第三話
子供とは純粋で無邪気な故に、酷く残酷だ。
「お前んち。なんでかあちゃんいないの?」
デリカシーの欠片もない言葉を平然と口にする。
「いるよ! たまに会いに来てくれるもん。」
年に一度しか、母親に会うことが出来ない。その異常さを、同級生たちに指摘されるまで自覚していなかったのだ。
幼稚園に通っていた時は誰もそのことを聞いてこなかった。それに、世間に対して自分が無知過ぎたのだ。
小学生になり、運動会や授業参観という親が参列する行事が増えた。教室の後ろでは若そうな両親が、我が子の雄姿を見ようとカメラを用意したりしている中、私を見に来るのは皺だらけの祖父母だけだった。
洒落た洋風の服をかっこよく着こなす若い夫婦たちの中では、着物を着ていた祖父母は悪く目立っていた。
同級生たちは次第にそのことを不審に思っていったらしい。
もちろん祖父母のことは大好きだ。祖父母も私が一人ぼっちにならない様に、親代わりとして善意で来てくれていたに違いはないし、他の親同様、私の頑張りを見たかったのだろう。しかし、そんな気持ちに蓋をしてしまう程、小学生ながら恥ずかしさでいっぱいだったことを覚えている。
「おばあちゃん。学校行事、無理してこなくていいよ。」
からかいに堪えられなくなった私は、祖母にそんなことを言ってしまったことがある。
本当は来て欲しかったし、おばあちゃんに頑張っている姿を見て欲しかった。
祖母はこくりと頷くと、ごめんね。と一言だけ言って私を抱きしめた。
察してくれたのだろう。学校で私に向けられている好奇の目を。
その日以降、祖父母は学校には来なくなった。
悲しさの反面、安心した。これで同級生たちに変な目で見られることはもうないだろう。そう思っていたのだが、思っていたより現実は厳しかった。
運動会は一人だけ先生と一緒にお弁当を食べた。文化祭や音楽コンクールの日、劇で自分たちの出番が終わるとクラスメートは親の所へ行き、よく頑張ったね。すごいね。などと言われて褒められている。その間、もちろん私は一人で教室の隅にいる。
祖父母が学校に来なくなっても私が周りと比べて異質であることに変わりはなかった。
「やーい! 捨てられっ子!」
学年が上がるにつれて、同級生たちの疑問はいじめに変化していった。
「お前、かあちゃんととうちゃんに捨てられたんだろ? だからいっつもじじばばしか来ないんだ。」
そう言って数人の男子が私の周りを囲み、まるで拷問でも受けているかのように攻め立てた。
始めは母に関するからかいだけだったのだが、日にちが経つにつれ、それはどんどん過激なものになっていった。
朝学校に行って下駄箱を開けると靴がなかった。来客用のスリッパを履いて授業を受けていると、後方の席に座っている子たちがクスクスと笑っているのが聞こえた。
トイレに座っていたら水をかけられた。洋服が濡れた私は体育着を来て、授業に参加した。
教科書に落書きをされていたり、先生がテストに出す。と口酸っぱく言っていた範囲の内容が書かれていたところを破られていた。
教室に入ると、それまで話し声や笑い声で賑わっていた教室が急に静まり返った。おはよう。と声をかけても知らん顔をされた。
絶望を感じたし、もちろん傷ついた。それでも私は反論も反抗もすることなく、ただ黙ってそれを受け入れていた。
言い返す言葉など、何もなかったからだ。
おかしいのは私の家庭の方なんだと気づいていたからだ。父親のことは生きているのか、死んでいるのかすら分からない。会ったことはもちろん写真でさえ見たことがない。
そして母も一年に一度、それもいつ来るのかも分からない。いつ帰るのかも分からない。
こんな家庭であれば同学年の子たちから弾かれ、からかわれてもなんら不思議じゃない。それを理解していたからこそ、からかわれることに何の苛立ちも感じなかったし、先生に相談しようという気持ちにもならなかった。
悪いのは私なのだと、諦めていたのだ。
ただ、大好きな母や祖父母が馬鹿にされていることが物凄く悔しかった。
「お母さん。どうして一年に一回しか会えないの?」
私は九歳になった時、その年に家を訪れた母に思い切って聞いてみた。
せっかく会えたのだ。楽しい時間にしたい気持ちはあるが、我慢が出来なかった。俯きながら声を震わせて、ぼそぼそと口を開いた。
「ごめんね。寂しいよね。」
母は俯いている私の前に屈んで、ぎゅっと抱きしめてくれた。
理由は話してくれなかった。けれど母に抱きしめられた私は、その疑問のことはすっかり忘れて、これまでの寂しさを埋めるように母の胸でわんわんと泣き出してしまった。
正直、母に会えない理由なんてどうでも良かった。ただ、一緒にいて欲しかっただけなのだ。
母はそんな私を見ても、困った顔一つせずに抱きしめ続けてくれた。母の胸はとても暖かくて、ストーブやエアコンなんかとは比べ物にならないくらい心の芯から温かくしてくれた。
このまま、ずっと傍にいてくれたらいいのに……
目が覚めると自分の寝室の天井が目に入った。泣き疲れた私は赤子の様に眠りに落ちてしまったらしい。
「真子。目が覚めたのかい?」
ドアが開く音と同時に声がした。母はまだ家にいたのか。私は喜びを胸に、勢いよく体を起こしてドアの方を向いた。しかし、そこにいたのは母ではなく祖母だった。
おにぎりとコーヒーカップに注がれたみそ汁を、お盆の上に乗せて持っていた。長い時間寝ていたのだろうか? 私の空腹を気遣ってくれる祖母の姿を見ていると、急に自分がみじめに思えてきた。
母とは一年に一回しか会えない。父もいない。それが原因で学校ではいじめられている。そんな可哀そうな少女を、憐れむような祖母の姿が嫌だった。
視線を逸らすと机の上に置いてある卓上鏡と目が合った。目は赤く腫れていた。みっともない姿。自分の顔が、より一層みじめさを助長しているように思えた。
「お母さんは?」
零れ落ちるように吐き出した言葉に、感情の全てを乗せる。今にも泣きだしそうなか細い声。怒りや不安。
自分の中の負の感情を、すべてごちゃ混ぜにしたような声。
「帰ったよ……」
祖母は申し訳なさそうな顔でそう言った。決して祖母が悪いわけではないのだが。
「なんで? お母さんはどうしてこの家にいられないの? どうして一緒に暮らせないの?」
強い口調で、祖母におもいきり言葉を投げかけた。
その言葉が、祖母を困らせることは分かっていながら、言葉を堪えることが出来なかったのだ。
「お母さんにはいろいろ事情があるんだよ。ほら、冷めないうちにお食べ。」
祖母は誤魔化すように私に食事を促した。
「いらない。」
ぶっきらぼうにそう答える。
怒りとも不安とも取れない複雑な思いが、体の中に充満している。自分でも分からないこの感情は、自分が何者なのか。何を言いたいのか、何と言って欲しいのか。何も分からず、自分という存在をあやふやにさせていった。
「大嫌い。」
思わず口出たことは、きっと一番言ってはならない言葉だった。勝手に口から出てきてしまったのだ。
祖母は目を丸くして驚いた後、視線と肩をガクッと落とした。悲しませてしまったのだ。
もちろん、祖母の事が大嫌いだったわけではない。母のことでもない。
では、何かが大嫌いだったのか。それはわからない。
例えるなら、目の前にどす黒い霧が充満していて進んでも進んでも晴れない。目の前に何があるのか、今どこにいるのか。
出口のないトンネル。いや、進む方向すらわかっていなかったのだからそれ以下か……
とにかく、何も分からない。というのが一番しっくりと来る言葉だった。
祖母は私に向けて手を伸ばしたものの、戸惑った表情でその手を下げて、部屋から出ていった。結局、その晩ずっと枕に顔を押し付けながら泣き続けた。
裕福になりたいわけじゃないのに。両親がいて、祖父母がいる。そんなありふれた普通の生活がしたいだけなのに。
九回目、いや物心がついてからの記憶しかないから、六回目かな。とにかく数少ない母との大切な時間を台無しにしてしまったこと、祖母を傷つけてしまったことを、ひたすら後悔した。