体育会系バスガイド
それは、バスガイド2年生になった小比類巻夏帆がこの春採用された新人バスガイド4人を育て、やっとのことでエンちゃんの大学のオリエンテーリングを乗り切った後、学生の企画により行うこととなった打ち上げと称される合コン・・・
でもそんな打ち上げに参加していた夏帆、は明日早朝からの乗務を控えているため一人その会場を抜け出していました。
そこで思いもかけないオトコに声をかけられることに・・・
そんなオトコの意外な一面を知った夏帆は、翌日からエアロクイーン乗務の帰社無しの3業務5連勤が予定されていました。
その業務は、まずは青森県八戸市から宮城県仙台市までの300キロ以上もの長い回送から始まります。
それでは・・・
「宴も高輪プリンスホテルではございますが、これにて中締めとさせていただきます。次の二次会は・・・」
幹事のそのオヤジギャク的発声で中締めとなったその会場では、次に予定されている二次会の場所が告げられていた。その合コンとはあのエンちゃんの大学で行われた「新入生オリエンテーリングの打ち上げ」と称された合コンだ。
しかし、その大学生主導で段取られたその合コンに新入生の姿はなく、参集されたメンバーがオリエンテーリングで乗務したバスガイドと同じく新入生の指導役として乗務したリーダー学生である4年生である。
そんなコンパは学生側10名に対して、バスガイド側がオリエンテーリングで担当した夏帆と新人4名の計5名になぜかコンパの話を聞きつけたこだま先輩が同席している。ちなみにカレシのいないそのこだま先輩とリーダー学生は同い年となることからこだま先輩の気合の入れようが半端なく、その着ている服なんてまるでディスコにでも行くかのような力の入れようだ。
一方、そんなコンパの中締めもままならないこの時、味も素っ気もないごく普段着を着ているバスガイドの小比類巻夏帆は合コン会場を一足先に抜け出そうとしていた。
@合コンのあと・・・
「あっ・・・あの・・・小比類巻・・・さん・・」
本日コンパに参加したバスガイドの中で唯一明日の乗務が早朝からだった夏帆が、一足先に帰ろうとして下足入れに手を掛けた時、背後から掛けられたその自信なさげなその口調で語尾が消えそうなくらい弱々しいその声。
オトコにそう呼び止められ困惑した夏帆がスニーカーを片手に振り返っていた。
そう言って夏帆を呼び止めたそのオトコは3年生の滝沢という学生だ。しかも先ほどの宴の最中今回のオリエンテーリングで広報用の写真撮影を任された写真部の副部長と言うような話を聞いたような気がする。
しかも夏帆が乗務する1号車に同乗し、立ち寄り先では大きな一眼レフを首に掛け更にはいつもアルミの三脚を持ち歩いて学生の写真を撮影している様子を夏帆は何度も目にしていた。
しかも夏帆に話しかけてくるのは一緒にいるリーダー学生ばかりで、それに遠慮してかその滝沢というオトコとは一言も会話を交わしていない。
更にその滝沢は、オリエンテーリングのリーダー学生を含む10名の学生が4年生と言う中唯一の3年生と言うことでその話題に入れず、その合コン中もどこか居心地が悪い様子を呈していたのを夏帆はちょっとだけ気に掛けていた。
そしてお酒が飲めないのか、ソフトドリンクばかり飲んでいたことも・・・
なぜ夏帆がそんなオトコの様子を知っているかと言うと、それはどこかあの風谷にちょっとだけ雰囲気が似ていて自然と目で追ってしまっていたから・・・
夏帆を呼び止めたそんな滝沢というオトコが切実な表情で夏帆を見つめていた。
「あの・・・小比類巻さん。もしよければ家まで送って行きますが・・・」
それは、夏帆が帰り際に居酒屋店員に頼んだタクシーが「いつ来るかわからない・・」と告げられた夏帆が途方に暮れたのを案じてとのことであろう。
しかし、実はこの滝沢というオトコは宴の最中夏帆からの視線を感じていて逆に気になっていた・・・と言うよりは、バスに乗務していた夏帆の最後の挨拶の言葉に惚れてしまっていたのだ。
だから、普段であれば断る合コンにノコノコ出て来ていた。
しかしコンパの最中、4年生主導で盛り上がるその宴に完全に飲まれてしまったこの滝沢は、その時女性陣を仕切っていた先輩ガイド脇にいた夏帆の姿を目で追うことしか出来ずにいた。
だから・・・夏帆の困った姿が放っておけなかったのである。
でも・・・夏帆はこれまでバスの車中も含め言葉を交わしたことのないこのオトコの申し出をすぐに受け入れられるは時もなく・・・
「え・・・悪いですよ・・・わたしだったら何とかして帰りますんで・・・最悪歩いてでも・・・」
確かに体育会系の夏帆であれば走ってでも帰れる距離。しかもその距離約4キロ・・・
でもそんな夏帆はいい具合に酔っており、さらにはその経路に地元でも有名なナンパスポットが待ち構える・・・そんな状況だった。
そこで夏帆は考えた。このまま歩いて帰る道中、どれだけのナンパヤローの相手をしなければならないのかと・・・しかも今は土曜日の夜8時半。
しかも、酔った足取りで寮の門限である10時に間に合うかどうか・・・それならいっそ二次会に参加してみんなでタクシーで帰っても・・・なんて迷ったりしていた時、そのオトコがこう言葉を付け加えた。
「でも・・・女の娘を一人で返すわけにもいかないんで・・・」
それで・・・その時そう食い下がる滝沢の折角の申し出を無下に断るのも悪いし、早く帰れることを考えた夏帆はそれを受け入れることにした。
「じゃ・・・折角ですのでお願いしちゃおうかな?」
「はい・・・喜んで!」
その時パッと表情の明るくなったその滝沢の表情にどこか安心した夏帆と滝沢がクルマを停めているという駐車場に歩き出した。
「あの・・・すいません。ご心配かけちゃって・・・」
「いや・・・クルマはアクセル踏めば走りますが、歩いて帰るとなれば足も痛くなっちゃうでしょ?しかもいつも仕事は立ち仕事で、夜なんか足が浮腫んでパンパンじゃありません?」
「なんでそんなこと知ってるんですか?」
乗務の後いつもそんな感じの夏帆は驚きを隠せない。
「モデルさんが夜は足が浮腫むってよく言ってたもんで・・・」
夏帆の問いかけにそのオトコは引き合いに出したのは、意外にも「モデル」だった。
「えっ?モデルさん?もしかして滝沢さんの彼女さんってそちら関係の方・・・ですか?」
「残念ですが僕には彼女なんでいません。でも嬉しいです・・・僕の名前覚えていてくれたんですね。今日の自己紹介って4年生だけやってて、結局僕の番が回ってこなかったんですよね・・・」
「あっ、そうでしたね・・・・」
こんなふうに影の薄いこの滝沢というオトコの経歴がまた変わっていると言うか・・・そんなオトコが歩きながら夏帆に向かって口を開いた。
「あの・・・改めて自己紹介させてください。3年の滝沢です。実家は函館にあって写真館を営んでいて、僕は将来写真家になるために土木を学んでます・・・」
「えっ?・・・それだけ?」
「それだけ・・・と言いますと?」
「趣味とか好きな食べ物とか・・・好きな女の娘のタイプとか・・・」
「あっ・・・すいません。趣味は写真を撮ることです。家の写真館で小さい頃から撮影の助手やらされていまして・・・うまく撮ることばかり考えてたらいつの間にか趣味になっちゃって・・・」
「助手・・・ですか?」
「そうなんです。それでウチの父親ってそっちの方面じゃちょっとした有名人で・・・」
「そっちって?」
「あの・・・よくグラビア撮影なんかで東京のスタジオから呼ばれて行ったりもするんですが・・・」
「そんな有名人なの?」
「はい・・・その『ヌードの滝沢』って言えばその業界じゃ知らない人はいないんじゃないかって言うくらいで・・・」
「ぬっ・・・ヌード!?」
「そうなんですよね・・・僕って気がついたら中学生頃から現場に出されて助手やってたんですよね・・・」
「それじゃ、モデルの・・・みんな見えちゃうってこと?しかも中学生の頃から?」
「そうですよね・・・スタイリストさんもいるんですが、そういう撮影って少人数でやってて照明の調整だったり、レフ板持ったり色々雑用させられて・・・」
「カメラ持つことも?」
「はい。父さんの指示でシャッター切ることもあります。でも撮影に集中してますので、色々見えたとしてもファインダー越しにはなりますが・・・」
「それじゃ滝沢さんもそういう道に進むってことですか?・・・ん?でも、写真撮影のために土木学んでるって・・・さっき・・・」
「そうなんですよね・・・父さんが昔から言っていたのが『被写体の本質を知らないとホンモノは撮れない』ってことなんですよね・・・」
「それじゃ・・・女性の本質を知らないとそのホンモノは撮れない・・・ということですか?」
「そうなんです。僕は恐らく父さんみたいに女性の本質を知ることは出来ないし、どちらかと言うと僕はその生身の女性の写真にはあまり興味がないというか・・・」
「じゃ・・・何に興味が?」
「僕はですね・・・その生き物というよりは土木構造物の橋梁というものを撮影するのが好きで・・・変ですよね。みんなが普通に渡ってる橋というものが好きだなんて・・・」
「それで・・・土木ってものを専攻してるってことですか?」
「そうなんです。ある時父さんに言われまして・・・お前の撮る土木構造物である橋梁というのは、見えるところ以外に素晴らしいものがあるんだぞ・・・その橋の見えない足元がどんな構造になっているのかお前知らないだろう・・・って」
「それって目で見えるもの以外にも素晴らしいものがあると?」
「そうだと思います。あと、その橋脚の中身がどうなっているのか・・・中に配置されてる鉄筋がそれがそれぞれどんな役割を持っていて、さらにその橋自体がなぜそういう形を呈しているのか理解したうえで撮影しているのか・・・・とも聞かれました」
「それって・・・その橋の本質ってことですか?」
「多分そうかと思います。あと、恐らくその橋がなんでそこに必要になったという経緯や、橋の長さやそこの地盤によって橋の形も変わるのかと・・・。それが分かっているのといないのでは見え方が違うとも・・・」
「でも・・・ヌードの写真って見えるものが全てじゃない?そんな撮影に立ち会ってたほうが役得じゃないの?」
「そんなことは一度も思ったことがないんです。それは被写体であって決していやらしいものでもないし・・・どちらかといえば芸術品に近いと言うか・・・それもその本質を理解しないと・・・」
「女性の裸体が芸術品・・・?」
「だから・・・最も輝く瞬間を引き出してそれをフィルムに収める・・・それが父さんの仕事です。」
「輝く瞬間って・・・」
「そうなんです。モデルさんって輝く瞬間がそれぞれ違っているみたいで、僕にはそれを見つけることはできません。だから同じモデルさんを撮影しても僕の写真からはその魅力が伝わらない・・・」
「女の娘の輝く瞬間・・・?」
「そのうえ父さんってすごく話術に長けてて・・・そのモデルさんのそんなポイントを見つけて、それをどんどん褒めて・・・最初恥ずかしがっていたモデルさんをどんどん裸にしちゃうんです」
「それって脱がすのがうまいってことだよね・・・」
「前に雑誌社の編集長が言ってました。『滝沢はモデルの心まで裸にする』って・・・」
「心までって・・・何それ・・・」
「それでその撮影の後、撮影を終えたモデルさんが口を揃えて言うんです」
「なんて?」
「知らないうちに脱いでた・・・って」
「それって話術だけでモデルを脱がしちゃうってことでしょ?」
「そうなんですよね。でも・・・そのモデルさんが売り出し中だったりすると・・・その・・・」
「それがどうしたの?」
「脱いだ後の写真がお蔵入り・・・ってことが多々ありまして・・・」
「じゃ、脱がなきゃいいでしょ?」
「でもその撮影で助手をしてるといつも不思議に思うことがありまして・・・」
「その不思議って?」
「不思議なことに、その時そのモデルさんは決まって今の自分の全てを写真に残したいって・・・だから撮影はやめないで・・・って言うんですよね。」
「一旦脱いじゃうと腹が決まるってってことなのかな?」
「恐らく・・・」
「でもさ・・・そのお蔵入りした写真って・・・・?」
「そのモデルさん用に四つ切りサイズに焼いて、写真集として市販のアルバムに閉じたものをネガと共にそのモデルさんに直接渡します」
「なんか分かる気がする・・・モデルさんもその撮影してる時、自分が輝いてるって自覚してるのね・・・それでもし後でその写真撮りたいと思っても、その若い自分には戻れない。時間は巻き戻せないもんね・・・」
「はい・・・それでその個人用の写真集を創るのも僕の仕事でした」
「それじゃあさ、もし・・・わたしのヌード写真集創ってってお願いしたら・・・創ってもらえるの?」
「残念ですがそれはまだできません。なぜなら僕は小比類巻さんの何も知りません。だからその・・・本当の美しさってものが引き出せません」
「それはカレシにならないと・・・・ってこと?」
「そうかもしれません。父さんみたいなプロになればその娘の輝くポイントを見つけて、会話をしながらでもその美しさは引き出せると思うんですが・・・僕にはまだ人生経験というものがなくってその美しさというものが朧げにしか見えないんです」
「それっていろんなモノ見ないとダメ・・・ってこと?」
「・・・恐らく・・・」
「でも誰でもその美しさってものを引き出してくれるとは限らないでしょ?」
「ところが・・・ということで、最近どういう訳かプライベートの依頼も増えています」
「プッ?・・・プライベート?」
「はい。それは今売り出し中の芸能人から一般の方まで様々ですが、あと少ないですが親が成長記録として残したいということで定期的に娘さんを連れて来ることもあります」
「いや・・・でも、自分の裸をいいオトナが撮影する訳でしょ?その娘・・・嫌がらない?」
「なんか小さい頃から定期的にスタジオに来てますのでもう顔見知りというか、慣れ?・・・というか、嫌がることはありません。ただ・・・中学生くらいになると一時的に嫌がる時期があるようで・・・その時僕はスタジオを追い出されます。ちょうどその時、別スタジオで行われた七五三の写真撮影に入りましたが・・・」
「その成長記録って・・・七五三の延長みたいなもの?」
「そうかもしれませんね・・・こればかりは親御さんからの依頼でヤルものですから・・・」
「そうだよね・・・いくら助手とはいえ同年代のオトコの子がいれば・・・」
「でも、最終的にはその本人からも感謝されます」
「そうだよね・・・キレイなものはキレイな状態で記録として残したいもんね・・・」
夏帆はその会話の中で、この滝沢というオトコの写真に対して真摯に向き合うその姿勢に感心していた。でも・・・その話の中の「その本質」と言うものとはなんだろう・・・とボンヤリ考えていた。
しかも写真家を目指すこのオトコが、なぜ大学に入ってまで土木というものを学んでいるのか・・・
そうして歩いていく中、滝沢がクルマを停めているという駐車場に到着し、その滝沢が一台のクルマを指差した。
「このクルマです・・・」
@教育指導の先生・・・
滝沢がそう言ったそのクルマは車体が真っ黒でボンネットに大きな穴が開いていた。しかもフロントグリルにLEVINの文字も・・・
「このクルマってレビン・・・なの?」
「うん・・・今年の春、急に父さんがコレに乗れって・・・。結局自分が乗りたいクルマ買ったみたいなんですけど」
「でもこれって、ハチロク・・・じゃないよね・・・」
「小比類巻さんってそういうの詳しいんですか?これってそのハチロクの後のモデルのAE92って言うヤツなんです・・・」
この時夏帆は前に風谷が言っていたそのキューニーと言うクルマを初めて見た気がした。しかもボンネットに大きなエアインテークが付いているモデルといえば・・・
「これってもしかして・・・スーパーチャージャー?」
「おっ、驚きました。小比類巻さんの口からそんな言葉が出るとは・・・」
この時の滝沢は驚きを隠せないでいた。女性から「ターボ」と言う言葉は時折出るのを聞いているが、それまた珍しい「スーパーチャージャー」と言う言葉が出るとは・・・
「小比類巻さんって・・・」
「うん。わたしも乗ってるの・・・そのスーパーチャージャーのクルマに」
「えっ・・・それじゃ、コレと同じキューニー・・・?」
その質問をしてきた滝沢の瞳がなぜか輝いているように思えた。そんな滝沢が運転席に乗り込むのを見ながら夏帆も助手席に乗り込む。
乗り込んだその新車の残るAE92の車内はエンちゃんのハチロクとは違いまったくのノーマルだった。しかも、その新車の香りの残るそのキューニーにはハチロクには着いてなかったオーディオまで完備してある。
「あっ・・・湊方面ですね。」
滝沢は夏帆に寮の場所を聞くとクルマを発進させ駐車場から街中の大通りへと進める。
市街地は大きな通りが一方通行になっていて、一旦目的地と反対方向にクルマを進めて市街地をグルリと回って目的地へ向かう道筋となる。やはり土曜日である。その道中ナンパ目的のクルマとそれを待つ若い女の子の攻防があちらこちら繰り広げられているのが目に止まった。
そんな状況を見ながら夏帆は先ほどの会話を続ける。
「ごめんなさいね。わたしのクルマってスーパーチャージャーはスーパーチャージャーでもレックスのほう・・・」
「あっ・・・そうですね。スバルのあの・・・。でも、コレのことよく知ってますね?」
「うん・・・前にそのハチロクに乗ってる人に教えてもらって・・・」
この時、夏帆は風谷のことを滝沢に喋ろうか迷っていた。学年も学部も一緒・・・恐らくこの滝沢というオトコは風谷のことを知っているであろう・・・
でも、その時逆にその滝沢からその名前が出され、夏帆は面食らうこととなる。
「大学の同じ学科に風谷って言うヤツがいまして・・・」
えっ?・・・この時夏帆は心の中でその名前にすぐに反応する。でも、そんな夏帆の事を知ってか知らずかその滝沢が話を続けた。
「大学じゃ「オンナタラシの風谷」って有名な奴なんですが・・・」
その不名誉な呼ばれ方が意外で、当然夏帆は至極動揺・・・となる。
「えっ?その人・・・って、そんなに女たらしなの?」
動揺した夏帆が滝沢にそう言葉を返すとその滝沢はすぐに反応する。
「三五八のバスガイドさんなら小比類巻さんも聞いたことがあると思うんですが・・・赤クロのハチロクの助手席にいつも違うガイドさんを乗せてるって・・・」
それは、その風谷がバスガイドの同僚にいいように使われていた時のことではないだろうか?
「いや・・・それはいろいろあって・・・わたしがパンクで困っていた時助けてくれて・・・」この時夏帆はそう言いたかった。でも、その時の雰囲気がそれを許さないような気がした夏帆はそれを飲み込む。
「あっ・・・そういえば、前に女子寮の食堂の電話のところにその人の電話番号が貼ってあって、クルマのことなんでも相談していいから・・・ってこだま先輩が・・・」
「あっ・・・そのこだま先輩って、さっき女子チーム仕切ってたちょっと大柄な・・・?」
「うん。こだま先輩って高校の時女子サッカー部でキーパーやっててキャプテンだったんだよね・・・だからあんなふうな感じで・・・」
「なんか体育会系って思っていたんですけど・・・でも、どことなくガイドの皆さんって体育会系っぽいような感じですが・・・小比類巻さんも何かされてましたよね?」
この時夏帆は話が逸れてくれて嬉しい反面、このオトコに自分のことをどこまで話せばいいのか少し迷っていた。高校の時ソフトボール部でピッチャーをやっててしかも全国でノーヒットノーランまで達成している。それでそんな事をベラベラ話すのもどうかと・・・
「はい・・・ちょっと高校の時ソフトボールやってて・・・」
夏帆はあまり深掘りせずそう答えた。でも、ハンドルを握る滝沢は夏帆が筋肉質なことを見逃してはいなかった。さすが写真家である。
「ちょっとじゃないですよね?カラダ相当鍛えてましたよね?飲み会の会場で見たジョッキを持つ小比類巻さんの腕の筋肉のつき方がアスリート系だなって思いました。もしかして腹筋割れたりしません?」
「なんでそんなこと・・・」
夏帆がそう答えた時滝沢の運転するキューニーが街のナンパ通りと呼ばれるところに通りかかり、そこで起こっている男女の攻防が見え隠れしていた。そんな状況を見ながら夏帆は正直その滝沢の質問に驚いていた。
「確かに自分の腹筋は割れてはいる。でも・・・なんでそんなところまで?」
夏帆がそう自問自答しているその右側でハンドルを握る滝沢が口を開いた。
「僕って、今でも助手が必要な時に実家のスタジオに呼ばれるんですよね。それで時々スポーツメーカーのポスターとかカタログに載せる写真も撮るんです」
「そういう写真も撮るんですね・・・」
「はい。グラビアみたいな仕事ばかりじゃありません。成人式とか七五三の写真も立派な収入源です。」
「そう・・・ですよね。雑誌の写真ばかりとは限りませんね・・・」
「そしてスポーツ用品系の写真も結構な収入源になるんですが、女性の美しさを引き出すって有名なウチのスタジオに東京の企業さんがモデルを連れてきて撮影することも多いんですよね・・・」
「わざわざ東京から?」
「そうなんです。それで函館には風光明媚な場所もたくさんありまして、そんな場所でも撮影します。それでその時のモデルさんってプロのアスリートの方だったりするんですが、その方の筋肉の着き方とその小比類巻さんの腕の筋肉が同じに見えたものですから・・・」
そこで滝沢の言葉が途切れた。
「ん?どうかしました?」
そんな夏帆の問いかけに滝沢は耳を赤くして答えた。
「先ほど小比類巻さんから「好きな女性のタイプ」とかって聞かれていましたけど・・・」
「それがどうかしました?」
「僕が・・・その・・・好みの女性というのがその・・・」
「えっ?まさか・・・」
「はい・・・そのアスリート系なんです・・・」
「それで筋肉・・・?」
「いや・・・筋肉とかっていう特定の部位ではないんですが・・・その鍛え上げられた肉体美というか・・・何か目標に向かってその努力している女性に魅力を感じるというか・・・」
夏帆は自分の顔が熱くなってきたのを感じたその瞬間、そんな会話を打ち破るように夏帆が叫んだ。
「あっ!・・・ちょっと止まって!!」
それは滝沢が路肩に駐車していた2台のクルマを追い越す時だった。
動体視力の優れた夏帆の目に道路脇の歩道に寄せて駐車していたクルマに腕を引っ張られて乗せられようとしている見覚えのある女の娘二人が映っていた。
それはこの春入社したばかりの後輩バスガイド・・・
そして夏帆は路肩に寄せて止まったクルマのドアを勢いよく開け、勢いよくクルマを飛び出した。
「湯浅っ!・・・古河っ!・・・」
とにかく夏帆は足が速かった。その2台のクルマにそれぞれ押し込まれそうになっていたその女の娘二人が、そんな鬼の形相で走ってきた夏帆の顔を見て口を揃えて叫ぶ。
「夏帆先生・・・助けてください!」
しかし・・・その夏帆が走ってくる姿を見て驚いたのはその二人のオトコの方だった。一般的に女性というのは女の娘特有の走り方というのがあるものだが、夏帆の走り方はまるで陸上の短距離走選手のよう。
「ちょっと!その娘から手・・・離しなさいよ!」
そのオトコの前で立ち止まり、腕を組みながらそう言って睨み付けるその夏帆に一才息の乱れがなかった。
その時のそのナンパヤローはまるでヘビに睨まれたカエルのよう・・・
見ると夏帆が飛び出てきたクルマから50メートルほど。この距離を数秒で走ってきて息も切らさないとは・・・
「お巡りさ〜ん・・・こっちで〜す!」
この時、遠くでそんなオトコの声が聞こえた。ビルの壁面に響くソレは滝沢の声・・・
「なんだよ・・・ここで教育指導のお出ましかよ!まさかとは思ったけどオメエら本当に女子高生だったのかよ?・・・ここに来て警察沙汰になったんじゃ内定取り消しになっちまう・・・」
そう言い残しその後輩たちを解放したその2台のクルマは、次のナンパスポットに向け姿を消した。内定を気にするということはあのオトコたちは恐らく大学4年生。
その大学生最後の年というのは、人生の中で一番自由でいられる反面コレからの人生を最も左右する時期だ。
それを考えると、ここで行動を自重したあのオトコたちは頭のいい部類であろう・・・夏帆はそう思っていた。
しかし、そのオトコたちの行動は誉められたものではない。そして、こんなところでそんなナンパに引っかかってしまったこの娘たちも・・・
「アンタたち!こんなところで何やってんの?二次会は?こだま先輩は?」
項垂れる後輩に向かって腕組みしてそう問いただすその姿はまるで高校の部活そのもの・・・
すると先ほど湯浅と呼ばれた後輩が事の経緯を説明し始めた。
「すいません・・・なんか・・・二次会のカラオケ屋さんに入る時、「ここから抜け出してイイ事しよう・・・」なんて言い寄ってくる方がいたんですが・・・その・・・もうこれ以上迫られたら妊娠しそうだったんで、古河ちゃんだけ連れて抜け出して来ちゃいました。」
いい大人の大学生が高校卒業したての女の娘にちょっかいでも出そうとしたのだろう。そんな言葉に乗ってしまったら今頃どこに連れて行かれたことやら・・・
去年、同じコンパで似たような経験をしているバスガイド2年生の夏帆はそんな二人に同情する。
「うん・・・。ソレ分かる。わたしも背筋が寒くなる経験したし・・・」
「えっ?夏帆先輩もそんな経験してるんですか?」
「うん・・・。なんか、何年か前にこのコンパがきっかけで結婚まで漕ぎ着けたガイドと学生さんがいて・・・それでその話を聞いた後輩学生がますます熱を上げるようになって・・・」
「それで迫られた・・・と?」
「うん・・・でも、その大学ってほぼ男子の理系大だから少ないチャンスをモノにしようと頑張ってるようなんだけど・・・」
「そうですよね・・・。でも、がっつき過ぎです!」
「そうだよね・・・もう、ここで獲物を逃したら一生後悔するみたいな目してるんだから・・・」
「それじゃ・・・残してきた同期が心配です。お腹おっきくなって仕事辞めるようになるんじゃ・・・」
「まっ・・後の二人はこだま先輩がいればなんとかなるでしょ・・・。それにあの学生たちそんな度胸ある感じじゃないし・・・」
「そうですよね。それでそのこだま先輩はガテン系の大学生に言い寄られて満更でもないような感じでした。」
「そうだよね・・・こだま先輩明日公休だもんね・・・ちょっとハメ外しても・・・」
「はい。それにその他2名は待機日ですし・・・」
「それじゃ明日に乗務があるのはわたし達だけ?確か湯浅が結婚式で古河が1泊2日3台口の修学旅行の見習い乗務だったよね?」
すると今度はもう一人の古河と呼ばれた後輩がそれに反応する。
「はいそうです。わたし・・・その修学旅行で良子先輩とペアで小岩井農場に行けるのを楽しみにしていたんですが、なんでそんなことまで知ってるんですか?」
「だってわたしはあなた達の教育係だよ。ソレでなんであんたたちあそこで揉めてた訳?」
「あっ・・・そうでした。あの時カラオケを抜け出したまでは良かったんですが、流しのタクシーがなかなか捕まらなくって・・・それで歩きながら後ろから走って来るタクシーを拾おうとして振り返ったら右後ろにいたさっきのクルマの人と目が合って・・・」
「あちゃ・・・そのオトコあんたたちのこと狙ってたんだね?」
「それでその人たちがクルマの窓開けて声掛けてきたんで・・・」
「うん・・・ナンパだから当然ね。オトコとしては目の合った女子に声を掛けないのは失礼だし・・・」
「えっ?そうなんですか?」
「そうだよ・・・オトコはそんなきっかけを狙ってるの。そんなナンパヤローにあなた達は餌を撒いちゃった訳・・・」
「でも・・・わたし達ちゃんと断ったんですよ。知らない人のクルマには乗れないって・・・」
「うん。それで?」
「そうしたら、これから知り合いになるから問題ないって・・・」
「でも、結局腕・・・掴まれてたよね?」
「いや・・・その時は走って逃げました!」
「えっ?そしたらさっきのは・・・?」
「はい。2回目・・・です」
「違うオトコ・・・ってこと?」
「はい。1回目がそういうことだったんで今度も逃げちゃえばいいかな〜なんて思って、今度は面白がってちょっと話に付き合ってみることにしたんです」
まっ・・・そんな事だろうと思った。
「アンタたち覚えておいて。ここの通りは通称『ナンパ通り』って言って、こんな時間にここ歩いている女の娘はみんなソレ目的だって見られちゃうの。『ナンパしてください』って看板背負って歩いているようなものなの!」
「そっ・・・そうなんですか?」
「次から気をつけるんだよ!こういうところのオトコとは目を合わせちゃダメなの!下北のサルと一緒!」
「それ・・・この前下北トライアルで吉田ティーチャーが言ってたヤツですね。でも、怖かったです。あの威嚇してくるサル。わたしなんてビックリして逃げる時転んでストッキング破いちゃって・・・」
「そうなの!オトコなんてそんなサルと一緒なの!・・・色んな意味で!でも、ちょうどよかった。今日はアレで送ってもらえるから一緒に帰ろ・・・」
その時その二人の後輩が予想したのは・・・あの赤いハチロク。
バスガイドの女子寮では、夏帆のカレシは赤いハチロクの風谷ということで情報共有されている。
「夏帆先輩・・・あの黒いクルマですか?」
「うん。そうだけど・・・」
「あの赤いハチロクは?」
「あっ・・・今日はさっきの合コンで一緒になった人に送ってもらうことになって・・・」
「夏帆先輩。早速浮気・・・ですか?」
「いや・・・そうじゃないの!たまたま・・・」
そうして二人を後部座席に乗せた滝沢のAE92が再び市街地を走行していた。その車窓ではあいも変わらずナンパなクルマが徘徊しているのが伺える。
「あっ・・・滝沢さん。先ほどの援護射撃ありがとうございました・・・」
「いいんです。僕があそこで出来る事とすればあんな事ぐらいしか・・・」
そんな謙遜をしている滝沢を見ていた夏帆が後部座席に座る後輩の紹介を始める。
「左に座る髪の長い方が湯浅・・・右に座るショートの娘が古河で、オリエンテーリングでは湯浅が2号車。古河が5号車に乗務してました。どっちも春まで高校生だった新人です」
すると後部座席の二人がそれに続いて挨拶をした。でも、ハンドルを握りながらルームミラーでその二人を確認する滝沢の表情がどこか曇っている。
「あの・・・右の娘がロングで、左の娘がショート・・・なんですが・・・」
それを聞いた夏帆が振り返って後部座席視線を向ける。
「あっ・・・ゴメンなさい。左右逆です・・・。どうもこの仕事始めてから左右の感覚がおかしくなって・・・」
するとその後部座席に座る二人も頷きながらそれに続く。
「夏帆先輩もそうなんですね?バスじゃいつも後ろ向いて案内してるんで左右逆なんですよね・・・」
なるほど・・・この時滝沢はそう思った。それこそ職業病である。
すると後ろを振り返ったまま夏帆が何かを思い出したかのように話を切り出す。
「ところでさ。アンタたち、さっきわたしのこと『先生』って呼んでたけど・・・なんで?」
「それはですね・・・」で始まったそのさっきのナンパの手段がえらく古典的というか・・・
「さっきの大学生が歩道を歩いているわたし達のことを見て「そこの女子高生かわいいね・・・渋谷だったらスカウトされるんじゃない?」なんて言ってきたもんで、それに合わせて女子高生のフリしちゃったんですよね・・・」
「それでどうしたのよ・・・」
「そうしたら、なんか親戚にティーンズ雑誌の編集長がいるなんて言い出して・・・」
「うん。そうそう・・・その編集長に紹介するとかなんとか言い出して・・・」
もちろんそんな都合のいい話なんて嘘に決まっている。
「それでなんでわたしが先生なのよ!」
「それでなんかしつこかったんで『今日は教育指導の先生が街頭指導してて見つかると停学になっちゃう・・・』って言ったら『クルマに乗れば見つかんない・・・』って逆に拉致されそうになって・・・」
恐らくそのナンパヤローたちの頭の中では恐らく「教育指導の先生=体育の先生」という方程式が成り立っていて、その生徒の名前を呼びながら走ってくる女性の走る姿が体育の女教師に見えたのだろう。
「アンタたちさ・・・そのクルマに乗るってことはそのオトコの部屋に入ることと同じなんだからね!『何されても構いません・・・』なんだからね。気をつけてっ!」
「そうですよね・・・反省します。」
そのキューニーと呼ばれるクルマの後部座席ではこの春バスガイドになったばかりのその新人二人が反省していた。でも、先ほど湯浅と呼ばれた片割れが何かを思い出したかのように口を開く。
「でも・・・夏帆先輩?」
「今度は何よ?」
「夏帆先輩も今、出会ったばかりのオトコの人のクルマに乗ってますよ・・・?」
確かにそうである。数日前のオリエンテーリングで顔は見合わせてはいたが・・・話したのは今日が初めてだった。いや・・・正確に言えばついさっきの出来事。
「いや・・・これはたまたまって言うか・・・」
その時の夏帆はいつになく歯切れが悪い。
その時だ。もう一人の先ほど古河と呼ばれたもう一人の片割れがそれに続いて夏帆がこの時一番話題にしたくなかったことを話し始める。
「夏帆先輩・・・。夏帆先輩がこのクルマに乗ってるってエンちゃんが知ったら怒られちゃったりしません?タクシー捕まんなかった段階でなんで電話で呼ばないんですか?」
確かに・・・そんな時頼れるのがカレシというものだ。
「い・・・いや・・・あのハチロクはタクシーじゃないし・・・エンちゃんはアッシーくんでもないし・・・」
この時、運転している滝沢の表情が変わったのを夏帆は見逃さなかった。
しかし、そんな夏帆の心配をよそに後部座席からさらに突っ込んだ指摘が飛んでくる。
「アレ?夏帆先輩ってアレからお泊まりしてませんよね?寮の前で迎えに来てる赤いハチロクも見てないような・・・しかも、宿泊乗務以外の日はしっかり寮で夕ご飯食べてますよね・・・しかもおかわりまでして・・・」
「ううっ・・・」
この時夏帆は返す言葉もない。あの晩一度だけエンちゃんの下宿にお泊まりしたことはあったものの、それは寮の門限に間に合わなく待っての一時避難的に泊めてもらっただけのこと。もちろん男女のそう言うことのも何も起きなかった。
さらに、とどめを指すように後部座席の二人は「うん・・・そうだよね」なんて息を合わせて言ってもいる。
この時夏帆は「自分ってエンちゃんにとって何なんだろう・・・」なんて思っていた。
そして信号待ちの時、そんな落胆した夏帆を見ながらその滝沢が息を吸った。
@わたし、トレノか良かったな・・・
「小比類巻さん。アイツだけはやめた方が良いです。風谷だけは・・・」
滝沢のその言葉を夏帆は理解出来ない。なぜやめた方がいいのか?あんなに優しいエンちゃんなのに・・・。
「どうして?」
夏帆は当然そう答える。するとその滝沢が意外なことを言い始めた。
「風谷って僕の父さんとどこか似通った匂いがするんです。父さんは母さんを不幸にしました。そんなダメなオトコの匂いです」
「でも・・・滝沢さんのお父さんって業界じゃ有名な・・・」
「ソコ・・・なんです。父さんって昔はもっと凄いヌードを撮っていたんです。それは元女優さんなんかが「初めて脱ぎました・・・」的なヤツです」
「あっ・・・よく美容院においてある雑誌に特集されてるようなヤツ?」
この時後部座席でそんな話を聞いていた古河が話に割り込んだ。
「えっ?滝沢さんのお父さんって、もしかして前に美容院に置いてあった雑誌のインタビュー記事に載ってた「ヌードカメラマンのTakisawa」さんですか?」
「いや・・・実はそうなんです。ちょっとお恥ずかしいんですが・・・」
「えっ?世の中狭いんですね・・・その息子さんがこんなところに。じゃ、滝沢さんもあんな写真を撮るんですか?」
「今でも時々助手はやりますが、個人的にはちょっと苦手で・・・」
「凄いですよね。その雑誌で「ヌード写真は芸術作品だ」って言い切ってましたからね」
そんな古河の率直な感想に対して滝沢が遠くを見るような目で答える。
「そういう雑誌に掲載するために撮影するモデルさんって、元アイドルとか元女優さんが多いんですよね。そんな元女優さんとかって、週刊誌の空いた枠に入れる丁度いい素材みたいで結構色っぽい写真を撮影したりするんですが、その色っぽい写真から入ったその撮影で結局のところ最終的に父さんが脱がしちゃうんですよね・・・」
ちょっとため息まじりにそういう滝沢に同調するかのように夏帆が言葉を重ねた。
「それって、その雑誌社は初めからそれを狙って・・・」
「そうです。最後の1枚を脱ぐかどうか迷ってるそのモデルさんを「滝沢が撮影すれば必ず脱ぐ」ってことをその雑誌社も知ってのことかと思います」
「そこでも雑誌に載せられないような写真が出るんですね・・・」
「はい。もちろんそんな写真は例の如くアルバムに綴じて渡します」
「それがどうして滝沢さんのお母さんの不幸と繋がるんですか?」
「その頃父さんも若かったんでしょうね・・・。ある時父さんの仕事場からそういう女優さんとの個人的な写真が出てきまして・・・」
「それって・・・浮気?」
「そうです。それも1度や2度じゃないんです。しかも背景はボカシてはあるんですが、その背景がどこかのホテルなんです。しかもビジネス的なヤツじゃない・・・」
「それってそのモデルさんと男女の関係になってたってことですか?」
「はい・・・。そんなの当時の小学5年生でも分かることでした」
「それで滝沢さんのお母さんは?」
「家を出ていきました」
「それって・・・離婚?」
「はい」
「それで・・・その後お父さんの助手をしていたって事は、滝沢さんはお母さんについて行かなかったんですね?」
「別れる時母さんは僕を一緒に連れて行くといいました。でも・・・父さんは助手がいなくなると撮影がままならないということで猛反対でした」
「それって・・・単に従業員確保のため?」
「まっ・・・それもあると思いますが、僕に撮影のテクニックというものを伝えたかったんだと思います。でも、僕は母さんを捨てた父さんが大っ嫌いだったんでとにかく口を聞かなかったんです」
「それじゃその撮影の技術というのはどうやって・・・?」
「とにかく一度言われたことは一回でできるように頑張りました。同じことを2回言われたくなかったんで・・・」
「1回で・・・?」
「そうです。とにかく会話は最低限です。でもある時、そんな大っ嫌いな父さんの母さんに対しての優しさというのを知りました」
「えっ・・・お母さんを捨てた酷いお父さんじゃなかったの?」
「父さんと母さんは言わば学生結婚だったんです。大学の撮影のモデルとしてアルバイトに来ていたのが母さんでした」
「それってヌードモデル?」
「詳しくは知りませんが、恐らくは・・・」
「でも、熱心だった父さんは個人的にもそのモデルというものを頼んでいたらしくって・・・そのモデルである母さんが妊娠するまであまり時間はかからなかったようです。それで籍だけ入れて同棲して、今度は妊婦の母さんをモデルにして写真を撮り続けたそうです」
「それって裸婦・・・?」
「そうです。それが恐らく「ヌードの滝沢」の出発点かと・・・」
「もし、その奥さんがいなかったら「ヌードの滝沢」っていう写真家は存在しなかった・・・」
「そうですよね・・・・。父さんは女性が一生のうちで一番一番美しいと言われる時期に加えて、女性が最も神秘的な妊娠期間を全て写真に納めたわけですから、それ以降の歳を重ねたその母さんを見ることができなくなったのかもしれません」
「そうだね・・・歳もそうだけど被写体としての妊婦ってなかなかいないもんね。しかもその妊婦っていうのは毎日身体の変化があるもんね・・・」
「父さんは歳を重ねる母さんのその身体が許せなかったんだと思います」
「でも・・・それって仕方がないことで・・・」
「だからその被写体を他に求めたんです」
「それで・・・浮気を?」
「それはオトコとしてなのか写真家としてなのかはわかりませんが・・・」
「まっ、綺麗な裸体・・・いや、エロスというものを求めるのはオトコとして哺乳類として仕方がないって高校の時の担任に教えてもらいました」
「小比類巻さんの高校の担任て、そんなことまで教えたんですか?」
「うん。遺伝子的なところから避妊まで。それと避妊に失敗した後のことまで・・・」
「凄いですね。僕なんて小学校の時の性教育の授業の時、風邪で学校休んでしまって性教育というものを全く受けていません。まっ、その代わりスダジオで時折裸の女性を見る機会はありましたけど・・・」
「人間って結局のところ哺乳類だから、自分の遺伝子を後世に残すためにある程度仕方がないと思うんですが・・・何せ人間ってそれに感情とか愛情が絡むから面倒臭いんでしょうけど・・・」
「でも、そんな父さんですがちょっと見直したことがありまして・・・」
「そんな大嫌いなお父さんに?」
「はい。母さんと別れる時僕を引き取ったのは後々の母さんのことを思ってのことだったんです」
「後々って?」
「その時母さんは33歳で再婚するとしてしても非常に厳しい歳だと思うんです。しかもコブ付きだとすれば、相手は訳ありの男しかいないと思うんですよね。だから父さんは僕を引き取った・・・」
「じゃ、今その・・・滝沢さんのお母さんって?」
「年下の初婚男性と結婚して高齢出産ながら二人の女の子を授かって幸せに暮らしています」
「それじゃ異父兄妹がいるってことですね?」
「そうらしいです」
「でも、滝沢さんのお父さん自体の再婚は?」
「してません。そんな父さんですが、その結婚ということに相当懲りたんでしょうね・・・幸い跡取り息子は確保してますから、後は自分の人生を謳歌するだけで・・・」
「それじゃ未だに・・・?」
「もういい加減にしろ・・・ってくらいアッチもお盛んです」
「それは「ヌードの滝沢」として仕方がないかも・・・だね。それにヌード写真家として感性を磨き続けるにはある意味必要なことかも?」
「小比類巻さんって寛大ですね・・・僕はその領域に達するまで相当思い悩みましたが・・・」
「だって写真家だよ?それもヌードだよ?普通の人と同じ定規じゃ測れないって・・・」
「はい。僕もそう思うようにしています。でも、いつも思うんですがあんないい歳のおっさんのところになんであんな若くて綺麗な女性が寄ってくるか不思議なんですよね・・・それっていわゆる「枕営業」ってヤツですかね?」
「枕営業って・・・でも、そんな写真家に撮ってもらえたら有名にはなるでしょうね」
この時夏帆はその「枕営業」という言葉に内心ドキっとしていた。それは現在アイドル活動をしている高校の時のソフトボール部でセンターだった娘が、どこかの芸能コンサルタント会社にその枕営業をしているという風の噂を聞いていたからだ。
写真家のTakisawaがヌードは芸術品と言い切るそんな裸体を利用して行うその「枕営業」というものを夏帆は許せなかった。今度会ったら苦言の一つでも行ってやろうかとも思っていたが、今じゃ元ソフトボール部のキャプテンでしかない同級生のそんな苦言を容易く受け入れるまずもない。
まっ、これは本人の問題なので仕方がない・・・
そう思った夏帆は、この話を深掘りすることはせず話題を切り替える。
「でも、滝沢さんの実家ってそもそも写真スタジオを営んでいたんですよね?」
「はい。僕の実家は3代続いた写真店になっていて、普通の現象を行う傍ら併設しているスタジオで家族写真なんかを撮っているようなごく普通の写真屋でした」
「うん・・・写真撮るとみんなフィルムを現像に持って行くところね・・・」
「はい。でも、その一般向けの現像ではあまり利益にならなくて・・・」
「そうだよね。なんか最近安く現像するところも出てきたもんね・」
「それで一番のお得意様が建設会社なんです。工事を請け負うと役所に提出する書類に必ず写真を付けるようになっていて、しかも工事が終わると工事の始まりから終わりまでの細かいところの写真というのを、役人が椅子に座ったままでも確認できるようにまとめて竣工写真という形で提出するんですが、それが一つの工事で数百枚・・・物によっては数千枚に達することもあります」
「いや・・それは大口ですね」
「その現像した写真をチェックも僕の仕事の一つでした」
「あっ・・・それで、橋の写真って訳?」
「そうです。その写真の中にあの夢の大橋みたいな大きな橋の工事写真があって、その現場から依頼される写真が時間と共に出来上がる経過にすごく魅力を感じました。それは僕が高校1年生の時の事です」
「それが『橋好き』の出発点なんですね?」
「そうです。その頃時間があれば爺さんのカブ号借りていろんな橋を撮影したんです。そこで言われたのはその『橋の本質』でした」
「お父さんに言われたって言うヤツね?」
「そうです。それが土木の勉強をしようとするきっかけになったんですが、この街にある『夢の大橋』が凄く気に入っていて、それを4年間見られるのなら・・・と思ってこの街の大学に入学したのですが・・・」
「夢の大橋が志望動機・・・?」
「おかしいでしょうか?」
「うん。とても・・・」
「やはりそうですよね・・・こんな話するとドン引きされると思って誰にも話していなかったんですが・・・小比類巻さんもやはりそうですよね?」
「変態・・・」
「ヤッパリ話すんじゃなかった・・・」
「でも勘違いしないで!いい意味で変態って言ってるの。そこまでものを知りたいと思うことはいいことかと思う・・・」
ハンドルを握る滝沢はその夏帆の言葉に安心したのかその橋について語り始めた。
「その「夢の大橋」と呼ばれる橋は、ここ八戸市を代表する橋の一つで正式名称を「八戸大橋」って言うんですよね。この橋は・・・」
滝沢のその説明に助手席の夏帆が言葉を被せる。しかも営業ボイスで・・・
「・・・昭和51年に八戸の港と新井田川の河口を跨ぐ様に造られた長さ1323.7mの橋梁です。当時はそこにそんな大きな橋がかかるはずはないと夢のような話だったということから夢の大橋と呼ばれておりました。そんな八戸大橋でございますが、今となってはこの八戸市の経済活動また市民の生活に欠かせない橋となっており、まさに夢の大橋・・・というところでございますね」
その時、後ろのクルマがクラクションを鳴らしたのが分かった。滝沢は夏帆のその口調に聞き惚れて青信号になってもクルマを発進させず固まったままになっていたのだ。
「あっ・・・滝沢さん、青・・・信号青!」
その言葉で我に帰った滝沢がクルマを発進させ少し震える口調でそれに応える。
「いや・・・小比類巻さんは本物のガイドさんだ・・・僕の思ってることがスラスラと・・・」
「こう見えてもバスガイド2年生です・・・舐めてもらっちゃ困ります。なあ・・・後ろの二人・・・コレ、ちゃんと暗記してるか?」
そこで同意を求め後ろを振り返る夏帆だった。しかしその後部座席の二人は全くの無反応・・・
この時滝沢も夏帆のその言葉を聞きながらルームミラーで後部座席の二人を確認していた。
案の定、先ほどから静かかと思ったその二人はまるで電池が切れたかのように熟睡している。
それを確認した滝沢は思い詰めた表情で話し始める。
「小比類巻さん。ちょっと聞いてほしいことがありまして・・・」
「どうしたの?急に改まって・・・」
「僕はこれまで生身の女性を被写体にしたいとは思わなかったんですが、今は小比類巻さんのことだけを凄く写真に収めたいと思っています。あっ、勘違いしないでください・・・ヌードじゃないですから」
この時夏帆はどう返していいのか少し迷っていた。そんな様子を察した滝沢が言葉を付け加える。
「返事はいいです。今の僕の一方的な気持ちを伝えただけなんで・・・」
「・・・うん。検討しとく・・・」
「それと、今度この前のオリエンテーリングで皆さんを撮影した写真を会社までお持ちします。その中の小比類巻さんが凄く輝いていたものですから・・・」
そんな話をしていると会社が近づいて来た。その会社の脇の道路の路肩にはクルマがズラリと路駐していて、その車内では夏帆の同僚バスガイド達が彼氏との別れを惜しんで話し込んでいるようだ。
そして会社の通用口前でクルマから降りた三人が滝沢のレビンを見送った時、後輩の湯浅が口を開いた。
「GTZは良かったんだけど、わたし・・・トレノがよかったな・・・」
「ん?トレノ・・・って?」
この時、そのトレノという言葉を初めて聞いた夏帆がそう聞き返した。どうやら滝沢のレビンはGTZというグレードらしい。クルマのことがよく分からない夏帆に対してその湯浅が説明を付け加える。
「トレノっていうクルマはレビンの兄弟車なんですけど、ライトが格納式なんです。夏帆先輩・・・この前の告白番組見なかったんですか?クルマ特集やってたじゃないですか・・・」
「あっ、なんか食堂で見たような・・・」
それは当時高視聴率を誇っていた番組で、数人の男女の出演者のオトコが最後に気に入った女性に告白するというもの・・・
その回は自慢の愛車の助手席に乗ってほしいと告白するシチュエーションで告白したオトコが「クルマがトレノじゃない・・・」という理由で振られてしまっていた。
その時寮の食堂のテレビの前は人だかりになっていて夕飯を食べながらそれを聞いていた夏帆は、「そんなことあったかも・・・」と思いつつ会社前にずらると並んで駐車しているクルマ達を目で追い、その中の一台のクルマを指差した。
「アレ?」
するとその湯浅がこれに答える。
「あれはスープラって言うクルマです。メーカーとライトが格納するのは同じですが全く違うクルマです・・・」
それはトレノと比べて明らかにワイドなボディーだった。
@カレシ任せ・・・
「アンタ・・・なんでそんなにクルマ詳しいわけ?」
夏帆が湯浅にそう尋ねたその時、脇でその話を聞いてきた古河が話に割り込む。
「湯浅のカレシってクルマ好きなんですよ。大学生ですけど・・・」
「湯浅・・・オマエいつの間に・・・」
「すいません・・・カレってわたしの地元の大学に通ってまして・・・それがどうかしました?」
「いや・・・なんか湯浅みたいなタイプがドライバーに捕まりやすいって思っていたから、ちょっとだけ安心しただけ・・・」
「その・・・ドライバーに捕まるって?」
「地方から出てきたばかりで右も左もわからない女の娘をたぶらかして手篭めにしちゃうドライバーもいるからさ・・・」
「やっぱりそうなんですね。なんか回送の時、それっぽく言い寄られたことがありまして・・・」
「ダメ!絶対話に乗っちゃダメ!悩み事とかあったら真っ先にわたしに相談して!」
「その・・・カレシとのシモの話でも・・・?」
「う・・・うん!なんでもいいから!」
「はい・・・じゃ、そのうちに・・・」
「ところで湯浅の地元って確か弘前だったよね?」
「そうです!」
「カレシが地元の大学生って言ってたよな・・・」
「はい。それが?」
その地元の大学というのは恐らく難関の国立大・・・よくそんなオトコを捕まえたもんだと感心しつつ夏帆は尋ねた。
「それじゃなんで弘北バスじゃなくってこっちの三五八にしたんだ?」
その弘北バスというのはその弘前にあるバス会社。観光バス事業も展開していることからバスガイドの求人もしていたはず・・・
「カレが大学受験の時、スベリ止めでこっちの大学受けたんですよね・・・その時恐らく本命の地元の大学は受からないだろうって言ってたんです。それならと思ってわたしは初めからこっちを受けたわけなんですが・・・」
「でも、カレシはまさかの本命合格・・・」
「はい・・・当然遠距離恋愛です」
「それでなんでさっきのトレノが出てきたんだ?」
「今、そのカレは47万円のアルトで頑張ってるんですが、頑張ってトレノのスーパーチャージャーを買うってバイト頑張ってて・・・そうさっきのGTZってヤツです」
この後女子寮に戻った夏帆はシャワーを浴び、そして自室で髪を乾かしながら「夏帆の写真を撮りたい」と言っていてそのレビンのGTZに乗っている滝沢の言葉を思い出していた。
「う〜ん・・・こうかな?やっぱりこう?」
その時の夏帆は、いつも出勤前に身なりを確認する大きな姿見を見ながらヌードモデルを演じていた。しかし・・・
「やっぱり胸って大事よね・・・全然セクシーじゃない・・・」
この時夏帆がイメージしているのは、中学生の時自転車で行ったフェリー埠頭で拾った一冊のエロ本。そこに映し出されていたのは恐らく滝沢の父親が得意とする写真・・・
それは豊満な胸を強調するかのように写されたアングルに、見えそうで見えないヘアー・・・そんな写真だったと思う・・・
この物語の舞台である平成初期まで・・・正確にいうと「ヘアーヌード」として世間に認知された某アイドルのあの写真集が発売されるまでは、そのいわゆるヘアーというものが見える雑誌の正式販売は認められず、その正式販売されないその冊子はいわゆる「裏本」として世に流通していた時代だ。
だからそのヌードの写真集を出版するにあたり一番気を使うのが「ソコ」である。
現代であれば画像処理でなんとでも出来るそんな微妙なことについても、この時代は撮影の段階で気をつけなければならなかった。
せっかくよく撮れている写真であっても、そのヘアー一本でその写真がボツになることも多い。そんな撮影現場でそこのはみ出しをチェックするのもその助手であった滝沢の仕事である。
そのような神経を使いつつ撮影されていたその成人雑誌の絵面を思い出しながら、夏帆はいろんなポーズを取ってみるものの、それはいつの間にかボディービルダーのような格好に・・・
そんな時、いきなり夏帆の部屋の扉が開いた。
「えっ?・・・」
「えっ?・・・」
その時、突然部屋に入って来た後輩の古河とその顔を見合わせ、二人息ぴったりにそう驚いた。無理もない。いきなり部屋に入ったら素っ裸の女子が姿見の前でゴリラのようなポーズを取っていたのだから・・・
「かっ・・・夏帆先輩。パンツも履かずにそんなポーズして、どうかしちゃったんですか?」
「いや・・・なんか自分の身体ってちっとも色気がないなって思ってさ・・・」
夏帆はその時パンツに足を通しながらそう答えた。すると、そんな様子を見ながらその古河がその「色気がない」ということについて話し始める。
「でも・・・すごく鍛えてますね。わたし知ってるんです・・・夏帆先輩って公休の時夢の大橋走ってますよね?」
「そうなんだよね・・・中学校の頃からとにかく走ってたからね。やっぱりピッチャーやってると下半身がブレるとダメだからとにかく走り込んでたんだよね・・・」
「その習慣が今でも・・・ってところなんですね?それで走行中の揺れる車内でも安定して立ってられるんですね・・・」
「まっ、そういうこと!ところでなんかあったの?急に現れて・・・」
「あっ、そうだった・・・さっきお風呂で見つけたんですが・・・」
そういうとその古河が中学校指定と思われるジャージのズボンを脱ぎ出した。
「ん?古河もポーズ付けたいって?」
逆にTシャツまで着終わった夏帆がそう尋ねると、ほっぺを膨らました古河がそれに答える。
「コレ・・・見てくださいよ〜」
そう言ってお尻をプリッと突き出したその古河の臀部と呼ばれるその部分が大きく紫色になっていた。
「コレって・・・もしかしてアレか?」
「そうなんです。日中、明日一緒に乗務する良子先輩とエアロの大掃除やったんですが、その時補助席に思いっきりぶつけて・・・」
その紫になっているソレはバスガイドたるもの誰でも経験のある打ち身だった。特に身体の大柄なこだま先輩は今でもあちこちあざだらけである。
ちなみに良子先輩というのは夏帆の1コ上の先輩で、この秋寿退社予定の先輩だ。
この頃になると修学旅行などの業務に先輩ガイドが新人を同伴させ業務内容を教えることが多くなって来ていた。
先日乗務した大学のオリエンテーリングは観光案内がなくほぼ移動のみであり、必要な案内は同乗したリーダー学生が行っていたのでバスガイドの仕事といえば休憩案内とバスのバック誘導・・・それと付き纏う学生たちを遇らうくらいだった。
そんな業務のバスの誘導程度であれば新人でも良かったのだが、それが一般観光案内ともなればそうもいかない。それで今、会社として早く単独で業務に就けるようにあの手この手で新人を教育している段階となる。
一方その古賀が言っていたそ「エアロ」というのはふそうのエアロエースというバスを指す。なお会社には別に数台エアロクイーンというバスもあるが、エアロエースの高床式バージョンとなるそのエアロクイーンが明日から夏帆が乗務する車両だ。
「ん?どうして?急にエアロの大掃除なんて・・・」
「明日乗務するはずのスケルトンが今日・・・火を吹いたようでして・・・」
「えっ?また?その代替えのエアロってこと?」
「そう・・・みたいです」
夏帆たちの勤務するこの会社では元々日野スケルトンというバスを主流に使っていたが、老朽化したそのスケルトンをふそうのエアロに代替えをしている最中である。そして今、そのスケルトンとエアロの割合がほぼ半数という時にそのスケストンに関するトラブルが多発していた。
正確に言えばそれはオーバーヒートだったり、走行中に漏れたオイルが熱い排気管に垂れて煙が出たりしていたものであるが、バスの後部から煙が出ることをバスガイドたちは「火を吹いた」と表現していた。
ついこの前は客を盛岡駅で乗車させ十和田湖へ向かう最中の東北道の本線上でそんな火を吹いたばかりで、その時たまたま盛岡駅に客を降ろしたエアロに乗務していて、サービスエリアでの乗り換え作業にあたったのが夏帆だった。
高速道路を走行中車内に変な匂いが立ち込め、後方を見ると真っ白な煙が出ている・・・そんな状況になると乗客はもう大騒ぎに。それを冷静に案内誘導するのもまたバスガイドの業務の一環である。
最近では遠距離の業務にエアロを配車するなど会社としても工夫してはいたが、その台数も限られており問題解決には至っていなかった。
さらにその車両入れ替えを機にバスのカラーリングも刷新していて、その色鮮やかなカラーリングも好評なことと、その年全面開通する八戸自動車道などの高速道路利用の増加も考慮し、会社としても車両入れ替えを急いでいた時に多発していたそんなトラブル。
これは会社ならずとも、ソレに乗務するガイドにとっても頭の痛い問題だ。
そんな事はさておき、夏帆は自室の入り口でお尻を見せる後輩の古河のお尻を見ながら口を開いた。
「うん。分かった・・・痛かったのは分かった。そのケツはもういいから・・・」
「だって・・・夏帆先輩のところって湿布とか色々あるじゃないですか・・・」
「あっ・・・湿布・・・ね」
何気に夏帆の部屋にはそういうものが色々取り揃えてある。それは高校の部活で自分を養生するために揃えていたものであったが、どういう訳かそれの在庫が切れると落ち着かないため時折買い足していた。
それで、それを知っている同僚が時折夏帆の部屋を訪れている中の一人がこの古河だった。
そして夏帆がその紫色したアザに湿布を貼る時、そのお尻にちょっとした異変を感じていた。それはいつも一緒に風呂に入っていたから分かることで・・・それはどこかふくよかな感じを受けたものだった。
「古河・・・お前のお尻ってこんな感じだったか?」
「先輩もそう思うんですか?最近ちょっと制服のお尻がキツくなって来たような気がして・・・」
「古河って今18だろ?コレから出るところは出て引っ込むところは引っ込むから、少し自分の身体と付き合え!」
「はい・・・コレって彼と付き合うようになってからなんですが、最近急にお尻がチョット・・・あとブラのサイズもアップしまして・・・」
「えっ?オマエってカレシがいたのか?っていうか・・・カレシと付き合うと胸が成長するって?」
胸の話のなるとつい熱くなってしまう夏帆がそこにいた。
「当たり前じゃないですか!」
そう答える古河を前に夏帆は次の言葉が出ない。
「はい。高3から付き合ってるカレがいまして・・・」
「オ・・・オマエの地元って三沢だよな?」
「はい・・・」
「そのカレは今どこに・・・」
「市内の専門学校に通ってます」
「だから・・・公休の日、寮にオマエがいないのはそれだったのか・・・それで夢の大橋を走ってるわたしを見たのはのはそのデート中ってこと・・・?」
「はいそうです。カレがわたしの休みに合わせてくれますので・・・」
「古河・・・デートもいいけど勉強のほうもチョットは考えろよ。公休の日に寮に古河の姿な見えないのはてっきり教室で勉強してるのかと思った・・・」
バスガイドは覚えることが多い。正確に言えば暗記することが山ほどある。だから公休と呼ばれる休日の直後に入っている業務で不安なことがあればその公休と呼ばれる休日の時間を勉強に充てることザラだった。
でもそんな古賀も一人の女の娘・・・カレシがいればこうもなる。
「勉強することもありますが、彼が逢いたいっていうもんで・・・」
「じゃ、そのデートは一度トライアルで行ったことのあるところに行って復習するとかすればいいでしょ?」
「でも、必ずその途中でご休息しちゃうんで・・・疲れちゃうんですよね・・・」
ご休息なのに疲れるとは・・・困ったものだ。
「じゃ・・・その・・・エッチとか?」
その時夏帆は、そんな当たり前のことを面と向かって聞いていた。さすが生娘である。
「はい。普通にしてますけど?何か?」
夏帆は自分の問い掛けに普通に返ってきたそのあっけらかんとした答えに衝撃を覚えた。そして、言葉の詰まるままコレだけしか口から出なかった。
「いっ・・・いや、そっ、その避妊だけはキチンとしろよ・・・」
「はい。カレがキチンとしてくれてると思うんで・・・」
「思うんでって・・・ソレ、カレシに任せきりなのか?」
「先輩・・・何か心当たりでもあるんですか?」
「いや・・・わたしが高校2年生の時ちょっと衝撃的な授業があって、それはいわゆる性教育って言われるヤツだったんだけど・・・」
「えっ?高校2年生って・・・性教育受けるには遅すぎじゃないですか?普通は小学校の高学年の時男女に分けられて・・・」
「じゃ、聞くけど・・・古河が受けたその性教育ってどんなだった?」
「う〜ん・・・確か生理の話とか、雄しべと女しべの話っだったような・・・」
「それって、今・・・古河がカレシとシてる事に活かせる内容だと思うか?」
「当たり前じゃないですか・・・全くありませんよ。でも、性教育の授業受けた時わたし小学生ですよ?」
「じゃ、もう一度聞くけど・・・それ以降そういう教育受けたか?」
「う〜ん・・・全くないですね・・・」
「そうだろ?今の大人たちって「寝た子を起こしちゃいけない」っていう大義名分の元、本当に大事なことを子どもたちに対して隠蔽してるんだ・・・」
「隠蔽・・・ってそんな・・・」
「考えてもみろ!お前、正しいコンドームの付け方知ってるか?生理周期と妊娠の因果関係なんかをキチンと理解してるか?」
「いや・・・友達から聞いたり、ウワサだったり・・・」
「そうだろ?どれをとってもどれが正しいかなんて分からない。だからわたしが高2の時、それを憂いだ高校の時の担任が自分の受け持つ授業時間1時限丸々潰してその性教育をしてくれたの」
「じゃ、担任の先生って体育の先生か何かで、もちろん男女分別ですよね?」
「いや、担任は英語の先生でみんなが舞衣先生って呼んでた20代後半のちょっとセクシーな小林舞衣っていう先生だった。それに性の問題って男女平等だから男女分ける必要はないって言ってたような気がする」
「それで、どんな内容で・・・?」
「その授業は二部構成になっていて前半が座学、後半が実習になっていてさ・・・その座学では、なぜ人間はその性行為というものをしたくなるのかというものを生物学的に説明するところから始まって・・・」
「えっ?・・・その先生って生物の先生じゃないんですよね?」
「うん。英語の先生。生物の先生は別にいたような・・・」
「それで結局のところ人間って哺乳類として遺伝子を後世に残すようにそれぞれの遺伝子に組み込まれているからその性行為をしたいというのは当たり前のことだって言い切ったの・・・」
「高校生に・・・ですよね?」
「うん。でも考えてもみて。ダメだと言われればやめるか?古河の初体験がいつだったかを聞くつもりはないけど、周りのみんなは結構ヤッてただろ?」
「そうですね・・・相手が同級生だったり、大学生だったり・・・中にはエンコウしてる娘もいました」
「さっき性行為は男女平等って言ったけど、その行為自体には避妊っていうものも含まれるの。子供が欲しけりゃ逆にもっと妊娠しやすい状態ですることもあるけど、高校生で子供が欲しいなんてないだろ?」
「そりゃもちろん!」
「だったら男女がそれぞれ納得する避妊をしなきゃ・・・結局最後に心も身体も傷つくのは女の娘なんだからさ・・・」
「そうですよね・・・その後、女の娘がどうなったとしてもオトコの人の身体は傷つかないですもんね」
「結局オトコって自分の身体の事じゃないからどこか他人事で・・・」
「いや・・・他人事じゃ困りますよね?」
「だろ?でも・・・それでそのオトコの人にキチンと正しい方法で避妊してもらわないとダメなんだ。逆に言えばキチンと避妊をしてくれないオトコとはしちゃいけないって事になる」
「でも、その避妊をしてもらうカレも含めてわたしたちってその正しい方法をキチンと教えてもらってない・・・」
「そこが問題なんだよね。・・・それでその性教育の後半ではそのコンドームの付け方について模型を使っての実習があって・・・」
「実際につけてみたんですね?」
「そこでクラスの自称プレイボーイの男子が名乗りをあげて、その模型にコンドームを慣れた手つきでつけたんだけど・・・」
「慣れてたんですね?」
「いや、少なくともわたしはそうじゃないと思った。やっぱりその舞衣先生がそれは違うって指摘して正しい付け方でやり直して・・・」
「付け方に間違いってあるんですか?」
「あるみたいなの。それで穴あけちゃって避妊失敗したり途中で破れたりすることもるらしいの。だからこれは重要だって舞衣先生が言ってた」
「そのクラスメイトは、みんな一度はそのコンドームの付け方ってものをやってみたんですね?」
「いや・・・一部の女子が怖がっちゃって、その模型に触れなくって・・・」
「模型・・・なんですよね?」
「うん。それでその娘がその授業内容を親に話したみたいで・・・」
「親がなんか言って来たとか?」
「そうなの。それでその授業が保護者の間で問題視されて・・・」
「それでどうなったんですか?」
「うん・・・紛糾した職員会議で最終的にその内容は過激すぎるってことになって・・・結局その内容は18禁ってことにされたんだよね・・・」
「えっ?避妊の方法とかコンドームの使い方の内容って、高校生が聞いちゃいけない内容なんですか?」
「うん。避妊方法の紹介まではいいらしいけど、実際の使い方とかの具体的な話は18歳未満にしてはいけないことらしい・・・」
「つまり、18歳未満はそういう行為はしないことを前提ってことですか?女性の結婚って16歳から認められてますよね?」
「なんかおかしいよね。極端な話、結婚すればその瞬間からしてもいいけど、そうでない場合は18歳になったその瞬間から・・・って話で・・・」
「だったらその準備段階で話してもいいんじゃ・・・?」
「そういうことを教えるということは、オトナがそういう行為をしてもいいって認めることになるから教えない・・・オトナの解釈としてはそうなるらしいの」
「でもコレって、中学生に聞かせてもいい内容かと思いました。さっき高校2年生で「今更なんて?」って思ったくらいですから・・・」
「正直な話、中学や高校で妊娠しちゃう娘って少なからずいるとは思うんだけどね。古河もそう思うだろ?」
「そうですよね。・・・みんなも何も知らないでしちゃってる感じですからね・・・」
「えっ?みんなも・・・って、もしかして・・・」
「同期の他2名です・・・」
「ってことはみんなカレシ持ち・・・?」
「そうですが・・・意外でした?」
ということは、このバスガイドの同僚で生娘は夏帆一人という事になる。そんな生娘が後輩にそんな性に関する講釈を語るとは・・・
でも、夏帆は高校時代にそういう教育を受けていたからこそ、その男女の関係というものについて慎重になっていたような気がしていた。でも・・・なぜか妙な焦りを感じながらも冷静を装いつつ夏帆は話を続ける。
@武勇伝の裏側で・・・
「古河。オマエ、こだま先輩の高校時代の話って知ってるか?」
「はい。あの有名な武勇伝ですよね?3年生の時、サッカー部のキャプテンをぶん殴って捨てたっていう・・・」
「ソレって・・・どうしてそうなったか知ってるか?」
「いいえ。そこまでは・・・」
寮のみんなが知っていて、その誰もが口にしないその話は高校生としてあってはならないことだった。
「こだま先輩って高校3年生の時サッカー部のキャプテンと付き合っていたのは古河が知ってるとおりなんだよね・・・」
「はい。こだま先輩って女子サッカー部だったってうことも聞いてましたんで、特におかしいことなないと思います」
「うん。ここまでは全然問題じゃない。問題はここからなんだけど・・・古河に聞いてほしいのはそこからなの」
「はい。心して聞きます」
「実はその付き合ってたサッカー部のキャプテンっていうヤツは二股掛けてて・・・」
「それでこだま先輩がぶん殴った・・・と」
「チョット違うけど・・・。でも、その前にそのキャプテンがとんでもないことをしてて・・・」
「えっ?二股以外って何かありますか?」
「うん。ここからは大きな声じゃ言えないんだけど・・・」
そこまで話した夏帆が内緒話でもするかのように左手を口元に添えた。当然ソレを見た古河がその夏帆の口元に耳を寄せる。そこで夏帆は周囲を確認するようにして囁くようにそれを伝えた。
「妊・・娠・・・」
それを聞いた古河が夏帆の顔を見て目を丸くしながら大きく息を吸った。
「妊娠・・・ですか?」
「バカ!声が大きい・・・」
そう言いながら夏帆はこがの口を押さえた。その古河がモゴモゴしながらさらに問いかける。
「それでどうしたんですか?」
「その後、そのサッカー部のキャプテンがそんなの知らないとか本当にオレの子か?とか、オレの気を引くために嘘をついてる・・・なんて言い出してね。あと・・・」
「あと、なんかあるんですか?」
「オレはキチンと避妊していた。それでも妊娠していたとすればそれはお前の責任だって・・・」
「最っ低・・・。そんなのやっぱりぶん殴っちゃえば・・・」
「古河。考えてみろ?コレって相手をぶん殴って済む話か?」
「いや・・・お腹に・・・」
「そうだろ?コレって両家の親まで巻き込んだ話になるんだ。でも、いつも一番傷つくのは妊娠してしまった女の娘」
「そうですね・・・高校生じゃ産むわけにもいかないですもんね」
「うん・・・中には産んで頑張る娘もいるかもしれない。でも・・・ここで一番考えなければならないのは、そこで生まれた子供が幸せな人生を送れるかということだと思う。その舞衣先生の授業ではそこまで説明していて・・・」
「それじゃ、こだま先輩の赤ちゃんって、やはり・・・」
「うん・・・そういうこと!」
夏帆が受けたその性に関する授業はその事件を受けてのことだった。それは、夏帆のクラス担任だった舞衣先生が別のクラスのこだま先輩を婦人科に連れて行ったり相談に乗ったりしていたから・・・
その時のこだま先輩のクラス担任はオトコの先生で何の対応もできなかったと聞いていた。
そこまで話を聞いた古河が何かを思うようにして口を開いた。
「こだま先輩・・・辛かったでしょうね・・・」
「うん。それからみんなそのことを口にできないくらい見てて辛かったって聞いたんだよね・・・」
そんな古河に対して、夏帆はその後日談を話し始めた。
「でも話はそこで終わらなくてね・・・そこで出て来たのがこだま先輩の友達で身長185センチの空手の有段者」
「じゃ・・・その友達がもだま先輩の無念を晴らしたんですね?」
「うん。サッカーの練習中に現れて、女子も見ているみんなの前で素っ裸にしてぶん殴ったんだ。噂じゃそのがキャプテンのタマタマも握り潰されたとか・・・」
「うわ・・・痛そう・・・」
「それからそのキャプテンの色恋沙汰は無くなったっていうから、本当に潰れたのかも」
「でもその友達も暴力行為ってことで処分されちゃったんですか?」
「それが・・・その目撃者は誰もいないってことで、その事件自体が無かったことにされて・・・」
「でも、みんな見てたんですよね?」
「うん。それに本人からの申し出もなく・・・まっ、同級生にコテンパンにやられたなんて格好悪くて言えない・・・」
「でも、そもそもそうなったのはそのキャプテンがキチンと避妊してなかったからですよね?」
「だから古河も避妊は人任せじゃなくキチンと・・・」
夏帆が後輩の古河に言いたかったのはコレだった。
しかし、当の古賀本人の興味はすでにそこに在らず・・・
「じゃ・・・それからこだま先輩はその空手のカレと付き合ったんですか?」
「いやそれが・・・その友達って、オンナなんだけど・・・」
「えっ?オンナで185センチ?しかも空手の有段者?それってもう無敵じゃないですか?」
「うん。その人ってものすごくオトコ嫌いで、昔なんかあったんじゃないかってくらいの噂で・・・確かふたば先輩って言ってたかな?どこかの下宿の娘で、確か豊浜下宿っていう・・・ん?」
「どうかしました?」
夏帆はそんな不思議がる古河の顔を見ながら非常に重要なことを思い出した。
その下宿の名前はあのエンちゃんの下宿の名前と一緒だった。しかも、エンちゃんの下宿に連れて行ってもらった時、下宿の娘が下宿に出入りしているとも言っていた気もする。
「そうだ・・・そのふたばさんってあのエンちゃんの下宿の一人娘・・・」
「夏帆先輩。エンちゃん盗られちゃったらどうします?とても腕っ節じゃ叶いそうもありませんので寮のみんなで加勢すれば・・・」
「そっ・・・それは大丈夫。今、県外の大学に行ってるはずだから・・・」
そして夏帆は、その古河が帰った部屋で明日からの業務のための準備を始めていた。
明日からの業務は立て続きに3件の業務が重なっており、帰社することなく5日ぶっ通しで行う乗務となっている。シーズンも佳境に差し掛かるとそういった業務が出てくることはあるが、今年はそれが異常である。
さすがバブル真っ只中というところだろうか。
バスガイドの手荷物は正鞄とサブバックがあり、その正鞄は乗務中いつも身につけているもので自分の財布や手帳、または緊急連絡用の電話帳やテレホンカードなどが入っている。
もちろんこの時代、ケータイもスマホなんてものはない。
またサブバックには観光案内用の資料や予め自分で作っておいた案内用カンペ、それにエチケット袋などその時々で使用するものが入っていて、出発前に一度全部出して入れ直すのが夏帆の流儀だ。しかも今回の業務は宿泊が続くことからそれに加え着替えなどを入れたキャリーケースが加わる。
そして・・・忘れていけないのがバスガイドにはなくてはならない白手袋とホイッスル。それに忘れていけないのか会社から貸し出されているマイク。
白手袋を着けマイクを握った瞬間に自分の気持ちが切り替わるのがわかる・・・それがその白手袋とマイクだ。
そしてその案内業務が明日朝9時に仙台駅でお客様をお迎えするところからスタートする。
@3業務5連勤・・・
その日の夜、夏帆はエンちゃんの夢を見ていた。
それはそのエンちゃんの部屋にお泊まりしたあの状況で、そのエンちゃんの温もりまでしっかり再現されていた。
夏帆は中学校でソフトボールを始めてから左肩を下にして寝たことがない。それはただ「左利き」と言うだけの理由でやらせられたピッチャーの肩を労わるため。
数少ないサウスポーピッチャーの投げる球は打ちにくいのか、夏帆の入った中学のソフトボール部はいつの間にか強豪になっていて、終いにはバッテリーを組んでいた妹の里帆とともに強豪校から声がかかり入学したのはあのこだま先輩の通う高校だった。
それでそんな大事な左肩を絶対下にして寝ないと心に決めていた・・・そう、あの時までは。
そう・・・それはあのエンちゃんの隣で眠ったあの下宿のエンちゃんのベッド。そこでエンちゃんに抱きついて眠ったあの夜だけは左を下にして寝ていた。
その後、その状況を再現していてたまたま寝落ちしてしまった時にエンちゃんの夢を見ていた。しかも試しに左を下にして寝るとその夢に決まって登場するエンちゃん。
それからエンちゃんに会いたくなるとそうやって寝ていた夏帆だったが・・・寝ているエンちゃんにキスをしようとするところでいつも鳴る目覚まし時計。
そしてこの日の朝3時に目を覚ました時ぎゅっと抱きしめていたのは2枚に折った座布団だった。
実はそんな夢を見るのはこれが3度目の夏帆だったが、いつもそんな日はどこか切ない1日になることを知っていた。
だから今回この業務が終わったら、思い切ってエンちゃんをデートに誘ってみようと思っていた。どことなくそうとでも思わないとやっていられない業務になりそうな予感がしていたから・・・
この頃になると観光シーズンに突入し、自分のことさえ考えられない日々が続く。
今回の乗務は関東からの団体で、シニア向けに旅行会社が企画したものだ。それは添乗員が同乗し松島や平泉などの景勝地や観光地を巡りながら北上し花巻温泉に一泊した後最終的には盛岡駅送りとなる1台口の1泊ツアーとなる。添乗員が同乗するツアーというのは、バスを下車した後のチケットの買い出しや昼食会場の席の確保などを添乗員が行うため幾分楽な乗務となっているが、その添乗員に当たり外れがあるのは業界共通の常識だ。
また2業務目は朝に盛岡駅で別のツアー客を迎え1業務目とは逆のコースを仙台に向かい、3業務目となる最終日は仙台の企業団ラグビー部員を八戸市内まで送り届ける業務となっていた。
そんなツアー初日は午前9時の仙台駅迎えであったことから、夏帆の乗務するバスは朝の4時に出庫する予定となっている。何気に出発が早い気もするが、この時はまだ八戸自動車道が全線開通しておらず一部一般道も走ることになることからそんな時間となっていた。
しかもそんな途中で渋滞などに遭えば時間通りの迎えができなくなってしまうため、幾分余裕を持った時間管理がなされていた。そんな予定表も時間調整のための休息時間を長めに設定されている。つまり、途中のパーキングエリアで時間調整すればいい話である。
そんな早朝出発に備え夏帆はメークをバッチリ整え、寮の自室で身なりを整え姿見で確認していた。
夏帆が確認する自分の身なりは、白いブラウスに上下青の制服に赤いベストと赤い帽子だ。バスガイドの制服というのはバス会社ごとに華やかだったり地味だったりするが、夏帆は時々少し田舎くさいと揶揄されることもあるこの制服が好きだった。
ホイッスルの紐を首に掛け、その銀メッキのホイッスルを左胸のポケットにしまう。そして、今日使う白手袋を右のポケットに入れ帽子を被る。
「うん。これでヨシ!」
その後夏帆が向かったのは食堂だ。まだ真っ暗な食堂は後数時間で出勤前の慌ただしい状況になる場所だ。また、夜にみんなでテレビを見たりカレシと電話をして賑わうことの多いこの場所には早朝ということで誰もいない。
いかし、すでに早朝出発するガイドのためにサンドイッチが準備してあり、同じくテーブルに置いてある経済新聞を片手に夏帆は隣接する会社の事務室に向かった。
1業務目の乗客は旅行会社の企画した旅行で高齢者も多いと聞いていた。だから話の合わせやすい経済新聞に目を通しておく・・・これも夏帆の流儀だ
その向かった事務室では、業務名とバスのナンバーと担当名者が書いてあるホワイトボード下に吊るされた業務行程表を手に取る。やはり観光シーズンである。そのホワイトボードにはぎっしりと業務名が記されており猫の手も借りたい状況が伺える。
しかも、その隣には後輩の古賀が携わる一泊二日で行われる修学旅行の業務名も書かれていた。しかもその隣には同じ後輩の湯浅の業務も記されていたのだが、一緒に組むドライバーも若い新人と来ていた。
そのドライバーは大型トラックからの転職組だったが、つい最近運転の研修を終えたばかりだった。その時チョットだけ不安を覚えた夏帆だったが、そんな組み合わせでも業務をこなさなければ成らないほど忙しい状況になっていたのかと少し驚いていた。
しかし、ドライバーにしてもガイドにしても月毎の所定休日というのが必要となることから、そんな中で業務に人員を割り振る担当者の苦労は相当なものだろう・・・このボードを見る度、夏帆はいつもそう思っていた。そんな業務多忙の中で頻発していたのがバスの接触事故だった。
それは経験の浅いドライバーが起こす比較的軽いものではあったが・・・
その後、夏帆が本日から5日間にわたって乗務するエアロクイーンを目指して車庫に向かおうとして寮の玄関から外に出ると澄んだ空気の夜空に星が綺麗に見えていた。そんな夜空を見上げながら車庫に近づくといつものことながら「カンカン、カンカン・・・」と言う金属音が聞こえる。これは今回の業務でハンドルを握るドライバーの渡部さんがテストハンマーでホイールナットの緩みを確認している打音だ。
夏帆はその乗務するバスを見上げる。通常、ハイデッカーバスと呼ばれるエアロよりもさらに背の高いこのエアロクイーンは本当に大きい。
しかもこのエアロクイーンは後輪が2軸となっており、隣に駐車しているエアロキングの兄弟車種となっていて、一種異様な雰囲気を放っている。
その外装色はうっすらとピンクかかった白をベースに青と赤のストライプが入ったものとなっている。これはバスガイドの制服も同じ色合いだ。
夏帆は始業点検をしているその渡部ドライバーに挨拶するとバスに乗り込んだ。
今回夏帆とペアを組む渡部ドライバーはこの道10年以上のベテランドライバーだ。そんなベテランだからこそ担当させてもらえるのがそのエアロクイーンという訳だ。
そんなエアロクイーンに乗り込む夏帆がまず最初にするのが、ドア上部にある名札ホルダにプラスチック製の自分の名札を挟み込むこと。次にドアの脇にある扉を開け保温ポット2個とバケツに雑巾を取り出すと事務所の給湯室に向かう。
給湯室では片方のポットに沸かしたお湯を入れ、もう一つのポットには氷と冷水を入れる。また、持ってきたバケツに窓拭き用のカルキ抜きした水を張りバスに戻る。そして所定の場所にポットを格納すると固く絞ったタオルでフロントガラス内側と運転席まわりをきれいにする。
さらに各座席に周り、座席背面の網ポケットにエチケット袋を入れつつカーテンを整えて回る。
これがバスガイドの始業前ルーティーン。
夏帆のそんなルーティーンの間にエンジンルームと外観点検を終えたドライバーが運転席に座りエンジンを掛け、各種計器類の点検や室内灯の点検を行っていた。
そしてそれらが終わったタイミングで夏帆に声が掛かる。
「夏帆ちゃん・・・後ろから一発お願いしたいんだけどいいかな?」
朝から早速セクハラ・・・と思いきやコレも大事な始業点検。
「あら・・・渡部さん。朝から元気ですね?」
セクハラ紛いのそのお願いに合わせた言葉でそう返した夏帆は、全長12メートルのバスの後ろまで走りバスの後部についているバックマイクに向かって声をあげる。
「ストップランプ・・・・OK」
「ウィンカー右・・・左・・・ハザードOK」
「スモール・・・ナンバー灯・・・マーカーランプ・・・OK」
「バックランプ・・・・OK・・・次〜、前からお願いしま〜す。」
夏帆はバスの後部にある灯火類の点検すると、今度はバスの前方に回ってライトやウィンカーなどを同じように確認した。そして最後に車体下部にあるトランクの扉を全て開閉してい異常がないかを確認する。
その後今回の業務で走るルート確認をするため事務所に向かったドライバーのいない車内では、夏帆が使うマイクのテストや走行中流すビデオがきちんと映るか確認も欠かさない。
そうしている間に出庫15分前になった夏帆は事務所へ向かった。そしてここではドライバーが運行管理者に運行前点検結果簿を渡して確認を受け、さらに夏帆が事務担当から車内で放映するビデオテープと高速代金、それとステッカーと呼ばれる団体名を書いた紙を受け取り「ご安全に・・・」という言葉で送り出された。
そして車庫に戻った夏帆はバスに乗り込むと、ドアの上にある表示板に先ほど受け取ったステッカーを表示板に挟見込んだ。しかし、ここから仙台までは約4時間以上の道程であることからその表示板は横に畳んで見えない配慮を行う。
これでいよいよ出発・・・いや、業務開始である。
「左オーライです・・・」
そして・・・その夏帆の声で左折し大通りに出たバスは一路仙台に向け出発した。
乗務中のバスガイドの仕事は観光案内とバック誘導だけではない。一般的な大型観光バスは全長12メートル、横幅が2.5メートルある。これが市街地の片側2.75メートルの道路を走行するとなると両側にほとんど余裕がない。
さらには路肩に建つ電柱や道路標識にミラーをぶつけないか、また対向して来る大型トラックとの接触しないかドライバーの緊張感が張り詰める。そんな大きな車体には大きな死角と内輪差が存在することから交差点の左折巻き込み確認が非常に重要となる。
そんな死角だらけの大型バスの安全運行を補佐するのもまたバスガイドの仕事だ。だから交差点を左折する場合、ドアに頭をぶつけながらも左後方を確認しバイク、自転車、歩行者を巻き込まないか確認をしてそれをドライバーに伝える重要な安全確認。
バスというのは内輪差が大きいため交差点を大きく左折することが多い。しかも徐行しながら行うため、バスの動きを理解しないバイクや自転車が大回りするバスの側面に飛び込んでくることがある。夏帆はこれまで何度もそういうシーンに出くわしてバスを停めたことがあった。
その時急停車するバスは止まった後も横揺れが続く。夏帆はこの揺れが苦手だ。
そして市街地を抜けたバスは、空がうっすらと明るくなってきた頃八戸ICから高速道路に流入した。市街地を抜ければバスガイドの仕事が終わったということにはならない。やはり車線変更時に左側方確認をするのも仕事だが、もっと重要な事がドライバーのハナシ相手をすることだ。
この片側二車線の八戸自動車道は制限速度が毎時80Kmに規制されている道路であるが、一車線あたりの道路幅が3.25メートルと余裕があるうえ交通量も少なく走りやすい。東北自動車道本線に出れば制限速度が毎時100Kmとなり道路幅がさらに広い3.5メートルとなり交通量は若干増すものの今度は直線ばかり・・・
そんな単調な道を運転し続けると問題になるのがドライバーの眠気対策だ。しかも、業務後に運行管理者に運行記録として提出するタコグラフにその運転速度がバッチリ記録されているため一定速度の運転が求められ、その単調な運転に拍車がかかる。
ドライバーは眠くなるとガムを噛んだりして一応の対応はするものの、一番効果があるのは誰かと会話することである。だから夏帆はその運転手に話を合わせられるように一応、家族構成だったり趣味などを事前に頭にいてれ置いていた。
「渡部さん。この前お子さんの運動会だったんですよね?天気良くて良かったですね?」
「うん。借り物競争で転んじゃってさ・・・」
「気をつけてくださいね・・・今日はこれから5連勤ですが、天気もちそうですかね?」
「う〜ん・・・中日1日くらいは降る感じだから洗車手伝ってもらうことになるけど・・・」
「大丈夫ですよ・・・でも、洗車機借りられそうですか?」
「うん。その時は会社に連絡して・・・」
バスの洗車は重労働だ。だから大型車を洗車できる門型洗車機がある施設を利用することがある。それはガソリンスタンドだったり、同業社だったり・・・
その後東北自動車道に流入したバスはメーター読みで毎時110Kmで走行を続け、おおよそ1時間ごとに休憩を挟んだ。そして運行計画書通り紫波サービスエリアで休憩となった夏帆は一番前の座席を陣取り、持参したサンドイッチを食べながら新聞を大見出し・中見出し・小見出しの順に目で追い、話題になりそうなものをメモしていた。
その時運転席に目をやると、その運転席で手づくりサンドイッチを食べている渡部さんが目に入った。
「あれ?渡部さんって結婚して10年以上でしたよね?それって奥さんの手づくり・・・?」
「うん。共稼ぎなんだけどいつも作ってくれて・・・でも今日は昼が出るから朝だけ作ってもらって・・・」
「いいですね。未だにラブラブで・・・」
この時夏帆は、どこか地雷を踏んでしまったような感覚がした。何せドライバーはそんな色恋話が大好物なのだ。
そしてその後バスは東北自動車道を順調に走行を続け、北上江釣子インターチェンジを通過した時にそんな予感が的中する。それは、運転を続ける渡部とすぐ隣のガイド席に座る夏帆が世間話しをしていた・・・その時だった。
「あっ・・・そういえば夏帆ちゃん。あのカレシの赤いクルマ最近見かけなくなっちゃったけどなんかあった?もしかして別れちゃったりして・・・?」
夏帆はこの時「こう来たか・・・」そう思っていた。
「いや・・・別れたとかそうじゃないんですけど、彼もわたしも忙しくなっちゃってなかなか・・・」
「でもさ・・・そのカレ、相当のヤリ手だと思ってさ・・・ドライバーの間でもよっとした話題になっててね・・・」
「え?どんな?」
「だってさ・・・ちょっと前にはいろんなガイドさん取っ替え引っ替えあの赤いクルマに乗せてじゃない?」
それは以前、バスガイドたちがエンちゃんをいいように使っていた頃の話で、昨日クルマで送ってくれた滝沢も同じ話をしていた。
「いや・・・それは・・・」
この時夏帆は滝沢に説明したことと同じことを伝えたが・・・信じてもらえたかどうか・・・。
その後バスは順調に走行を続け、泉検札所を通過し仙台宮城インターチェンジで高速を降り無事仙台駅前の待合地点に時間とおり到着しようとしていた。今まで高速道路を300キロ以上走って来て、さらに市内でも渋滞に巻き込まれているのにも関わらず時間をピッタリ合わせるとは・・・さすがである。
そんなことを思いつつ夏帆は今までポケットにしまってあった白手袋に指を通した。その瞬間、バスガイドとしてのもう一つのスイッチが入る。
さあ・・・これから案内業務の開始である。
@東京のバスガールの2番的な・・・
その待ち合わせ場所で待っていたのはツアー参加客35人と20代中盤くらいの女性の添乗員だった。この添乗員はまるで就職試験にでも向かうかのような黒いスーツに身を固め、まだ午前9時だと言うのにすでに疲れ切った表情だった。
この時夏帆の中に不安なものが込み上げる。
その後その添乗員と業務確認をした後、乗客の大きな荷物を車体下部のトランクに入れ、その添乗員が席の案内と点呼確認をした後に予定時間にキッカリ出発した。
出発したバスの中では、夏帆が後ろ向きに立ちガイド用の背もたれに寄りかかりながら乗客を前に深々と頭を下げた。
「皆さまおはようございます。本日は三五八交通バスをご利用いただきましてありがとうございます。本日から二日間に渡りハンドルを握りますドライバーの渡部、そして案内役をさせていただきますバスガイドのわたくし小比類巻夏帆の2名が乗務させていただきますのでよろしくお願いいたします・・・」
「また、今回添乗員として佐倉様もご同行いたしますので併せてお願いいたします。なお、バスは安全運行に心がけますが危険回避のため急ブレーキをかけることもありますので自身の座られました椅子でシートベルトを装着されますよう・・・」
「本日は朝早くから新幹線で来られたとお聞きしていますが、時速200kmを超える車窓の様子はいかがだったでしょうか?仙台に着くまでの間に残雪の残る那須連邦や安達太良山。また吾妻小富士の雪うさぎなどをご覧になれたかと思います・・・」
仙台までの路程を振り返ることも含めたそんな挨拶で始まったこのツアーが先ず目指すのは日本三景にも選ばれている松島だ。ここでは伊達政宗ゆかりの寺院を参拝した後遊覧船に乗船してもらたうえ、地元の海鮮料理を振る舞った昼食まで予定されていた。
その松島に向かう車中では添乗員の持参したパンフレットを受け取った夏帆がの冊子を一人ひとりに配布して回っていた。しかし・・・その時一番後ろに座っている初老の二人組男性がやたらと酒臭い。後で添乗員に確認したところ、上野駅から新幹線で仙台に来るまでの間に出来上がってしまったらしく、時折暴言を吐くことから仙台でそのまま 上りの新幹線で帰ってもらおうかと思ったくらいだったそうだ。
これが添乗員の表情が思わしくない原因だった。その話を聞いた夏帆はここでさらに気分が重たくなる。
本日初日の行程は、午前中の松島観光の後岩手の平泉まで移動して中尊寺などの世界遺産を周るものだ。
そんな行程が始まって間もない仙台市街地をまだまだ抜けないそんな時、そのさっきの酔っ払いが立ち上がって何かを叫び始めた。
「行き先が宮城と岩手なのに、乗せられたバスがなんで八戸ナンバーなんだ!・・・」そんな言いがかりに近い苦情だ。
夏帆がこのツアーの行程を説明しているときに浴びせられた罵声にそんな近い苦情。その時夏帆は無意識に左側の一番前に座る先ほど佐倉と名乗った添乗員を見た。
そんな佐倉は恐縮したような表橋で俯いていて、見ているこっちが逆に恐縮するような感じを受ける。
気持ち的にも分からなくもないことではあるが・・・実はこの業務、受けるはずだった宮城県内のバス会社の人員手配が間に合わず、遥か八戸市にある夏帆たちのバス会社が受けることになってしまった業務だ。
「当社三五八交通バスは八戸市にございますが、東北一円を営業エリアとしている会社でございます。今回はご縁がありまして皆様のご案内をさせていただいております。地元のバスガイドさんにも負けない案内をしていきますのでよろしくお願いいたします・・・」
夏帆はこう謝罪して行程の説明に戻った。
夏帆が言ったことに間違いはなかった。会社のバスはその東北一円の観光で一台当たり年間10万キロも走っている。更には最近そのエリアを拡大すべく東京タワーや皇居観光も見据えた首都高速走行時の案内教育も始まっていた。
しかし今回の業務は東北圏内ではあるが回送距離が長いため、そのロス分をカバーすべく重ねられたこの3業務をこなすのにはやはり体力のあるバスガイドが必要となる。その過酷な業務に指名されたのが、体育会系バスガイドの中でも最も強靭な体力の持ち主である夏帆だった。
そんな夏帆は、車中で仙台の歴史と現在の市の概要や松島と伊達政宗公の繋がりなどを何の資料も見ないで説明した。そして車窓にチラホラと松島湾が見えてくる頃、改めて松島の島々について説明を始めた時だ。
「松島には八百八島の島々があると言われていますが実際には260ほどの様々な島々で構成されております。そしてコレから右手に見えてきますのが・・・」
といったところでバスが渋滞の最後尾についてしまって動かなくなってしまった。さらにその場所が丁度景色の悪い場所だったことから今まで静かだった車内ざわついてきた・・・そんな時だった。
「よう・・・ガイドさんよう・・・みんな暇しちまってるだろ?唄でも歌ってくれや・・・あの・・・「バスガール」って唄あるよな?・・・ちょっと古いけどわかるよな?」
これをこう言っているのはさっきの酔っぱらいだ。通常の乗務ではガイドのそんな歌が登場するのはもっと先になる予定だったのだが・・・
その時夏帆は白手袋の左手に持っているマイクを握りなおし息を吸った。
「はい・・・そうですね。やっと松島の綺麗な景色がご覧になれるというところでバスが動かなくなっていますね。それではちょっと歌うには早いかな・・・?なんて思いましたが、せっかくのリクエストですので僭越ながら歌わせていただきます・・・それでは昭和32年の大ヒット曲、「東京のバスガール」です・・・」
「若い希望も恋もあるビルの街から山手へ・・・」そう歌い始めたその唄は、紺の制服を纏った若いバスガイドが仕事中に抱いた恋心が破れたり、現実を突きつけられたりする出来事を唄ったものだ。でも、それでもバスガイドという職業に誇りをもってバスを発車させ明るく走り続けるというバスガイドの胸の内を綴った内容になっていた。
それは戦後間もないレジャーなんて言葉も知らない日本という国が、やっと一息ついて観光旅行にでも行こうかという風潮になった頃のそんな唄。当然夏帆も、またその両親も生まれていない頃の唄である。
この時夏帆は通常1番しか歌わないその唄をキッチリ3番まで歌い切った。そして乗客の握手に混じり、それを懐かしがる声や、「この唄3番まであったの知らなかった・・・」なんて声も聞こえてきている。
そしてこの唄の3番には「酔ったお客の意地悪さ・・・嫌な言葉で怒鳴られて・・・」という一節がある。
夏帆はその一節でその酔っ払いに文句を言ってやりたかったのだ。しかもコブシを回して・・・しかも最後に「それでも東京のバスガール・・・」のところを「わたしは三五八のバスガール・・・」に変え、自身の決意表明まで付け加えた。
その後・・・これを聞いたその酔っ払いはバツが悪くなったのか、その他の乗客からの白い目に耐え切らなくなったのかすっかり萎縮しまったようだ。しかもこれを運転席で聞いていた渡部ドライバーが、帰社後これをみんなに言いふらし、それが夏帆の武勇伝になるのは少し先の話となる。
そしてやっとのとこで瑞巌寺近くのバス降車場まで来たバスは客の下車後所定の駐車場で待機するため、夏帆は連絡用の業務無用トランシーバーを鞄に入れて客を誘導しバスを下車した。
その後夏帆は添乗員の準備した旅行会社の青い旗を掲げ乗客を案内し、瑞巌寺正門まで移動し正面に見える杉林や歴史、またこれまで何度も変わっている瑞巌寺の名前や宗教の移り変わりを説明した。そして今回のツアーの目玉ともなっている伊達政宗公と愛姫や長女の五郎八姫についても詳しく説明し、客の質問にもきちんと受け答えした。
この部分は旅行会社からこのツアーの趣旨と説明してほしい内容というのが事前にFAXされていて、それを渡された夏帆は会社内にある「教室」で予習していた部分だった。
その後松島湾を右手に望みながら移動しながら松島湾の説明をして、最後に五大堂に到着すると夏帆はここでもそのゆかりについて説明した。そして最後にそこから見える遊覧船乗り場についての説明が終わったところで客の中の老夫婦が夏帆の肩を叩いた。
「アンタ、本当に青森の人なの?まるで地元のガイドさんのように説明してるけど・・・」
この夫婦には夏帆がそんなふうに見えているらしい。コレこそガイド冥利に尽きる瞬間である。こんな時夏帆はいつもこう答える。
「わたしは生まれも育ちも八戸です。バスガイドとして皆様に三五八のバスに乗ってよかったと思っていただけるようにいつも勉強しております・・・。」
・・・と、バリバリの南部弁で話すのだった。
今回のストーリーはここまでとなります。
小比類巻夏帆の物語はまだまだ続きますので次回作にご期待ください。
それでは本日もご安全に・・・
バスガイドは体力勝負なところがあります。現代と違った平成初期の業務形態で業務をこなすことができるのはやはり体育会系女子・・・というところでしょうか?