第五話
白と紺を基調として作られた三階建ての大きな建物。形は真四角で特に際立った特徴はない。このどこにでもありそうな変哲もない建物が祖母が入所している特別養護老人ホームだ。
入口の自動ドアから中に入ると、廊下一面に盆栽が並べられている。盆栽にはこの施設の入居者達の名前なのだろう。一つ一つに氏名が記載されていた。ウメや幸子と書いてある。同世代はたまた親の世代でも中々聞かない名前が、高齢者のものであることを助長している。
ロビーでは、雑誌を読んでいるおじいちゃんや、柔道整復師? だったかな。覚えにくい職種の職員と一緒に体操をしている老人達の姿が見える。リハビリテーションの一環らしい。
活発に活動を繰り返す老人達は私の思っていた老人ホームとはイメージが異なっていた。
それもそのはず。ここでは、老後の生活にも楽しみを。という言葉をキャッチフレーズにしているのだ。毎日のように行われているレクリエーション活動に特に力を入れているようだった。
実際、祖母の入所先を決めたのもこれが理由。私の母替わりとして、毎日家事や育児に勤しんでいた祖母は、他の高齢者と比べて定年退職後の活動量が多かったはずだ。
そんな祖母が認知症を患ったからといって、黙って施設にいるのはあまりにも酷だと思ったのだ。暇を持て余していると認知症も悪化していくらしい。
「あの、安西トキの孫なんですが、面会に来ました。」
入ってすぐ右手にある窓口でそう告げる。高齢者施設の職員、いや、福祉に携わっている人たちは皆愛想が良く、接しやすいと思っていたのだが、そうではないらしい。
現場の人たち。所謂、介護職員の人は想像通り優しい人ばかりだったし、福祉の心という物が話をしているだけで垣間見えた。
しかし、事務の人達は違うようだ。経理や人事を担当しているため、仕事内容は会社員のそれと変わらない。
全員が難しい顔でパソコンと睨みあいをしている。声をかけても反応がないことだってある。
今日もどうやら一回は無視されていまったようだ。
本当に聞こえてないのだろうか?
「あの……」
二回目の、あの、でようやく一人の女性がこちらを向いた。ため息に近い一息をついた後に、見つめあっていたパソコンから目を離し、立ち上がる。
「ご面会ですか? でしたらこちらの用紙にご記入ください。」
先ほどの険しい表情とは打って変わって満面の笑みだった。しかし、それが営業スマイルであることを知っている私は、苦笑いで返した後すぐに用紙に視線を落とした。
「それではごゆっくりどうぞ。」
事務員に会釈をした後、私は祖母の部屋があるフロアに向かった。
入所の手続きの際、ここは従来型ではなくユニット型の施設です。ですのでより入居者様達が自分に合った生活を送ることができます。なんて説明を受けたのだが、これまで高齢者施設と関わりがなかった私にとっては、その違いは全く分からない。
ざっくばらんに言うと利用者の生活スタイルに合わせるということらしい。
そのユニットというものは、共同スペース用の大きな部屋に十個の個室が隣接して用意してある。一人一部屋もらえるのだ。
共同スペースに入ると、紺色のポロシャツにチノパンのようなズボンを履いた職員が笑顔で声をかけてくれた。この笑顔は本物のような気がする。
「あっ! こんにちわ~。トキさん。お孫さんがお見えになりましたよ。」
職員は共同スペースでお茶を飲んでいた祖母に声をかけた。祖母の近くにしゃがみ、遠くなった耳でもしっかりと聞き取れるようにゆっくりと大きな声で。
介護士はすごいと思う。仕事とはいえ、見ず知らずの老人達にこんなにも優しく接することができるのだから。
「おばあちゃん。私、真子。」
職員を見習って、祖母と目線が合うようにしゃがむ。祖母はもう私のことを覚えていない。加齢に伴って進行した認知症は18年間ともに過ごした孫の顔すら忘れてさせてしまうのだ。
「あら~。いらっしゃい。めんこい顔しでらな。真子の友達だが?」
ただし、すべてを忘れたわけではない。ゲームのセーブデータをリセットする様に全部まっさらになるのではなく、記憶が断片的になったり、自分が何歳なのか、どこにいるのか。そういった見当識というものが分からなくなっているのだという。
孫がいること、孫の名前が真子であるということは理解している。しかし、目の前にいる少女がその真子であることは分からない。
「何言ってんの。トキさん! この人がお孫さんでしょ?」
職員はそういって祖母の手をとり私の腕にそっと手を伸ばした。親しげに話す職員と祖母。普段から良くしてもらっているのだと分かり、ほっとした。
その反面、当の孫より孫っぽい二人の関係性を見てせつなくなった。
二十歳になったばかりの私には在宅介護なんて行うことはできない。これは仕方がないことではあるのだけれども……
「それでは、なんかありましたらお声かけください。」
職員はそう言って別の老人のところへ行った。
血縁関係もあり、長年一緒に暮らしていた。とは思えないほどの沈黙が祖母との間に流れる。
それもそのはず、目の前にいる祖母は、祖母であって祖母ではないのだ。
姿は形は同じでも魂を入れ替えられてしまったような、そんな感じがする。
「おばあちゃん。元気だった?」
恐る恐る声をかける。
「元気だ~おたくさんは?」
祖母はのらりくらりと口を開く。
やはり私のことを認識できていない。祖母からしたら、見ず知らずの人が急に話しかけてきた。というはずなのに、優しく返事をくれた。
改めて祖母の優しさを知った。
「私も元気だよ。」
そういって祖母の手に自分の手を重ねる。これで充分なのかもしれない。孫のことや自分の過去さえ忘れても、祖母は優しいのだ。
祖母の根っからの人柄が消えていないことが嬉しかった。
「私ね、一人暮らし始めたんだよ。」
初めて祖母の面会に来た時、職員が教えてくれたことがある。
――認知症といってもきっかけがあれば、一時的にではありますが思い出すことがあります。是非、いろんな話をきかせてあげて下さい。
それを聞いてからは祖母に思い出話や近況報告。いろんな話をするように心がけていた。少しでも思い出して欲しいという私の願いだった。
祖母は話を聞いても、うんうん。と頷いて、笑顔を見せるだけだった。
「そろそろ帰るね。」
もっとたくさん話をしたかったのだが、間が持ちそうにない。それにやっぱり耐え難いものがあった。年を取って認知症になるのはしょうがないこと。祖母が優しさを忘れていないだけでも充分。そう思いながらも、祖母の中に私がいないことは悲しい。
どうしても昔の祖母を思い出してしまう。
ゆっくりと立ち上がる。ずっとしゃがんでいたせいか、足が痺れている。その痺れを取るように自分の腿をトントンと軽く叩いた後、祖母に背を向け歩き出した。
「あかり? あかりでねぇか!?」
祖母が突然、大声を出した。戸惑いながら祖母のほうに顔を向ける。あかり? どうしてその名前が出るのだろう。
振り返って祖母の顔をみると、驚いたような、怒っているような複雑な顔をしていた。
「あかり。ようやく、帰ってこられたのが。」
祖母はそういうと、皺だらけの顔をさらにしわくちゃにして上着の袖で目元を拭った。涙を流したのだ。
あかり。とは私の母親の名だ。
一年に一度しか会うことが出来なかった。いまでは会うことさえもできない母親の名前を祖母は口に出したのだ。
「おかあさん……」
咄嗟に母のふりをした。
祖母に近寄る。私はチャンスだと思ったのだ。生前の祖父も、認知症になる前の祖母も、母について何も教えてくれなかった。確実に何かは知っているはずなのに、口を割ることはなかったのだ。
ずる賢いとは思う。認知症の祖母に、母の振りをして話を聞こうとしているのだから。それでも、どうしても聞きたかった。何十年もの間、ずっと知りたかったことだったから。
「ま、真子は? 元気なの?」
母のふりをすると言っても、すぐには言葉は出て来ない。とりあえず、自分の名前を出して会話を繋げようと思った。
大きく、深い息を吐きながら祖母に話しかける。
「元気なわけねぇべ。物心がつく前とはいえ、母親があんな事件起こして逮捕されたんだから……」
祖母は突拍子もない言葉を並べると、きつい目つきで睨みつけてきた。祖母の見たこともない険しい表情を気にする余裕など無いほど、祖母の言葉が重く胸にのしかかってきた。
今世紀最大の衝撃と言っても過言ではない。
事件? 逮捕? 全く想像をしていなかった上に、とんでもない事実を知ることになった。
唾を飲み込んだ喉がごくりと音を鳴らす。急に周りの重力が消え、体が浮き、宇宙のど真ん中に投げ出されたような感覚が全身に駆け巡る。
――たとえ、認知症であっても、衝撃的な出来事なんかは覚えているものなんですよ。
職員の言葉が浮かんだ。ボケて頓珍漢なことを言っているのならまだいい。しかし、あまりにも険しい表情と口調が、真実であると物語っているようにしか思えなかった。
祖母の言葉を信じるのでならば、母は、犯罪者だったということになる……
「おばあちゃん! どうゆうこと!? お母さんは捕まっているの!?」
勢いよく祖母の両肩を掴み、上下に揺する。だが祖母は、これ以上答えない。いや、答えられないようにしてしまったのだ。
年を取って皺皺になり弱くなった皮膚は、私が掴んだだけでも相当の痛みを感じるらしい。
「いたぁぁぁぁぁい!」
祖母はそう叫ぶと、なにすんだいあんた。と私の腕を、弱弱しい手で叩いてきた。
突然のパニックが引き起こす更なる認知機能の低下。一時的ではあるのかもしれないが、私の焦りと強引な行動がそれを助長した。
「大丈夫ですか!」
職員が慌てた様子で駆け寄ってくる。
祖母の肩をゆっくりとさすり、落ち着くようになだめている。問題でも起きた。と思ったのか、職員室でパソコン作業をしていた別の職員も駆けつけ、状況を把握しようとしていた。
「すみません。帰ります。」
駆け寄った職員の顔を一切見ずに、私は施設を後にした。
母が逮捕されていたなんて考えたこともない。母は優しい人だった。記憶を思い返して見ても犯罪を犯しそうな人には見えない。
もしも、本当に逮捕されていたとしたら?
何の罪で?
では、どうして一年に一度は家に来ることができたのか?
身近に受刑者がいなかったから知らなかっただけで、刑務所では一時的な外出が許されているのだろうか?
いや、そんな話は聞いたことがないし、犯罪者が罪を償う前に野放しにするなんてリスキーすぎる。
考えても考えても、答えに辿り着くことが出来ない。
突如現れた謎は、喉に突っかかる魚の小骨ように私の体に違和感と不快感だけを残していった。
母は今、何をしているのだろうか。何を思っているのだろうか。
太陽が沈みかけ、まもなく日が暮れようとしている。
この太陽のように、私の気持ちも、時間が経つと勝手にいなくなってくれればいいのに。
体中を蠢く謎は、決していなくなることをせず、寄生虫のように脳内に居座り続けた。