青春の12メートル・・・
青森県八戸市で貸切観光バス事業を展開する三五八交通観光に勤める観光バスガイドの小比類巻夏帆は、今回の業務二日目の朝を岩手県にある花巻温泉の観光旅館で迎えようとしていた。
そして、昨晩偶然出会った高校時代のソフトボール全国大会準々決勝の試合相手の最後のバッターの出現により、いつしかその試合中の記憶が蘇るところから今回の物語が始まります。それでは・・・
ここで登場人物の整理をしたいと思います。
○小比類巻夏帆・・・・・三五八交通観光バスガイドの2年生。中学生からソフトボール部でピッチャーをやっていて、高校総体の全国大会準決勝でノーヒットノーランを達成している。半年前に自分のレックスがパンクしてしまった時助けてくれたエンちゃんに恋をしているが、その恋に直球が投げ込めず進まない恋にヤキモキしている。
○小比類巻里帆・・・・・小比類巻夏帆の双子の妹で、中学生のころから夏帆とバッテリーを組んでいて、実質的な監督不在のソフトボール部を全国大会に導いた頼れるキャプテン。高校卒業後、なかなかカレシの出来ない姉の夏帆を心配していたが、ようやく半年前からそんな姉の恋の悩みを聞けるようになってホッとしていた。しかし、時折恋のアドバイスをしているにも関わらず一向に進まない姉の恋にヤキモキしている。現在映像制作の専門学校生。
○エンちゃん(風谷円)・・・・・八戸市内にある理系大学の土木工学科3年生。夏帆が運転するレックスがパンクしてしまった時、夏帆を助けた大学生。一年前(夏帆と初めて出逢う半年前)に地元に残してきた彼女が病気で亡くなってしまい、それ以降は女性に心を閉ざしている。女系の家系に生まれ、幼少期に従姉妹たちにイタズラをされて女性恐怖症になってしまった経緯を持つ。制服フェチで南野陽子ファン。
○監督・・・・・夏帆が3年間過ごした八戸理工大附属高校女子ソフトボール部の監督。高校では工業土木の先生であるが、ソフトボールに関しては全くの素人。そんな監督が何故か小比類巻姉妹をスポーツ推薦で自校へ入学させている。
「バッターラップ!」
その赤白のユニフォームに身を包んだ背番号14番の小柄な彼女は、主審にそう告げられると赤い帽子をとって「お願いします!」と挨拶し右バッターボックスに入った。
そして、ピッチャーマウンドに立つ夏帆をにらみつけつつ小さな足に履いたスパイクの左足で足元の砂を均している。それは緊張しているあまりか、どう見てもぎこちない仕草に見える。
それもそのはず、昨年度全国準優勝だった自分たちのチームはこれまで地方大会を含め打率三割を超え、コールドゲームを何度か達成しここまで順調に勝ち進んできた。しかし、この試合に限りどう言う訳か最終回までノーヒットどころか球がまともにバット当たらないのだ。
しかも対戦チームは全国初出場の実績もないチームであったため、このような三振ばかりが続く試合展開になるなど誰も予想していなかった。
そんな中、あと一球でノーヒットの完全試合となってしまうという目前、前の打者がやっとのことで相手ピッチャーの失投を捉え右中間に運んだ打球をセンターがエラーし、その隙に出塁した貴重なランナーが1塁にいる。もし、そのランナーがホームに還ることが出来れば試合が振り出しに戻るそんな重要な場面なっている。
最終回2アウト1塁のそんな場面に登場したその小さな彼女は試合中盤から監督に志願してやっと出させてもらった代打だったが、高校3年間の部活生活で初めて出させてもらった公式戦の初打席がまさかこんな重要な場面になるとは・・・
でもそんな彼女自身、この試合に勝っても負けても唯一の公式戦出場になることは分かっていた。だからどう頑張っても緊張は隠せないのだろう。
一方、対戦相手とは対照的な青白のユニフォームに身を包み、その右バッターボックスのぎこちない仕草をピッチャーマウンドで眺めていた夏帆だったが、どういう訳かそのバッター以上に緊張していた。
と言うのも、つい先ほどあと1人で完全試合とノーヒットノーランの同時達成という最後の球をヒット性の当たりで返され、センターのエラーにより出塁を許し完全試合達成は水泡と化していたから・・・
しかもその打たれた球というのが、夏帆を落ち着かせるためにキャッチャーが外させたストレートだったが、それがどう言うわけかストライクゾーン付近へ入ってしまった大失投だったのだ。
これがもし、今ほどのプレーでセンターがエラーをせずヒットとなった場合、夏帆のノーヒットノーラン達成の夢までもがそこで途絶えるところだった。
しかし、それまで夏帆自身そんな記録など意識していないつもりだったのだが・・・足の震えがそれを否定していた。
夏帆はこの試合が始まってからこの最終回まで四死球もなく1人も塁に出していない。だからこそ今ほどの初出塁で1塁ベースの角を踏み、まえかがみで夏帆を見つめるランナーからの「圧」はものすごいものが・・・
ピッチャーマウンドの左側から圧を感じる夏帆は、その圧を感じるその方向を見ると自分の左肩に学校のトレードマークであるウミネコの刺繍を見つけた。
「今日もいっぱい飛んでるんだろうな・・・」
そう思う夏帆が思い出しているのは、学校のある八戸の蕪嶋神社である。この蕪嶋神社はウミネコの繁殖地となっていて、お参りするのに傘が必需品となっている一風変わった神社だ。大事な試合前には必ずと言って良いほどみんなでお参りに行ったその蕪島では、運を付けようと傘を刺さないでお参りするのが通例だった。
そんなお参りでウミネコのウンの投下を喰らわなかったのが、ピッチャーの夏帆とキャッチャーの里帆姉妹だった。ウミネコの集中砲火を喰らわなかったというか、運が付かなかったのかは大会が始まるまでは分からなかったが、蓋を開けてみると夏帆の投球と里帆の采配が冴え渡ったのがこの大会だった。
そしてその集大成と言っても過言でないこの準々決勝・・・ここまでは夏帆の豪速球が唸りを挙げていたが、大会が始まってから一人で投げて来ているピッチャーの疲れをここに来て感じていたのはその球を受けていたのはキャッチャーである双子の妹だった。
しかも、一度投球のリズムを崩してしまったピッチャーである双子の姉が、再びリズムを取り戻すことは難しいと感じていた。しかも、控えのピッチャーにリリーフさせようにも・・・すでにノーヒットノーランは目前・・・
そんなことでピッチャー交代を監督に進言できるはずもなく始まってしまった最終回で、そんな球威もコントロールもを失った夏帆の球を打ち返したのは今一塁ベースを踏んでいる彼女だった。
ちなみに今ほどバッターボックスに入って夏帆を睨みつけるそのバッターは先程までベンチを温めていた選手であり、これまで一度も試合に出てこなかった補欠選手であることは分かり切っているところではある。
普通に考えれば初見で夏帆の投げるサウスポーのライズボールを捉えること出来ない・・・これは見ている誰もがそう思うところだった。
この時夏帆が周りを見渡すと、固唾を飲んで見守る自校の保護者に対して相手校のベンチとベンチ入りさえできない補欠選手とその取り巻きである保護者たちは口々に何かを叫んでおり、その声援の端々からは関西のことばが聞き取れる。そう、相手チームは大阪の強豪校なのだ。
でも、いつもは気にならないそんな応援もどういう訳か耳障りに聞こえた。集中するといつも周りの雑音など聞こえなくなる夏帆だったが、その時の夏帆はそうではなかった。
そんな雑音の中キャッチャーが徐に立ち上がり両手を挙げる。
「ツーアウト〜・・・しまっていこう!」
夏帆はその掛け声と共に振り返って見た野手たちは皆前進守備となっている。それはもちろん残りのワンナウトを確実なものとするため・・・
そう・・・この試合残り1アウトで全国初出場の自分たちのチームがベスト4入りするのだ。たった今、ランナーが出塁したことで完全試合では無くなってしまったが、初回から投げている自分たちのチームのエースがホームランどころかヒットすら打たれていないのだ。
それでこれまで回が進むにつれベンチ内が異様な緊張感に包まれてきたのをチームメンバー全員が感じていた。それはだれひとり口にしないそのソレを意識していたから・・・
監督ですら口にしないソレとはもちろんノーヒットノーランのことである。
そして夏帆が見つめるそのセンター後方に聳える東大阪と八戸の高校名が上下に並んだスコアボードには、地方大会決勝同様に1回裏に犠打で先制した自校の1点のみで後はゼロが並んでいる。そのほかの表示といえばその脇のE1の表示だけ。ゼロが連なるそのスコアボードから無言の圧力さえ受けていると感じていた夏帆はそこで深呼吸した。
「あと一人・・・」
そんな中夏帆が振り返り主審を見ると、主審が徐に右手を挙げた。そして訪れた静寂な瞬間・・・
「プレイッ!」
その主審の声はスタジアムに反響した。そしてその声の主である主審が身構え夏帆の投球を待ってる。
そこで双子の妹であるキャッチャーが出したサインはもちろんライズボール。牽制球のサインも出ていない。
この時夏帆はそれに頷き、グローブの中で球の縫い目に掛けた自分の指先を確認し投球モーションに入る。
一度前屈みになってから後ろへ体をそらせ、次に左腕を回しながらまるでスキップでもしながら投球するようにも見えるウィンドミル投法・・・
夏帆は細身の身体をしならせるように、そして長い手足を最大限に使って投げる球は時速100キロを超える豪速球だ。ちなみにソフトボールでのそのスピードは、野球のピッチャーが投げる球170キロに相当する速さと言われるほど速い。
でも・・・いつも通りの豪速球のライズボールを投げようとした夏帆だったが、腕を振り上げた瞬間その指先に違和感を感じた。
「えっ?何これ・・・・!」
この時夏帆が感じた違和感と言うのは、自分の利き手であるボールを握った左手の指先が痺れ、たった今確かめたばかりのボールの縫い目の感覚が指先から消えていたことだった。
「ついさっきまではなんともなかったのに・・・!」
瞬間的にそう思った夏帆だったが、その感覚のない指先で放った球が思っても見ないところへ・・・
「えっ?」
そんな球はキャッチャーである妹の里帆のはるか頭上を通過する大暴投だ。そしてキャッチャーがボールを拾いに行っている僅かな瞬間、今まで1塁にいたランナーが2塁に進んでいた。
そんな状況下、キャッチャーである双子の妹の里帆がタイムを取り内野と共に夏帆の元へ駆け寄る。
「夏帆・・・落ち付きなよ!前のバッターに外した球を打たれたのはわかるけどさ・・・今日は球数全然行ってないし、いつも通りで大丈夫!しかもこのバッターデータの無い選手だけど、初見だし絶対合わせられないって!」
「うっ・・うん・・・分かってる・・・」
「それじゃ次、ランナー2塁釘付けにするから一球外すよ!・・・もしランナーが走ったら刺すから3塁よろしく!」
「OK!2〜3塁間で挟むかもしれないからショート・セカンドのカバーもよろしくね!」
「OK〜・・・」
この時の野手たちのやりとりはいつものような口調を装ってはいたが・・・
夏帆にはその裏で自分と同じようなプレッシャーと闘っているのが見て取れた。それは先ほどチームメイトであるセンターがエラーをしたことにより完全試合の権利を失ってしまったから・・・
しかし・・・である。そのセンターがエラーをしなかった場合、ヒットになる確率の方が高かったのは当たり前のことだった。完全試合はなくなってしまったが、もう一つの記録である「ノーヒット・ノーラン」だけは死守してほしいとチームに関わる全ての人が思っていた。
そんな想いを背負った野手同士のやり取りの後、双子の妹が姉に告げる。
「そんなのでこの試合決めたくないよね?今度こそ勝負だよ!勝負はその一球外した後の三球で決めるからね!」
そう言いながら里帆は、持っていた球を両手でぎゅっと拭いてから夏帆が右手にはめているグローブへ叩き込んだ。
「うん!」
その時だった。その場面に居合わせるはずのない人からの声援が・・・
「夏帆ちゃん!・・・自分を信じて!・・・信じさえすれば夢は叶うから・・・」
「えっ?」
それは紛れもないエンちゃんの声だった。
あれだけ聞きたいと願ったこともある忘れもしないその声・・・
夏帆はその時、無意識に保護者の集まる応援席に目をやったがそのエンちゃんの姿は見つからない・・・
それもそのはず、この試合をしている高校3年生のこの場面にエンちゃんがいるはずないのだから・・・
これは夏帆の夢の中の出来事だった。それは昨晩、ノーヒットノーラン達成試合の相手チームの最後のバッターと出逢ったのが原因かと思われる。しかも、その時夏帆は左肩を下にした横向きで寝ているという状況。
それはあのエンちゃんに夢の中で出逢うためのもの・・・ということでいろんな記憶が交錯しているということになる。
しかも左肩を下にして寝ている体勢により、左肘から手のひらにかけて痺れている・・・という次第だ。
しかしこれが夢である事などなど気づかない夏帆はにとって、その時のその掛け声は半分自信をなくした夏帆の自信を取り戻すのには十分な声援だった。
「そうだ・・・エンちゃんの言う通り自分を信じなきゃ!せっかくエンちゃんが応援してるのに、こんな大事な場面で自分を信じられなくなったら今までやってきたソフトボールというものを否定することになる・・・」
そう心に言い聞かせた夏帆はマウンドの上でキャッチャーのサインを待つ瞬間、心の中で別の思いに気づいた。
「ん?エンちゃんの言っていた「夢」とはなんだろう?わたしの夢ってノーヒットノーラン達成?決勝進出?・・・でも、どちらかというと全国のてっぺんが目標であって、今日のノーヒット試合って結果そうなっただけで自分の夢ではなかったような・・・?」
そんな想いに耽る夏帆は明らか集中力を欠いていた。一方この時、キャッチャーである里帆はそんな集中力を欠いた投球を受け続けた高校2年生の秋の大会を思い出していた。
どこに要求しても真っ直ぐミットに収まってくれない力のないストレート。変化球はすっぽ抜け、ストライクゾーンに入った球は全て返されるほど球威の落ちた投球・・・それが集中力を欠いた時の夏帆の投球だった。
そこでキャッチャーとしてはバッター三振でアウトを取ることよりも、どうしても一打同点に持ち込むべく走塁するであろう二塁ランナーを三塁で刺すことを優先した作戦を決行しようとしていた。それは、先ほどの打ち合わせとおり・・・
それは今このカウントの進まない段階の次の一球で二塁ランナーが三塁へスチールを掛けると読んでのこと。
そしてこの時、キャッチャーである妹の里帆が出すサインはこれも先ほどの打ち合わせ通り「一球外す・・・」だ。
そしてコクンと頷き投球モーションに入った夏帆に合わせ、キャッチャーが左足を前に出した格好で中腰となる。でも、そのキャッチャーミット目掛けて外角高めに外したはずの白球が右側バッターボックスに立つバッターの頭上スレスレを通過し、それをまるで大根切りでもするかのようにバットを振り回しながらボールを避けたバッターが尻餅を着いた。
その時すでに二塁ランナーと三塁カバーに入るショートがそろって三塁に向け全力疾走中・・・
この時キャッチャーの読み通り、相手チームではヒットエンドランのサインが出ていたのだ。
そんな状況を確認しつつ、夏帆の投げた暴投をジャンプしてキャッチしたキャッチャーがその態勢のまますかさずサードへ送球すると、ヘッドスライディングで飛び込んだ二塁ランナーが三塁直前でタッチされ、その脇で転がったヘルメットを片手に持った三塁審判が右手のグーを頭上に掲げる。
「アウッ・・・・」
シンと静まり返ったスタジアムに審判の声がこだました瞬間、ノーヒットノーランを達成した試合の終了にスタジアムが歓声に包まれたのだが・・・
今度は主審がホームベース前に出て来て両手を大きくかざして今のプレイを否定しているようだ。
「タイム!」
するとその響き上がった主審の声と共に、たった今歓声に包まれたばかりのスタジアムの歓声が一瞬でどよめきに変わる。
そんな両手を挙げタイムを掛けた主審は、その直後自ら胸の前で腕をグルグル回して夏帆を指差した。
そう・・・これは夏帆の投球が危険球と判断した主審が夏帆に対して行った教育的指導だ。
これは夏帆のソフトボール人生初の教育的指導だった。小学生でリトルリーグと出逢い、左投げという理由だけでファーストのポジションを与えられ、中学生になるとともに陸上部に入部した夏帆を当時のソフトボール部の顧問が引き抜き、これまた同じ理由で与えられたピッチャーというポジション・・・
今までどんなポジションでも受けたことのない教育的指導・・・もちろんソレ受けるということはあってはならないことだ。
それに驚いて立ちすくす夏帆の視界に、マスクを外したキャッチャーがバッターと主審に頭を下げている様子が映った。そしてベンチに目をやると監督も帽子をとって頭を下げている。
「あっ・・・」
この時夏帆は帽子を取り二度頭を下げた。それはキャッチャーと同じ・・・
結局このプレイは無効とされ、テイクワンベースを与えられた二塁ランナーが三塁で復活を遂げていた。そして9回表ツーアウト三塁・ノーストライク・ツーボールの状態で試合が再開されることとなる。
就職と同時に夏帆の髪型はボブカットになったのだが、高校時代は長いポニーテールが夏帆のトレードマークだった。そんな夏帆は、その時帽子の後ろの穴からポニーテールの髪を引き出しながら、今のプレイを解説している主審を見て全身が緊張するのを感じていた。教育的指導も初めてなら、プレイが無効とされたのもはじめでだから・・・
その時夏帆は妹であるキャッチャーを見ると肩の力を抜けと言うように肩を上下させるジェスチャーをしているが、この時どうすればいいのかわからなくなっていている夏帆はベンチに座る監督に目をやった。
その時見た監督はいつものように腕を組んでいるものの、この時ばかりは居眠りはしていなかった。そんな監督は夏帆の視線に気づくとグーにした右手を胸に当てて「思い切りいけ!」と指示を出している。
それはいつも指示など出さない監督にしては異例のことだ。
「うん。そうだよね。自分を信じなきゃね・・・教育的指導も受けちゃったし」
そう思い、呼吸を整えながら夏帆が見たキャッチャーの出すサインはもちろんストレート・・・
しかし・・・それを見た夏帆は、自分の身体が萎縮するのを感じていた。それは自分のストレートに自信を失ってしまった証だった。
不思議だった。あれほど自信のあったストレートだったのに・・・あれほど練習したストレートだったのに・・・
そこでそのストレートに自信をなくした夏帆はもちろん首を横に振った。そして次に出されたサインはライズボール・・・
この時も夏帆は首を横に振った。
何でもよかった。そのストレート以外のサインであれば・・・
夏帆はそれほど自分のまっすぐに自信を失っていた。
そんな時・・・一瞬静まり返ったスタジアムのバックネット裏から、ラジオ中継用のアナウンスが聞こえて来た。
「お・・っと、ここに来てサインが決まらないようだ・・・先ほど自らのワイルドピッチでピンチを招いてしまったピッチャーの小比類巻姉・・・双子バッテリーのキャッチャーである小比類巻妹の出すサインにこれまで首を横に振ったことはなかったがここに来て2度も首を横に振っているう〜。やはり大事な大場面・・・慎重に行きたいキャッチャーに対してどうしても力で押し切りたいピッチャーの意地・・・というところでしょうか・・・?」
その実況を聞いた夏帆は不思議に思っていた。そのストレートが決まらいなか、こんな窮地のこの場面でなぜそのストレートを投げさせるのかと・・・
この時夏帆の頭に、高校2年生の時リリーフ試合で変化球をメッタ打ちされ負けた後、監督に退部届を出しに行った時に監督から伝えられた言葉がよぎる。
「君のストレートには魅力がある。詳しいことは分からないが、君の投球スタイルが美しいんだよね・・・今は体力が続かないから先発お願いできないし、立ち上がりも悪い。でもね・・・それって体力つけて体幹を鍛えれば克服できるって思うんだ。
僕はソフトボールの詳しいことなんてちっとも分からないけど、これだけは断言できる。君は身体を鍛えれば球も重くなるし誰も打てないストレートの持ち主になって、この付属校を背負って全国に行ける逸材になれるってことだと思うんだよね・・・」
そんな話だった。ソフトボールのことをほとんど知らない技術科の先生である監督から言われたそんな言葉は不思議と説得力があった。しかもそれに付け加えられた言葉が決定打となる。
「それにさ・・・あの試合の帰りのバスのバスガイドさんが言ってたでしょ?『今日の試合は次の跳躍のために、ぎゅっと縮められたバネと一緒』だって。だから、もっともっと縮んで来年付属校として誰も見たことのない高いところを目指そうよ・・・どうだい?先生に騙されたと思って君の青春をその12.19メートルに賭けてみないかい?」
そう言われた夏帆に迷いはなかった。
「はい・・・先生に騙されてみたいと思います」
そんな監督は夏帆姉妹バッテリーの事を夏帆が中学生の頃から知っていた。それはなんとなく見に出かけた中体連のソフトボールの試合だった。
細身ながら比較的長身のサウスポーから放たれるその球は、とにかくバッターの手元で伸びる球だった。急速的には特別速い方ではなかったが、その球を打ち倦む相手チームの苛立ちが観客席まで伝わる・・・そんな試合だった。
そんな試合で一際目を引いたのが夏帆の投球スタイルだった。力任せというよりは柔軟な身体をしならせて投げる・・・そんな投球スタイルに一目惚れしたのがこの監督だった。
「うん。あのキャッチャーも丸ごとウチの学校に欲しい!」
この時この監督は最初で最後のスカウトに打って出た・・・という顛末だった。そんなことで自分の手元で育てたそのバッテリーで全国にまで上り詰めている。そんな監督の思いのこもった言葉だった。
その時夏帆が顧問に返したその言葉に二言はなかった。その時顧問が言った12.19メートルというのはもちろんピッチャーマウンドからキャッチャーまでの距離である。その後規則改正で距離は伸びたものの、その夏帆が青春を賭けた12メートルという距離が観光バスの全長とほぼ同じなのは偶然なのだろうか・・・
卒業後その全長12メートルの観光バスが仕事場になることなど全く想像だにしていない夏帆は、監督のその言葉を信じ妹の里帆とともに磨き上げたストレートいや、ライズボールだった。でも、そんなストレートが全く決まらない・・・
夏帆は心の中でそんな里帆に抗議した。
「なんで?なんでストレートなの?変化球じゃダメなの?あの電話の時とは状況が違うでしょ?いくら『こういう時は自慢のストレートを投げ込んで、後は押せ押せ・・・』って言われても・・・」
これはあのエンちゃんに初めて下の名前で呼んでもらった後、嬉しくなって妹の里帆に電話報告した時言われたこと・・・
そして心の中でそう抗議した瞬間、夏帆の頭の中が混乱し始める。
「えっ?・・・これってこの試合の前に里帆にエンちゃんの相談をしてたって事?わたしってまだ高校3年生・・・エンちゃんと出逢ったのが高校卒業後バスガイドになってからでしょ?・・・えっ?なんで・・・?」
そして次に夏帆が見た景色がスタジアム・・・ではなく、薄暗い和室の天井だった。隣を見ると布団を抱き抱えるように寝ている麻美子さんの姿が見え、さらに隣の洋室からは誰のものかわからないイビキが聞こえていた。
ここで夏帆はここで初めて今までの試合が夢であったことに気づく。その時心臓が爆発しそうなくらい鼓動が激しく、握られた手のひらにまでびっしょりと汗をかいていた。
夏帆はこの時、痺れの残る左手を開いてその手のひらを見た。
日の出前のうっすらとした陽の光がカーテンの隙間から射して夏帆のそんな掌を照らしている。その手のひらには豆のつぶれた跡が残っていてボールを握った時の縫い目の感覚も残っていたのだが・・・
「そうだよね・・・電話で妹にストレートを投げ込めって言われてたのに、そのストレートに自信がなくってエンちゃんに変化球投げちゃってた・・・これじゃ攻略できないよね・・・教育的指導もされちゃうよね」
この時、夏帆の中で今までどこか弱腰で自分が真正面で対峙できなかったソノ課題に対して、価値観的なものがどこか変わろうとしているのを感じていた。
「うん!わたしって、そもそもややこしい駆け引きは苦手なんだよね・・・やっぱり晴れた空に真っ直ぐのストレート投げなきゃ気が済まないもの・・・」
そして今までの消極的な恋の進め方を積極的なものに変えようと決心した。
「そうだよね・・・自分が変わらなきゃね。自分革命だよね!そして今まで消極的だったわたしの恋にさよなら・・・」
物語をご覧いただきましてありがとうございます。以前は1話に数種類のストーリーを詰め込んでいましたが、今回から1話1ストーリーという形式に変更いたしました。
また、掲載形式変更により短いスパンで連載することができることから、少しでもお待たせする時間を少なくしたいという意図もありますのでよろしくお願いいたします。