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恋する乙女のひとりごと   作者: みなみまどか
7/19

何事にもストレートの全力投球!

高校時代、女子ソフトボールインターハイで全国大会出場を果たし、準々決勝でノーヒットノーラン試合を達成した夏帆は、業務宿泊先の花巻温泉で実際とはちょっとだけ違った試合展開の夢を見ていた。それは、愛しいエンちゃんに夢の中で出逢うために普段だったら絶対にしない利き腕である左腕を下にした横向きで寝ていた時に見た再現夢・・・

しかも、その高校時代に会うことのないそのエンちゃんの掛け声により頭の中が混乱しながら目覚めた夏帆は、その時とても空腹な状態だった。


今回の物語はそんなところから始まります。

それでは・・・


思いもよらない夢を見て早起きしてしまった夏帆は、持参していた高校の時のジャージに着替えジョギングしながら温泉街をぐるりと一周していた。これは本日の出発時間に余裕があったことと、どういうわけか身体を動かしたい衝動にかられていたからだ。


とはいうものの、昨晩麻美子さんとの話の終盤に帰ってきた佐倉(酔っ払い)姉妹に、夏帆がその後食べようとしていた夕食を酒のツマミ代わりに食べられてしまった夏帆は、いつも緊急用に持ち歩いていたカロリーメイトしか口にしていない。


「なんか・・・口の中がパサパサするけど、その分朝食バイキングで取り返そう・・・」


夏帆はそのときそんな思いで走っていた。このホテルの食事は朝食バイキングも好評と聞いていた夏帆はその朝食に期待をしていたのだが・・・


本日の日程は、花巻市内の宮沢賢治記念館を見学した後東北自動車道で盛岡市まで移動し、市内観光後乗客の皆様に盛岡名物の「わんこそば」を体験してもらう事となっていた。さらには同じ施設のイベント会場で行われる「わんこそば大食い大会」を見学することになっている。

またこの会場ではテレビ収録も兼ねていることから、拍手の仕方や声援の掛け方なども練習するというものその内容に含まれていた。


その後、最終立ち寄り箇所であるお土産店に立ち寄った後最終的に盛岡駅送りとなっていて、本業務最後に盛岡市営バスの営業所駐車場を借りてバスの洗車や清掃などの軽整備を行う計画となっている。

ちなみにその次に控えた業務は、本日夕方盛岡駅近くの市民会館前で別の団体を迎え再び花巻温泉に宿泊し、翌日一関にある大きな工場を視察後市内にもう一泊し仙台駅に送るというものだ。


本日の予定はさておき、ジョギング終盤に観光バス専用の駐車場を駆け抜けた夏帆は一般宿泊者用駐車場でボンネットの開いた白いクルマの後ろにしゃがみ込んでいる麻美子さんの姿を発見していた。

その白いクルマからはアイドリングの重低音の効いた排気音が聞こえる。


そんな白いクルマは、リトラクタブルヘッドランプの車高の低いクルマでどこか見覚えのあるヤツだ。その名前はわからないものの、高校時代に観た映画館のスクリーンで活躍したクルマのような気がする。

夏帆はそんなことを感じながら、クルマのマフラー出口に顔を近づけている麻美子さんに声を掛けた。


「おはようございます・・・何かトラブルですか?」


「違うの・・・エンジンの「燃調」を確認してたの・・・」


夏帆が見るに、どう見ても排気ガスの匂いを嗅いでいるようにしか見えない。


「すいません。その「燃調」・・・ってなんですか?」


「簡単にいうと、ガソリンと空気の割合のことなんだよね・・・濃いとエンジンがグズルし、薄いとパワー出るけどブローと紙一重だし・・・普通の市販車はエンジンブローを嫌って燃調を濃い目にセットするんだけど、森山の義父さんはその辺に自信があるから初めから薄めのプログラムで・・・」


これを聞いている夏帆はちんぷんかんぷんだ。まるで、あの洗車場でエンちゃんにスーパーチャージャーの説明を受けた時と同じように・・・


「ん?濃い?・・・薄い?・・・何がどう薄いと何がブローする・・の?」


でも・・・調子の悪いバスのバック誘導の時あの臭くて黒い煙の洗礼を受けている夏帆は、なんとなくその排気ガスの匂いでエンジンの調子を計るというその行為そのものに納得がいった。


「そうですよね・・・バスも調子が悪いと排気ガスが黒くて臭くなりますけど、新しくて調子のいいバスほど排気ガスが臭くありません・・・でも、壊れる直前のバスって白い煙を吐くってみんな言ってました!」


令和の現代では信じられないことであるが、ディーゼル車の排ガス規制が強化される平成17年以前のディーゼル車は、見れば一目でそれがディーゼル車であることが分かるくらい黒煙を吐くのが当たり前だった。

しかもそんなディーゼルの大排気量エンジンを搭載する観光バスとつきあうバスガイドにとって、バック誘導時の黒煙は切っても切れない存在だ。


「バスガイドさんって大変だよね・・・あのディーゼルの排気ガスを嗅ぎながらバックの誘導してるんでしょ?」


「そうですね・・・調子の悪いバスなんて誘導の最中にエンストしたりして、エンジンかけ直すときにまた黒い煙を吐くんですよね・・・風向きが悪いともう最悪で・・・」


「もしかして、三五八交通のバスってそんなのしか無いってこと?」


「いや・・・今ではあまり煙の出ないふそうのエアロってバスに切り替わってきてるんですけど・・・古いバスも結構残ってまして・・・」


やれやれ・・・というふうにそう答える夏帆を前に、何か考え事をしていた麻美子さんがそれに答える。


「ディーゼルエンジンってドライバー一本で燃料噴射ポンプの燃料噴射量を調整できるの。本当だったらは封印されていていじれないんだけど、調整しちゃう人って結構いるんだよね・・・」


そんな麻美子さんがお嫁入りした小林ボデーは主に車体の板金塗装を行なっている整備工場であるが、もちろん一般的整備も行っていることから調子を崩した大型トラックが持ち込まれることもある。その調子を崩したエンジンを診てみると、本来封印がされている燃料調整ネジがフリーになっていることがほとんどだった。


「もしかして・・・運転手さんがいじっちゃってるって事ですか?」


「それは分からないけど・・・ちゃんとした軽油入れて、きちんと整備すればそんなに煙を吐くことはないんだけどね・・・」


「ちゃんとした軽油・・・って?ちゃんとしてない軽油もあるんですか?」


「うん。観光バスはキチンと軽油を給油してると思うんだけど、小さい会社のダンプなんかはA重油を入れてるところのあるの・・・」


「それって聞いたことあります。ディーゼルって重油でも走るって・・・」


「灯油でも走るんだよ」


「それって暖房用じゃ・・・」


「そんなの入れたらエンジンダメになっちゃうの知っててみんな入れちゃうのね・・・結局燃料代を浮かすために・・・」


「でも・・・それって脱税だって聞いたことあります」


「だから国道の検問で抜取り検査なんてやってる訳・・・抜き取りする前で排気ガスの色と匂いで軽油じゃないのがわかるのにね・・・」


「でも、ウチの会社のバスはキチンとした軽油を入れてますが・・・」


その時夏帆の記憶の中に運転手同士の会話が蘇る。


「燃料増やしたんだけど(パワー)がイマイチで・・・」


それは台数口で走っていて、大排気量のV型8気筒エンジン搭載車についていけなかった古いバスの運転手が発した言葉だったような気がする。


そんなことを考えている夏帆を前に麻美子さんの話が続く。


「でもさ・・・いくら調子を崩しても黒い煙を吐くうちはいいの。それが白い煙や黄色い煙を吐き始めると本当にヤバいの・・・」


「白い煙はヤバそうな匂いってのは分かるんですが・・・その黄色いって?」


「異常燃焼とかで排気温度が高くなって焼き付く直前ってことなの・・・」


「するとさっき、排気ガスの匂いを嗅いでいたのはソレ・・・ですか?」


「まっ、そんなところかな?昨日、高速飛ばしてきたでしょ?ちょっと燃調が薄くて排気温度が高めだったから気になってね!」


「えっ?昨日の匂いも分かっちゃうってことですか?」


「うん!何せイノシシ級の嗅覚だから・・・」


そんな他愛もない会話を続ける夏帆は、この白いクルマの正体が気になって仕方がなかった。そして、このクルマが活躍した映画のタイトルが喉元まで出かかってもどかしい・・・


「どうしたの?」


この時、麻美子さんはエンジンオイルのレベルゲージを確認しつつ、隣で何かを考え込む夏帆を見上げた。そんな夏帆の頭の中に、映画館に貼り出されていたその映画のポスターが蘇った。


「あっ!思い出しました。このクルマって、「あのスキーに連れてって」のマリコさんのクルマと同じですよね?映画のポスターに空飛んでるこのクルマが描かれていました!」


「ピンポ〜ン・・・そのとおり!小比類巻さんもあの映画見たんだね・・・そうなんだよね、あの映画で空飛んでひっくり返っちゃったGT-Fourと色も全く一緒・・・あっ、こっちもね・・・」


そう言いながら指差したのがルームミラーにかけられた無線のマイク・・・


「このクルマってGTなんとかって言うんですね?それにそのマイクってアマチュア無線ですか?」


実は通常車体両脇に大きく「GT-Four」と大きく書いてあるのがこの車種の標準だったが、このクルマに限ってステッカーの類は全く貼っていなかった。


「うん。クルマはGT-Four・・・セリカGT-Fourっていうの。今じゃこのこのクルマ(旧型のST165)セリカもクジラみたいな現行型(ST185)セリカにモデルチェンジしちゃってるけどね・・・それとこっちはアマチュア無線ね・・・ちなみにあの子()のレビンにも着いてるよ・・・」


「弟さんのレビンに乗せてもらった時には気づきませんでした・・・」


「あのレビンの無線機本体はグローブボックスの中に隠してあるの。走りに関係ないものは極力見せたくないっていう森山の義父さんのこだわりかな?」


「なんか・・・その「森山の義父さん」って方にお会いしたくなってきました。でもですよ・・・そのクジラみたいなセリカって、すごい言われようですね・・・」


「それって一応高級路線に沿ってカッコよくしたつもりだったんだけど・・・ちょっと大きくなりすぎたっていうか・・・硬派から軟派に変わったというか・・・デートカーに生まれ変わったというか・・・」


「で・・・でも、格好は良くなったんですよね?」


「まっ、賛否は別れるところではあるんだけどね・・・しかも競技というかラリー用にテストしてた方面からめっぽう評判が悪くって」


「評判?このクルマの・・・ですか?」


「違うの。評判っていうか・・・モデルチェンジしたほうのGT-Fourを一台ヨーロッパのチームに送ってテストしてもらったらものすごい注文が付いちゃったみたいなの・・・」


「それじゃ、クジラのセリカはモデルチェンジの方向がそっちじゃなかったってことですね?」


「うん。そうみたいなの・・・そもそも旧型だってラリーを想定したクルマじゃなかったんだけど、一流ドライバーがテストにテストを重ねて最終的には強いクルマにはなってきたんだよね・・・結局それだけ期待値が高かったってことなのかな・・・?」


「あっ!・・・それ、お客さんがバスに置いていったスポーツ新聞で見たことがあります。今、トヨタがタイトル争いしてるって・・・」


この平成に入ったばかりの時代、モータースポーツが度々スポーツ新聞を賑わすことがあった。その時の日本という国は飛ぶ鳥を落とす勢いというか、世界中のどんな分野のものも(カネ)にものを言わせて手に入れる国だった。この中にモータースポーツのタイトルも含まれる・・・・そんな時代だ。

そんなバブル最盛期に設計され発売されたクルマは必然的に豪華なクルマとなる。たとえそれがモータースポーツを意識したクルマであっても・・・


「そうなの。だからそれを踏まえてのモデルチェンジでしょ?チームも期待しちゃってたんだよね・・・でも、実車を見たら重いは大きいはで・・・」


「大雑把にいうと・・・期待はずれってことですか?」


「うん・・・モータースポーツの大原則である『小型・軽量・ハイパワー』のどれも満足いかない中途半端なクルマになっちゃって・・・」


「中途半端って、そんな・・・」


「うん。残念ながら・・・だから大幅な改良が必要になるらしいの。それに、市販車がモデルチェンジしてるっていうのに、いつまでも旧型でラリーやってられないし・・・」


「それじゃ、会社あげて取り組むしか・・・」


「本当はそれが正しいのかもしれないけど、もうすでに次のフルモデルチェンジに向けたタイムテーブルがスタートしちゃって・・・」


「もう・・・ですか?」


「そうなんだよね・・・それでそっちのほうに人手を取られちゃって、現行モデルの改良型を腰を据えてを研究する人がいなくなったっていうのが実情みたいで・・・」


「それで現行モデルの改良版を研究するのにその森山のおじさんが引っ張られた・・・と?」


「うん・・・そんなところなの。実は前の職場でこの旧型モデル(ST165型)のECUを担当していたということもあって、ヨーロッパから山ほど送られてくる注文に応えて色々試行錯誤してたみたいなんだけど、その結果そのクルマがラリーで実績を上げる基礎を築いたっていうか・・・」


ちなみにそのECUというものとは、この平成初期においてはエンジンコントロールユニットとして主にエンジンを制御する電子機器を意味していた。それがこの数年後にはアクティブコントロールと称されるAWDシステムやトラクションコントロールまで総合的に制御するユニットへ劇的に進化する時代に突入する。

それが30年も先の令和になるとそのECUにAIまで組み込まれ、車両各所に配置された各コンピューターをCAN通信で統括するECUへ進化しており、しかもそのECU自体がメーカーの遠隔操作(衛星通信(OTA))によりアップデートできるほどまで進化を遂げていた。


そんなクルマのECUの進化のきっかけがヨーロッパで行われているラリーという市販車ベースの競技であると言っても過言ではない。


そんなことはさておいて、麻美子さんの義父さんである『森山の義父さん』の話題へ話は戻る。

実はそんな森山の義父さんはもともと整備士を目指して名古屋の某大学を卒業したが、思いがけず日本最大の自動車メーカーへ就職することとなり、自分の思惑と違ったエンジン研究部門で数年働くこととなる。しかし、コンピューターのプログラムが組める人などほとんどいなかったこの時代に、趣味でいじっていたPC9801マークⅡというPCで覚えたプログラムの手腕を買われ、いつしかターボチャージャー制御ECUのSEシステムエンジニアとして手腕を発揮することとなる。ウィンドウズなんて言葉もなかった時代だ。


しかし、そんなSEとして勤めていた職場で結婚まで考えていた同僚女性が直属の上司と不倫をしていたということを知り、その日のうちに徹夜で引き継ぎ書をまとめ上げ翌朝辞表を提出し、その直後から愛車のスバルドミンゴで放浪の旅に出かけたという変わり者でもある。

その後しばらくして住んでいたアパートの大家である麻美子の叔母さん《御殿場のおばさん》からの紹介で小林ボデーが経営していた整備工場脇のアパートに移り住んだという変わった経緯を持つ。


「そういえば、その森山のおじさんってその研究所(前の職場)辞めてしまっていたんですよね?」


「うん。でも、結局復職してもう一度セリカの研究してほしいって頼みこまれて・・・」


「それって昨日聞いた『小林ボデーに手土産持って説得に現れた』・・・ってやつですよね?」


「うん・・・そうなの。このでっかい手土産(セリカGT-Four)をキャリアに積んできてさ・・・」


そう言いながら麻美子さんはセリカのフェンダーを優しく叩いた。


「えっ?これがその手土産だったんですか?」


「うん。言わなかったっけ・・・?」


「クルマだなんて聞いてません。昨晩聞いた話じゃ何かクルマ系のグッツか何かと思いましたが・・・」


「全くね・・・これセリカのおかげで森山の義父さんったら勤めていた役所を辞めなるハメになってさ・・・」


「えっ?森山のおじさんって役人だったんですか?」


「そうなの・・・その研究所辞めた後全国各地を車中泊しながら放浪してたみたいでね。それでたまたま連絡のついた御殿場のおばさんから社会人経験枠の中途採用があるって聞いたみたいで・・・」


「それで役人になったんですね?でも全くの畑違いですよね?」


「そのほうがよかったみたいなの・・・好きなクルマは生業でなく趣味にしたほうが楽しいって言ってたし・・・しかも、住んでるのがウチ(小林ボデー)の借家だし・・・仕事から帰ってくればウチの工場に篭って工作してるし・・・」


「えっ?麻美子さんとこの借家に住んでるんですか?」


「うん!しかも結婚したのが偶然にもわたしの母さんと来てるっておまけ付きでさ・・・」


「それってすごい偶然ですね!でも、今は役人でも前職が研究職みたいな感じですよね?大丈夫だったんですか?」


「そこはホレ・・・ココ()はいいから・・・」


そう言いながら麻美子さんは自分の頭を指差す。


「そうですね・・・コンピューターを弄れるくらいですからね・・・」


「それで役所では行政って言われる部署に配属されて働いていたんだけど、母さんが建設業を廃業するときに役所へ種類提出してた時の担当者だったんだよね。しかも10歳も年下・・・」


「それじゃ最初は業者と役人の関係だったんですね?でも、10も年下ってことはまだまだ現役バリバリじゃないですか?」


「そうなの。元の職場がそんなに若い義父さんを頼って来たんだよね。しかもRCプロジェクトなんていうメーカー将来を左右しそうな重要な案件で・・・」


「RC・・・?」


「うん・・・その新型セリカの改良版が5000台限定モデルとしてGT-Four タイプRCって名前で世に出る予定なの・・・聞いた話じゃそのうち2000台弱が国内販売で・・・」


「それって、もしかして・・・?」


「うん。コレから研究するヤツ・・・」


「えっ?・・・名前と台数だけは決まっちゃってるんですね・・・」


「うん。その他は何も決まってないのにね!」


「でも、仕事を受けたってことは森山の義父さんの頭の中ではなんとなくの青写真(方向性)は描けてそうですよね?そうでなきゃ・・・」


「そうだよね・・・このクルマが届いてから何日も運転席に座りながらこれからどうするのかを相当悩んだみたいなの。それである時クルマをリオファクトリーに入れてバラシ始まって・・・」


「そこで何か踏ん切りがついたんですね?」


「うん。降ろしたエンジン(3S型ターボエンジン)を前に理央ちゃんと何か議論してて、その理央ちゃんに背中押されて復職決めたみたいなの・・・」


「何を議論してたか聞いてもいいですか?」


「うん・・・このインタークーラーのことで揉めててさ・・・」


この時麻美子さんは、セリカのエンジンの上に装着されているインタークーラーを指差した。


「コレってわたしのクルマ(レックス)にも着いてます・・・」


「そうだよね・・・小比類巻さんのクルマってスーパーチャージャーだったもんね・・・」


「それで何を揉めて・・・」


「それがさ・・・空冷が良いとか水冷が良いとか・・・なんだよね・・・」


「すいません・・・よくわかりませんが・・・」


「そうだよね・・・わたしが聞いてもどっちでも良いと思うような話だもん。でもさ、絶対パワー派の理央ちゃんと安定パワー派の森山の義父さんがぶつかって・・・」


「その理央さんが師匠みたいな森山のおじさんとぶつかっちゃったんですね?」


「それでどうなったと思う?」


「研究してみるってことに・・・?」


「結局それをやるには研究所に戻らなきゃダメだってことになって・・・」


「そんな経緯があったんですね・・・」


「でも職場復帰って言っても、同じ場所じゃなくって今度はその拠点が海外でしょ?」


「ちょっと躊躇しちゃいますよね・・・」


「しかも、今度はSEとしてではなく総合的にクルマを造り上げる立場になるらしいんだ・・・それに若いスタッフ(整備士)も預けられるみたいで・・・」


「でも、そもそも整備士を目指していたんですもんね?大丈夫ですって・・・」


「そうなんだよね・・・SEになる名前はヤマハに出向してのレビンの(4A型ツインカム)エンジン設計なんかもしていたし、研究所辞めて母さんと結婚してからは趣味でクルマを改造してたり、ここ最近では暇さえあればウチ小林ボデーのリオファクトリーで理央ちゃんと楽しそうにエンジン組んでるし・・・」


「どこか吹っ切れたんですね?ん?ちょっと待ってください。先ほどから名前が出ているその『リオファクトリー』ってなんですか?」


「整備士の理央ちゃん専用ピットの俗称なの。理央ちゃん目当ての客が多いからそうなっちゃったんだけど・・・」


「あっ、なるほどです。小林ボデーのアイドルですもんね・・・」


「それでこのGT-Fourクルマって、そもそも今ヨーロッパで戦っているラリー車のスペアカーなる予定のクルマだったの・・・正確に言えば事前にコースを走ってレッキ帳を作るためのクルマ・・・」


「レッキ帳って・・・?」


「レッキっていうのはさ・・・


夏帆はその説明を聞きながら改めてその白いセリカを見た。そのセリカには後部座席が存在せず、通常敷いてあるカーペットすらなくそこにあるのはスペアタイヤだった。しかもシートも変わった形のバケットシートになっていたがシートベルトベルトだけは見覚えがあった。


それは4点式シートベルト・・・


・・・それで、レッキ帳を作るには出来るだけ本番に使う車両と同じのがいいの・・・」


そんな麻美子さんの説明に返したのがコレだった。


「このシートベルトって弟さんのハチロクと同じですか?」


「メーカーと色は同じなんだけど、これって股下にもベルトがついている6点式なの。全く不便極まりなくってさ・・・」


「でも、そもそもこのクルマって競技用ですもんね?でも、そんなクルマで公道走っていいんですか?」


「それはその・・・ウチって運輸局指定の整備工場じゃん。保安基準に合わせる作業なんてすぐにできるから改造車検取るのも難しくないっていうか・・・でも、燃料タンクだけは基準に合わなくて標準のモノにしてるけど・・・」


「じゃっ・・警察に捕まることもないですね?」


「うん。見えるところはきちんと構造変更届もしてるから法的な問題はないの。でも、このクルマがこれから手掛けるクルマの研究用試作車プロトタイプってことで外見はノーマルを装って目立たないようにしてるけど・・・」


「見えるところ?・・・研究・・・?試作車・・・?外見・・・?」


「昨日さ・・・森山の義父さんがイギリスに行く話したでしょ?」


「はい・・・家族で行くって言う・・・」


「それですぐに成果を出せるように渡航前からいろいろ試行錯誤してて・・・あっ!」


「どうしたんですか?」


「そうだった!明日、その森山の義父さんと母さんが盛岡でそのイキリス渡航の会議に出席して、それから車体製作の現場を視察するって言ってたの思い出した!」


これは昨晩入った大浴場で従姉妹姉妹たちが話していた内容と同じだった。夏帆はそんな話を聞きながらのぼせてしまっていたのだが・・・


「渡航の会議がどうして盛岡で?」


「なんでも現地サービススタッフが東北と北海道の人たちで組まれるらしくて・・・」


「それで盛岡なんですね?」


「その後、花巻に一泊して一ノ関にある車体工場によって製造ラインの方とも打ち合わせがあるってことだし・・・」


「わたし、明日仕事でその盛岡に行きます・・・そして午後に市民会館で次のお客様を乗せて花巻に泊で一関に行きますが・・・」


「それってすごい偶然かも!そしかしたら乗客に外国人がいるかもよ・・・しかもイギリスの・・・」


「冗談やめてくださいよ〜。外国人のお客様って本当に苦手なんですから・・・でも、セリカってそもそも国産ですよね?なんでまたイギリスで研究しなきゃならないんですか?」


「まっ、冗談はさておいて、毎年ヨーロッパで行われている世界ラリー選手権っていう大会があってね・・・今、これの旧型でST165型っていうセリカが大活躍してるんだけど・・・」


「だけど?何かあるんですか?」


「すでに現行モデルST185型セリカでのテストが始まってて、さっきも言った通り現場からの要求が多いらしくて、早く新しいクルマを発売してホロモゲーションを取り直す必要が出たらしいの・・・」


「なんですか?その・・・『ホロモゲーション』って?」


「その競技っていうのはグループAっていう市販車ベースのラリーになるんだけど、規定台数の5000台が市販されないと競技車のベースモデルとして認められないレギュレーションらしくって・・・」


「先ほど話していた限定5000台っていうのがソレなんですね?」


「うん。その5000台は普通のセリカと一味違うモデルになるらしくって・・・」


「その競技に特化したモデルにするってことなんですね?」


「うん・・・そのラリーに出るクルマって改造範囲がとにかく狭い規則になってて、そのベースとなる市販車の良し悪しが成績に直結するの・・・それでターボチャジャーに詳しい森山の義父さんに白羽の矢がたったって訳なんだけど・・・」


「まだ・・・なんかあるんですか?」


「なんかつまらなそうなんだよね・・・やるならもっと突き詰めた研究したいのに、市販化を考えるとそれもなかなか難しいというか・・・森山の義父さんってそもそも研究所で白衣着てたような研究者だから・・・」


「落とし所が難しいってところですか?」


「そのとおり!それで市販車として売るとなるとあまり極端なクルマにはできないってのもあるの。市販車ってなると老若男女にも運転できるクルマにしなきゃならないでしょ?しかもそれより重要なのが耐久性・・・だから車体も大事ってこと」


「そうですよね・・・いくらいいクルマでもすぐに壊れちゃ・・・ね・・・」


「まっ、そもそも市販車ベースですぐに壊れるようなクルマじゃラリーに勝てないけど・・・」


「それじゃ限りなく競技車両に近い市販車にしなくちゃならないんですね?」


「うん。正確にいうとレギュレーションを満たした改造がしやすいクルマってことね。でもその場合市販の状態から仕込みをするとかしないといけないらしくって・・・」


「仕込みっていうと?」


「たとえばターボってアクセル踏んでからパワーが出るまでタイムラグがあるの知ってる?」


「なんとなく・・・」


「そこでそのタイムラグを無くすためにアンチラグシステムっていうのを研究してて、そのシステムを精度よく作動させるためには市販車の段階で配管を仕込んだりすることが必要なんだって・・・」


「でも、それって市販車の状態では必要がない・・・と」


「うん。でも、その配管がついた状態でホロモゲーション取らないとダメなんだって・・・」


「もしかして、この試作車ってその配管が仕込んである・・・?」


「そう・・・実はこのクルマにはそのタイプRCを想定した新しいエンジンが積まれてて、そのアンチラグシステムも搭載済みなの。まだまだ詰めが甘いってぼやいてたけど・・・」


「えっ?」


この時クルマのドアを開け室内に半身を入れ振り返りながらそう語る麻美子さんのその目は、あの時のエンちゃんの眼とそっくりだった。


さすが血を分けた兄妹である。夏帆が思い出したあの時というのは、エンちゃんと初めて会ったあの日、そのエンちゃんを必死に探して見つけたあの洗車場でレックスのルーフから乗り出すようにして話を聴く夏帆にクルマのことをいろいろ教えてくれた時のエンちゃんのそんな眼差し・・・


そこで夏帆はあることを思い出した。あのエンちゃんのハチロクにも着いていた車内が檻のように鉄パイプが張り巡らされていたこと・・・


「すいません・・・あの・・・コレって何ですか?弟さんのレビンもこうなってましたが・・・」


夏帆はその白い鉄パイプを指差しながらそう尋ねた。


「あっ・・・これね?これってロールケージって言って、クルマがひっくり返っても屋根が潰れないように着いてるものなの。競技車両ってどうしてもひっくり返っちゃうことってあるでしょ?」


「じゃ、弟さんのあのレビンも競技用か何かなんですか?」


「ううん・・・エンジンはグループAのお下がりだけど、あのクルマは競技用に造ったものものじゃないの・・・。まっ、峠道を気持ちよく走れたりテールスライドして遊ぶには絶好のクルマだけど・・・」


「じゃなんで弟さんのクルマにも着いてるんですか?」


「格好いいじゃない?ハッタリ効くし・・・」」


「それだけ?・・・・ですか?」


「まっ、冗談はさておいて・・・あの子弟って一度事故で死にかけたじゃない?」


「あのバイク事故のことですね?」


「うん・・・そう。死んでもらっちゃ困るの・・・あの子()には・・・」


「そうですよ!バイクで事故した時だって奇跡的に助かったようなものじゃないですか!」


「ねえ・・・風谷って苗字の人、日本に何人いるか分かる?」


「え・・・と・・・すごく珍しい苗字だとは思うんですがちょっとわかりません。小比類巻は7〜8千人いたかと思うんですが・・・」


「全国に2百人もいないの・・・そしてただでさえ少ないわたしたちの親類で風谷の姓を名乗ってるのはあの子()ただ一人なの・・・だからその風谷という姓を途絶えさせる訳にはいかない・・・」


「そうですね・・・お墓なんかも守らなきゃなりませんしね・・・」


「だから、あの子弟がもし事故っても潰れないクルマにしてもらったんだって・・・」


「それで、あんな鳥カゴみたいにパイプだらけの室内だったんですね?」


「それにあのクルマレビンって、母さんが義父さんに頼んで小林ボデーで造った一品モノなの・・・車体剛性なんか吊るし(純正)と比べ物にならないくらい高いし・・・」


「車体をガチガチに強くしたんですね?」


「そうなんだけど、良くしなるようにしたの・・・」


「しなる・・・ですか?」


「うん。クルマの車体って、しなることで路面のうねりなんかを吸収することもあって、車体をガチガチにし過ぎると曲がらない車になったりするの・・・」


「そんなもんなんですね・・・」


「だからあのレビンのロールケージって後ろ側の取り付けがボルトにになっていたりと結構手が込んでるの・・・」


特別(スペシャル)・・・なんですね?」


「それにさ・・・鉄パイプを使うとクルマ自体が重くなるじゃない?」


「確かにそうですね・・・」


「だからエンジンもスペシャルなの。昔、義父さんってヤマハに出向してた時あのエンジンの設計やってて、日本で一番あのエンジンのこと詳しいってくらいなの。だから、いろんなツテがあってレース用のエンジンなんか調達できてさ・・・」


「それってどんなエンジンなんですか?」


「ツーリングカー選手権っていうレースのグループAっていうカデゴリー向けにメーカーが造ったエンジンなんだけど、そのままだと街乗り出来ないようなエンジンで・・・」


「それってエンジンをぶん回さないとパワーが出ないってことですか?」


「簡単にいうとそんなエンジン。でも、森山の義父さんってそのエンジンのスペシャリストじゃん?だから街乗りも出来てその上高回転まで気持ちよく回るエンジンにしたんだって。本当はもっと回るエンジンなんだけど少しだけ回転落として街乗りもできるようにしてる・・・」


「弟さんのレビンってメーターがデジタルだったと思うんですが、アレってノーマルですよね?」


「うん。そのメーター上では7800回転からがレッドゾーンになっているけど、実際は10000回転まで回るエンジンになってるの・・・」


「弟さん・・・それ知ってるんですか?」


「知らせてない・・・多分、普通のエンジンじゃないことは勘付いてると思うけど、あの子()は機械の扱いが丁寧だから、まずレッドゾーンまでエンジン回さない。だからレブリミッターが10000回転だってことも知らない・・・」


「そうですね・・・弟さんって何に対しても扱いが優しいっていうか・・・」


「えっ?なに?それって意味深なんだけど?詳しく教えてくれない?」


「いや・・・ここでは・・・」


「まっ、いいや。今度あの子弟のレビンに乗せてもらった時、「このレビンのエンジンってグループAのエンジンだよねって」って言ってごらん。恐らくびっくりするから・・・」


「・・・よく分かりませんが・・・言ってみますね・・・」


「あとさ・・・あの子弟って、女の娘に対しては本当に優しいだけのヘタレだからグイグイ行かないとダメだよ!首根っこ掴んででも逃しちゃダメだよ!」


「そうですね・・・理央さんの件もありますし・・・」


「うん!期待してるからね!」


「善処します・・・」


そう言った夏帆の頭を撫でる麻美子さんだったが、何かの話の途中であったことを思い出したようだった。


「あっ!・・・そうだった!これ見て!」


顔を真っ赤にしながら俯く夏帆を見上げるようにそう言うと、麻美子さんは夏帆に運転席コンソール下に忍ばせるように取り付けられていたミサイル発射スイッチみたいなものを見せた。


「ソレ・・・オンにするとどうなるんですか?」


「やってみる?」


「ちょっとだけお願いできますか?」


するとドア下のロールケージを跨ぐようにしてシートに座った麻美子さんがイグニッションスイッチをオンにしてからスターターのスイッチを押すと決して静かと言えない音でエンジンが始動した。

そしてエンジン回転が安定するまで待ってからスタータースイッチの脇の赤いスイッチを押した。するとさほどうるさくない低音で始動したそのクルマがそのスイッチを押した途端に排気音が豹変する。


「バリバリバリ・・・・」


さらにアクセルを煽るものすごい音が・・・


「バリバリ・・・パン・パンパン・・・・」


その初めて聞く破裂音みたい音は早朝のホテル街に反響した。


「あっ、今・・・マフラーから火を吹きましたよ?」


「そうなんだよね・・・何せエンジン直後の排気管の中で燃料に引火させてるからね・・・」


「それにしてもすごい音ですね・・・」


「あら・・そう?これからいいところなんだけど・・・やっぱり近所迷惑だったわね・・・」


そんなエンジンを停止させたクルマの運転席脇で二人に会話は続く。


「そっ・・・そんな研究も含めてイギリスでそのラリーに使えるセリカを研究する訳ですね?」


「うん・・・それがなかなか難しいみたいなの。これまで一番速かったランチャってクルマと肩を並べる速さまできてるんだけど、スケジュールがタイトなうえスバルや三菱なんかの国産勢の追い上げも激しくなっててさ・・・」


「それもお客さんがバスに置いて行ったスポーツ新聞で見たことあります」


「そんな森山の義父さんのクルマがその国産のライバル車であるスバルのレガシイなんだよね・・・」


「もしかして、ライバル車の研究のためですか?」


「いや、研究の話の前から好きで乗ってて、すごくいいクルマだって言っててね・・・」


「自分の愛車がライバル車って・・・」


「聞く話によるとそのスバル車って、セリカに比べてエンジンパワーが無いそうなの。でも、車体のバランスが良くて足回りと駆動系が優れているからトータルで速いって・・・そんなクルマを目指したいって・・・」


「そうですね。クルマってエンジンだけで走っている訳じゃないですからね・・・」


「それに現地のエンジニアやメカニックなんかとのコミュニケーションも大変になるらしくって・・・しかもヨーロッパを転戦しながら収集したデータがバンバン上がってきてそれをクルマに反映するわけでしょ?森山の義父さんってあまりコミュニケーションとか得意じゃないから・・・」


「そもそも研究者ですもんね?無理もありませんよ!」


「うん。話に聞くと、前の職場は何かプログラミングとかの作業をヘッドフォンしながらするような場所だったらしいの。そんなことで、若い娘なんかが現場との干渉役になってくれれば少しは楽になるって言ってたけど・・・小比類巻さんも・・・・どう?」


「えっ?わたし英語ダメだし、そもそも海外に行ったこともないし、しかもヨーロッパだなんて・・・」


そう言いながら夏帆は自分の目の前で左手を左右に振った。

夏帆はこの時、同行する麻美子さんと『一緒にイギリス行かないか?』と」いうニュアンスで受け取っていたが、実はそうではなかったことに気づくのは1年も先のことになる。そのうえこんな冗談混じりの会話が後日身に降りかかる問題に発展することになることとは思ってもみなかった。

そんなことをさておいて麻美子さんは会話を続ける。


ことば(英語)なんて2〜3ヶ月もすれば嫌でも慣れるから・・・えっ?そのG -Shock(腕時計)って?」


「こ・・・これですか?」


それは夏帆が「英語がダメ・・・」と言いながら、顔の前でダメのゼスチャーをした時に左手首の腕時計を見つけたものだ。


「うん。それって・・・もしかしてあの子()からもらった・・・とか?」


「いえ・・・もらったんじゃなくって・・・すいません・・・同じの買っちゃいました・・・」


「よくそんな古いの見つけたわね・・・だってその時計ってあの子の18歳の誕生日プレゼントに買ってあげた限定品(アニバーサリーモデル)そのものなんだよね・・・」


そんな現定品のG-SHOCKは発売数周年を記念しデザインされた初期モデルを模したシンプルで飽きの来ないモノとなっていた。


「えっ?限定品だったんですか?」


「そうだよ!当時、買うの大変だったんだから・・・」


「でも、これってわたしの女子寮の近くにあるショッピングモールに展示されていたヤツだったんですけど・・・」


この時、その時計を買った経緯を思い出していた。

それは一般のショーケースではないところに何かの見本品みたいな形で飾られていたものだった。しかも、思い返すと「非売品だけど特別に売ってあげるから・・・」と言われて半ば押し切られるような形で買った記憶が蘇る。


「よく売ってたわね。で・・・ソレ・・・あの子知ってるの?」


「そういえばそもそも展示用に陳列されていた非売品だったような気がします。それにわたしがこれを持っているのは弟さんも知らないと思います・・・」


「教えてあげなよ・・・驚くと思うよ。何せ限定100本のヤツだから・・・」


「100本って・・・そんな希少品だったんですか?」


「高かったでしょ?」


「定価では買いましたが・・・」


「そのお店って良心的なお店だよ!店によってはプレミアム価格ってところもあるからね・・・」


実はその時計・・・在庫処分という形で販売されたものだった。限定品とはいえ、発売から3年も経った型落ち品である。半年に一くらいのハイペースで新商品が発売されたこの時代に、そんな型落ちの時計を欲しがる人は稀だった。


でも・・・それでも、夏帆にとってはラッキーなこと・・・


「どうもその店の店員さんってわたしの先輩バスガイドだったみたいで・・・」


これは昨日渡部運転手から教えてもらった情報で、その先輩こそがその渡部運転手の奥さんだったというオチまで付いていた。


「先輩バスガイドか・・・世の中狭いんだね。なんか昨日から世の中狭い話ばかり・・・?」


「そ・・・そうですね・・・」


「あっ、そういえばさ・・・さっきね、その世の中狭い話繋がりで、昨日のバスガイドさんから声かけられたんだよね・・・」


「あっ・・・昨日の?・・・アレ(エレベーターの件)ですか?」


それはあの挑戦的なノーヒット試合の最後の打者に違いない。


「うん。その三人組・・・」


「なんか言ってました?」


「なんかさ・・・小比類巻さんとキャッチボールしたいみたいな話してて・・・」


「キャッチボール・・・ですか?・・・勝負とかじゃなくって?」


この時夏帆はその『キャッチボール』という話を聞いてとても意外な感覚だった。果たし状を受けると半ば覚悟していたから・・・

そんな時、駐車場の一段下がったところにある広場からキャッチボールをしているような音が聞こえてきた。


「アレじゃない?」


その時麻美子さんは身を乗り出すようにして駐車場の下のほう(音のするほう)を見てそう言う。

見下ろしたそこにはお揃いのジャージを着た昨日の3人組が三角形に陣取り、それぞれボールを回すようにしてキャッチボールを始めていた。


「すいません。ちょっと顔・・・出してきま〜す・・・」


夏帆は小走りのまま振り返り麻美子さんにそう言い残すと、そのキャッチボールをしている3人のところへ向かう。


「あっ・・・小比類巻!」


土手を掛け降りてきた夏帆を見つけそう声をかけたのは、昨日エレベーター内で二階堂と呼ばれていた小柄な娘だ。そう、その彼女こそ全国準決勝で夏帆がノーヒットノーランを達成した時の最後のバッターなのだ。


「すいません・・・キャッチボールしてるとお聞きしましたの・・・で・・・」


「あっ・・・わざわざ来ていただいてありがとうね。せっかく出逢ったんだからキャッチボールくらいしたいなって思って。ここにこれだけソフトのメンバー揃ってるんだから勿体無いでしょ?」


その時駆け寄ってそう声をかけてきたのは、同じくエレベーター内でその二階堂と呼ばれた娘が先輩と呼んでいた少し大人びた女性だった。


「ごめんね・・・自己紹介がまだだったわね。わたしはあの大会の前年度チームのキャプテンだった井上。ポジションはキャッチャーで京都出身・・・」


するともう一人の娘がそれに続く。


「わたしはあの大会であなたから完全試合の記録をもぎ取った矢田って言います。ちなみに出身は草津・・・草津って言っても群馬じゃなくって琵琶湖の東側の・・・」


そこまで自己紹介した矢田を見て、夏帆の中にその打たれた瞬間が脳裏を霞める。


「見事に打たれちゃった・・・もしかして狙ってた・・・とか?」


「そうなんだよね・・・みんながあのライズボール下側を空振るものだから、一か八かヤケクソでボールの上側を空振りしてみたら意外に当たっちゃって・・・」


「実はアレ・・・一球外した球だったの・・・」


「だから当たったのね!」


「うん・・・本当はもっと外したはずだったんだけど・・・」


「もしかして、ノーヒットノーランのプレッシャーでコントロールがつかなかった・・・とか?」


「うん・・・自分では緊張している自覚はなかったんだけど、打たれた瞬間血の気が引いたって言うか・・・」


「そうだよね・・・一人も塁に出していないっていう完全試合の記録もあったもんね・・・」


「うん・・・」


夏帆はその時言葉が出なかった。ヒット性の当たりで返されたその瞬間目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けていたのを思い出したのだ。やはり、自分で意識していないと思っていたとしても心のどこかで「その記録」を意識していたのだろう。

夏帆がソフトボールで全国のマウンドを踏んだというみんなの記憶はいつしか薄れていくのは仕方がないことだが、何かしらの記録を残せば自分のやってきたことの証明になる。自分がその瞬間そこでソフトボールをやっていたという紛れもない証がそこに残ると考えていたのだろう。だから、その記録というものにこだわったのかもしれない・・・


自分の心の中にそんなことが潜んでいると考えが及ばない夏帆の前に昨日「二階堂・・・」とばれていた小柄な娘が割り込んだ。


「わたしね・・・あの速い球が手元であんなに浮き上がるライズボールを見たのは初めてだったの。結局一度もバットに当てられないで三振しちゃったけど、小比類巻夏帆っていうピッチャーと対戦できたことは一生の宝物だと思ってる・・・」


夢の中と異なり、実際の試合ではこの二階堂(ラストバッター)に対して投げたライズボールで三球三振にしていた。しかも、最後の球は大会最速の109キロというおまけ付きで・・・


そんな二階堂だったのだが、昨晩エレベーターの中で交戦的に突っかかってきた態度と真逆の態度に夏帆は驚きを隠せない。


するとそんな夏帆を前に二階堂が話を続ける。


「わたしね・・・大会で負けたらその瞬間にソフトボールを辞めようかと思ってたの。だって、今まで試合に出してもらっていないってことは結局わたしの実力がその程度だったってことだから・・・」


そんな潮らしい二階堂を前に先輩の井上が声を掛ける。


「二階堂はさ・・・一応セカンドってことだけど、なんでも出来る控えってことで重要な存在だったんだよ。もし、野手が怪我で交代するってことになっても二階堂がいるから大丈夫って・・・」


「えっ?だからわたしいろんな練習に付き合わされてたってことですか?」


「そうだよ!考えてみ?あんたってピッチャー以外のポジションみんなできるでしょ?」


「一応・・・」


「あんたって器用貧乏なだけなの!みんなそつなくこなすからそうなっちゃってるってこと!」


そんな話を「うんうん」と聞いていた矢田が話を遮る。


「うん!バッティング以外はね!あんたってとことんバッターのセンスなかったからね・・・」


「うっ、うるさい!でも練習試合では出塁率は良かったんだからね!」


「そうだね・・・ストライクゾーンが小さくてフォアボールメーカーなんて揶揄われてたの知ってるよ」


「うるさい!」


「でもさ・・・監督はなんでアンタのこといつもベンチ入りさせてたのわかる?」


「怪我人出た時のためでしょ?」


「まっ、それもあるけど、あんたのそのソフトボールにかける情熱ってのがベンチに必要だったの。だって、あの全国準決勝で誰一人塁に出てない状態で最後まで勝利を信じてたのはアンタだけだった。あの沈黙したベンチで唯一声出してみんなを鼓舞してたのが・・・そう、アンタなんだよ!」


「えっ?・・・・」


この時そう言われた二階堂は言葉を失った。自分がそんなに重要なムードメーカーだったなど考えが及ばなかったから・・・


するとそんな間を埋めるが如く矢田が二階堂のプロフィールを紹介し始める。


「ちなみにこの二階堂は一応兵庫出身ってことになってるんだけど、その地元ってのが兵庫は兵庫でも日本海側の余部鉄橋のある町なの・・・」


「余部っていうな!兵庫出身ってことでいいでしょ?」


余部鉄橋・・・夏帆はその橋の名前に聞き覚えがあった。


「でも、その余部って・・・列車転落事故があった・・・あの?」


それは1986年に発生した7名もの尊い命が犠牲になった列車転落事故である。それは基準値を超える風速のなか運行されたことが直接的な原因だが、転落したのは普段走ることのない回送中のお座敷列車である。牽引していたディーゼル機関車は転落を免れたことから、風の影響を受けやすい軽量な客車ではなく、普段走っているディーゼルの普通列車であれば転落しなかったなどの意見もあったとも言われるなんとも痛ましい事故だ。

夏帆は普段乗務しているエアロであっても、高速道走行中のトンネル出入り口や橋の上で横風に煽られ左右に振られて怖い経験を持つ夏帆もその強風による転落事故はひとごとではなかった。

そこで今ほど紹介を受けた二階堂が反論する。


「そうだよ!列車が落っこちて蟹加工場が潰れて犠牲者が出たっていう有名なところだよ!冬になるととにかく日本海からの海風が強くて・・・だから・・・」


「そうだよね・・・だから温暖な太平洋側の大阪に出てきたんだっけ?」


「ちがうの!冬でもソフトができる学校に進んだだけ!」


「スポーツ推薦だもんね!」


「うん・・・寮があって、授業料免除だったってのもあるけど・・・」


「アンタって馬鹿が付くくらいのソフトボール好きだからね・・・」


仲間二人に攻められるようにしているこの二階堂と呼ばれる娘は、とにかくストライクゾーンが小さい身長が150センチに満たない小柄な娘だ。しかも、あのエンちゃんの彼女で北海道にいるあの女子高生にそっくりだった。

でもここで夏帆の中で疑問が湧く。出身地がバラバラなこの三人が大阪の高校でソフトボールをやって、しかもその三人のまま東京のバス会社でバスガイドをしているのかと・・・


「すいません。みなさん・・・どうして東京で一緒にバスガイドしてるんですか?」


「うん・・・それがね・・・」


夏帆が聞いた話によると、その井上先輩という方の実家が京都市内の修学旅行で有名な嵐山のすぐそばにあり日常的に観光客の往来があるところだという。

その中で各社バスガイドの説明など耳にすることがあったのだが、そのガイド毎に説明が異なったり中には明らかに勉強不足なガイドなど散在していたことから、『自分だったらこう説明するんだけどなあ・・・』と思うことがしばしばあったそうだ。

それでいつしか自分をバスガイドに見立てた説明なんかを考えるようになってしまい、必然的に就職先がバス会社になってしまったという。


またその後輩たちはその先輩のバスガイドの制服姿に一目惚れし、同じ道を志したという。しかも、どうせなら花の東京で働きたいということで、配属先は東京本社になってしまったというが・・・


そんな3人とするキャッチボールがこんなに気持ちがいいとは・・・当然グローブの持ち合わせのない夏帆は素手でキャッチボールの仲間に入ったが、そんな中久しぶりに握るボールの縫い目の感覚に驚かされる夏帆だった。

そして肩の暖まった頃、一球だけ受けて貰った久しぶりに投げたライズボールの気持ちのいいこと・・・

スパイクも履いていない状態で投げるソノ球は全盛期と比べ球速もコントロールも全然だったが・・・

この時夏帆は心に決めた。


「やっぱりわたしに変化球はいらない!これからは何事にも全力投球のストレートで体当たりしよう!」


「そして麻美子さんの言うとおり自分を信じてグイグイ行こう・・・」


夏帆はの心は早朝の清々しい空気と澄み切った青空の如く晴々としていた。



今までクルマのことについては全く無知だった夏帆だったが、今回の業務の中でエンちゃんのお姉さんに色々とクルマのことを聴くたび次第に知識を蓄えて行くことになる。

また、そもそもソフトボール一筋だった夏帆は、ライバルとは言え一度本気の勝負をしたものとして久しぶりのキャッチボールが自分の中の何かを呼び覚すのを感じていた。そして、今まで弱気だったソノ事について自分革命を起こそうとしていた。


まだまだ夏帆の物語は続きますので楽しみにしてください。それでは・・・

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