3.それはこれからの話
幾日かして。
都内のカフェでアイスティーを傾けながら、私は人を待っていた。
「よう、ましろー!遅れて悪いな!」
陽気な声がする。
「スワさん酷いじゃないですか、女の子を待たせ……何でそんなにズタボロなんですか、髪も葉っぱだらけで」
「あぁ?あーこれは……転んだ」
嘘をつくにしてはあまりにもベタすぎないか。私は思わず息を漏らして笑った。顔には三本引っ掻き傷が入っている。大方、高いところから降りられなくなった猫でも助けていたのだろう──それもそれで、絵に描いたようにベタだ。でも、彼はそういう人だ。
スワさんは対面にどかっと腰掛けるなり、メニューも見ずにオレンジジュースを頼んだ。水を一息に飲み干し、雨に濡れた犬のようにバタバタと葉っぱを払い、それから私に向き直った目は第一声より幾分か据わっていた。
だから私も、いきなり本題を切り出すことにした。
「まどろっこしいのは、お嫌いですよね」
「分かってんじゃねーか」
ちゃんと話す、苦手だけどな、とスマホに送られてきたメッセージを眺めて、画面を消した。そのつもりで来たからこそ、きっとこの目をしている。
一息、ゆっくりと息を吸って吐く。その眉は尻下がりになっている。
私は、ただ一言「何故ですか」と訊いた。
一瞬の躊躇もなく、答えは返ってきた。
「ここで握り潰されたら、終わりだからだ」
そう告げる口調に、やはり迷いはなかった。明確な意思があって、そうして、言葉足らずだが確りとした地盤の上に根を下ろしたかのような断言だった。
「つまりそれは、他に認めてもらう方法がない、と?」
「や、順序は逆だ。これを受け入れなければ、『この先他に方法が生まれる機会』が無くなっちまうっつーか……つまり、諦めることの方が百倍容易いように出来てんだ、話が」
運ばれてきたオレンジジュースのストローを加え、一口も嚥下せずにブクブクと吹いている。空の一点を見据えた目は、慣れない言語化という作業にキャパオーバーになっているように何も映していない。
私が真意を掴めずなにも言えないでいるのを見たスワさんは、ストローから口を離して顔の前で手を組んだ。
「うーん……ましろ、じゃあ訊くけどよ」
「はい」
「あいつら、本当にこんな条件であぶろの手綱を離すと思ってんのか」
その言葉を聞いて、私は急に周囲の雑音が大きく聞こえてくるような心地になった。
冷静になると、不可解である。警戒を解き特定メンバー以外との活動を可能にしようという方針であるはずなのに、『私たちが無力化する』前提の対策をしたところで何の意味もない。むしろ、彼女について何も知らない第三者で試すべき訓練だ。
「確かに、変、ですね。誰でも無力化できます、と証明したいなら私達を選ぶ意味がない」
「だからあいつらの一番メインの意図は、無理難題を吹っ掛けて俺達のどちらかから一言でも『現状維持』の一言を引き出すこと。次いで、俺達に全部を押し付けてがんじがらめにしておくこと。これは多分、間違ってねぇ」
そういうことであれば、何となくあの言い方の意味も分かる。
わざわざ私達を分断して充分な相談期間も与えずに話を持ちかけてきたのは、私達に腹を括らせず有耶無耶な回答をさせるため。仮にスムーズに事が運ばなくても、結果的に安牌を選ばせるためだ。
「……じゃあ、どっちみち無駄ってことなんですか」
「そうされんのを防ぐために、約束させた」
スワさんは鞄からクリアファイルを取り出し、中身が飛び散りそうな勢いで机に放った。机を滑り、慌てて差し伸べた私の手に収まって止まる。
促されるようにしてファイルの中身を確認すると、そこには本日付で郵送されてきた契約書が存在していた。ご丁寧にG6の幹部印まで押されている。
要約すると、こうだ。
『G6は彼女の調査に対する、可能な協力を惜しまないこと』
『科学的根拠に基づき、明確に彼女の無効化手段が示された場合以後一切彼女に不当な危害を加えないこと』
『この先、三人の意思に基づき文書の正式な改訂を以て立証を中断する手続きが行われた場合、本件を現状維持とすること』
私は再び首を傾げた。
「これ必要ですか、三つ目」
先ほどの文脈からするに、我々は現状維持という言葉を口にしてはいけないはずだ。であるというのに、敢えてそれを明文化させた意味とはなんだろうか。
「後の先から先の先にするための切り札みてぇなもんだ」
うんうん唸りながら、スワさんは言葉を数言言い換えては消し、呟いては取り消した。私のじっと見守るなか、考えて、考えて、そして途中で動きを止めた。目が机を映すと同時に、呆然として、腕から力が抜けていた
彼はそれでも、例えば、と努めて平静に前置きした。
「案外な、感情的な言葉っつーもんは、世間で言われてるほど重くねぇんだ。俺だって口をついて言いたくなったことを言っちまうことがある」
彼は申し訳なさを含んだ目でこちらを見た、ように思えた。但しそこにしおらしい表情はなく、影の落ちた、内にうっすらと打算的な自身への唾棄を含むような目付きをしていた。
「だからその……もしお前らが何かに耐えかねてうっかり諦めを口にしようが、騙されようが──俺だけでも足掻いてやるつもりだった。ヒーローで"居させる"つもりだった」
そう言ってから口を結んだ。固く閉じて、こわばっていた。
恐らくだが、こうやって冷静に一つ一つの要素を言葉にして飲み込み直すまで、スワさん自身もきっとここまで自身が打算的に動いているとは思ってもいなかったのだろう。幾ばくかの困惑が混ざったような様子は、きっとそこに由来する。
しかも、これはとてつもないエゴである。私や、あるいは本人でさえ、その瞬間に於いては心からそう望んだとしても、己がそれを止めるという意思。恐らく本当にその時その場ではただの一人同士の意地のぶつかり合いになる。その重きは平等であるべきだろう。それを分かっていて、自分の方を守る盾を置いたのだ。
「……ヒーロー、今、足りてねぇだろ。基本的に」
唐突ともとれる言葉を呟く。
「そうですね」
「ヒーローが一人一人散らばって行くだけで、より広い範囲に居る何十人か、下手すると何百人何千人と救える。あいつにもそれだけの力がある」
私ははっきりと頷いた。事実だけを述べる時、それは疑う余地がない。
「ただ、俺達の元を離れていく事が目的のあいつに、それを期待し続けるのは……完全に、ただの俺の願いだ」