バスガイドの青い制服・・・
それは・・・盛岡市にある蕎麦会館での出来事でした
テレビ番組の収録がされるというわんこそば大食い大会に成り行きで出場することになってしまったバスガイドの小比類巻夏帆は、会社から優勝して会社をPRしろという社命の元、どう言うわけか優勝してしまいました。
そしてこれから、朝からの空腹と打って変わって満腹千万の身体が重くなったそんな夏帆の午後の業務が始まろうとしています。
それは、平成に入ったばかりのスマホもインターネットもなかった頃の物語です。そんな時代のバス会社にとって欠かすことのできない業務無線。併せて高速道路でのトラブルになくてはならない高速道路路肩の非常電話。今回、この二つの通話手段が活躍することになります
それでは・・・
会場を後にした夏帆の身体は重かった。先ほどの賞金を入れた正鞄がこれほど重いのか、自分自身の身体が重いのかはわからなかったが、箱詰めされた景品をトランクに積む際に胃の中の物がリバースしそうになるほど、とにかく身体の中がいっぱいだった。
そのうえ今朝と正反対にスカートのウエストがキツく、今すぐにでもウエストのホックを外したい衝動に駆られているが、それは仕事中であることから諦めるしかない。そんな夏帆の中に身体が重いということについて、どうでもいい疑問が浮かぶ。
『身体が重いってことは言ってみれば身重ってことだよね・・・身重ってことは妊娠ってこと?妊娠するとこんな身体が重くなるってことなのかな?』
夏帆は未だかつて自分の身体の重さというものを意識したことはなかった。だから余計にどうでも良いことを考えてしまうのかもしれない。
ちなみに添乗員の佐倉が収録中や収録後に何度か三五八交通に連絡を入れ専務のいう「ハコガエ」の真相を確かめようとしたが、事情の分かる人が席を外していたりして未だその真相が掴めない状況には変わりなかった。その中で渡部運転手が会社の整備課から掴んだ情報というのが、エンジンの調子の悪いスケルトンの乗客をどこかで専務が運転するエアロに移し替えるということだった。しかし、その場所などの詳細な情報がなく整備長と二人で盛岡方面に向かったということだけしか分からない。
そんな会話の前に、バスに戻った夏帆を見た渡部が固まってしまったのは言うまでもないが・・・
その後、蕎麦会館を後にしたエアロクイーンの車中では夏帆の挨拶が始まっていた。
「みなさま・・・わんこそばはいかがだったでしょうか?盛岡のわんこそばは、味わうというよりもテンポよく食べ続けるというところに醍醐味が・・・・」
という具合に始まった挨拶だったが「夏帆ちゃん優勝おめでとう!」というお客様の声でかき消されていた。
「ありがとうございます・・・どう言うわけかテレビに出て、しかもわんこそば大会で優勝しちゃいました!これも皆様の声援のおかげです・・・」
そんな挨拶をする中、蕎麦会館から少しばずれた国道沿いにあるお土産屋さん手前の道路路肩に夏帆が乗るエアロクイーンがハザードランプを点滅させて停車しようとしていた。ここでは乗客がお土産を買う時間を利用して、新幹線の始発駅である盛岡駅の新幹線入線時間に合わせた時間調整も行われる予定の場所ともなっている。
「みなさま・・・食後の散策も兼ねましてお土産屋さんをご覧ください・・・わたくしこれからバスの誘導をしますのでちょっと失礼します・・・」
夏帆がそんな挨拶をした後、お土産屋さん入り口の手前でドア開閉スイッチを操作しながら渡部が告げた。
「夏帆ちゃん・・・お願い!」
そしてドアが「ニー・・・」と言いながら開いた瞬間、左手ににんじん棒を持った夏帆がドアから飛び降り、車道と歩道の間にある植樹帯を飛び越え歩道に着地するとすかさずバスの後方へダッシュする。その時、夏帆は自分の身体の重さとバスの12メートルの長さを憂いていた。
『バスってこんなに長かった?これってキャッチャーとピッチャー間の距離だよね・・・』
そう思いながらバスの後方で片側二車線道路を走って来る車たちに向かって大きくにんじん棒を振り、身体を張って後続車を停車させた。そしてそのクルマの運転手に頭を下げながら業務無線の通話スイッチを押す。
「ザザッ・・・お借りします。小比類巻です・・・後方のクルマ止めましたのでお願いします・・・ザザッ」
「ザザッ・・・夏帆ちゃんありがとう・・・ザザッ」
その通話の後バスのクラクションとギアを入れた時に鳴るエアの抜けた音を残しゆっくりと動き出す。そしてその大きな車体は一度大きく右にハンドルを切って片側二車線をいっぱいに使い、その鼻先を中央分離帯を掠めながら右側の左側のお土産屋さんに小砂利をすり潰すような音を立てながらゆっくり入って行く。その左側の後輪は縁石を踏むか踏まないかのギリギリのラインだ。
そんな後輪が縁石を通過していても、その車体後部が道路に残っている・・・それが大型バス。
このお土産屋さんは入り口が狭く大型観光バスが切返ししないと入れない難所となっていた。ベテランの渡部運転手はたとえスーパーハイデッカーたるエアロクイーンでも一度で入ることができるが、慣れない運転手の場合例え平バスであっても3回くらい切返しするのが普通の場所であった。
三五八交通の所有する短尺車(全長8メートル)であれば1回で入れることはバスガイドの中で共有された情報であったが、今回夏帆の乗務するような一般的な大型観光バスである長尺車(全長12メートル)はそうもいかない・・・。
そんなことから交通量の多い道路でのバック誘導もバスガイドにとっては命懸けという場所だ。
その後、バスの後方で停車してもらったクルマの運転手に深々と頭を下げ交通開放した夏帆は、駐車場へ入った後のバック誘導のためバスのを追いかけ猛ダッシュする。しかし・・・クルマで走る分には全く気にならない程度の緩い上り坂がこんなにキツイとは・・・
こんな時とことんバスガイドには体力が必要だと痛感するところであるが、走ってばかりいるので仕事で履いている合皮のローヒールがすぐにダメになってしまうことから、スニーカーで仕事ができないかと真剣に悩んでしまう夏帆だった。
この時だ。夏帆の後方から大型バスのエンジン音が近づいてきて追い抜き間際にクラクションを鳴らして行った。そのバスは修学旅行中に立ち寄った小岩井牧場でジンギスカンを食べ終え、市内のお土産屋に向かう3台口の三五八交通のバスだ。そして夏帆が肩に掛けている鞄の中から「ザザッ・・・夏帆ちゃんお疲れ様・・・ザザッ」という業務無線が入る。
そのバスの運転手は、本日盛岡市内にいる三五八のエアロクイーンの乗務員の組み合わせが渡部と夏帆であることを知っているようだった。
そんな3台口は一昨日良子先輩と後輩の古賀が急遽掃除をしたエアロを先頭に、その後ろを追いかけるように走る2台のスケルトンの姿・・・
しかも、2台目のスケルトンが黒煙を吐きながら走る中、3台目のスケルトンが黄色みかかった白煙を吐いていて、その通り過ぎた後の排気ガスの匂いがとてもきな臭く普通のディーゼルエンジンのものではないことがすぐにわかった。しかも普段聞かないような雑音混じりのエンジン音が轟いている。
その時、白煙に隠れよく見えないバスの後ろ姿を見送った夏帆の脳裏に麻美子さんの言葉がよぎる。
「壊れる直前に黄色い排気ガスを吐く・・・」また、「異常燃焼で排気ガスが黄色くなる」とも・・
しかも、先ほどチラッと見たその3台目のヤバいスケルトンのドアデッキで手を振る古賀の姿が・・・
「なんで古賀がスケルトンに乗務してるの?古賀が見習い乗務するバスってエアロに変更したはずじゃ?」
そんな疑問を感じつつも夏帆は鞄の中から無線を出して緊急事態を伝える。
「ザザッ・・・お借りします。こちら三五八の小比類巻です。運転お疲れ様です。今ほどの3台目のスケルトンがヤバい白煙吐いてますが・・・それにすごい匂いです・・・どうぞ・・・ザザッ」
そんな問いかけに応じたのが3台目のスケルトンを運転していた松田運転手だった。そんな松田運転手がバリバリの秋田弁でそれに応える。
「ザザッ・・・こちら三五八3号車松田・・・エンジンの力がなくって帰りの高速が厳しいもんで、帰り道の滝沢パーキングで専務が別に準備したエアロにハコガエする予定・・・今のところなんとかタレないでいけてるから大丈夫。心配ありがとう・・・どうぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・わかりました。それではご安全に・・・ザザッ・・・」
この時、初めて専務が盛岡へ向けて出発することとそのハコガエが滝沢パーキングエリアで行われることが分かった。調子の悪いスケルトンの代替えバスの手配も出来ていることから、この件についてはもう心配いらないはずだったのだが・・・
その後お土産屋さんで運転手の渡部と共に例の謝礼を受け取った夏帆は上機嫌だ。お腹の調子も戻って来たし、このお客さんを盛岡駅まで送ればこの業務は終了となる。その後盛岡インターチェンジ近くにある盛岡市営バスの車庫の一角を1時間程度お借りして次の業務に備えバスの軽整備を行う予定となっていたのだが、そこで思いもしないことに巻き込まれることなど思いもしなかった。
そしてお土産屋さんを出発した後・・・
「昨日仙台駅で皆様をお迎えしまして丸二日ご一緒させていただきました。松島の瑞巌寺や遊覧船で丸島の島々・・・また途中、立ち寄りました平泉では・・・」といった、今回の道程を振り返ることを含めた最後の挨拶をしていた。
それとなんと言っても今回の旅のハプニングとしてお客様に謝らなければならないことも・・・
「予定外のテレビ収録にお付き合いさせてしまって申し訳ありませんでした。本来、わたくしも皆様と同席し収録の様子を見学させていただく予定でしたが、逆に出演する立場となってしまいお見苦しい場面をお見せすることになってしまい大変申し訳ありませんでした。なお、関係者に確認しましたところ東京地方での放映日は・・・」
国道を順調に走行し市内に入ったエアロクイーンは間も無く盛岡駅に到着しようとしていた。そんな車中でそんな最後の挨拶を行う夏帆だったが、どんな団体様でも数日一緒に行動を共にすると別れが惜しくなるものだ。
そして、盛岡駅前のバスターミナルでニーリングしたエアロクイーンから乗客たちが次々と降りてきていた。
「忘れ物などありませんか?トランクにお預けいただいたお荷物に付けたタグをお確認いただきお間違えないようお願いします・・・」
そんな中、夏帆に向かって添乗員の佐倉が別れの挨拶をする。
「今回の団体様っていろんな方の寄せ集めだったから心配だったんだけど、なんのかんの言っても楽しかった。これって夏帆ちゃんと一緒だったからだよね・・・またどこかで一緒に仕事したいな・・・」
「はい!わたしもです!」
「これ、わたしの名刺。東京に遊びに来た時は連絡して・・・よければ泊まって行ってもいいから・・・」
そう言いながら佐倉の差し出した名刺の裏には佐倉の住んでいるマンションの住所と電話番号が記されてあった。
「えっ?浦和って埼玉じゃないですか?てっきり都心に住んでるのかと思いましたが・・・」
「夏帆ちゃん。地方出身者が埼玉に住んでる場合っていうのは東京に住んでるのと同じってことなの!それで、都心のマンションっていくらするのか知ってる?」
「いや・・・」
「とても一般庶民が住める金額じゃないの・・・だから埼玉ってところかな?わたしのところって賃貸だけどそこそこ広いからいつでも来ていいから・・・」
「はい!絶対に行きますので待っててください!」
「その前に結婚式に呼んでくれてもいいからね!」
「また・・・そんなこと言って・・・」
この時の佐倉の表情は、昨日の朝仙台駅前で初めて逢った時の不安げな表情と打って変わって明るい表情となっていた。そんな佐倉に夏帆は最後の挨拶をする。
「今回はお世話になりました。またいつかお世話になる時があると思いますのでその時はよろしくお願いします・・・」
「お世話させてね・・・っていうか、色んなこと期待してるからね・・・それじゃ!」
そしてそんな意味深な言葉を残した佐倉を先頭に駅舎に向かう乗客の後ろ姿に深々と頭を下げる夏帆だった。
いつもながら乗客の降りたバスの車内は広く見えるものだ。休憩や宿泊の時に乗客を降ろしてもこんなに広く感じることはないのに・・・夏帆は業務が終わるたびいつもこう思う。そんな夏帆の想いと関係なしに、運転手の渡部は運転席左下にあるサイドブレーキを解除しフィンガーシフトと称されるミッションのシフトノブを軽く掴んでギアを2速に入れた。
バスはサイドブレーキを解除した時のエアの抜ける「プシュー」という音と、ギアを入れた時に小さく鳴る「キシッ・・キシッ・・」という音の後ゆっくり動き出す。
「左から歩行者が2名来ます。この歩行者が行ったらOKです・・・」
そんな夏帆の安全確認により駅前バスターミナルから出発したエアロクイーンは、次の業務に備え予定通り市内の大型ガソリンスタンドで給油していた。この業務が始まってから走行距離は約700Km、給油量は200リッターを超える。
そんな中、脚立に乗ったスタンドの店員が大きなフロントガラスに苦戦しながら拭く姿を運転席から眺めていた渡部運転手が、各席のゴミの回収を終えた夏帆に話しかけた。
「そういえばさ・・・お土産屋のところで走って行った3台口の3号車ってヤバくなかったか?・・・・アレってすでにエンジンが逝っちゃいそうな感じだった・・・」
やはりベテラン運転手だけのことはある。排気ガスの様子でエンジンの調子が分かるとは・・・
「でも滝沢パーキングで専務が待ってるし整備長も一緒だって・・・」
「でもさ・・・滝沢パーキングの手前の高速本線上で止まったりしたら救済のしようがないような気がするんだよね・・・オレって一回スケルトンでやってるからさ・・・盛岡インターチェンジと滝沢パーキング間の8Kmって結構鬼門でさ・・・」
「えっ?渡部さんって高速で止まったことあるんですか?」
「一昨年の夏に・・・」
「それってもしかして・・・」
「うん・・・今日の3台口と同じく修学旅行の生徒乗せててさ・・・小岩井からの帰り・・・あれは忘れもしない519キロポストのところでさ・・・」
「キロポストって路肩とか中央分離帯に書いてある数字ですね?」
「うん。東北自動車道の川口ジャンクションからの距離・・・」
「それ・・・習いました。そこが東北自動車道の起点だってこと・・・」
「それであと2Kmで滝沢パーキングってところで煙吐いて、バスの一番後ろの生徒がエンジンから火が出てるって騒ぎ始めてちょっとしたパニックになってさ・・・」
「その時どうしたんですか?」
「その時のガイドがなんとか生徒たちを宥めたんだけど・・・」
「それ分かります。一人騒ぎ始めると炎上したように一気に広がるんですよね?」
「そうなんだよね・・・でもその日って結構暑くてさ・・・エンジンが止まったらエアコン用の補助エンジンも止まっちゃって・・・」
「でも、スケルトンだから窓は空いたんですよね?」
「しばらく惰性で走ってちょうど入れた非常駐車帯で止まったから生徒たちは車内で待機してもらったんだけど・・・ちょうど風のない日で、窓開けても車内に入ってくる風と言ったら大型車が通過した時の排ガスまみれの臭い風でさ・・・」
「うわ・・・ソレ最悪・・・でも、よかったですね非常駐車帯にに入れて・・・」
「そうだよね・・・普通の路肩だったらどうしてもバスの車体が車道にはみ出すからね・・・」
「それって危ないですよね。漫然運転で追突事故が起きるって習いました」
「だから発煙筒が重要なんだよね・・・煙が出てれば誰しも『ん?』ってなるからね・・・」
「はい。それも習いました!」
「その立ち往生した時のガイドっていうのが独り立ちしたばかりの谷川ちゃんだったんだよね・・・」
「こだま先輩ですね?」
「そう・・・その谷川ちゃんに非常電話まで走ってもらって・・・」
携帯電話などないその当時は、高速道路本線上でのトラブルは路肩1kmごとに設置してある非常電話で道路公団に通報するしか連絡手段がなかった。
「猛暑の中走ったんですね・・・こだま先輩・・・」
「バスの後ろに発煙等撒いてもらって、それから非常電話で道路公団経由で会社に連絡してもらってさ・・・それで会社経由でレッカーと代替えバスの手配をしたって結末なんだけど・・・」
「代替えバスって・・・どこから?」
「うん。これから向かう盛岡市営バスの盛岡営業所から出してもらって・・・」
「盛岡インターチェンジの近くですもんね?」
「たまたま空車のバスと運転手がいたから助かったようなもので・・・」
「わたしも一度、盛岡駅送りの帰りの回送でやったことあります・・・」
「でもさ・・・その時のスケルトンがダメになって担当車両がこれになったから結果的には良かったんだけど・・・」
この時夏帆は胸騒ぎを感じていた。あのスケルトンが高速本線上で立ち往生しようものなら、非常電話まで走るのはあの古賀であることが決定されていたからだ。
その後盛岡市営バスの車庫に到着したエアロクイーンの運転席に設置してある業務無線がガサついた通話を拾った。この時夏帆に中に嫌な予感が込み上げる。
「ザザッ・・・こちら三五八3号車ザザ・・・バスが加速しない・・・路肩に停車させる・・エンジンが変な振動してる・・・あっ・・・エンジンチェックランプが・・・ザザッ」
「ザザッ・・・非常駐車帯まで行けそうか?ザ〜・・・」
「ザザッ・・・エンジン止まりましたが惰性でなんとかやってみます・・・どうぞ・・・ザザッ」
「ザ〜・・・・・」
「ザザッ・・・1号車取れますか?ザザッ・・・2号車聞こえますか?・・・・ザザッ・・・」
「ザ〜・・・・・」
それは盛岡インターチェンジから東北自動車道へ流入した三五八交通の3台口バスの一番後ろを走る3号車エンジンが止まって、惰性で非常駐車帯を目指しているという無線のやり取りだった。しかも前を走る1・2号車との距離が開いていく中、徐々に無線も通じなくなって行くいという最悪の状況・・・
そんな通話を聞いていた渡部運転手が夏帆に向かって問いかける。
「夏帆ちゃん。そろそろ食後の運動したい頃かと思うんだけど・・・」
「はい・・・いっぱい走りますよ!」
「それじゃ決まり・・・だな!」
「1時間勝負ですね?」
「そうだな・・・ここでの時間調整が1時間だからその時間で盛岡ICと滝沢ICを往復できれば・・・」
「そうですね・・・やってみましょう!」
そうと決まれば話は早かった。しかし・・・運行指示書にない路程となることと予定外の高速道路の利用は会社の運行管理者への申し出が必要だった。
「わたし・・・会社に連絡します!」
「分かった!オレは無線で3号車とやりとりするから・・・」
その会話が終わらないうちに夏帆はバスを飛び出し、市営バスの営業所へ飛び込んだ。
「電話貸してください!」
そうして飛び込んだ営業所では夏帆の顔を見た事務員が夏帆をガン見しているのが分かった。しかもそのうち数人が二度している。それは、夏帆のメークがあまりにも凡人離れしたモノだったからだ。
そして何か言いたげな事務員に事情を説明して借りた黒電話で会社に電話を入れた夏帆は、3号車が動けない状況で高速本線上に停車していることと、たまたま近くで待機中だった自分達のエアロクイーンで乗客の救済に向かうことを伝えた。
その間に運転書の渡部は業務無線で3号車運転手の松田と情報交換をしていた。そんな時だった。
その松田運転手がしきりに新人バスガイドを一人で非常電話まで走らせたことを心配していた。しかもそのガイドがなかなかバスに戻ってこないことも・・・
この時渡部の脳裏に最悪な事態がよぎる。
「まさか・・・」
そこへ戻ってきた夏帆は、会社から次の業務に支障がなければ現場判断に任せると言われたことを渡部に伝えた。
「うん!了解!夏帆ちゃん・・・ちょっと飛ばすけどいいかい?」
「もちろんです!」
この時の計画というのは、スケルトンが立ち往生している現場のすぐ前に渡部の運転するエアロクイーンを停車させ、現場で待っている生徒達を車道に出さずしてエアロクイーンへ乗せ替え、代替えバスが待機している滝沢パーキングまで移送させるというものだ。とにかくその生徒達を高速道路脇で待たせるという危険な時間を少なくしたいというそんな思いだった。
そして渡部の運転するエアロクイーンのメーターから時折ブザー音が聞こえていた。それは電気ポットのお湯の沸いた時のブザーでもエンストの時のブザーでもない、エンジンの回転数が規定回転を超えると鳴る警告音だ。ベテラン運転手である渡部も気が焦っているようだった。
そしてそれまで何か思い詰めたような表情をしていたそんな渡部だったが、盛岡ICの料金所で受け取った通行券を夏帆に渡した時に大きく息を吸った。
「夏帆ちゃん・・・ガイドの後輩の古賀ちゃんって知ってるよね?」
そう聞かれた夏帆は、通行券をガイド席前のクリップに挟みながらそれに答えた。
「はい・・・3号車に乗務してるのを見ました。本当は中村先輩の見習いとしてエアロに乗務するはずだったんですが、どうしてスケルトンに乗務してたんでしょうか?」
「さっき無線で聞いたんだけど、どうやら出発直前にバスガイドの変更があったらしくって、中村ちゃんがチーフで1号車なのは変わりないんだけど・・・本当は見習いで中村ちゃんと一緒のはずだった新人の古賀ちゃんが急遽3号車担当になっていきなり独り立ち・・・だったらしい・・・」
「えっ?いきなりですか?勉強はしていたとは思うんですが、いくら修学旅行でもいきなりじゃキツいと思いますが・・・」
今年高卒の新人としてバスガイドとなった古賀は、この業務の少し前にエンちゃんの大学で行われたエリエンテーリングでバスガイドとして乗務していた。でもそれは、休息時間の案内とバック誘導がその主な業務だった。あと、言い寄ってくる大学生たちをあしらうというのもその業務に含まれるが・・・
そんなことはさておき、いきなり案内業務を任された古賀を心配する夏帆の質問を受けた渡部運転手の表情はすぐれない。
「それはそうなんだけど・・・」
「まだなんかあったんですか?」
「無線で聞いたんだけど、非常電話まで走って行ったのはいいけど・・・」
「けど・・・どうしたんですか?」
「戻ってこないらしいんだ・・・」
「えっ?・・・まさか事故に巻き込まれた・・・とか?」
「考えたくないけど・・・その可能性もゼロではないってことだな・・・」
「古賀・・・」
この時夏帆が胸騒ぎを覚えた時、高速道路本線に合流したエアロクイーンがエンジンを唸らせ加速を続けた。そして513キロポストを通過しようとした時、はるか先のゆるい右カーブの先の路肩に左側に傾いた形で停車しているバスの姿を発見する。
「うわ・・・オレが止まった所よりだいぶ手前だ!ん?あちゃ〜・・・非常駐車帯の手前か〜・・・こりゃちょっと危ないな・・・」
そう呟いた渡部運転手が業務無線のマイクを握り口元へ寄せた。
「ザザッ・・・お借りします・・・こちら三五八5007の渡部・・・3号車の松田君取れますか?・・・ザザ・・・」
「ザザッ・・・こちら三五八の松田・・・メリット5です・・・どうぞ・・・ザザッ・・・」
「ザザッ・・・今からこちらのバスをそちらのバスの前方に停車させます・・・それでそちらのバスのすぐ前までバックさせるので・・・こちらのバスが停止するまで乗客を動かさないでください・・・ザザッ・・・」
「ザザッ・・・了解です。非常駐車帯の手前で止まってしまったんで・・・追突の可能性があるので、生徒さんたちはガードケーブルとコンクリートの壁の間で待機してもらってます。担任の先生に生徒さんの誘導手伝ってもらいました。・・それと、古賀ちゃんがまだ・・・ザザッ・・・」
「ザザッ・・・了解です。とにかく今しばらくそのまま待機ください・・・ザザッ・・・」
そんなやりとりをしなから前方を見ると、今まで何も表示されていなかった制限速度の表示板に50の文字が浮かび上がった。それは、ガイドの古賀が非常電話で道路公団にバスの故障を伝えたことによるものだ。
そして近づいてきたその立ち往生しているスケルトンをよく見ると、その脇のガードケーブルの外側に生徒たちが整然と並んでいる。
そんな様子を確認しつつハザードを点滅させ減速しながら故障した3号車を追い抜く時に、夏帆はその停止しているバスの後方に会社の社則に則った配置で発煙筒と三角表示板が設置されているのを確認した。これもまた、その故障したバスのバスガイドである古賀が置いたものだ。
そして路肩に寄せて減速している最中に夏帆は前方の異変に気づく。それはバスを追い越して走っていった車たちが300m先くらいで先で一瞬ではあるがみんなブレーキを踏むのだ。
「渡部さん・・・この先に何かあるんでしょうか?」
「落下物?それとも・・・」
この時、夏帆は自分の心臓が飛び出すくらいの鼓動を感じていた。そして目の良い夏帆が目を凝らすと、管理用施設と表示されている標識のはるか向こうの路肩に設置されているガードケーブル前に何かを見つける。
それは、丸められたブルーシートのような青っぽい何かだ。
「えっ?まさか・・・渡部さん。降りますので一旦停めてください!」
「うん。分かった。バックはバックモニターでなんとかやるから見てきて!ただし道路の一番外側を気をつけて!」」
そう言って渡部はドアの開閉スイッチを操作した。
「わかりました!」
そう返事をした夏帆は業務無線の入った鞄を肩にかけ、まだ止まり切らないバスから飛び降りその青い物体目掛けて全力疾走した。すると程なくして路肩の草に引っ掛かるようにして赤い帽子が転がっているのを見つける。それを手にした夏帆の心臓の鼓動がさらに強くなる。
「これって、古賀の帽子・・・」
夏帆はそれを片手に先ほど見つけたブルーシートらしきモノに向かって全力疾した。そして走りながらだんだん近くなるその正体を見た夏帆の心臓が凍り付くくらいの衝撃を受ける。
遠くから見て丸めたブルーシートように見えたソレは・・・道路路肩に横たわる三五八交通バスガイドの青い制服の背中だった。
「古賀〜・・・!」
夏帆はその時非常電話前の路面で横になってうずくまる古賀の姿を発見したのだ。
「古賀!古賀!まさかお前クルマに・・・」
そう叫びながら古賀に駆け寄った夏帆に対してその古賀が蚊の鳴くような声で応える。
「すいません・・・轢かれたわけじゃないので心配しないでください。ただ、お腹が・・・・」
「古賀!お腹が痛いだけなんだな?ケガとかじゃないんだよな?」
夏帆がそう問い正した古賀の額からは脂汗が・・・
「はい・・・怪我はしてません。ただ・・・転んでストッキング破いちゃいました・・・あと、吐いて制服汚しちゃいました・・・あと、帽子も無くしちゃって・・・すいません・・・」
「制服なんて洗えばなんとでもなるから心配するな!帽子は拾ってきたから大丈夫だ!」
「ありがとうございます・・・でも・・・どうにも身体が動かなくって・・・」
「そんなのはどうでもいい!まずはお前の安全確保が一番だ・・・」
そこで夏帆は鞄から業務無線を取り出し口元に寄せた。
「ザザッ・・・お借りします。渡部さん取れますか?どうぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・こちら渡部・・・現在スケルトンのすぐ前に停車・・・それでどうだった?・・・ザザッ」
「ザザッ・・・青く見えたのはやっぱり古河でした・・・ザザッ」
「ザザッ・・・それで古賀ちゃんは無事か?・・・ザザッ」
「ザザッ・・・クルマに轢かれたわけじゃないんですけど・・・腹が痛いって苦しんでて・・・ザザッ」
「ザザッ・・・分かった!生徒たち乗せたらすぐに拾いに行くからそこで待機!・・・ザザッ」
「ザザッ・・・了解しました。お待ちしております。ご安全に・・・ザザッ」
夏帆は渡部との無線のやり取りの後古河を引き起こし、腕を肩に乗せて立ち上がらせようとした。しかし、制服が砂まみれでしかも胸の辺りが吐いたもので汚れているのでどうやって抱えるのか判断に迷うほどだった。そんな時だ。その抱えた古賀が蚊の鳴くような小声で囁いだ。
声で夏帆先輩だと思ったんですが・・・制服は三五八交通みたいなんですが・・・先輩のお名前が分からずすいません・・・」
「バカ!わたしだよ!小比類巻だよ!」
「えっ?だって夏帆先輩の顔じゃない・・・」
「訳あって撮影用のメークになってるだけ!正真正銘の小比類巻夏帆だよっ!」
「じゃ・・・なんでそんな夏帆先輩がここに?」
「無線で古賀が戻ってこないって聞いて・・・」
「すいません。心配おかけして・・・わたしってつくづくバスガイド失格ですよね・・・ろくな案内もできなくて生徒さんにソッポ向かれ最後にこんな・・・」
「いや・・・お前はキチンとバス後方の危険回避をやって、しかもこんな遠い非常電話まで走ってキチンと道路公団に連絡を入れている。キチンと仕事してるから立派なバスガイドだ。まだ見習いなんだから、急に案内しろって言われても出来なくて当たり前だろ!でも、なんでこんなに体調が悪いのに無理して・・・」
古河を心配した夏帆は矢継ぎ早に古河を問い正した。しかし、それを聞いた古賀は眉間に皺を寄せ生唾を飲み込んでやっとのことでそれに応える。
「す・すいません・・・昨日の朝から胃の下辺りがムカムカしてたんです。気持ち悪くて食欲もなくて最後にはバス酔いまでしちゃって・・・しかも今日のジンギスカンもちょっとしか食べられなくって・・・」
「昨日の朝から具合が悪かったって?・・・じゃ、なんで出庫前点呼で申し出なかったんだ!」
「だって・・・そもそも3号車に乗るはずだった由香先輩が生理痛で乗務できないってなって・・・」
「だから見習いで中村先輩と一緒に1号車に乗務するはずだったお前が3号車に回されたってことか?」
「そうなんです・・・だから言い出せなくって・・・すいません・・・」
「まさかお前も生理痛ってわけじゃないんだろうな?」
「わたしって生理が重いこともなくって・・・あっ・・・そういえば生理・・・しばらく来てません・・・」
「どれくらい遅れてるんだ?」
「覚えていません・・・」
「おまえ・・・まさか・・・」
この時夏帆の脳裏に高校時代のこだま先輩の顔がよぎる。しかも、一昨日の夜にこの古賀は避妊をカレシ任せにしているとも言っていた。でも、こんなところで苦しんでいる古河を問い正したところで何の解決にならない。そんな夏帆はそれは勝手な思い過ごしであると自らに言い聞かせ病状の確認を行なう。
「古河・・・腹が痛くて気持ちが悪いってことで良いんだな?今までこんなことになったことはあるのか?」
「すいません・・・こんなにお腹が痛いのは初めてです・・・」
そう答える古河の額から新たな脂汗が滴ってくる。
「分かった!もう喋るな!もうすぐハコガエしたエアロが迎えに来るから・・・」
そう言いながら夏帆はアスファルトに倒れ込んでいる古河を再度抱えてガードケーブルの外へ運び出そうとしていた。一方抱えられた古賀は、身体を伸ばすと激痛が走る腹の痛みと闘いその額には次から次へと脂汗が垂れて来ている。
しかし、いつまでもこんな危険な道路脇にいられるはずもなく、一刻も早くガードケーブルの外の路肩へ古賀を運ばなければならない。
その時だ。夏帆の視界にハザードを出しながら減速して近づいてくる赤いクルマが映る。それは夏帆が何度か乗ったことのあるあのエンちゃんの赤いレビンだった。
「えっ?なんでこんなところに?」
するとその後ろから例の破裂音を轟かせながら白いセリカも近づいて来て、路肩ギリギリに寄せたレビンのすぐ後ろへ停車した。
「麻美子さんまで・・・」
するとそのセリカが停車した途端に何かが焦げたような匂いというか硫黄の香りみたいな匂いが夏帆の鼻を突いた。これが麻美子さんのいう燃調が薄い時に発せられる匂いなのだろうか?
古賀の腕を首に掛けた状態でそんなことを思っていた夏帆の目に、赤いハチロクを降りたエンちゃんが発煙筒を持ってセリカの後ろへ走って行き発煙筒を点火している様子が映る。するとそのエンちゃんの手元からピンクがかった白い煙が出ると同時に赤いレビンの助手席のドアが開いた。
そして、ガードレールとの狭い隙間で半分も開かないその助手席ドアから降りて来たのは20代中頃の綺麗な年上女性だった。
「えっ?・・・まさか・・・」
夏帆はこの時、以前エンちゃんに問いかけた質問を思い出した。
「彼女と遠距離になって辛くない?・・・オトコとして・・・」
それは二十歳そこそこの若いオトコが彼女に逢えなくなって身体的に辛くないか?という意味で尋ねたものだ。もちろんそれはオトコとしての生理的な事柄ではあるが、その時の夏帆はただただ純粋にエンちゃんのことを心配してのことだった。
しかし・・・このエンちゃんもまた若いオトコである。女子高生の彼女の時もそうだったが、夏帆も知らないところでいつの間にかオンナをつくるというのもその若いオトコなのである。
しかし、そのレビンから降りてきた年上女性はとこか様子が違った。それは古賀を見るその目が一般人離れしているというか・・・そしてその年上女性は、片手に丸めて持っていた赤い布切れを夏帆の目の前の路面に広げた。
「ここに寝かせて!」
いきなりそう指示された夏帆は状況が飲み込めないまま古河を言われたとおりその赤い布切れの上へ寝かせようとした。
「えっ?これってエンちゃんの赤いジャンパー・・・」
そんなことで躊躇する夏帆にその女性が急ぐように促した。
「早く!」
そして続けてそのジャンパーの上に寝かせられた古賀の問診を始めた。さらにセリカの助手席から降りて来た芽衣子さんが古賀の首に巻かれたスカーフと制服の胸のホックを外しながら叫ぶ。
「麻美ちゃん!レビンの後部座席から結衣の黒いバッグ持ってきて!」
「すぐ取ってくる!」
そう言いながらレビンの後部座席から黒いバッグを持ってきた麻美子さんからそれを受け取ったその女性は、その中にあった箱の中から聴診器を取り出しながら芽衣子さんに向かって叫んだ。
「バイタル!」
そう言われた芽衣子さんは古河の手を取り脈を測り始めている。そんなやりとりを見ていた夏帆は、その緊張感のある医者らしき女性と看護婦のやり取りから事の重大さを感じ取っていた。
その時古賀は意識が朦朧とした状態制服の裾のところから聴診器を入れられ、芽衣子さんに手首を掴まれている。その芽衣子さんは自分の腕時計を見て脈を測っているようだった。
その時、そんな様子を芽衣子さんの後ろから覗き込むようにしていた麻美子さんとその芽衣子さんの会話が聞こえた。
「これって・・・あの時のふうちゃんと同じ・・・?」
「出血の確認ができてないからなんとも言えないけど・・・もしかすると・・・」
その「ふうちゃん」という名前は、以前芽衣子さんが救急外来で働く病院に担ぎ込まれた女子大生の名前だった。しかも、その女子大生は妊娠初期の流産だったという話だったような気がする・・・
そんなことを聞いていた夏帆は、自分自身がものすごく動揺しているのを感じていた。そんな時、傍で呆然とその作業を見ていた夏帆に麻美子さんが近づいで挨拶を始める。
「あの・・・わたしは小林と言います。連れは従姉妹で看護婦ですので心配しないでください。あの赤いクルマを運転していた弟が上り反対車線を走っていた時に、偶然下り車線の路肩で人が倒れているのを発見しまして・・・盛岡インターチェンジの料金所ブース脇の駐車場で待ち合わせしてたわたしたちと合流して一緒に駆けつけました・・・ちなみに診察しているアレは医者ですので・・・」
そう言いながら麻美子さんはその医者と呼ばれた女性を指差した。するとその指さされた女性が診察しながら叫ぶ。
「まだ、研修医!」
そう怒鳴られた麻美子さんはヤレヤレ・・・というゼスチャーをしながら夏帆の目を見る。
「でも医者は医者でしょ?だから心配しないでください・・・ちなみにわたしはその彼女の従姉妹で、あの看護婦は彼女の姉です」
芽衣子さんは3姉妹だと聞いていた。その3姉妹の芽衣子さんの妹の一人である佐倉は現在新幹線で南下中・・・と言うことは、幼少期のエンちゃんに一番イタズラしていたという佐倉結衣という女性なんだろうか?
そんな事を思い返している夏帆にそう説明する麻美子さんの口調はなぜか他人口調だった。不思議に思う夏帆はそんな麻美子さんに声をかけた。
「あの・・・助けて頂いてありがとうございます。でもわたし・・・小比類巻・・・なんですが・・・花巻でお世話になりました小比類巻夏帆です・・・」
「ん?」
夏帆が麻美子さんにそう伝えると麻美子さんは夏帆の顔を二度見した。
「ん・・・・・・・?」
「どうかしましたか?」
「えっ?・・・本当に小比類巻・・・さん?それじゃ、さっき路肩に停まって学校生徒たちを乗せ替えてたあのバスって・・・あの・・・」
「はい・・・わたしが乗務してたエアロクイーンです!それにこれ見てください!」
夏帆はそう返事をしながら胸のネームプレートを掴んで、よく見えるように角度を付けた。
「なっ・・・なんで、そんな・・・ナンノちゃんみたいな・・・朝、別れた時はスッピンみたいな薄化粧だったのに・・・」
この時麻美子さんが思い出したそのナンノちゃんの顔というのは、麻美子さんの弟さんが後生大事にコレクションしていた南野陽子のCDのコレクションの中の1枚のCDジャケットだった。それは「はいからさんが通る」のCDで、髪をアップにして大きめの帽子を被るその表情が今の夏帆とよく似ていたのだ。
「いや・・・これにはちょっとした経緯がありまして・・・プロのメークさんに・・・」
そんな説明をする夏帆の顔を見て驚いていた麻美子さんだったが、ここに来て何か考える素振りを見せた。
「それじゃさ・・・ちょっとした提案なんだけど、わたしと初対面ってことにしてくれる?」
「どうして・・・?」
「あの子に悪いでしょ?・・・それに・・・」
「それに・・・なんかありました?」
「いや・・・昔あの子が持っていた定期券入れにナンノちゃんのブロマイドが挟まっていたな・・・って思って。多分今でも何かに入れて持ち歩いてると思うんだよね・・・」
しかもそのブロマイドが例のCDジャケットと同じ写真と来ているという・・・
「そっ・・・そうなんですか?」
「多分ね・・・いや、今の小比類巻さんって・・・あの子からしてみればドストライク・・・っていうか鼻血ものかも・・・」
「そっ・・・そうなんですか?」
「それで・・・わたしと知り合いだってことになれば、わたしがそんな化粧させたみたいになっちゃうでしょ?縁談進める身としては、まだちょっと慎重に行きたいってことで・・・」
この時、本人抜きで縁談を進めようとしていた麻美子さんと交わした昨晩の話を思い出して赤面していた。そんな夏帆の表情を見た麻美子さんがいたずらっ子のように囁く・・・
「えっ?何・・・顔赤くしてるの?あっ・・・あの子と突然の再会だもんね・・・ふ〜ん・・・これって運命かもね・・・」
「ここではそんなことは関係ないです。それは後日にして・・・今はあの娘のこと・・・」
夏帆が取り乱す姿を見た麻美子さんは、問診を受ける古賀とその脇にある非常電話を見て何かを思い出したようだった。
「あっ・・・そうだ!」
麻美子さんはそう言い残すと非常電話の扉を開け道路公団に電話を始めた。その時だ。先ほどまで夏帆が乗務していたエアロクイーンが「パン・・」と短いクラクションを鳴らして夏帆の脇を走りぬけて行った。スモークガラスから見える客室内には白い帽子を被ったたくさんの頭が見える。
「えっ?」
この時夏帆は助けに来てくれたはずのエアロクイーンに見捨てられたような気がした。もしかすると、そのエアロを運転する渡部が、ここに停車しているセリカとレビンを見てその2台に助けてもらえるものと判断して素通りしたのかもしれない・・・でも・・・
そして夏帆がそんな悲しい想いでそのエアロクイーンを見送った時、セリカの後ろへ発煙筒を置いて戻ってきたエンちゃんが戻ってきて距離を置いたところから夏帆の姿を見てなぜか会釈をしている。
「えっ・・・?」
さらにそんなエンちゃんはどう言う訳か夏帆と目が合うと顔を真っ赤にして俯いてしまってどこか挙動不審な動きもしている。そんなエンちゃんが夏帆を二度見した直後その重い口を開いた。
「えっ?もしかして夏帆・・・ちゃん?」
この時夏帆はものすごく久しぶりにエンちゃんと会った気がした。しかも、麻美子さん達からプライベートな生い立ちまで聞かせられているので逆にそんなエンちゃんの顔が直視できない・・・
「もっ・・もしかしなくても小比類巻です・・・」
そう言われたエンちゃんがオドオドした口調で応える。
「プッ・・プライベートと全然違う夏帆ちゃんを見たのは初めてで・・・制服姿も仕事用の化粧も・・・」
「違うの!この化粧は・・・」
「でも、その制服姿・・・すごく似合うし可愛い・・・」
そんなエンちゃんの顔は鼻血が出そうなくらい真っ赤だった。
そんなエンちゃんが愛おしくなる夏帆だったが、そのエンちゃんは制服フェチとも聞いていたので内心複雑・・・
そんな会話をしている時だった。今まで非常電話をかけていた麻美子さんが電話を切り振り返る。
「マドカ・・・救急車は滝沢インターチェンジまで来てくれるって!それでアンタのレビンの後部座席にその娘寝かせて・・・いや、トランクに?」
そう言われたエンちゃんが振り返った瞬間夏帆が声をかける。
「お願いします・・・」
「パ〜ン・・・」
その時だった。バスのクラクションと排気ブレーキの抜ける音が聞こえ、夏帆は聴き慣れたその音からそれを見ずともそれが観光バスであることが分かる。そこで夏帆が振り返りそのバスを見るとハザードを出しながら近づいて来るところだった。しかし、夏帆はここでものすごい違和感を感じていた。
それは、先ほどまで自らが乗務していたエアロクイーンより明らかに背の高いバスで、しかもフロントガラスが上下に分かれていてきらりと光る上側のガラスの下にワイパーも見える。
そして夏帆達の脇を減速しながら通過する間際にその車体側面を確認した。
「これって3軸のダブルデッカー・・・」
さらに夏帆達を追い越した先の路肩に停車したその迫力のある風貌の正体とは・・・
「エアロキング・・・」
そのエアロキングは夏帆達の50メートルほど先に一旦停車しバック灯が点灯すると同時にバックブザーが聞こえてきた。
「わたし・・・誘導します!」
夏帆はエンちゃんにそう言い残すとそのエアロキングのすぐ後ろまで全力疾走した。その時夏帆はいろんな意味で助かったと思っていた。それは古賀の搬送と・・・そのままエンちゃんと見つめ合っていたらダメになってしまう自分と・・・
そしてホイッスルにてバック誘導し終えたエアロキングの前側のドアから渡部運転手が飛び出してバスとガードケーブルの狭い隙間を走ってきた。
「滝沢パーキングで待機してた専務が、滝沢インターチェンジと盛岡インターチェンジを往復してきてくれたんだ。そして、乗客乗せ替えの終わったエアロクイーンを運転して滝沢パーキングで待ってるって・・・」
それは調子の悪い3号車が高速道路でついてこない事の無線報告を受けた専務が機転を効かせて滝沢インターチェンジと盛岡インターチェンジ間を往復してきたものだった。しかし、現場に到着すると本来エアロキングにハコガエするはずの乗客がすでに渡部の運転してきたエアロクイーンへ乗車完了していたことから、専務がエアロキングを使って本線上にいるはずのガイドの回収をするよう渡部に指示したものだった。
この時までは滝沢パーキングで乗客をエアロキングに載せ替える予定だったのだが、エアロキングから降りた渡部がその現場を見た時、その状況が一変する。
「とりあえず古賀ちゃんはコレに乗せて滝沢パーキングまで・・・」
そこまで言いかけた渡部がぐったりしている古河を見て息を呑んだ。
「えっ?・・・マジ?・・・こんなに重症?」
そんな驚きを見せている渡部に向かって夏帆が叫んだ。
「確かエアロキングの一階の座席ってすごくリクライニングしましたよね?そこに古河を寝かせますんで・・・」
「うん・・・分かった!それじゃ中扉から運び込んで1階のVIP席に・・・」
「それで真っ直ぐ滝沢インターチェンジへ向かってください!そこで救急車が待ってますから・・・」
「救急車が来てくれないってこと?」
「とりあえずここまで来てくれないので、わたしたちが救急車まで送り届けなければ・・・」
「うん・・・わかった!」
エアロキングという観光バスは国産の誇るべき2階建構造のバスだ。しかも、いろんな仕様のエアロキングがある中で、三五八交通が中古で購入した時点で1階にある通常8席あるその場所がVIP席と呼ばれる3席に変更され、さらにその1席しかない左側のシートはフラット近くまで電動リクライニングするようになっていた。以前、一度だけエアロキングの掃除をしたことのある夏帆はそれを知っていたのだ。
その時渡部が叫ぶ。
「誰か滝沢パーキングに寄って、エアロからオレのと夏帆ちゃんの荷物持ってきてくれないか?滝沢パーキングで生徒達をこのバスに移し替えるつもりだったんだけど、真っ直ぐ滝沢インターチェンジまで行くとなると逆に荷物を移し替えるチャンスが・・・オレのは着替えだけだからまだしも、夏帆ちゃんのは案内に必要な資料とかこれからの乗務行程資料が入って・・・」
その時だった。その話を聞いていたエンちゃんが口を開く。
「僕が行ってきます。滝沢パーキングに寄ってから滝沢インターチェンジへ向かいます!運転手さんの荷物と夏帆ちゃんの荷物・・・受け取ってきます!」
「えっ?夏帆ちゃん・・・?」
「夏帆ちゃんとあのカレシ知り合いか?・・・って、あっ!そうか・・・あの赤いレビンって・・・」
「渡部さん!今、そんなハナシは・・・」
「あっ、そうだった!オレたちの荷物はトランクの一番前にあるからよろしく!」
「ガイド席の脇の冷蔵庫の上にいろんな資料の入った手提げバッグあるけど、ソレわたしのだからそれも・・・」
そう言って送り出したエンちゃんのレビンはバイクのような甲高い音を残して加速し、あっという間に見えなくなった。
そうしている間に麻美子さんと芽衣子さんがぐったりした古河を二人で抱えてエアロキングに搬入したのだが、その手つきを見て夏帆は感心することしかできなかった。それはどう見ても慣れているというか力があるというか・・・ぐったりとした重い人間を軽いダンボールのごとく抱えてバスに搬入していく・・・
そして走り出したエアロキングは古河を1階のシートへ寝かせたまま滝沢インターチェンジへ向かって速度を上げる。先ほど声をかけた古賀の声は弱々しく、どうなってしまうのかと心配になった夏帆だったが、一緒にいるのが医者と看護婦なのでとても心強いというか・・・これこそ不幸中の幸いというか・・・
これが夏帆ひとりであったならどうなってしまっていたのか・・・・考えるのも恐ろしい・・・
そんな中エアロキングが停まっている路側帯から発車した。車内後方からはこのエアロキングが搭載する総排気量2万1千CCのV型8気筒ディーゼルエンジンがうなりを上げる。
夏帆の座るガイド席後方の狭い通路の後ろのカーテンの引かれたVIPシートでは、リクライニングされたシートの上に寝かされた古賀の制服の上着は脱がされ、さらにはブラウスのボタンも外され胸がはだけだ状態となっている。そんな古賀の脇には看護婦の芽衣子さんと、その妹である研修医の結衣さんが問診を続け、時折古賀のお腹を押したりして様子を伺っていた。
そんな様子をカーテン越しにルームミラーで見ていた渡部が口を開いた。
「急性盲腸だとしたら早く手術しないとダメだよね・・・オレの従兄弟は手術が遅れて癒着しちゃって・・・」
運転する渡部の中では「腹が痛いイコール盲腸」の図式が成り立っていた。
しかし、そんな見当違いの見立てであってもその病状について話題にしたくない・・・そう思った夏帆は話題を変える。
「そう言えば、止まっちゃったスケルトン・・・どうなったんですか?」
「松ちゃんと整備課長が残ってレッカーを待ってる・・・」
「危なくないですか?追突とか・・・」
「道路公団の黄色いパトカーとトラックが来て、車線規制をしてくれてるからそれは大丈夫・・・」
「盛岡インターチェンジが近かったから対応が早かった・・・ってことですよね?」
「まっ・・・そうだろうな・・・」
「ところで渡部さん・・・このバスって、やたらと地面が近くないですか?」
「そうだろ・・・2階建てだから運転席がこんなに低くって・・・低いから高速道路の運転が楽なんだよね・・・でも、よく雨の日対向車に水かけられるんだよね・・・」
「なんかわかるような気がします。バスのワイパーってゆっくり動くから前が見えなくてパニックになりますね・・・」
「うん・・・それに、案外小回りは効くけどその分尻振りが大きくって気を使うんだよね・・・」
「それって、曲がる方の反対側にお尻がはみ出すことですよね?」
「うん。狭い道とか車線幅の狭い道路を走る時神経使うんだよね・・・」
「このバスってガイド席もタイヤの真ん前にあって、背中にタイヤが回ってるのを感じます・・・このバスっていろんなところの造りがおかしいですよね?」
「夏帆ちゃん・・・頭の後ろ見てごらん・・・」
「後ろ・・・ですか?」
「そう・・・」
そう言われた夏帆が見たそこには深い穴が空いている。
「何ですかこれって?」
「交代要員の仮眠所・・・」
「こんな所で・・・ですか?タイヤの真上じゃないですか・・・」
「仮眠所って大抵床下にあるもんなんだけど、このバスってそもそも床下がなくってさ・・・」
「そうですね・・・」
「まっ・・・スキーバスで使った時ぐらいしか使わないからいいんだけど・・・」
「そうですね。新宿〜安比のスキーバスやってますもんね・・・」
この時代は全国的なスキーブームだった。あの「私をスキーに連れてって」で原田知世が新宿からスキーバスに乗って湯沢のスキー場へ向かったように、夏帆の勤める三五八交通も毎週岩手の安比スキー場へ客を運んでいた・・・そんな時代だ。
そんな中、異例とも言える二階建てバスでそれをやっていたのもこの三五八交通だった。
そんなことは置いておいて、渡部と夏帆の会話は続く・・・
「うん。でもたった一つの目的達成のために色んなところに皺寄せが来てるのがこのバスなんだよね・・・」
「それって・・・天井が低いってことですか?それにやたらと室内が狭ましいしいと言いますか・・・」
「うん・・・それもあるけど、あとで2階席に行ってみなよ・・・走ってるバスから見た眺望がとにかく素晴らしいから・・・」
「わたし・・・車庫で掃除した時に2階に上がったんですが、停まってるときでも怖いくらいに眺めが良かったです!」
夏帆がそう答えた時、高速道路の橋の継ぎ手を通過したエアロキングが大きくバウンドした。その時、運転台左側にある黒いモニターが大きく揺れる。それを見た夏帆が疑問に思った。
「それってなんですか?」
夏帆が運転台左側に2段に重なるように設置されている液晶画面を指差した。
「うん・・・これも2階建ならでは・・・っていうか、直接見れないから付いてる・・・」
そう言いながら一番上のモニターのスイッチを入れると2階席の様子が4分割された状態で映し出された。
「見えないとダメなんですか?」
「たとえばこのルームミラーってなんのために着いてるか分かるかい?」
「クルマのの後ろを見るため・・・」
「普通ならそうなんだけど、バスって発車するとき乗客を目視確認しなきゃならない決まりになっててさ・・・1階席はミラーで見えるけど、2階席はどう足掻いても見れないでしょ?だからこのモニターって訳・・・」
「そうなんですね?それでその下にある後部モニターに後ろのセリカが映っていますが、その後ろから追い越し車線をえらい勢いて迫ってくるクルマも映ってますよ?」
「ん?ハイビーム点けてやがるな・・・え?」
その瞬間、運転席右側のバックミラーを見た渡部運転手の顔から血の気が引いたのが分かった。そして、落胆の表情で夏帆を見つめる。
「夏帆ちゃん・・・」
「なんですか?まるで世界の終わりが訪れるような顔して・・・」
「終わるのはオレの免許・・・かも・・・」
その時だった。どこからともなくサイレンの音が聞こえてきている。しかもモニターで見る近づいて来たそのクルマのフロントグリルの中では赤いランプが点滅し、屋根の中央では赤灯も回転していた。
しかも、その時渡部が見た前方の速度規制標識には50の文字が出たままとなっている。そして思わず排気ブレーキで減速を始めたが、先ほど見た針先が揺れるスピードメーターの針は100の目盛りの辺りを指していたような気がする。
「あちゃ・・・コレって何キロオーバーになる?」
「えっ?後ろに覆面パトカーがいたんですね?」
「うん・・・いつの間にか・・・」
「今、この区間は50キロ規制のままになってますよね・・・」
「それじゃ50キロの速度超過?」
そう言った渡部は何か考え込んだ表情でブツブツ呟き始める。
「待てよ・・・メーター読みが100キロってことは、メーター誤差10パーセントで実速度が・・・90キロか・・・パトカーの固定メーターのマイナス誤差7パーセントで・・・大体80キロってことだよな・・・てことはやっぱり赤切符か・・・」
何かを頭の中で暗算した渡部は落胆の表情となっている。
現代においては高速道路での速度超過による赤切符は40キロ超となっているが、平成が始まったばかりのこの時代では一般道も高速道路も同じく30キロを超えれば赤キップとなっていた。
「で・・・でも、このバスで急病人運んでいる訳ですし、分かってもらえますって!」
「分かってもらえるかな〜・・・でもさ、コレって捕まれば絶対一発免停だよな・・・最悪会社クビかな・・・パトカーの固定メーターの針が80キロを回ったところで止まってても絶対に79キロって読んでやる・・・」
パトカーに速度超過で捕まったことのある人なら知っているとは思うが、速度違反で停止命令を受けた後必ず確認させられるのがその固定メーターである。現代であればソレがデジタル表示となっているが、平成のその時代はアナログメーターだった。と言うことで、針が止まっている微妙な数字を少なめに読んでゴネることも可能だったそんな時代だ。
渡部がそう呟いている間にもバスが減速を続けていた。
その時、その覆面パトがサイレンを鳴らしながら追い越し車線の渡部のすぐ右側を並走しマイクで何かを言い始めている。しかし、その拡声器から発せられるその声が風切り音にかき消され内容が聞き取れない。
そうしているうち、その覆面パトの助手席の窓が開いて運転する渡部を見ながら水色の制服を着た警察官が何やらゼスチャーを初めた。それはどう見ても「窓を開けろ!」という仕草だった。
エアロキングは普通の観光バスと違って運転席が低い。だからそのパトカーの助手席の高速隊員がほぼ真横に見える。
そんな仕草を真横に見ながら渡部運転手が窓を開けるとその警官から「後ろへついて来い!」という叫び声が聞こえた。さらには・・・
「スピード落とさないで!!」
しかもなんとも意外なその言葉・・・
「後ろについて来い!」というのは違反者に掛けられる言葉の定石だったが、その「スピードを落とさないで!」とはなんぞや・・・
そうしているうちに、その覆面パトが走行車線を走行するエアロクイーンの前に入って助手席から腕が出て追い越し車線へ移動しろと言うような合図を出している。しかも、その覆面パトの後ろの窓に何か赤い文字が浮かび上がる。
『右へ・・・よれ』
「ん?これって追い越し車線に車線変更しろってことですか?」
「う〜ん・・・訳がわからん・・・」
そんな訳の分からない状況下、追い越し車線へ進路変更したエアロキングの前を走る覆面パトカーの後ろの窓にまた別の赤い表示しているのを見つけた。
「ん?『パトカーに』・・・『続け』・・・?」
「それってパトカーについて来いってことですか?」
「だろうな・・・恐らくこの先の滝沢パーキングのサイン会場で赤切符の交付式が行われるんだよな・・・」
「ちょっと待ってください!覆面パトが加速しながら助手席から腕を出して、どう見てもスピードを上げろってゼスチャーしてますよ!」
「それじゃ、パトカーについて行ってみるか!どうせ免停なんだし・・・」
そう言いながらアクセルを踏んだ渡部運転手だったが、目の前のスピードメーターがどんどん上がっていくのが気になっていた。
「間も無く100キロ超えるんだけど・・・覆面パトに全然追いつかない・・・」
「もっと出せってことでしょうか?」
「それじゃ・・・」
そう言って加速を続けるエアロキングのスピードメーターの針はドンドン進む。
「うん・・・このバスって車重も重いけど、チカラがあるから意外と高速が楽なんだよね・・・」
そう囁きながらハンドルを握る渡部の目の前のメーターの針がとうとう最後の数字近くまで達しようとしていた。その速度は時速140キロ・・・メーター誤差を考慮すると120キロぐらいのスピードだろうか?そんなスピードでやっとのことで行する覆面パトとの車間距離が一定になった。
しばらくそんな覆面パトの後ろ姿を見ていた夏帆が口を開く。これは落ち込んだ渡部の気を紛らわせるための配慮・・・
「渡部さん・・・」
「ん?どうした?」
「覆面パトカーのトランクに付いているアンテナみたいな棒って、よくヤンキーが乗ってるクルマについてるのと同じですか?」
それは平成初期に大流行りした自動車電話用のアンテナをモチーフにした「静電気除去アンテナ」と称して販売されていたものだ。
「夏帆ちゃん・・・覆面についてるのは本物で、ヤンキーのは偽物だよ。見かけそっくりだけど・・・」
「へ〜・・・そうなんですね?それにしても覆面パトカーの屋根の回転灯ってあんな風に出るんですね?」
「そうなんだよね・・・普段は屋根の真ん中にある蓋の中に逆さまに格納されてて、蓋が開くとクルッと現れるんだ・・・」
「回転灯がくるっと回転して出てくるって訳ですね?」
実際にはそうではないのだが、その時見たその回転灯はそんなふうに見えた。
「夏帆ちゃん・・・おれを笑わせようとしてると思うんだけど、オレはこの先の生活がどうなるのか心配でとても笑える心境じゃない・・・」
「それに、運行部に出すタコグラフの言い訳をどうするものか・・・」
この時代、その日の業務が終わる度に会社の運行管理者に提出しなければならないものとして「タコグラフ」という物があった。それは鍵のかかったスピードメーターの裏にセットしてある円盤状のグラフのことだ。そのグラフはふピー度メーターと電動してペンが動き、その時間何キロ出していたのかが鮮明にわかるものだった。
例えば熟練した運転手が一定のスピードで高速道路を走ればその記録された線は一定ラインとなるのだが、速度保持が苦手な運転手のものは波状のグラフとなる。そんな波状のグラフはボーナス査定にも影響が出るということにもなる。
そんな重要なタコグラフに時速140キロという途轍もない記録をされている渡部は、スピード違反と合わせて生きた心地がしていない。そんなことを感じながらハンドルを握る渡部は夏帆の配慮も虚しく、まるでゾンビのような表情になっている。
その渡部運転手がハンドルを握るエアロキングはまさに覆面パトロールカーに先導されている状況だったが、当の渡部運転手は切符交付会場に誘導されているとしか思っていなかった・・・
そんな中、夏帆が素朴な質問をする。
「バスってこんなにスピードが出るんですね?」
「うん・・・本当はもっと出るんだ。エアロキングじゃやったことないけど・・・」
「どこまで出したことあるんですか?メーターは140キロまでしか数字がありませんが・・・」
「ここじゃ言えない・・・」
そんな会話をしているエアロキングの車内には、このエアロキングに搭載する2万リッターを超える大排気量の430馬力V型エンジンの独特の音と、風切り音と車内のいろんなものがカタカタキシキシ揺れる音がいつも以上に大きく聞こえていた。その中に前方を走る覆面パトカーの発するサイレンの音も混じる。
バスというものは速度域が高くなればなるほど縦揺れがすごいと夏帆は感じていた。こんな速度域のバスに乗ったことがなかったから・・・
そして、その時夏帆は生まれて初めての光景を目にする。それは、大型観光バスが前を走るすべてのクルマ追い越す光景だった。いつも邪魔モノ扱いされ、たくさんのクルマたちに追い越されるのが観光バスの宿命と思っていたから・・・
そんな中、腹を括った渡部がガイド席に座る夏帆に渡部が話しかける。
「ねえ・・夏帆ちゃん・・・」
「後ろを走っていたセリカが、いつの間にか白黒のパトカー変わってるんだけど・・・」
そう言われた夏帆が身を乗り出すようにして後部モニターを見るとそのとおりとなっていた。
「えっ?麻美子さんも誘導されてるってこと?」
「いや・・・そのパトカーの後ろにさっきのセリカ・・・走ってないぞ」
「と言うことは、猛スピードで走るこのエアロキングはパトカーに前後挟まれて誘導されてるってことか?訳がわからん!そう思わないか?」
そう尋ねながら夏帆をチラッと見た渡部が話題を変える。
「ところでさ・・・」
「・・・なんですか?」
「さっきから大事そうに膝に乗せてるその赤いの・・・なに?」
「えっ?こっ・・・これは・・・」
夏帆がそう言いながら隠すそれはあの赤いジャンパーだった。
「これは、さっき古賀の下に敷いたジャンパー・・・」
「夏帆ちゃんのじゃないよね?」
「それは・・・」
そう言いながら夏帆は自分の顔が熱くなるのを感じていた。
「なに顔赤くして・・・ん?もしかしてあの赤いレビンのカレの・・・だったりして?それにしても凄い偶然だよね・・・こんなところで逢えるなんて・・・運命感じるな〜」
その時の渡部の表情は、先ほどの世界の終わりのような表情とは打って変わってニヤけている。
「えっ?知ってたんですか?あのレビンがそうだったって・・・」
「知ってるさ・・・あんないい音出して走るレビンなんてそうそういないからね・・・」
「あの音聞いたことあるんですか?」
「もちろんあるよ!だって前に夏帆ちゃんが朝帰りした時もそんな音してたから・・・」
この時夏帆は、エンちゃんのレビンが誉められたような感じでどこと嬉しかった。でも、肝心なことを忘れていたことに気づいていない。
「確かにあのレビンってバイクみたいな独特な音してますもんね・・・なんでも、エンジンがグループAのレース用だって聞きました・・・えっ?ちょっと待ってください!もしかして、あの時バスの点検してたのって・・・」
「うん・・・オレ・・・」
「見てたんですね?」
前に夏帆がエンちゃんに女子寮まで送ってもらって朝帰りした時、確かに誰かがバスの出庫前点検をしていたのは知っていた。でも、駐車中のバスに隠れるように女子寮の玄関を目指したのだが、やはりどこかで見られていたのだ。極めつけにその時の夏帆は濡れ髪・・・
「見てたよ・・・青春してるな・・・って思ってさ、オレも若い頃・・・」
その時だ。渡部が若い頃の自分の武勇伝を披露する傍ら、夏帆はその武勇伝を聞き流しながら腕の中のジャンパーの中に何か四角い硬いものがあるのを発見する。そしてそのジャンパーを広げてそれを確認すると、それは内ポケットに中に入っていた。
「ちょっとだけ・・・」
夏帆はそう思いつつそれを取り出してみるとそれは二つ折りになっているエンちゃんの定期券入れだった。
その透明になっている部分に入っている定期券にはエンちゃんが高校時代に通学していた通学していた通学区間と、遠い昔に切れたその有効期限が記されていた。
『これって・・・エンちゃんのたくさんの高校時代の思い出の詰まった品・・・それにしてもなんでそんなものを・・・』
そう思いつつそれを開くと、その裏に差し込まれていたのが運転免許証だった。その真ん中に目立つように記載されていたのが「自二は中型に限る」という文字・・・
これは俗に言う「中免」と言う免許であり、要するに自動二輪車は排気量400ccまで運転可能な免許であることが分かる。そんな免許証の写真はいつものエンちゃんであり、その上には住所も本籍も生年月日も記載されていた。
『エンちゃんって乙女座なんだ・・・えっ?ちょっと・・・この日って確か「バスの日」だよね・・・その日って毎年市内でバス会社が一堂に介してイベントを行う日・・・』
それは免許証に記載されている生年月日だ。バス業界に身を置く身にとって、その日はどれはどこか運命的な日でもあった。しかもその見開きになっている下の部分に学生証が差し込まれていた。
「エンちゃんってO型なんだ・・・」
それは万が一の時に備え学生証に記載されている血液型だった。そこで女の娘として気になることがある。それは血液型の相性だ。ちなみに夏帆はA型・・・
「え〜と・・・A型とO型の相性って・・・?」
そして、夏帆がそんな血液型の相性について考えていた時、さらその学生証が入っていたケースの裏に差し込まれていたものを見て夏帆は赤面する。
それは麻美子さんの言っていた南野陽子のブロマイドだった。しかも、髪をアップにして帽子を被るその様子は今の夏帆自身によく似ているような気がする。
そんな夏帆はすごく動揺し目が泳いでいた。そんな異変に気づいた渡部が声を掛ける。
「夏帆ちゃん・・・もしかして緊急?それだったら中扉の反対側にあるから使っていいよ・・・狭いけど・・・」
そんな挙動不審となった夏帆を見た渡部は夏帆の尿意を心配したのだった。
「ちょっと行ってきます・・・」
夏帆がそう言い残し向かったのは古賀のいるVIP席だ。カーテンが引かれたそのVIP席では姉妹で古賀を見守る芽衣子さんの背中がカーテンの裾から覗いている。
「どんな感じですか?」
夏帆はその時芽衣子さんの背中にそう声を掛けた。すると、そのカーテンが少し開いて芽衣子さんが振り向いた。
「だいぶ落ち着いて来たけど、きちんと検査しないと何とも言えないね・・・多分、盛岡市内の大きな病院に搬送されると思う・・・」
「救急車に引き継ぐまでよろしくお願いします・・・」
夏帆がそんな会話の後に向かったのはトイレではなく2階席だった。高速で走るバスの縦揺れで何度もよろけそうになりながら昇った階段の先にあったのは渡部の言う素晴らしい眺望だ。
「すっ・・・凄い!なに?この景色・・・」
それは通常左側路肩に植えてあるナナカマドの枝を挟んで見えにくいはずの岩手山の姿だった。それはそのナナカマドの枝の上から鮮明に見えたものだ。そんな景色は春先の残雪が残る岩手山でありさらに澄んだ青空の下、なんとも素晴らしい眺めだった。
「えっ?こんなに見晴らしがいいの?これって一度乗ったらクセになる景色だよね・・・でも・・・この状況で景色なんて・・・」
そう思いながらガイド席まで戻った夏帆に渡部が問いかける。
「古賀ちゃんって、やっぱり盲腸・・・?だって高校卒業したばかりでしょ?若いからね・・・」
この時エアロキングの2階席から見た景色に感動した夏帆にまるで話を蒸し返したように渡部が尋ねた。そんな渡部に夏帆が応える。
「盲腸かもしれませんが、全く違う病気かもしれません。どちらにしても古賀のあの尋常じゃない脂汗は、ただ事ではないってことを表しているんだと思います。それで救急車を呼んでもらったんですが、その救急車が滝沢方向から来るって言うらしいんです・・・」
「それじゃ上り車線だ・・・普通、それだと救急車が盛岡インターチェンジまで行って戻ってくることになる・・・しかも、盛岡市内の病院に行くことになれば滝沢インターチェンジでもう一回Uターンして盛岡へ・・・」
「だから滝沢インターチェンジで待っててもらってます・・・」
「だから滝沢インターチェンジってことだったんだね・・・でも・・・そうはいかなくなちゃったみたい・・・」
「そうですね・・・それじゃ滝沢パーキングで古河をパトカーに乗せてもらえるよう頼んでみます・・・」
そして滝沢パーキングエリアまでもう少しとなった時業務無線が入る。
「ザザッ・・・お借りします。こちら三五八の後藤田・・・キングの渡部君取れますか?どうぞ・・・ザザッ」
ちなみにこの後藤田というのは、先ほど修学旅行の生徒たちを乗せ替えたエアロクイーン運転していった専務のことである。さらにこの専務の娘さんという方は八戸市内の総合病院で看護婦をしていた。実は、以前エンちゃんが体調不良で入院した時の担当看護婦が偶然にもこの専務の娘さんたっだのだ。
そんな後藤田専務の問いかけに夏帆が反応し吹き出した。
「それって渡部さんが王様ってことじゃないですか?」
「こんな時、そんなこと言われても・・・」
そう言いつつ、渡部はハンドルの左側にかけてあったマイクを取り口に寄せた。
「ザザッ・・・こちら渡部・・・メリット5です。どうぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・今、赤いクルマに乗った若者が来てガイドの小比類巻君と渡部君の荷物を渡すように言ってるんだけど・・・なんでも、ガイドの古賀くんが急病で滝沢インターチェンジで待ってる救急車まで連れて行くからパーキングには寄らないって・・・ザザッ」
「ザザッ・・・こちら渡部・・・引き継ぎの時も言いましたが、ガイドの夏帆ちゃんと古賀ちゃんを拾って滝沢パーキングへ向かう予定でした。でも倒れたガイドを滝沢インターチェンジで待っている救急車へ引き継ぐ予定に変更したんですが・・・ザザッ」
「ザザッ・・・なに?ガイドが倒れた?それは病気か怪我か?・・・ザザッ」
「ザザッ・・・病気だと思います。何せ腹が痛いって言ってますので・・・どうぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・歩ける状況か?・・・ザザッ」
「ザザッ・・・立ち上がるのも無理です。見るからに重症そうです・・・どうぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・対処は出来ているのか?・・・ザザッ」
「ザザッ・・・はい。偶然にも通りかかりの医者と看護婦も同乗していますので・・・どうぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・了解した。ガイドの容態も気にかかるが、その対処してくれてる二方の連絡先を聞いておくように・・・ザザッ」
「ザザッ・・・それは大丈夫です。今隣にいるガイドの夏帆ちゃんの知り合いみたいですので・・・どうぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・それはすごい偶然だな・・・とにかく後でお礼したいんで・・・よろしく・・・ザザッ」
「ザザッ・・・了解です・・・ザザッ」
そこで通話を終えたい渡部だったが、もうひとつ報告しなければならないことがあった。それは現在覆面パトにドナドナされていること・・・
「ザザッ・・・あと・・・ちょっと報告しにくいんですが・・・ちょっとしたことがありまして・・・ザザッ」
「ザザッ・・・どうした?・・・ザザッ」
「ザザッ・・・報告がもうひとつありまして・・・今、覆面パトに連行されてサイン会場に向かっているところです・・・どうぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・今度はなんだ?なに?それってスピードか?何キロだった?・・・ザザッ」
「ザザッ・・・多分・・・もしかすると赤紙かもしれません・・・どうぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・そうか・・・でも事情が事情だけに、今回はクビにしない代わりに免停中は毎日バスの洗車にまけておくから!・・・ザザッ」
「ザザッ・・・洗車だけは勘弁して・・・ん?・・・ザザッ」
「ザザッ・・・ナベちゃん・・・どうした?・・・ザザッ」
「ザザッ・・・覆面パトが滝沢パーキングに入らずそのまま走って行きます・・・どうぞ・・・ザザッ」
渡部がそこまで言いかけた時、滝沢パーキングエリアの駐車場で駐車しているエアロクイーンの斜め後ろを夏帆たちの乗ったエアロキングがサイレンを鳴らした覆面パトロール車に先導され通過して行った。それを見ていた専務が驚いていた口調でそれに応える。
「ザザッ・・・えっ?・・・こりゃ、すごいスピードだな・・・これってどう見てもパトカーに先導されてるようにしか見えないぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・そうですか?何かおかしいとは思ったんですが・・・とにかく滝沢パーキングには寄れないってことで・・・どうぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・了解した。仕方ないから君たちの残った業務はエアロキングでやってくれ・・・それと君とガイドの荷物は赤いクルマのカレシに託すからよろしく・・・あと、古賀くんの搬送先が分かったら会社に連絡するようにっ!・・・ザザッ」
「ザザッ・・・了解しました。あと、車両引き継ぎは滝沢パーキングでやったという事にして、運転日誌に今のメーターと時間を記録しますんで・・・どうぞ・・・ザザッ」
「ザザッ・・・了解・・・運行管理部にはオレから伝えるから・・・気をつけて・・・ザザッ」
「ザザッ・・・専務もご安全に・・・ザザッ」
その無線のやり取りを傍で聞いていた夏帆の中に一つの疑問が浮かぶ。そんな夏帆がたった今通信を終えたばかりの渡部に尋ねる。
「えっ?わたしたちの業務ってあと2件残ってましたよね?」
「うん・・・そうだな・・・」
「それをコレでやれ・・・と?」
「うん・・・そういうことになるな・・・」
「わたし・・・このバス初めてです!このバスで案内やったことないし、2階席の配列なんかもさっきチラッと見ただけ・・・そもそも2階席ってどこに立って案内すればいいんですか?」
「そんなのオレにも分からん!前に一回コレ運転した時は景色が見えないって言われたガイドが運転席脇に座ったままマイク一本で案内してたぞ」
「え〜そうなんですか?」
「でも、夏帆ちゃんって細身だからそんな事ないと思うけど・・・」
「えっ?その時のガイドって、もしかして・・・」
「うん・・・谷川ちゃん・・・」
「・・・こだま先輩ってガタイいいですからね・・・」
「でも体力は夏帆ちゃんと変わらないぞ」
「渡部さんってこだま先輩とペアになる事多いんですか?」
「なんかそんな感じがする・・・」
そんな話をしながら渡部は運転席ダッシュボードの上にある電話の受話器を指さした。
「これ・・・あるから上にいても大丈夫だって・・・」
「何ですか?この受話器・・・」
「これは上と繋がってる内線電話なんだよね・・・何かあったらこれで連絡して・・・」
「なんか解決になってないような気もしますが・・・渡部さんって結構このバスのことよく知ってますね?」
「運転するんだったらたとえ担当外のバスの事でも知らないとダメだろ?前にも言ったけど、オレだってこのバス運転するのイヤだよ・・・そう運行部にも伝えてある」
「会社にも伝えてあるんですね?」
「実はオレってこのエアロキングってバスが好きなんだよね・・・」
「でも、運転したくないって・・・?」
「そうなんだ。好きだけど、運転が難しい・・・それがエアロキングってヤツ・・・」
「バスの運転の仕方ってそのバス毎に違うんですか?」
「このバスってとにかく大きいからね・・・何せ長さと幅以外にも高さも限界まで高く造ってあるから・・・」
「そうですね・・・これ以上高かったら道路標識とか横断歩道橋に引っかかちゃいますよね?」
「そう・・・それがエアロキング・・・しかも、運転台が低いことが災いしてクルマの寸法感覚が掴みにくい・・・そんなめんどくさいバスなんだよね・・・」
「そうですね・・・大型トラックって運転席が高いところにあって見下ろすような感じだから車幅感覚が掴みやすいって転職組ドライバーから聞いたことがあります」
「そうなんだ。でもエアロキングを運転したがってるヤツはいっぱいいるんだけどね・・・それってこのバスの難しさを知らないヤツでさ・・・」
「そうなんですね?」
「見てみ?運転席の頭の上って客室じゃん・・・バスの車幅感覚のほかに高さ感覚も変になりそう・・・」
「そうですね・・・渡部さんって前にもエアロキングの運転はイヤだって言ってましたもんね?」
「でも・・・」
「でも、なんですか?」
「イヤでも注目されるから・・・それで相殺かな?」
そうである。このエアロキングというバスは、他を圧倒する風格とその希少性からどこへ行っても注目間違いなしの観光バスなのである。
渡部がそう囁いた時滝沢インターチェンジが近づいてきた。
滝沢IC出口まで700mの標識を過ぎた時前を走る覆面パトカーが走行車線へ進路変更し減速を始め、それに続いて渡部も進路変更し排気ブレーキを作動させる。この時エアロキングは排気ブレーキ作動時独特なこもった音と共に排気の抜ける音を立てながら減速を続け出口ランプに差し掛かった。
そしてランプの大きなクロソイドカーブを抜け高速本線上の跨道橋を渡った時、はるか先に見える料金所ブースから入って来た救急車が目の前を横切って向かって左側にある料金所事務所前の駐車場に入ったのが見えた。すると覆面パトカーもその駐車場目指して入っていく・・・
そんな状況下、駐車場前に停車したエアロクイーン目掛けストレッチャーを押してくる救急隊員の姿が見える。そして、ドアの開いた中扉からその救急隊員が車内に入ってきた。
するとそこからはプロ同士の会話となる。何せそこにいるのは医者と救急外来に勤める看護婦と消防隊員である。そんな車内では必要最小限の情報引き継ぎがされ、古賀の小さなその身体がVIP席からストレッチャーへ移されていた。
この時夏帆は古賀が片時も離さず抱えていた正鞄の存在に気づく。腹が痛くて両手で腹を押さえていたように見えたのは会社から支給されている黒い正鞄だのだ。この正鞄というのはバスガイドに必要なものを収めている言わば命の次に大切なものとなる。脂汗をかく状況でもその鞄を離さなかった古河を見直した夏帆だった。
そんな古賀には毛布が掛けられストレッチャーから落ちないようにベルトで固定されている。そんな古賀に夏帆は声を掛けた。
「今は仕事の心配より自分の心配をしろ!とにかく自分のことだ!仕事のことはみんなでカバーするから、身体をきちんと治して会社に戻ってくれるだけでいいから・・・とにかく今は仕事の心配はいいから・・・」
そう声をかけられた古賀は泣きながらそれに応える。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・こんな大勢の方々に迷惑かけちゃって・・・」
そんな古賀に夏帆は宥めるように優しく囁いた。
「古賀・・・人生に中で1回や2回は人に世話になることはある。だから世話になっている最中は世話になれ!これから会社にこのことが伝わればみんな古賀のことを心配する」
「おおごとになっちゃうんですね・・・」
「それは仕方のない事だ。過去には出先で急病になったガイドのために、電車でその出先に向かったガイドと交代したこともある!」
「そんなこともあったんですね・・・」
「今回は修学旅行の帰り足だからもう案内することなんてないだろ?だから後のことはバスを運転している専務に任せて自分の養生だけ考えろ!」
「でも・・・」
「みんな古賀が良くなることを望んでいるんだ。それに報いるのは早く病気を治してみんなに笑顔を見せることなんだから、今はみんなに世話になって治療に専念すること!わかった?」
「はい・・・わたし・・・」
「なんだ?」
「バスガイドになって良かったです。そして、教育係が夏帆先輩でよかった・・・」
夏帆にそう言い残した古賀は、救急隊員によりストレッチャーで救急車に搬入されていった。そして、その古賀を乗せた救急車はパンダのパトカーに先導され、盛岡方面に向かうランプを走り東北自動車道本線に向け走り去った。
それを見送った夏帆が大きなエアロキングを見上げてため息を吐く。
「あとの2業務・・・この初めてのエアロキングでどうやるものか・・・」
それは、そもそも稼働の良くないエアロキングに乗務した同僚バスガイドからの話をほとんど聞いたことがなく、予備知識がない不安から来るため息だった。
作品の中で覆面パトカーの後部ガラスに文字を表示するフリッカーサインという装置は平成二桁に入ってから登場するものですが、どうしてもそのフリッカーサインによる誘導というものを書きたかったという事から時代背景に合わないものを登場させてしまい申し訳ありません。
今回登場したエアロキングは、この時代夏帆が乗務した型の後に一度だけモデルチェンジして10数年同じモデルとして製造されています。令和の現代では数少ないもののエアロキングは活躍していますが、それはすでに製造中止になってかた相当な期間経った老朽化の進んだ車両となっています。
エアロキングが製造中止となってからスカニアというスエーデン製のバスが2階建バスの主流となっていますが、筆者にとっては現行型エアロクイーンの姉妹車種としてのエアロキングの登場を切に願っているところです。
ちなみに、今回のストーリーで倒れてしまった夏帆の後輩バスガイドの古賀については、この後古賀の家とカレシの家まで巻き込んだ大ごとに発展することとなります。それは後々紹介しますが、そんなことになるなどつゆ知らない古賀を見送った夏帆のいる滝沢インターチェンジ料金所の駐車場に、これから思いもしない人たちが集合することとなります。
次回のストーリーはそんなところから始まります。
それでは・・・