換とまでは行かないが、充分だった。
「これ、美味しいね。」
この言葉が、今日初めて私からした会話かもしれない。
「タピオカ美味しいよね。ついつい飲みすぎちゃうけど、カロリー高いらしいよ。」
紗季がストローを咥えながら、ミルクティーとタピオカで口の中をいっぱいにして答える。
そうだね。と返してミルクティーを飲む。
「真子。なんだか今日元気なくない?」
紗季の言葉にドキっとした私は不意に視線を落とした。内気な私は、いつも明るく元気な紗季に先導させて行動している。テンションは低かったが今日もそれと大差ないと思っていた。
つまらなそうな顔をしているのがばれていたのではないかと、内心焦った。母の事で気分が下がってはいるのだが、紗季を悲しませるのは本意ではない。
「いや、あの……」
なんと言っていいのかわからず、口調が急にどもりだす。
「おばあちゃんのこと?」
言いづらそうにしている私の代わりに紗季が言ってくれた。少し違うが。
「え……まぁ。」
「元気出しなよ。辛いとは思うけどさ、今時ちゃんとした施設見つけられただけでもラッキーだよ。なんか施設に入れないおじいちゃんおばあちゃんって多いらしいよ。」
「そ、そうだよね。ありがと。」
紗季は優しい。一見、ただのおてんば娘に見える時もあるがちゃんと空気や人の顔色を読んでいる。
それは、小学生の時から一緒にいる私が一番よく分かっている。
今までも何度も相談に乗ってくれた。
落ち込んでいる時は背中をさすりながら。泣いている時はハンカチを差し出してくれて、ずっと話を聞いてくれたのだ。
それでも母のことを打ち明けるべきどうかは悩みどころだった。無二の親友にさえ、真実を打ち明けるのを躊躇うほど、私と母の関係は異常だと思ったのだ。
母が実は前科持ちだったということ。そのせいで今まで家に帰って来る事ができなかったことを伝えたら、どんな反応をするだろうか。
犯罪者は、当人だけでなくその家族までもが世間から疎まれるものだと思っている。実際に犯罪者の家族が、その苦しみに耐えきれなくなって自ら命を経ったニュースを見たことがある。
グラスを見つめる視線がぶれる。怖かったのだ。
「あのさ、実は……」
それでも、この現状を一人で背負い込めるほど私は強くはなかった。
親友を信じよう。
紗季に全て告白したのだ。紗季は黙って話を聞いてくれた。真剣な眼差しでじっと私を見ていた。引くわけでも、茶化すわけでもなく、真剣に。
それだけで、少し救われたような気がする。
話し終えた私は、喉がカラカラになっていることに気がつき、残りのミルクティーを一気に飲み干した。
これまで一人で背負っていたとてつもなく重たい鉛が、少し消えたかのように体が軽くなった。
「探そうっ」
紗季が勢いよく席から立ち上がる。座っていた椅子はその勢いに押され、背もたれから床に倒れていく。
「え?」
紗季を見る。
「探そうよっ。お母さん。」
真剣な顔で話を聞いてくれていたかと思ったらとんでもないことを言い出した。簡単に会えるのなら、もうとっくに会いに行っているのだ。
「でも、なんの手掛かりもないんだよ? おばあちゃんはあんなだから、聞きに行くことも出来ないし。」
それがどれだけ困難なことなのかを紗季に説明したが、紗季の意見は変わらなかった。
「このままでもいいの? 一生お母さんに会えないままでいいの?」
紗季の言葉が胸に刺さる。いいわけはない。でも、これ以上私にどうしろというのだ。返答に困った私は、再び視線をグラスに落とした。
「おじいさんの家に行こうよ。」
「でも、もう取り壊し決定してるし……」
祖父の家は私が引っ越しをすると同時に売却からもう私の家ではない。それ以来行っていないのでどうなっているのかも分からない。
「おじいちゃんの遺品とかはどうなってるの?」
「たぶんそのまま。」
祖父は読書家でもあったため家には大量の本が山積みになっていた。それをすべて処分できるはずもなくそのままにしていたのだ。買い手がおらず、取り壊しが決定してしまったから。
「だったらまだ家に残ってるんじゃない?」
「なにが?」
紗季はにやりと笑った。
「お母さんに関する情報だよ! 事情を知ってたおじいちゃんなら何か持ってるんじゃない?」
確かに。祖父母は母の罪を知っているようだった。もし、まだ家に祖父の私物が残っているのなら、そこに何かの手掛かりがあるかもしれない。
しかし、そう簡単にいくだろうか。そもそも家に母の情報があったのであれば、幼い頃の私が見つけていてもおかしくはない。
祖父母の外出中、よく探検気分で家中を冒険しては、物をあさっていたのだから。
祖父母が意図的に母に関するものを家に置いておかないようにしていた可能性は十分にある。
もちろん、私に知られないようにするためだ。
「真子。」
紗季は椅子に座り直し、ゆっくりとした口調で名前を呼んだ。
「真子のお母さんのことはよくわからない。けど、小さいときから真子がお母さんのことで悩んでいることは知ってる。」
さすがは親友だと思った。学校ではもちろん、紗季にもあまり母の話をしないように気を付けていたし、なるべく暗い顔をしないようにと常に心掛けてきたはずだったのだが、すべてお見通しだったみたいだ。
「このままずっと、何十年先も、真子がおばあちゃんになった後も、悩み続けるの? 私も協力するから真実を探しに行こうよ。」
紗季の言葉が、また一つ背負っていた鉛を軽くしてくれた気がした。
そうだ。私は母の娘なのだ。母のことを知る権利は誰よりもあるはずだ。母と会う権利が誰よりもあるはずなのだ。
「うんっ。私、知りたいよ。お母さんのこと。」
親友が訴えかけてくる言葉は、その辺の本屋に売ってるエッセンスや自伝に書いてある安っぽいセリフの、何倍も影響力があった。
素直に自分の気持ちを吐き出すことが出来たのだ。
「よしっ。決まり! 明日九時、真子の家に迎えに行くから。おじいちゃんの家に行こう。」
そう言った紗季の目は輝いていた。