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恋する乙女のひとりごと   作者: みなみまどか
8/20

ハラペコの災難・・・

久し振りにソフトボールの球を握った夏帆の心はとても清々しかった。それも、夏帆が高校最後の公式戦で勝ち投手となった全国大会準々決勝の相手チームとのキャッチボール・・・

夢の中で自分のストレートに自信を失ってしまっていたというのは、まさに夏帆自身の恋愛に対しての自信のなさの現れだった。そんなことを気付かせてくれたその相手チームのライバルに感謝していた。


しかし、夏帆はその日早朝から数キロのランニングをしてさらにはキャッチボールまでしている。しかも、昨晩大浴場でのぼせてしまった夏帆用に準備してあった夕食は同室の佐倉姉妹に食べられてしまっていて空腹だった。しかも期待していた朝食バイキングは食べれずしまい・・・


そんな腹ペコの状態で本日の業務が始まりまろうとしていました。


これは、平成に入ったばかりのスマホもインターネットもなかったそんな時代の物語です。


それでは・・・

「おはようございます。みなさまお目覚めはいかがでしょうか?あと・・・昨晩出されたお宿のお料理いかがでした?わたしも同じものを頂きましたがとっても美味しかったです・・・」


宿を後にした車中の朝一番にこんな挨拶で始まった2日目の業務だったが、実のところ夏帆はその宿で出された夕食は食べていなかった。それはあの姉妹に食べられてしまっていたから・・・

さらにはバイキング形式で出された朝食で帳尻を合わせようとしていた夏帆を更なる悲劇が襲っていた。

それは先ほど朝食会場入り口で麻美子さん芽衣子さんと別れ、そのまま進んだ先にあった乗務員用の朝食会場で配膳された朝食を見た瞬間だった。しかも、一緒に並んだ佐倉もどこか落胆の表情・・・


その落胆の原因というのは、宿が特別に準備した乗務員用の朝食会場に出された質素な朝ごはんだった。


宿としては、当日の乗務に配慮した消化が良くカロリー計算された料理を提供したまでに過ぎなかったが、いつもご飯三杯平らげる大食漢の夏帆にとってはいささか物足りないものであった。

ちなみに昨日の朝食は寮母さんが準備してくれたサンドイッチに加え、サービスエリアで購入したおにぎりで帳尻を合わせていたのだが・・・ということで、今朝の朝食に期待していただけにその落胆は大きかったうえに、宿の配慮を気にしてご飯のお代わりは自粛してしまうハメに・・・


そんな朝食後、乗客の案内誘導のために別行動となった佐倉だけは売店で買ったサンドイッチで腹を満たしていたのだが、朝食後の業務を抱える夏帆は売店に寄ることもなくそこから真っ直ぐエアロクイーンが駐車している駐車場へ向かっていた。

バスガイドの業務はバスガイドのお腹事情に関係なく朝からバスの窓拭きや掃除、その他にもやることがたくさんある。それは始業点検の補助だったり、窓拭きだったり、モップ掛けだったり・・・

それで出発前にも関わらずこの段階でお昼までお腹が持つか怪しくなって来ていた。

そして夏帆は今、そんないろんな業務を済ませたうえで朝の挨拶を終えバスのステップに立っている訳であるが既にお腹は空腹・・・しかも履いているスカートのウエストが緩く動くたびスカートがズリ下がり、言わばスカートを腰履きしているような不快な状況だ。


そんな状況下市内の宮沢賢治記念館見学を終え、さらにお腹を空かした夏帆は空腹を我慢しながらバスガイド用の背もたれに寄りかかりながら宮沢賢治に関する説明を続けた。そして、その説明が一段落した頃見えてきた東北自動車道花巻インターチェンジ入り口で左後方を確認する。


「左オーライです・・・」


夏帆が力のない声で走行車線から左折レーンへ進路変更する際の左側方確認をしてガイド席に座った時、料金所で受け取った通行券を夏帆に渡した渡部運転手が窓を閉めながらヒソヒソと話しかけてきた。


「夏帆ちゃん。ファンデーションの色変えた?」


夏帆はそんな渡部の問いかけに対し、高速道路の通行券をガイド席目の前のチケットホルダーに挟み込みながら応える。


「いえ、昨日と同じですが・・・どうかしました?」


「なんか、朝から顔色悪いような気がするし・・・夏帆ちゃん()朝食たべすぎた?」


そんな問いかけに夏帆のほっぺが膨らんだ。


「その逆です!ご飯があまりにも質素だったもので・・・もう、お腹が限界近いです!」


「えっ?朝ごはんお代わりしなかったの?そうか・・・お代わりできる雰囲気じゃなかったか・・・ウチのガイドの中で一番の大食いでも空気読んじゃったか・・・」


「そりゃ空気読みましたけど・・・その大食いってどこ情報ですか?間違いではないですけど・・・」


「そんなことで申し訳ない!・・・オレ、部屋に届けて貰った朝食べだんだけど、テーブルに載らないくらい料理が出てさ・・・それが上手いのなんのって・・・」


「それってルームサービス?なんで?」


「いや・・・なんか分かんないけど朝食食べに行こうと思ったら逆に中居さんが朝飯持ってきてくれてさ・・・なんでも料金はかからないって・・・」


するとその会話を聞いていた一番前の座席に座っている添乗員の佐倉が身を乗り出すようにして話に割り込んだ。そんな佐倉は、勤務先の大手旅行代理店から宿泊先の旅館の評価をする業務も任されている。そんな佐倉が意外なことを言い出す。


「わたしが渡部さんの部屋に朝食運ぶように頼んだの・・・」


この時「どうりで・・・」と言いかけた渡部の声を遮るように夏帆が話に割り込む。


「それってどうしてですか?」


「料理の感想を聞くためなんだよね。結局、宿泊後の宿の印象って料理で決まるでしょ?」


そんな佐倉の答えを聞いた夏帆の口調が自然と強くなる。


「それじゃ佐倉さん自身が食べて直接評価すればいいんじゃないんですか?そんな佐倉さんも添乗員用の朝食足りないって言ってましたよね?」


「あっ・・・ごめん。あの後わたしは売店でサンドイッチ買って食べたからいいけど・・・」


「それってズルくないですか!なんで誘ってくれなかったんですか?」


「ごめんね・・・なんか忙しそうだったもんで・・・」


「でもですよ・・・佐倉さんは別に添乗員用じゃなくても芽衣子さん(お姉さん)さん達と一緒にお客さん用の朝食でも良かったんじゃないんですか?」


「バイキングっていうのが苦手ってのもあってさ・・・持ってくるの面倒でしょ?わたしって朝から何食べようかって考えるの得意じゃないから・・・それで、たまには添乗員用の朝食食べようと思ったんだけど失敗みたいだったわね・・・」


「それじゃ初めから佐倉さんがルームサービスを頼めば良かったんじゃないんですか?」


「わたしじゃダメなだからそうしてるの。いろんなところの料理食べ過ぎて麻痺しちゃってね・・・それにわたしがソレやったら職権乱用になちゃうでしょ?」


「そうですね・・・宿を評価する立場ですもんね・・・」


「それで運転手さんの部屋に出た料理内容を社に提出する報告書にまとめるってだけ伝えたモンだから、料理長が腕振るっちゃったみたいで・・・」


この時ソレを聞いた渡部運転手が驚いたように口を開いた。


「じゃ・・・アレって特別料理?」


「そうなっちゃったみたいですね。さっきの口ぶりからすると、大満足って事でいいですか?」


「もちろん!オレ・・・あんな料理初めて食った・・・でも、胃に負担かけない物ばかりであれだけ食っても胃袋がもたれない・・・」


それを聞いた佐倉が頷く。


「分かりました。すごく満足いく料理だったって報告書に書くことにします・・・」


「えっ?オレの意見が採用?」


「そうです。運転手さんっていろんなお宿でいろんな食事してるじゃないですか?そんな舌の肥えた方の素朴な感想だったんで即採用です!」


そこで夏帆が割り込む。


「ちょっと待ってください!もし、渡部さんの舌がポンコツだったら?」


「オレがポンコツって・・・」


「渡部さんは運転に集中してください。まもなく本線合流ですよ!」


この時、料金所から続く長い誘導路(ランプ)が終わり加速車線に入ろうとしていた。

この時何か反論したがっていた渡部は、夏帆に促されるように右側後方を確認しながらゆっくりと本線へ合流する。車内にはこのエアロクイーンが搭載するV型8気筒ターボ付きディーゼルエンジンがうなりをあげ、さらに高周波のターボ過給音も聞こえてきていた。

そんな車内では運転に集中する渡部運転手を抜きに宿の朝食について佐倉が熱弁を続ける。


「だって昨日、渡部さんが()()宿の料理楽しみにしてるって言ってたじゃない?それって他の宿の料理を知ってるってことだよ!逆にわたしの舌の方がポンコツだからいつも運転手さんに意見聴いてるんだけど・・・」


「でも、他のお客さんは普通のバイキング形式の料理でしたよ?」


「うん。いいの・・・今後、うちの会社で組んだツアーはその特別料理を標準にしてもらうから・・・」


「うわ・・・宿も災難ですね?」


「それで宿の評判が上がればいいことでしょ?」


「まっ・・・それはそうですけど・・・」


そこでなんか強引に納得させられたような気のする夏帆はちょっと反撃してみた。


「それで・・・昨日の夜、部屋に帰ってきてから始まった二次会で酒のつまみで食べたわたしの料理の感想は?」


「えっ?」


「え・・・じゃないです!」


「アレってあなたのだったの?部屋に帰ったら何故か二次会用に料理が準備してあって・・・アレって宿の配慮じゃなかったの?」


佐倉はこの時、悪気がなかったとばかりに初耳だったことを強調した。その言葉を聞いた夏帆の頭から湯気があがる。そして食べ物の恨みは恐ろしいとばかりに佐倉を睨む。


「そうじゃありません!あれは・・・わ・た・し・の・で・し・たっ!」


そう告げられた佐倉は両手を合わせしきりに謝罪する。


「ごめんなさいっ!今日、予定しているお土産屋さんは『おまかせ』にするから許して!」


その答えを聞いた夏帆の表情が般若さまから天使に一変し和かな表情に・・・


「じゃっ、今回は特別に許します・・・」


この時夏帆がなんで佐倉を許したかというと、立ち寄ったお土産屋さんによっては謝礼(お小遣い)をくれるところがあるからだ。安月給のバスガイドにとってソレは重要な収入源だった。

そんな謝礼の出されるお土産屋さんというのは、大抵旅行会社が決めたところではないちょっとメジャーではないところだ。それは業界の慣行として佐倉も承知のうえ・・・

夏帆たちバスガイドや運転手の間ではそんな謝礼の出るお土産屋さんの情報は共有されていて、路程や客層によってその店を変えているという具合である。


そんな時だ。東北自動車道の第一通行帯を法定速度で北上するエアロクイーンの右側に白いセリカが現れ、一旦並走するように走ったかと思うと、ラッパのようなクラクションを鳴らして急加速し相当なスピードで走り去った。


しかも、夏帆が朝に聴かせられた破裂音混じりの排気音を残して・・・しかも抜き去ったそのセリカの後ろ姿を見ているとマフラー付近が時折ピカッと光るのが分かる。


そんなセリカを目で追っていた渡部が驚いたような口調で夏帆に声をかける。


「夏帆ちゃん・・・あのクルマって、朝に宿の一般駐車場にあったラリー用の改造車だよな。しかも、マフラーから火を吹いてたぞ・・・」


この時渡部が驚いたのは仕方がない。そのクルマは本来競技用車両なのだから・・・


「あのクルマってセリカGT-Fourって言うんですが、アレは改造車じゃなくって初めからラリー用に造られた車両で・・・」


「夏帆ちゃんって意外とそういうの詳しいよね・・・あっ、そうか!あの赤いクルマのカレってクルマ好きみたいだから夏帆ちゃんも自然と詳しくなっちゃったってこと?」


「そうですね・・・詳しいというか、あのセリカの持ち主から直接聞きましたので・・・」


「えっ?直接って?もしかして知り合い・・・だったとか?」


「そうです!知り合いも知り合いで・・・あのセリカの持ち主(オーナー)は、その赤いハチロクの彼のお姉さんで・・・」


「えっ?そうなの?」


「しかも、添乗員の佐倉さんの従姉妹になります。しかも佐倉さんのお姉さんが助手席に乗っていたはずです・・・」


「いや・・・こりゃ驚いた!夏帆ちゃんっていつの間に・・・っていうか、なんでそんな人と一緒になったの?もしかして嫁入り目前ってこと?」


「いや・・・全くの偶然です。義妹になって欲しいとは頼まれましたが・・・」


ここでその当事者の一人である佐倉が会話に参戦する。


「そうなんです!元職場の結婚式に呼ばれた姉貴と偶然同じ日に仕事で同じ花巻に行くことになったんで宿に呼んだ次第だったんですが・・・わたしも姉貴と同じく夏帆ちゃんに従姉妹になって欲しいところです!」


「だ・か・ら・・・ちょっと早いって言ってるでしょ?」


「わたしからまーくんに言ってあげようか?学生結婚でもいいから夏帆ちゃんのこと貰って、早くお腹おっきくしちゃえって・・・ねっ、夏帆ちゃん?」


その時佐倉はまるでいたずらっ子のような表情でそう言う。


「ちょっと待ってください!それでなくても人手が足りないのに、三五八交通のバスガイドを一人減らしてどうするんですか!?」


こんな冗談まじりの会話の中で夏帆は我に帰っていた。もし自分がエンちゃんの彼女となってやがて一緒になることとなれば、それは一緒にエンちゃんの地元へ移り住んで生活するということになる。


もちろんそれは同時に八戸を離れることを意味する。それには今勤めている三五八交通のバスガイドを辞めることも含まれる。さらにはせっかく一人のバスガイドとして育ててもらった会社を欺くことと同じ・・・

でも、どちらにしても取らぬ狸の皮算用である。この時夏帆は、今考えてもどうにもわからない将来を案ずるより今の仕事を精一杯やろうと心に決めのだった。


ちなみに先ほど話題になったGT-Fourがなぜ東北自動車道を北上していたかというと、朝に急遽そのセリカをエンジニアたちに見せたいという森山の義父さんからの電話受けた麻美子さんが、時間調整のため小岩井牧場へ向かうからだった。しかも、そのエンジニアに見せたい別のクルマも盛岡目指して八戸自動車道を南下しているという状況となっていた。


そしてこの後予想もしないことに遭遇する夏帆は、これまた予想もしていない場所でこのセリカと再会するのである。そしてそのもう一台とも・・・


その後・・・東北自動車道を順調に北上し続けたエアロクイーンは盛岡ICで本線を降り、本日の運行指示書にあるとおり盛岡市内観光を順調に消化し盛岡名物の『わんこそば』体験会場に到着していた。

その会場は蕎麦会館という施設で、そばに関する博物館のような場所だった。それは栽培から蕎麦打ちや蕎麦の茹で方まで学べる学習施設のような場所・・・

しかも建物は4階建てになっていて、1階は蕎麦粉の製造施設・2階が学習施設・3階が食堂になっていて、4階が講演会や大会などが開催できるコンベンションホールとなっている。


さすが盛岡名物のわんこそばである。すでにその広い駐車場には色とりどりの大型観光バスがずらりと並んでいた。そんな中、一際大きいエアロクイーンを誘導する夏帆声が駐車場に轟く。


通常、バスのバック誘導はバスガイドのホイッスルによるものが通例であるが、近くでホイッスルによる誘導が行われている場合『ダブルホイッスル』により、運転手がどの音に合わせてバックするのか分からなくなることから、この場合声で誘導するという決まりになっていた。


実のところ、この時代のバスからバックガイドモニターというものが装着され始まり、バック時の後方の状況は液晶モニターで確認できるようになっていた。しかし、『安全確保にやりすぎはない』という業界の方針に従い、バスガイドにより誘導は継続されることに・・・


高校時代ソフトボール部に所属し、練習や試合で大きな声を出していた夏帆のバック誘導の声は大きい。そんな声はバス後方左端に装着されている誘導用マイクから運転席のスピーカーにバッチリ伝わり、ハンドルをグルグル回す渡部運転手の耳にしっかり届いていた。


「オーライ・・・・オーライ・・・オーライ・・・オライ・オライ・・・ストーップ」


そんな夏帆の誘導によりきちんと停車したエアロクイーンからエアーの抜ける音が聞こえニーリングを始める。


そんなバスの乗降口から降りてきた乗客を一旦バスの前に集合させ、バスの停車位置と施設の位置関係を説明した後、旅行会社の旗を掲げた添乗員の佐倉の後ろを歩く乗客を見送った。


そんな乗客が下車した車中でまずやることは忘れ物の点検である。財布なのど貴重品を忘れることがあると、お客様が困ったり、後々トラブルが発生することから忘れ物は発見次第すぐに届けるのが鉄則だった。


「あっ!財布!」


ここで座席の足元に残された長財布を見つけた夏帆は、制服のポケットの中にある座席表を確認した。


「ここのお客さんの名前は・・・」


その財布の持ち主の名前を確認した夏帆はバスを飛び降り、全力疾走で佐倉に誘導され施設の前を歩いていた乗客に追いついた。


「田中さ〜ん・・・お財布お忘れではありませんか?」


その夏帆の声に慌てるようにして振り返ったその田中さんが、自分の肩の掛けていた手提げバッグの中を確認している。そして夏帆を見つめ口を開いた。


「すいません・・・バスを降りる前にバッグの中を整理してて・・・その時ちょっと財布を出したんですよね・・・」


そんなことで夏帆から財布を受け取ったその田中さんは安堵の表情で夏帆から財布を受け取った。


「たまたま見つけたものですから・・・」


夏帆はそれだけ伝え、それに笑顔を添えた。


実際にはシートの下まで覗き込むようにして確認した結果なのではあるが、お客様が喜んでもらえればそれはそれで・・・


そのわんこそばのツアーでは、盛岡名物のわんこそばの由来や歴史に関する学習の後、かの有名なわんこそばを由緒正しい作法で食べ土産話の一つにしてもらえればいいとの配慮で加えられた内容だった。しかし、ツアー的に高齢者が多いことからその疑似体験ということでペースを落としたものではある。


バスガイドの夏帆もそのわんこそばを一緒に頂く・・・と言いたいところであるが、乗務員食堂でかけそばを頂く予定となっている。そんな時だ・・・


「ねえ、夏帆ちゃんってお腹空いてたよね?」


夏帆がそう声をかけられたのは、わんこそば会場で準備されていた席にお客様を誘導している最中の時だった。しかもその声の主は、4階の会場で行われる「わんこそば大食い大会会場」を下見して戻ってきた佐倉だ。そんな当たり前の問いかけに夏帆は応える。


「はい。もちろんペコペコです。それでこれからわたしは乗務員食堂でかけそば三杯行く予定ですけど、何か?」


観光案内でわんこそばを案内することは少なくなかった。しかし、乗務員は乗客がわんこそばを食べている間に乗務員食堂でかけそばを食べるのが通例だ。しかも、無料で好きな天ぷらを乗せられるという小さな楽しみもあったのだが・・・


そんな夏帆が空腹でそんなことを考えているのは佐倉も承知のうえだった。でも、あえて今そんな質問をしてきた佐倉の提案の意図がちょっと分からない。もちろん今回の昼食については添乗員の佐倉も承知しているはず・・・


そんな佐倉がハラペコの夏帆に意外な提案を持ちかけた。


「今、4階(うえ)の会場で予定している収録現場見てきたんだけど、予定していた女性の出場者に欠場が出てちょっとした騒ぎになっててさ・・・それでかけそばをキャンセルして、収録会場でわんこそばの記録狙わない?」


「ん?かけそば三杯で足りなかったら四杯目も行く予定です。わんこそばの記録ってそんな・・・」


実は夏帆はわんこそばを食べたことがなかった。ガイド用教本や乗客からの話からどのようなものかは知っていたのだが・・・実際に何杯食べられるのかも分からない。


そんな夏帆に向かって佐倉が説得を試みる。


「でっ、でもさ・・・こっち(収録会場)のわんこそばには景品が出るの。あの白いモトコンポ。もらえるんだよ?いいと思わない?」


この時、収録会場に入りきれない機材があちこちに仮置きしてあった。その中に混じって置いてあったのがその『白いモトコンポ』と言われる物だ。しかし、その景品の正体が何なのか夏帆には分からない。しかも優勝しないと貰えないそんな景品などどうでもいい夏帆はその景品に興味はなかったのだが・・・


佐倉が夏帆に持ちかけたその出場者差し替えの趣旨とは、東京のTV番組制作会社が収録を予定していたわんこそば大食い大会の出演予定者である地元の女性タレントが体調不良を訴えているので、ピンチヒッターとして夏帆を指名したい・・・とのことだった。

それは佐倉が立ち話をした大会関係者に「ウチの団体のバスガイドが腹ペコで・・・」と言う話をした途端その話がディレクターの耳に入り、いつの間にか是非ともそのバスガイドを出場させたいと話の言う流れになっていたそうな・・・


でも・・・いきなり提案された夏帆にも都合というものがある。


「ちょっと待ってください!景品は別にどうでもいいんですけど、それってテレビに出るってことじゃないですか!わたしって着替えが高校のジャージしかありませんよ!」


ちょっと驚いて取り乱す夏帆に対して佐倉はドヤ顔で答えた。


「大丈夫!デレクターに確認したら、かえってバスガイドの制服のほうが盛り上がるからって・・・」


「でも制服で出演するってことは会社の許可が必要だし、そもそも業務計画にもそんなこと計画されてないし・・・」


この時夏帆は、その佐倉の提案を断る理由を必死に探していた。


そんなことは当たり前のことである。夏帆がバスガイドの制服を着ているということは会社の看板を背負っているということと等しいことである。よしんば普段着に着替えたとしても、夏帆がこの場所にいるということは業務の中での事であり給与も発生しているということにも・・・


ということで、そんな提案を会社のいち社員(夏帆)が独断で引き受けられるものではなかった。しかし、このツアーの添乗員である佐倉はそんなことは織り込み済み・・・


「大丈夫!たった今、三五八交通の専務の了解貰ったから・・・」


「えっ?」


「だから大丈夫だって!」


「専務・・・なんか言ってませんでした?」


「景品は自由にしていいから、とにかく三五八交通をPRしろって!あと・・・」


「ソレは勝てってことですか?」


「まっ・・・そうでしょうね・・・」


「あと、なんかありました?」


「テレビCMやってるのが輸送課の引越し部門だけだから貸切バス部門のいいPRの場だって。それと・・・」


「えっ?まだあるんですか?」


「なんでもこれから盛岡に向けて出発するからバスの点検中って言ってたような・・・」


「その出発の理由って聞いてます?もしかしてわたしの応援・・・とか?でも今からじゃとても収録に間に合わないし、しかもバスって・・・?」


「うん・・・収録とは関係ないみたいでね。なんか『ハコガエ』って言ってたような・・・」


夏帆はその「ハコガエ」という言葉を聞いて胸騒ぎを覚えた。昨日出発前に会社の事務所に掲げられていた配車表に、後輩の古賀が1泊の見習い乗務をする3台口運行の修学旅行の行き先に盛岡近郊にある小岩井牧場が含まれていたからだ。しかもその3台口の車両があの「スケルトン」だったのである。

しかし、古河が乗務するバスはスケルトンからエアロに変更となっていたはずなのだが、とにかくその3台口運行のほか2台がそのスケルトンなのだ。


ちなみにその「スケルトン」とは、ガイドも含め手を焼いているあの古くてたびたび火を吹くことがあるあの古い日野スケルトン・・・


前に小岩井牧場からの帰り道でトラブったスケルトンを救済した経験を持つ夏帆はそんな不安が的中しないよう願っていた。前に行った救済とは盛岡駅に乗客を下ろし偶然空車となったエアロにトラブったスケルトンの乗客を乗せて八戸へ向かったというものだった。ただ、それは業務の終了後だったことからできた離れ業だった。今回も同じようなことにならなければ良いが・・・


この時夏帆の頭の中に、スケルトンがエンジンから白い煙を出しながら高速道路の非常駐車帯に停まっていて、その先の路肩に設置してある非常電話目掛けて必死に走るバスガイドの後ろ姿が浮かぶ・・・


「もしかしてスケルトンがどこかで立ち往生・・・とか?」


この時夏帆の中にそんな不吉な予感が立ち込める。そんな夏帆は収録会場を出て施設の電話を借りようとしたが、まもなく収録の説明が行われようとしていたのでそれもできない。

そんな夏帆は会場の隅で身を隠すように姿勢を低くして連絡用に持ち歩いている業務用無線を鞄から取り出し、口元で通話ボタンを押した。


「お借りします・・・ザザッ・・・もちら小比類巻・・・三五八5007取れますか?どうぞ・・・ザザッ」


この時夏帆が連絡しようとしたのは渡部運転手だった。時間的にまだバスの中で待機しているはず・・・まだ乗務員食堂に出かけていなければ良いが・・・


するとしばらく混線した後、ようやくその問いかけに渡部運転手が応答した。


「ザッ・・ザザ・・こちら三五八5007・・・メリット・・・すり切り・・・いっぱい・・・どうぞ・・・」


この時、周波数の近い他社の業務無線と電波が被り通話が聞き取りにくい状態になっていた。さすが観光地である。複数台運行の他社バスも連絡を取り合っているようだった。


ちなみにその「すり切り」という意味は、通話が途切れ途切れ・・・という意味を指す。


「すいません・・・要件だけ言います・・・会社に電話してもらえますか?もしかすると近くでスケルトンがトラブってるかもしれませんので・・・どうぞ・・・ザザッ」


「夏帆ちゃん・・・ちょっと聞き取れないんだけど・・・会社に電話すればいいのね?どうぞ・・・ザザッ」


「はい・・・そうです。「会社に電話!」です。お願いします・・・ザザッ」


「はい・・・了解!・・・ザザッ」


その無線で夏帆とやりとりした渡部運転手だったが、その夏帆の判断が後々思いもしない事になろうとはこの時微塵も思わなかった。ちなみにこの時代は携帯電話などなく、バスに装備されているのは業務用無線のみとなる。その無線は台数口での連絡用であり、そのハンディー機をバスガイドが持ち歩くというものだった。


「なんか胸騒ぎがするので渡部さんに会社へ電話入れるようにだけ頼みました。何もないといいんですが・・・」


その時夏帆は、その無線のやり取りを心配そうに見ていた佐倉にそう伝えた。


「そうだね・・・わたしも時間見て三五八交通に連絡入れてみるから・・・」


そんな夏帆とのやりとりの後佐倉は乗客たちを案内するためわんこそば会場に戻り、一方の夏帆は収録現場でディレクターから撮影に向けての説明を受けていた。ガチャガチャと会場設営の進む中、そのデレクターの声が会場に響き渡る。そしてその説明の終盤で、会場の隅で小さくなる夏帆に向けての説明が始まった。


「出場者7名の一番左端が小比類巻さんの席になります。本番の前に一度オープニングのリハーサルをやりますので声が掛かりましたら着座願います・・・」


リハーサル・・・これは常に一発勝負で挑んでいるバスガイドにとって初めてのことだった。そこで夏帆の中にソフトボールの試合とも違った緊張が生まれる。そんな夏帆をよそにディレクターの説明が続く。


「・・・・一番最後にはなりますが、オープニングで各自10秒程度で意気込みを語ってもらいますので準備しておいてください。撮り直しが効きますので噛んでしまっても構いません。滑舌にだけ注意して・・・あっ!そこはバスガイドさんですもんね!失礼しました・・・」


たかが10秒・・・されど10秒である。これが長いか短いかは人それぞれであるが、夏帆はこの時何をどう話せばいいのか考えていた。


そんな説明の後、会場の片隅で準備の進む収録現場の様子を眺めていた夏帆にどこかで見たことのある人たちが会場入りしたのが目に入る。その中には大食い番組で見たことのある有名人の姿も・・・


「えっ?わたしってあんな有名人と一緒に映っちゃうってこと?」


こう思った夏帆に新たな緊張が生まれる。そんな時だ。収録会場の片隅にあるパイプ椅子に腰掛けている夏帆にデレクターが声をかけた。


「小比類巻さんはピンチヒッターですので自然体で結構です。ただ、バスガイドという職業上それなりに振る舞ってもらえればいいですから・・・」


緊張を隠せない夏帆を見かねたディレクターがかけてくれたそんな言葉だったが、夏帆にとってその「職業上の振る舞い」ということがどういう振る舞いなのか分からなくなっていた。

そうである。当たり前のことではあるが制服を着ている以上誰が見てもそれは職業上の所作ということになる。でも、その時夏帆はそんな普通のことをしていては会社のPRにはならない・・・というより印象に残らないと考えていた。


そんな時だ。どう言う訳か夏帆の頭の中にあの滝沢が言っていた「モノの本質」という言葉が浮ぶ。それはプロの写真家である父親から息子である滝沢に与えられた人生のテーマみたいなモノだった。


それは「モノの本質がわかっているのとそうでないのでは映る写真が全く違う・・・」それを聞かされていた夏帆はこの意味合いについて考えていた。


「バスガイドの本質・・・」これは如何に・・・


今まで考えたことのないそんな哲学じみたことを考えていた夏帆の表情は硬い。

そんな表情を見かねたディレクターが夏帆に声をかける。


「いつも通りでいいですから・・・あの・・・バスの中で案内するみたいで・・・」


確かにそうである。バスガイドというのは言わずと知れた客商売である。その客商売というのはお客様に満足してもらってナンボの商売だ。


しかし・・・である。テレビの視聴者は何を期待しているのか?どうすれば三五八交通をPRできるのか?これを考えるには少しばかり時間が足りなかった。


しかしながら立ち姿や発声練習はいつもやっていることなので問題ないとしても、今回はモノを食べるという仕草もブラウン管を通じて不特定多数の視聴者に届けられるということなので責任重大である。しかも、そんな姿がアップで撮られた日には表情にも気づかざるを得ない。


この時夏帆は最低限バスガイドとしての体裁を整えるため自分の服装を整えることとした。それは首に巻いたスカーフだったり、制服の皺だったり・・・そこで夏帆は重要なことを思い出した。


「すいません・・・あのお化粧直したいので・・・」


夏帆はその時、椅子から腰を浮かせた状態で近くで色々と雑用をこなすアシスタントディレクターにそう声を掛けた。


「あっ・・・ソレ、大丈夫ですよ。まもなくスタイリストさん達が来ますので・・・」


そう言われた夏帆は撮影用のメークをされていた。


「こんな厚化粧初めて・・・しかもこんな濃いチークなんて・・・」


そう驚く夏帆に対しそのメークを行う女性が囁く。


「本当に薄化粧ですよね・・・バスガイドさんってもっとお化粧が濃いものかと思っていましたが・・・」


「人それぞれかと思うんですが、バスガイドって結構汗かきますので濃い化粧というのも・・・」


「でも、どちらにせよ普通だったらこんな厚化粧しないですよね。これはカメラ映りをよくするための言わば特殊な化粧と思って諦めていただくしか・・・」


「メークさんって芸能人とかのメークもされるんですよね?」


「うん。するわよ・・・ドラマ撮影なんてあるとあちこち引きまわされて本当に大変なの。でも、流石に売れっ子の芸能人なんかの担当になると手が震えるわね・・・」


「やはりプロの方でもそうなんですね?」


「そうなの・・・化粧一つでイメージ変わったりするからね。でも、あなたってこの二重目羨ましがられたりしない?まつ毛も長くって・・・コレって生まれつきでしょ?」


「はい・・・そのとおりです」


「生まれつきでこんなにクッキリな二重目って・・・まつ毛も長いし・・・芸能人でもここまで理想的な二重目はあまりいないわよ。大抵、多かれ少なかれ美容整形しているものなの・・・」


「ありがとうございます。恐ろしいことにまつ毛の長い二重目と耳と歯並びは父親そっくりなんですよね〜。双子の妹も揃って目()()は父親に感謝してます。でも、そんな父親はまつ毛の長さを鬱陶しいって言ってました」


「えっ?どうして?まつ毛の長いおじさんって可愛いと思うんだけど・・・」


「メガネのレンズにまつ毛が触れて気になるそうなんです。それで時々洗面台でまつ毛を切ってるんですが、その姿ったら・・・」


「まつ毛を切る?そんなフレーズ初めて聞いた・・・」


「でもそんな父親はメガネが手放せないど近眼なんですが、一重目の母親はすごく目がいいんです。その目がいいってところは母親に感謝してます・・・」


「ご両親から良いところをもらったんですね・・・でも、もっとお父さんに感謝してあげなきゃ・・・目の整形だけでも結構お金がかかるのよ・・・でも、お金以前にこんなに可愛い娘を作ってくれたことに感謝だよ・・・」


そんなことで出来がりつつある夏帆のメークは普段と全く違ったモノだった。それを手鏡で見た夏帆が驚く。しかし、夏帆が驚いたのは別な部分で・・・


「えっ?顔と首の色がこんなに違う・・・わたしってどれだけ色黒だったの?」


普段薄化粧しかしない夏帆が驚くのは当然のことだった。それほど撮影用のメークは濃い。そんなメークを施した女性が夏帆の驚きに応える。


「いいんです。お肌が本当に綺麗でうらやましい限りです。芸能人の中にはお肌が悪い方もいて、お化粧しないと見せられない方も多いんですよ・・・それに、瞳がお綺麗なので目の周りを強調してみました」


その時夏帆のメークをしてくれた女性が道具箱の化粧品を整理しながらそう囁いた。雑誌やテレビで見る芸能人はとても綺麗な方が多く、自分など足元にも及ばないと思っていた夏帆にとってはどことなく嬉しい言葉だ。そしてそのメークさんが夏帆のネームプレートを見て尋ねる。


「小比類巻さんっておっしゃるんですね?珍しい苗字ですね?」


「はい地元でもあまりいません・・・」


そんな会話をしながらメークさんは紅を自分の手の甲に塗り、夏帆の顔の脇にその手をかざして色具合を確認している。そんな中、夏帆とメークさんの会話は続く。


「三五八交通って八戸ですよね?もしかしてあの・・・歌手の小比類巻かほるさんの親類さんとかですか?」


夏帆はいつものことながら、そう聞かれた時に準備しているセリフで答える。


「親類だと良かったのですが・・・地元は近いんですが・・・」


その歌手の出身地は八戸市の北側に存在する三沢市で、夏帆の実家はその南隣町となる。


そんな時、紅の色を決めたメークさんが夏帆の普段の化粧について尋ねた。


「口紅はいつもこんな感じ()なんですか?」


「はい・・・バスガイドの一番初めの研修で教えてもらった無難な色ですが・・・」


「でも、こっちのお色の方が表情が明るく見えますので試して宜しいでしょうか?」


そう言いながら手の甲に付けたその紅の色を夏帆に見せた。


「はい・・・よろしくお願いします」


そうしてその明るい色で引いてもらった口紅の色はこれまで試したことのない明るい色だった。しかも、口紅一つでこれほど表情が変わるとは驚きである。その時夏帆はすかさずその口紅のブランドと色を聞いた。


「あの・・・後でその口紅の色と同じもの買いたいんですけど、ブランドとか色とか教えてもらえませんか?」


「う〜ん・・・これって業務用だから・・・でも、お店でこれを見せればほぼ同じ色のもの見立ててもらえると思う・・・」


そう言いながらそのメークさんから受け取ったメモ書きにはいろんな記号が書いてあった。


「ついでに今使ったファンデーションなんかの情報も書いておいたから、お店の人と相談してね!」


そういうメイクさんは何故か笑顔だった。そして夏帆が手鏡を見ながら自分の口元に驚いた表情をした時、今度は眉を整えていたそのメークさんがその馴れた手を止めて遠目に夏帆の顔を見た。


「もうちょっと眉を強調したらあの・・・」


夏帆は自分の顔の手入れがあまり得意な方ではない。それで雑誌を見ながら自分で眉を整えていたが、それはいつしか「マロ」に限りなく近くなってしまっていた。それでその眉を指摘された夏帆は動揺を隠しつつそれに応える。


「なんか・・・ありました?」


「歌手の南野陽子さんに似てらっしゃると思って・・・」


「えっ?・・・なっ・・ナンノちゃん?」


夏帆は生まれて初めて芸能人に似ていると言われた気がした。苗字が同じ小比類巻かほると親戚か?と尋ねられるのは日常茶飯事だったが・・・しかも、プロのメークさんにそんなことを言われるとは・・・


「ちょっと眉を強く描いてみますね・・・そのほうが目力(めじから)が強く、真の通った女性に見えますので・・・」


そして最後に「グロス引いて終わりね・・・」と言ってメークさんが夏帆の視界から離れ、目の前の鏡に映ったそ夏帆の表情はまるで芸能人だった。メークひとつでこんなに人が変わるとは・・・しかも、「最後に口元のホクロも着けてみましょうか?」と尋ねられたが、これは流石にそこまでは・・・


とにかく夏帆はすごく嬉しかった。芸能人並みのメークをしてくれたその技術以上に、そのメークさんが自分のことを一人の女性として扱ってくれたことに・・・

いつもは高卒の若い姉ちゃんというような扱いをされてきた夏帆は、この時女性としての自分のスイッチが入ったのが分かった。

まもなく二十歳を迎える夏帆は名実ともに女性の仲間入りをしなければならない年齢に達している。ちょっと遅いかもしれないが、そんなスイッチの入った夏帆はどこか高揚感に包まれながら撮影の準備が佳境を迎えるのをぼんやり見ていた。


そして撮影開始が近くなった頃、下の会場でわんこそばを食べ終えた乗客達と一般客、それと番組が手配したサクラたちが夏帆の前を横切り観客席に入ってきた。


するとそのサクラの後に歩いてきた夏帆のバスの乗客達が夏帆を二度見して立ち止まる。


「えっ?夏帆ちゃん・・・?アンタってあのバスガイドの夏帆ちゃんかい?」


夏帆は驚きを隠せなかった。自分でもすごいと思ったそのプロのメークがこれほどのものだったのかと・・・


「はい・・・小比類巻で〜す」


夏帆は左手で小さく手を振ってそれに応えたが、せっかくの表情はそれに反して少し引き攣っていた。するとその観客たちから声援が上がる。


「夏帆ちゃ〜ん。かわいい・・・がんばって・・・」


それは、先ほど財布を届けた田中さんの声だった。決して若いとは言えないお年を召した方のそんな声援がとても意外だった。部活の試合で声援を送られることはあっても、まず仕事でそんな声援を送られることはまずなかった。しかも、その声がお年寄りの声と来ている。


「うん!頑張んなくっちゃ!」


そう意気込み着座した目の前の観客席に観客たちが次々と着座し、ディレクターから声援の掛け方のレクチャーを受けている。その数約200名ほど・・・


すると今度はわんこそばのお椀と茹で上がったそばが大きなワゴンに乗せられて会場入りした。いよいよ撮影の準備が大詰めをむかえる。


その時だ。今まで何かの説明を受けていた観客がアシスタントディレクターが掲げるスケッチブックに合わせ一斉に歓声を上げたり手叩きを始めた。その掲げられるスケッチブックをよく見ると「歓声」「拍手」「応援」などとマジックで大きく書かれており、まずサクラの観客がそのスケッチブックの指示通りのことをして、それが観客席全体に広がる仕組みとなっていた。


それを見た夏帆は「なるほど!」と思った。これは群衆の集団心理をうまく突いた誘導であることが見て取れる。この観客の中にはアシスタントディレクターの説明がよく聞き取れない耳の遠いお年寄りも含まれる。しかし、訳のわからない人でもとりあえず周りと同じことをしていればなんとかなるモノだ。


「カメラテスト入ります・・・」


その時、アシスタントディレクターのその掛け声で会場が静寂に包まれる。

そんな時だった。観客席の前に設置された大きなカメラのレンズが夏帆の方を向いて赤いランプが点灯した。

するとカメラの足元にあるモニターに夏帆の姿が映し出され、自分の顔がアップとなっている。しかし、それはいつも手鏡で見る自分とは違う自分だった。いつもテレビに出ている芸能人はいつもこんな感じなのだろうか?そう思った夏帆はその瞬間から急に緊張してきたのが分かった。

すると夏帆に向けられているスポットライトの光量の調整が行われているのが分かる。そんな時デレクターから声がかかる。


「小比類巻さん!モニターは気にしないでください。自分の方を向いたカメラのランプがついたら、そのランプに目線をお願いします!」


そうだった。モニターを見ていたのでは目線を下げた状態となってしまう。これはバスの中でお客様を見ずにカンペを見なから説明しているのと同じ・・・

これは基本的なことだ。目線を逸らしていては、説明を聞いている方の心を捉えることはできない・・・これはバスガイドの先生である吉田ティーチャーがいつも口を酸っぱくして注意していること・・・


するといつの間にか、会場の隅でどこかの番組で見たことのある女性アナウンサーが話すオープニングのリハーサルが始まっていた。それはスタイリストがアナウンサーの衣装を治しながらの慌ただしいもの・・・

そんな様子を見ていた夏帆の中に疑問が浮かび上がる。


「なんでこんなことになっちゃったんだろう?わたしってなんでこんな腹ペコでここに座ってるんだろう?本当だったらかけそば食べ終わってバスで待機していた頃なのに・・・」


そんな夏帆は極度の空腹と緊張で意識朦朧になりかけていた。


そんな中始まったリハーサル・・・

夏帆は三五八交通観光バスのPRを兼ねた挨拶をそつなくこなし、それに続いた本番でもテイク1で切り抜け、もっからの勝負強さを発揮していた。しかも「南野陽子似のバスガイド」として紹介されたうえ、無茶振り司会から定番の東京のバスガールを歌うように指示されたり、最後にはスケバン刑事の決め台詞である「おまんら許さんぜよ・・・」という決めポーズまでさせられていた。しかも夏帆は南野陽子本人と同じ左利きというのも偶然だろうか。


そしてその後挑んだわんこそばでは細身の素人女性ということでもらったハンデ五十杯と、昨年優勝者に与えられた制限時間5分短縮という条件ということにも助けられたものの、どういう訳か優勝してしまっていた。しかも、終盤に完客席から「ナ・ン・ノ・・・ナ・ン・ノ・・・」という掛け声までかけられた始末だったが、当の夏帆自身はゾーンに入ってわんこそばを食べまくり周りの声援は耳に入ってこなかった。


そして番組収録の終盤に始まったエンディングの撮影・・・

最後の優勝者に対しての景品授与の段になって夏帆は思いがけないことに遭遇することになる。それは、商品の他に賞金があったこと・・・。これまで誰も教えてくれなかったソレは、まさか優勝などしないであろう夏帆に教えなくても支障のない情報として処理されていた。


「それでは優勝した小比類巻さんに賞金の50万円と、スポンサー様から提供ありました副賞のモトコンポを授与したいと思います・・・」


「えっ?・・・賞金?・・・50万円?聞いてませんが・・・」


その時アナウンサーが言った言葉に夏帆は固まってしまった。現金50万円なんていう大金は手にしたこともないし、見たこともない。ローンで買ったレックスは頭金20万円の36回ローン・・・冬のボーナスでもその賞金の半分にも満たない額しが受け取っていない夏帆の頭はオーバヒート寸前だ。


「実のところ本日優勝しましたバスガイドの小比類巻さんは本日たまたま盛岡の蕎麦会館に案内のため訪れていて、急遽本番直前に参加いただいた方になります。急な参加にも関わらず盛り上げていただきありがとうございます」


司会からそうお礼を言われた夏帆はバスガイドとして模範解答で、そして営業スマイルの営業ボイスでそれに応えた。


「テレビを通じてわんこそばの楽しさや盛岡の素晴らしさを知っていただければ嬉しいです。また、北東北の旅の企画がありましたら八戸市の三五八交通観光までご用命ください。きっと心に残る旅というものをご提供できるかと思います。社員一同お待ちしております・・・」


そんな挨拶の後、司会が定番の質問を投げかける。


「賞金の50万円は何に使いますか?」


司会からそんな質問を受けた夏帆は咄嗟にこう答えた。


「バスガイドの女子寮でみんなが使っているピンク電話が1台しかないので、その賞金でもう1台設置したいです!」


この後しばらくして女子寮に設置されたピンク電話2号機は「夏帆優先電話機」として夏帆だけではなく女子寮のみんなから重宝がられるようになる。


後日談としてその数週間後テレビクルーが三五八交通本社を訪れ、バスガイドの業務の流れを撮影しに来ることとなる。その時のエピソードは後で紹介したいと思います・・・


ちなみにこのわんこそば大会と後日収録された番組は、残念なことに民放2局しかない青森県内では放映されず、後日編集されたビデオの白箱が会社に送付されただけだった。しかし、それから県外からの問い合わせが増えたり青森県内のローカル番組の取材を受けたりしながら会社の業績が劇的な右肩上がりを見せることとなる。


そしてこの好景気(バブル景気)が今しばらく続くと誰もが信じて止まなかったこの頃、夏帆が勤める三五八交通ではさらなるバスの増車と次年度バスガイドの大量採用計画を打ち立てるのだった・・・





腹ペコの状態で始まったこの日の業務でひょんなことからわんこそば大食い大会に出場することになり、しかもプロのメークにより芸能人並みの容姿になってしまった夏帆だったが、そのメークがこれから行く先々でいろんな人を驚かせることになるとは思いもしなかった。

そんなメークのまま夏帆の業務は続きますが、朝と真逆なお腹いっぱいの状態なうえそのメークがいろんな影響を与えることに・・・


次話ではそんな夏帆が想定外のことに巻き込まれることになります。まだまだ続く夏帆の活躍をご期待ください。それでは・・・



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